合コンの穴埋めに呼んだ上司に、後日お詫びの食事をご馳走した。
その上司が、いえこちらこそ楽しませていただいた上に途中退席してしまって、と食事に招待してくれた。
そんな申し訳ない、とお礼に一席用意した。
部下にそうそうおごらせるわけには行きません、とサラダがおいしい居酒屋に連れて行ってもらった。
以下、エンドレス。
(今夜は、なんていう名目の飲み会だったのでしたか、)
「忘れてしまいました……」
少し飲みすぎたかもしれない。
日本酒党の上司と一緒になって、なぜか今日は、可愛らしい名前のカクテルを、革張りに金文字の品書きの端から端へ、甘い、苦い、色がおかしい、といちいち辛辣な批評をしながら、飲んでいた。
嫌な客だ。
けれど、芥子も、芥子の上司、閻魔大王の第一補佐官の鬼灯も、毎日毎日嫌な客ばかり相手にしているのだから、たまには発散したって、許される、はずだ。
本当は、普段の芥子だったら、こんな飲み方は、品がない、と眉を顰めたかもしれないけれど、鬼灯と一緒だと、なぜだかとっても楽しい。
飲みすぎたといっても、不快な感じはちっともしなくて、ふわふわと、長い耳を動かしたら、飛んでいってしまいそうな気がする。
「どうかしましたか、」
芥子はそのとき、照葉樹林、というカクテルを飲んでいた。もともとは鬼灯が頼んだものだったけれど、やってきた美しいグリーンのグラデーションと、まさに照葉樹林のようにこんもりと乗せられたパセリの一枝を見て、あなたの方がお好きそうですね、と譲られたのだ。
そのときのことを思い出して、しっぽが勝手に、ひくひく動く。
はしたない。
「飲ませすぎてしまいましたか」
鬼灯も、飲みなれないものばかり飲んで、すこし勝手が違うのだろうか、珍しく頬を染めている。
いつも見とれるほど美しい、かたちの良い鋭い爪のついた指が伸びてきて、芥子の頬に届く直前で指先が握り込まれ、折った指の関節が耳の下のくぼみにそっと当てられた。
鬼灯は芥子の上司であるのだけれど、いつも、本当に上手に撫でてもらえるものだから、くったりと力を抜いて目を閉じ、素直に頬を預けた。
「とっても、きもちが、いいのです。」
深くまわった酔いも、鬼灯の手も。
数回動いて止まってしまった手に、自分から頬を押し付けようとして、芥子は鉄壁の自制心の酔っても残っている部分で、必死にこらえた。けれど、おひげがぴくぴくしてしまったかもしれない。
「いいのですか、」
そのまま数秒の、短いのか長いのかよくわからない沈黙があって、ぽつりと落とされた声に、芥子はゆるりと目を開けた。
「いい、とは?」
上に乗っていたパセリは最初に食べてしまった。グラスを傾けると、からり、と溶け残った氷が鳴って、すがすがしいお茶の味が喉を通り抜けてゆく。
「女性が、酔って、酔った男の前で、簡単に目を閉じてはいけませんよ、芥子さん」
「わたしは、うさぎですもの」
このお酒、お味は鬼灯様のお好みのようですよ、言ってグラスをずらせば、鬼灯は少しだけ片眉を上げて、それでもまたグラスを交換してくれた。芥子の手元に戻ってきたのは、半分ほど減った、真っ赤なブラッディ・メアリー。
「地獄で種族を問うことに、何の意味があります」
鬼灯はさっそく、照葉樹林をひとくち飲んだ。黒い着物と、緋の襦袢から、すうっと伸びた白い喉元が、こくりと動く。そして、ああ、と肯定的な意図を持って小さく頷くのを見て、嬉しくなる。
さて、珍しい話題だ。
芥子と鬼灯の飲みの話題と言えば、仕事ばかりだ。それで酒がまずくなるどころか、大いに盛り上がれるふたりだから、今まで何度機会を重ねても、仕事以外の話題などほぼ出なかった。
緊張して、トマトの味のブラッディ・メアリーを、ごくんと飲んだ。ウォッカがくらりとしみて、一瞬、目を閉じた。
「……ほおずきさまは、わたしを、女性、と、おもって、くださるのですか」
おぼつかないのは、酔いのせいだけではなく、芥子のあまり得意ではない話題のせいだ。
芥子は、友人たちにさえ、女の子にはもっと楽しい生き方があるのに、と言われてしまう、悪気はなくとも否定されてしまう、そんな生き方をしている。けれど、同病の、同じく仕事中毒の、この上司は、飲みながら、部下である芥子を、尊敬している、櫂のさばきに新しく捻りを入れましたね、精進が素晴らしいです、などと、褒めてくれるので。
閻魔大王の第一補佐官である鬼灯が、寝る間もないほど多忙なのを、芥子はほんとうによく知っていたのに、これまでにどうしても、鬼灯の誘いを断ることができなかったし、鬼灯を誘うことをやめることもできなかったのだ。仕事終わりに、ついでだから、夕食をとることもできるのだし、と。
「努力家で、仕事ができて、女性らしさを忘れず、可愛らしい……、素敵な大人の女性だと思っていますよ」
ああ、と芥子は内心でため息をついた。
もしかしたら少し耳も下がってしまったかもしれない。
ただ業務の内容を褒められていた時にはふわふわと、あんなにも誇らしく天にも上るような気持ちだったのに、どうしてそこに「女性として」という価値観が入ると、同じように鬼灯に褒められているはずなのに、こんなに胸が痛いような気持ちになってしまうのだろう。
「……すみません、今のはセクハラになるでしょうか」
「いいえ、とんでもない」
耳とひげが下がってしまった芥子を見て、何やら誤解をしたらしい鬼灯が困ったように首をかしげるのに、慌てて首を横に振る。
ただの芥子の感傷なのだ。
けれど鬼灯もゆるく首を振って、続けた。
「慣れないものを飲むと、失言してしまっていけません。今度は、お酒の出ない店にしましょうか」
芥子は、ふるりとしっぽを震わせた。
「鬼灯様はお忙しいのですから、どうぞもうお気を遣わず」
ついに言うべき時が来てしまったのを、淋しく思う。鬼灯と一緒に過ごすのは、本当に楽しかったので、できたら鬼灯の方から切り出して欲しかったと思うずるい心を断ち切って、そっと断りの言葉を告げた。
「……つかぬことをお訊きしますが、」
「え?」
そうですか、わかりました、という返事がかえるものだとばかり思っていた芥子に、思いがけず質問がかえってきたものだから、長い耳がぴこんと立って鬼灯の方を向いた。
「先ほど芥子さんは、ご自分のことをうさぎだからと仰いましたが、では逆に、元人間で現在は鬼の私のことは、とても男性とは思えない、ということでしょうか」
内容の方も思いがけずに、思わずぱちぱちと何度もまばたきをしてしまった。
まさかそんなことが、あるわけがない。
「いいえ、……いいえ、鬼灯様は、つねに精進をおこたらず、とても有能な官吏で、素晴らしい魅力のある、素敵な男性だと思います」
ふと、鬼灯が破顔した、ように見えた。驚きで芥子が黙ってしまった一瞬に、鬼灯は隣に座った芥子に身体を向けて、正面から覗き込んできた。切れ上がった、つよい瞳で。
「でしたらやはり、今度は休日に、どこかで待ち合わせでもして、お会いしましょう」
それから眉を八の字にして、困ったような、でも悪戯っぽい顔で、少し首をかしげた。
「もう、あなたを呼び出す口実も、見当たらなくなってきてしまいました」
野菜のおいしい店はもともと守備範囲外だったので、リサーチにも限界があるのです、と鬼灯がささやく。
「あ、」
そこで芥子はやっと思い出した。
先月の末、バーニャカウダのおいしいお店があるんです、と芥子が鬼灯を招待した。
今日は鬼灯が、私もバーニャカウダのおいしい店を知っていますよ、と誘ってくれたのだ。
「わたしたち、もしかして、同じところを、ぐるぐるまわっていたんですか」
「そのようです」
本当は、口実がなくても、会いたい、と。
「可笑しいですね」
「可笑しいですね。けれど、私は嬉しい気もします」
「それはもちろん、わたしもです」
バーニャカウダを言い訳にするのに、あきたら、
そしたら恋を、はじめましょうか。
某所で公開している小説を転載しました
初出:2014年2月17日
十巻フィーバーで書きましたが、考えれば考えるほど、もし鬼灯さまが結婚するなら相手が芥子さんなのが一番うまくいくと思います。
2014年3月24日
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