暗い部屋の中で、洗面器から立ち上る湯気は仄かに発光しているようにも見える。
湯で濡らしたタオルでレナモンの身体を拭く。手甲も外す。隅から隅まで、余すところ無く綺麗にする。傷ついた身体でそれでもやんわりと拒絶しようとするデジモンを、テイマーは無言で押さえつけた。ダメージを負っているとはいえ人間の子供の細い腕を振り払うなど簡単なことだろうに、それをしない。澄ました顔が悔しくて、傷の上で少し力を入れる。声こそ出さなかったものの、獣の口元がうめく形に歪んだのを見とめて彼女は少し満足した。
足の爪の一本まで綺麗に拭って、それまでに無言のままどれ程の時を費やしたのだろう。タオルを放り出した洗面器の湯は薄く濁り、最初はろくに絞ることも出来ない温度だったそれは、既に体温とほとんど変わらぬようだった。
「…ねえレナモン、あんた、あたしを守るって言うんなら身体だけじゃ駄目。
あんたが目の前でこんな風に傷ついたらあたしがどう思うかなんてもうわかってるんでしょう。」
留姫はレナモンの目を見た。
障子越しの淡い陽光しか差さない部屋の中でも煌めく青い瞳。手を伸ばすと獣の腕が留姫の腰を引き寄せた。絞りきらないタオルで拭った毛並みは湿っているが、少女の腕はためらわず投げ出され、頬と頬をすり合わせる格好になった。
「もっと、もっと強くなる。留姫の全てを守ることができるまで」
留姫はレナモンの腰に跨って、そのまま押し倒した。そっと包み込む毛並みが薄いシャツに湿り気を移し濡らしてゆく。手甲を外したままの獣の腕が背中を抱くと、じんわりと染み込んだ水がシャツの白い部分を透かせて薄闇の中で肌を桃色に浮き上がらせた。
水は容易に互いの体温を伝える。透けて見える背骨に沿い、感触でもそれを確かめるようにレナモンが何度も撫で下ろすと、留姫の子供らしくない細い指が首回りの白く豊かな毛並みを優しくかき混ぜた。
レナモンの負傷は留姫を庇ったことに因った。
レナモンにとって留姫というテイマーが大切になればなるほど、デジタルフィールド内に人間が立つ無防備さを感じずにはいられない。留姫にしても共に闘うためのテイマーなのであって、デジモンの足を引っ張るなど論外、庇われて目の前で怪我をされ、苛立つなと言う方が無理な話だった。
それでも、留姫とレナモンは、テイマーとパートナーデジモン以外のものになることは出来ない。「留姫」と「レナモン」であることを捨てることはどうしてもできないのだ。
息がかかる部分だけ、乾いた毛並みが呼吸にあわせてそよいでいる。それに気付いた留姫はちょっと笑うと、白い毛の中に埋めていた顔を起こし、レナモンの鼻先に息を吹きかけた。
「服が濡れた」
「寒くない?」
「ちょっと」
言うか言わないかのうちに、留姫を抱えたままレナモンが半身を起こしエアコンのリモコンを拾う。
「脱いだ方がいいかも」
設定温度を3℃上げたリモコンを畳の上に落とし、意を汲んだ黒い3本爪がシャツの裾にかかった。肌にはりついている布を引き剥がすようにずり上げる。
「…留姫、」
腕がレナモンの首に回されたままで、胸から上に抜くことができない。その困惑した声音を聴くことが目的だったのか、留姫は満足げに笑むとレナモンの鼻先を軽く啄ばんでから腕を解いた。しかしそのまま脱がされることをせず、たくし上げられたシャツを顎で押さえ、腰の後ろのふさふさした膝頭に手をついて胸を突き出すようにした。
「見て、」
まだ凹凸のない身体はすべらかで、象牙色に薄く光っている。
「レナモンが庇ったから、何の傷もない」
そう言うと腕と首を抜き、シャツを脱ぎ捨てた。
「触って。」
胸の中心に3本指の獣の掌があてられ、鼓動を探るようにゆっくりと上下する。
「だけど、すごく痛かった。わかる?」
「………わかる、と思う」
しばらくそのままじっとしていた。それは、留姫は留姫の、レナモンはレナモンの傷を癒すため、必要な儀式だった。
リモコンの命令に従って忠実に3℃上がった室温が鬱金の毛並みを乾かす。レナモンは、半裸の細い身体を拭われた腕の中に静かに閉じ込めた。
「ふかふか。気持ちいい…」
留姫は脚までその感触に絡めようとし、しかしそこは素肌ではないことに気付くとジーンズを引き抜いて蹴飛ばし、再びレナモンの膝に戻った。腕は首に、脚は腰に回して、ぎゅうっとしがみつく。
「レナモンも、痛かったね?」
問いかけに返る言葉はなかった。しかし、レナモンも留姫の腰に脚を絡ませ、小さな身体に縋り付くように抱きしめた。
心も、身体も、守りたいから強くなる。
以前は強くなりたいことに理由などなかった。しかし、理由ができた現在の方が、過去よりも強くなることが難しいと感じる。
ただ今は、思い悩むことよりも、目の前にあるお互いという快楽に没頭していたかった。
04/01/11
「文字書きさんに100のお題」10:トランキライザー
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