降り出した雨から逃れるように佐藤が馬小屋へ戻ってくると、薄暗いそこに人の気配は無かった。


 幸いにも水滴は着たきりののスーツに2、3の水玉を作っただけで、彼が粗末な小屋に滑り込むのと同時に雨脚が強くなった。帰路、小走りに急いだために「ヤモリビト」の仮面の中はむせ返るように暑い。これほど蒸れると仮面の中の自身の顔、美貌が自慢の素顔に良くないのは明白で、誰も居ないのなら少しの間はずしていようかと考える。しばしの躊躇いの後、そっと仮面に手をかけた佐藤はしかし、雨だれの音に混じってかすかな呼吸が聞こえることに気づいて飛び上がりそうになるほど驚いた。

「ロ、ロソン、か…?」

 あの口だけは上手い役立たずの悪魔が自分をからかおうとしているのかと、そっと声を投げてみたが答えは無い。明かりの無い馬小屋の暗がりにようやく慣れた目を凝らしてみると、片隅に積み上げられた汚い藁の中に半ば埋もれるようにして松下一郎が眠っていた。

「ちッ、人騒がせな…暢気に寝ていやがる」

 みっともないほど喚きたてる心臓を静めようとわざとそんな風に口に出してみたが、辺りを支配する雨音に馴染まず白々しく響いて、消えた。

 「悪魔くん」は目を覚ます気配もなく、血の気の薄い顔はこうしていると死んでいるように見える。ふと、松下一郎がこんな風に眠り込んでいるのを見るのは初めてだということに気づいた佐藤は、少し捲りかけていた仮面を丁寧に直すと、好奇心からそっと彼に近づいた。

「…ん、……」

 一歩を残して見下ろせば、鼻にかかった声をあげ具合よく寝返りを打ち、うつむきに隠されていた寝顔が無防備に佐藤の前に晒される。

 思えば、こんな風に眠ったりだとか、何か食べたりという、松下一郎の人間らしい部分を今までについぞ見かけたことが無かったために、余計にこの「悪魔くん」が恐ろしく思えていたのだ。いくら異能だ大天才だと言われようとも、所詮は人の子、しかもまだ7つかそこらである。眠くもなれば腹も減る、同じ人間なのだということを自分に言い聞かせるためか、佐藤は残り一歩の距離を詰め、寝顔を覗き込むように座り込んだ。

 起きて動いている普段の彼は、大企業の社長である彼自身の父親や政界の大物達さえたじろがせるほどの圧倒的な存在感を持っているというのに、こうして眠っていると驚くほどその存在は希薄だ。

 隙間風にそよいでいる髪をそっとすくうと、見かけから想像したとおり柔らかく、短いのに佐藤の指にしなやかに絡む。指の股を滑るその感触にぞくりと背を振るわせた途端、唐突にある考えに襲われた。


 殺してしまえば、いい。


 絶好の。チャンス。今しか。自由に。俺の顔。金。国が。

 意味を持たない言葉の羅列のような思考が一瞬のうちに流れてはまた現れ、そして消えた。

「……ッ……」

 震える両手をゆっくりと、蝋のように白い細首に伸ばす。息を止め、片手でも十分に回ってしまいそうな頼りない首に指をあてがうと、滑らかで冷たい白磁の肌がぴたりと吸い付いた。…その感触に異様な昂ぶりを感じていることに気づく余裕も無く。


ほんの少し力を込めれば、それで、


いつの間にか佐藤の中から雨音は消え失せ、かわりに自身の鼓動がうるさく聞こえた。
ほんの少しの唾液を嚥下するのに、恐ろしいほどの音が響く。


そのとき、手の中にある喉がかすかに振動した。

「………さ、とう、」


 刹那、彼は雷に打たれでもしたかのように飛び退った。

 どうにもならないほどがくがくと身体が震え、足がもつれて不様に尻餅をつく。
全身から冷や汗が噴き出し言葉も出ない佐藤の前で、松下一郎は小さな子供のように目をこすって起き上がった。


「…ヤモリビト、か?」


 ひっ、と短く息を呑んだ使徒を前に、しかしそれには気づかなかったのか、目覚めた救世主はにこり、と笑った。

「!?」

「よく憶えていないのだけど、どうやら夢を見ていたようだ」

 君が起こしてくれたのだろう?と首をかしげる松下一郎の前で、しばし呆然とする。

(ただの、寝言………?)

 恐怖心に指先まで冷え切った己を叱咤し、うなされていたものですから、と何とか取り繕うと、彼は俯いてそうか、と言った。そしてそのまましばらく黙っていた。


 安堵した佐藤の耳に、雨音が戻ってきていた。壁の隙間から降り止まない雨を眺め、先ほどの滑稽な一人芝居を思い返して自嘲する。これも雨のせいだ。雨の…

「雨のせいだな、悪い夢も」

 思考を読まれたかのように同じ事を言われ、ぎくりとして振り返った佐藤はそのまま動けなくなった。藁の上からこちらを見返す瞳が、闇の中で夜行性の獣のように光る。

「でも、まだ駄目だ…全てが、終わるまでは。」
「な、何の、こと、ですか…?」

 きらり、と奇妙な光を返した瞳に全てを見透かされているような、そんな気がした。

「…ぁ………」

 再び雨音が、全ての音が、遠ざかる。酷い眩暈を感じて、佐藤が倒れそうになった瞬間に、松下一郎は自分から目をそらした。


「…蛙男が帰ってきたな。」


 そして立ち上がると、狭い馬小屋の中を横切って、雨の中を歩いて来た蛙男を迎えるため戸口に立った。

 後は、永遠に止むことが無いように思われる雨音が、放心した佐藤を包んだ。





02/09/13
「文字書きさんに100のお題」83:雨垂れ