広くも無い部屋に安物の白檀香が充満している。

 たった四半刻まえには確かに満ちていた熱気は幻のように消え失せ、まぐわいにはつきものの鼻をつくにおいさえ頭の痛くなるような白檀に侵食され、じくじくと冷たく湿ったシーツだけが行為の跡を残していた。その上に横たわり、蓋を開けた香炉の灰に乱雑に突き刺した線香がほろほろと身を持ち崩していくのを眺めていたお香は、しゅ、と冷たい衣擦れの音を耳にして気だるげに身を起こした。
「行くのォ?」
 浅葱の髪をかきあげながら、言葉は少ない。肩から滑り落ちた襦袢を適当に寄せた。肌寒かったから、というのが理由で、いまさら裸体を見られて恥らう理由もない。
「……まだ仕事もありますので、」
 煙を逃すのに障子を細く開けた窓の、格子の向こうは夜の闇だ。紅絹の襦袢を羽織り、その上に純粋な和服ではない大陸風の黒衣を着込んでゆく男の、角を頂いた額は、お香の上で汗ばみ上気していたのが嘘のように白く乾いていた。ただ鴉の羽のような髪が幾筋か引っかかって、僅かな名残を残している。
「鬼灯様も大変ねェ」
 着物を戒める蛇たちが、逢瀬の終りを悟ったのか、緩くとぐろを巻いていた部屋の隅からするするとお香に近寄ってくる。それを戯れのように腕に絡めて、頭を撫でた。すべすべと体温がなく、つい先ほどまで絡み合っていた鬼の肌を蘇らせた。
「他人事のように、」
 薄い唇から溜息を吐く鬼灯ににっこりと笑みを向ける。お香と鬼灯は違えなく他人である。

 困っているんです、と、何かの酒宴の折だったか、ふと鬼灯がこぼしたのはもう随分昔のことになる。最近は躾のなっていない遊女が増えて。鬼灯様が来てくださったと吹聴されて閉口するが、かと云って教育の行き届いた高級店では代金がかさんでかなわないと。
 アラ、じゃあアタシでどうかしらァ?、声が震えでもしていたのならまだ可愛げが有ったものを、とお香自身が思うのだ。

 後ろ手に貝の口を結ぶ鬼の手は迷いが無い。お香を抱きに訪れる鬼灯はその結び目のようにきゅっと口を引き結んで、無口だ。お香は身支度を整える鬼灯を見るのが好きだ。
 気楽な着流し姿にそう時間のかかるわけもなく、あっさりと背を向けた閻魔大王の第一補佐官は、それでも一度戸口で、襖に手を掛けたまま振り返った。
「代金は、」
「月末にまとめて振り込みでしょォ、毎回確認しなくても大丈夫、律儀な方ね鬼灯様」
「金銭のやり取りについての確認は、いくらしっかりしてもし過ぎるということはありません。」
 別れの言葉はそれきり、何の未練もなく襖が閉まる。

「……アタシも、莫迦ねェ」
 そう云いながら声に悲観は含まれない。
 まだ燃え尽きない白檀香が、白い灰の中で埋み火のように朱に光っていた。





初出:12/06/12
別名義で公開している小説を転載しました
この百年後くらいのある日
お鍋持った鬼灯様が突然お香ちゃんを訪ねてきて
「私の作ったみそ汁です」て言って
お香ちゃんはおいしそうに食べて
〜HAPPY END〜ていうつもりで書きました
(12/12/07)