「僕は、お前に甘えられたいんだ」

 桃源郷の静かな夜だった。

 いや、つい四半刻ほど前までは全く静かな夜ではなかった。

 神獣と、人の子であり鬼の子でもある地獄の官吏と、異国で異界で同性の、二つの身体がぶつかって、絡んで、喰いあって、離れて、その物音、濃い水音、揺れる寝台の音、合間に低くこぼれる悪態と、抑えきれない高い呼吸音とが、あまり広くもない部屋に満ちていた。

 けれど今は静かな夜だ。

 よどんだ性の匂いを逃がすために開け放たれた、装飾格子のはまった全く中国らしい丸窓から、はらはらと桃の花弁が舞い込んでくる。

 神の手でさんざ貪られた人の子および鬼の子は、鬼灯は、ほのかな生薬の香りに満ちた白い敷布にうつぶせに沈んでおり、眠っていると思われた。が、白い背、肩甲骨の上にひらりと舞いおりた桃の花弁のひとひらを、神獣、白澤が軽薄そうな唇ではさんで取ると、ゆら、と身体を起こして、とても普段の呵責の様子が想像できないような緩慢さで、恋人の額にある目にチョップした。ぽすん、と。

「モヤッとする」
「……なんです、って?」

 けだるげに、仰向けになり再び寝台に沈んだ鬼灯が、こしこしと目元をこすりながらぼんやりと尋ねた。静かな夜にぽつりと落とされた白澤の声を、ゆめうつつに聞いていたらしい。
 白澤は言い回しを変えた。

「もっと僕に甘えておくれ、ダーリン」
「……………………ああ。はぁ、」

 ほとんど眠っているのだろう、日頃の鋭さ聡明さはなりを潜めて、ずいぶんと間を置いてから言葉を理解したようで、ぼんやりと相づちが返った。

「あまえていると、思うのですが。じゅうぶん」

 低い声で亡者の罪状を読み上げる無情な喉も、咽喉仏にかぶさるように獣の歯形がついていれば、いやらしい。白澤の指がつうっと隆起をなぞると、会話のうちにだんだんと覚醒してきたのか、先ほどのチョップよりかはいくぶん強い力で、ぺちん、と払った。

「どのあたりが?」

 隣にうつ向けに寝そべり、両ひじをついてあごを乗せた女の子のようなポーズの白澤が、膝から下をぱたぱたさせながら言う。

「そうですね、そう、……この、セックスとか」
「セックス?」

 鬼灯は見ていなかったが、白澤はまるで恋人の癖を真似るように、こきり、と首をかしげた。
 ふたりとも、満身創痍だ。
 女の子相手なら、ただただやさしく、たのしくことを運ぶ白澤だって、やっぱり雄の獣のさがを持っているので、大好きな子とまぐわうのに、全力に近く挑んでも壊れない相手となれば、SMの趣味はないのだけれどどうしてもことが荒くなってしまう。
 この恋人は、押さえつけて、首根っこに咬み付いて、腰を振りたてても、泣き出したり、ビンタして出ていったりしないのだ。むしろ、足で押し返し、腕で首を絞めて、がくがくと痙攣した後で、はふ、と満足げなため息をついてくれる、そんな子だ。
 にんやりとそう考えて、また、こきり、と首をかしげた。
 それじゃ、白澤の方が、まだ甘えているように思われる。

「……あなた、男を抱くのは、お好きじゃないでしょう。」
「何百回!と!おとなしく抱かれといて、今言う!?それ言う!?」
「違いましたか、」
「違わないけど!違うけど!!」

 白澤はがっくりとうつぶせた。悲しくなった。

「さいしょは私も、魔女のくすりで、女性になろうと、思ってはいたんです」
「それは、それはプレイとしてなら、一度くらいは是非と言いたいところだけど!プレイとしてなら!」

 大事なことなので、二回言った。すると、ふふ、と珍しく軽い笑い声のようなものが聞こえたので、白澤はまたがばりと上半身を持ち上げた。

「ほら、そうやって、私を、甘やかしているでしょう」
「……意味わかんないんだけど」

 とにかく却下、と神らしく傲慢に言い放ってみた。

「そう、いわれましても、」
「おまえが、あんまり誰かに甘えたことがなくって、甘えるってことじたい、よくわかってないってことは、知ってるよ」

 それは神獣として識っていることではなくて、鬼灯の恋人として知っていることだ。
 みなしごのちっぽけな人間の子供で、みなしごのちっぽけな鬼の子供で、子供ながら下働きをして、実力でのし上がった閻魔大王の第一補佐官様は、甘える暇はなかったし、甘えさせてくれる者も周囲にそういなかったし、そんな者が現れてからも本人の性格がそれを好まなかった。
 仰向けになっていた鬼灯が、ころりと横に、白澤の方に寝返りをうった。肌寒いのか敷布を胸元へかき寄せた、仕草が、妙に色を含んでいるように見えた。白澤の思い込みが九割で。

「気軽にねえ、甘いことを言ってほしいんだ、僕に。二人だけでいる、ときくらいはさ」
「むずかしい、注文ですね」

 くわあ、と小さな口であくびをしながら、まだ白澤に付き合ってくれるらしい。唇に軽く握ったこぶしを当てて、ん、となにやら考えている。

「最近は、甘えられることなら、あるんですよ。一子と、二子が、……」

 『カメラ貸してえ』
 『アレ買ってえ』
 普段はしゃんとしている座敷童子たちが鬼灯に甘ったれた声を出すのは、何かがほしい時が多い。
 鬼灯がほしい物と言えば金魚草だが、いまここ、桃源郷の極楽満月にあるのは、干物にされた薬種だけだ。ならば他には、もふもふだろうか。

「……獣形(もとのすがた)になってえ」

 少し小首をかしげて、愛娘をお手本にすることにした鬼灯が、彼女らの言動をなぞる。
 今はなんだかものまねのようでむずむずするけれど、言いなれれば、そのうちには、言葉に心も預けられるようになるかもしれない、とも考えてみる。

「なん、それ……っ、くそ!」

 事後の気だるさにまかせたとろりとした顔で、真っ正面からおねだりを浴びせられた白澤は、少し頬に血をのぼらせ、ぱくぱくと金魚草のように唇を開閉した後で、なぜか悔しそうに純白の神獣の姿になった。ぎしりと寝台をきしませて、再び鬼灯の隣に横たわった。後脚としっぽがはみ出てしまうのはご愛嬌だ。

「獣になったけど!で!?」

 甘ったれた声でおねだりして、それからどうだったか。
 眠い頭で真剣に考えてから鬼灯は、敷布の中から神獣に向かって両手を差し伸べた。

「だっこ。」

 呆然としている白澤を置き去りに、もう寝たくて仕方なかった鬼灯は、神獣のぶっとい前脚の間に、むいむいと自分で身体を押し込んだ。

「はあ、想像より、ずっと、いいですね」

 一般的に獣のほとんどは、顎下から心臓の上辺りの範囲の毛並みが、密度が高く保温力も高くなっている。もっとももふもふふかふかを堪能できる部分だ。しかも、神獣だからかなんなのか、濃密な性交の後だというのに毛並みからほんのりと桃の良い香りがする。

「……なんですか、わたしは白豚の白濁のにおいがしてるっていうのに、このチート駄獣が、」

 まあしかし、神なのだからチートでも仕方がない。
 思う存分もふもふに顔を擦りつけた鬼灯は、一番良い位置を探して一分にも満たない時間ごそごそした後、満足しきった幸福そうなため息をついて、夢の国へと旅立ってしまった。

 あとには、ぶるぶると震えそうになる身体を必死に押さえつける白澤が残った。

「なんだこれ!」

 思わず叫んで、胸に埋まった鬼灯がこどものようにむずかって、慌てて獣の口をつぐんだ。

 神獣白澤は万物に通じるが、万物に実体験を持つわけではない。
 また全知の神であるが、全能の神ではない。

 「恋人に素直に甘えられたら嬉しい」、というのは、今までの経験と一般論からの願望であって、鬼灯に素直に甘えられたら、それがどういうことか、体験もしたことのないことを、わかって、いたわけではない。

 なんだこれは。
 なんだこれは。

 拙くはあるものの、請われるまま精一杯で、真っ正面から、慣れない「甘えっこ」をしてきた鬼灯の破壊力たるや。
 いま、ふだんは金棒を握る白い骨ばった手は、ふたつながらしっかりと白澤の毛並みを握りしめている。

 動悸がすごい。

 叫びだして、ゴロゴロ転がりまわったりしたい。けれど、疲れきった鬼灯が起きてしまうから、できない。それに、動悸はすごくても、自分からこの状況を手放してしまうなんてもったいなくて、できない。

 ことの後の、ゆるい雰囲気にのせられて、ぽろりともらしてしまった己の欲望から、思いもかけぬとんでもない事態を引き起こしてしまった白澤は、必死に黙りこくって、ただ、桃源郷のやわらかい闇の中で、炯々と目を光らせている。

 桃源郷の静かな夜だった。






別名義で公開している小説を転載しました

「イノセント」は「無知」とか「無邪気を装っている」とかそんな意味です。
2014年2月17日