今日も金棒をふるう鬼灯の、あの表情(かお)の輝きといったら。
「ヒッ」
耳朶から下がる紅い飾りを鬼神の武器がかすめ、チッ、とかすかに繊維がはじければ、キリキリと痛む胃と悪くなる顔色は本当のことなのだけれど。
「避けるな、駄獣が!」
残念なことにと言えばいいのか、白澤の目は、頭蓋骨の正面にぽっかりと空いた二つ、だけではないので。
額にしわを寄せ、がるる、と今にも唸りそうに牙を出し、苛々と舌打ちしながら、暴言と金棒をなめらかに繰り出す、鬼灯の凶悪な表情が、とても
(愉しそう、)
と、見える。
「あ、」
「あっ」
一瞬、意識を散らしたのがいけなかった。鬼灯に相対するならいつでも、心の底からの真剣勝負でなければならなかったのに、ご機嫌に不機嫌な鬼が、笑いだしてしまいそうなほど微笑ましかったために。
めりょ、と白澤は、自分の頭蓋骨が陥没する音を聞いた。人間を模した二つの眼球が最後に脳に伝えた映像のなかで、鬼灯は傷ついたような顔をした、ように見えた。
ばかだなあ、と思う。
目を覚ましたのは、煙管から漂う煙が不快だったからだ。白澤はまぶたを押し上げた後で、ああ身体が回復したのか、と他人事のように考えた。
「、ぉ」
煙管の主であり、白澤の頭蓋骨を粉砕した犯人である鬼灯が煙の届く範囲にいるはずで、おい、と呼びかけようとして咥内で舌がねじくれていることに気づき、むにむにとなおした。喉にも血の塊が詰まっていて、けろ、と舌で押し出す。何気なく吐き出してから、悪態をついた。寝台の上にいた。
「お前、似合わない親切するなよな」
それで、予定していたのと違うことを言った。白澤の人間をかたどった肉体と身につけた衣服は再生するが、その時に他のものを血で汚せば、それは染みとして残る。白い敷布にはべったりと血液とリンパ液が付着していた。床に転がしたままにしておいてくれたら、床を雑巾で拭くだけで済んだものを。
「せいぜい洗濯しなさい」
「わざとか!」
身体を起こした。尻の下にはふんわりした寝台の感触があり、手のひらは血と脳漿で冷たい敷布の上にあって、声帯は震えて白澤の声を発してくれた。人間態を形作るすべての物理が、きちんと白澤の意識の管理下にあった。
倒れてからは、四半刻ほど経っていた。白澤は白澤だから、肉体が停止している間でも世界の流れを把握している。長い時間ではなかったが、煙管を咥えていればいつの間にか過ぎている、というほどの時間でもなかった。常に時間の足りないこの鬼には珍しく、頭の潰れた白澤を寝台まで引きずって(それは親切ではなく嫌がらせであったといま発覚したが)、再生が済むまで待っていたのだ。
「あなたがあんな小競り合いをマトモに喰らうから、余計な時間をとったじゃありませんか。注文したい薬があったのに」
「『避けるな』って言ってただろさっき。いつも通り、注文書置いてきゃいいじゃないか」
ご丁寧に、沓(くつ)は脱がされていて、寝台の下にきちんと揃えて置いてあった。大きさはあっても幅の細い足をすぽんと入れれば、ついさっきまで頭蓋骨がひしゃげていたなんて思い出させもしない軽やかさで立ち上がった。鬼灯の視線が一瞬で、その沓から頭のてっぺんまでを、確かめるようになぞったのは気づかなかった振りをした。
「閻魔庁からの依頼ではなく、私個人の注文です」
鬼の手が、かん、と煙管を無造作に壁に打ち付けて、床に灰を落とした。薬を扱うことの意味をよくわかっているから、鬼灯は薬局の方ではこういう無作法をしない。つまりこれも、白澤の私室に対する嫌がらせだ。熱いのではないかと思うのだけれど、灰を落としたばかりの煙管を袂に入れて、そこから何か書きつけのようなものを出した。
「これを、」
「……ふぅん、」
意地悪そうな顔、を作る。にやん、と口の端を上げる。それを見て鬼は、嫌そうな顔を作って返す。
「花粉症の薬、たしかに、木霊ちゃんの役には立つだろうけど、プレゼントとしては色気がなさ過ぎるんじゃない」
「色気がなくて結構、必要ありませんから……先日の件は、あくまで『初恋』と言ったでしょう、いまさら、下衆い勘繰りをしないでもらえますか」
先日のバレンタインおよびホワイトデーに、地獄のナンバー2であり秩序を重んじる官吏さまにそんなつもりはなかっただろうが、鬼灯はちょっとした騒動を起こしたのだった。白澤は、まあ巻き込まれたともいえないような巻き込まれ方をし、それでもほんの少しの火の粉を100倍も大げさに言い募って、事の真相を教えろと地獄まで出向いた。
結局のところ、鬼灯の他愛もない思い出話と、山神ファミリーが女子会に参加した話を聞いただけだったけれど、その直後に、鬼灯の初恋だったという小さな神が患っていると有名な病の、薬の処方を希望されれば、からかわなければ失礼というものだ。
「……まあいいよ、対価を支払うんなら、薬は作る」
「それが薬屋というものでしょう」
和紙に筆文字で書かれた書付の、内容は頭に入れ、書付そのものはぽいと捨てた。一度覚えたことは忘れない、というのはいろいろと便利だ。
「ところで、」
なんでもない風に、白澤は切り出した。
「お前が生前、捧げられた神って誰だ?」
「………………、」
突然の不躾な問いに、鬼灯はいささかむっとしたようではあったけれど、白澤を殴り倒したりはしなかった。ただ、はあ、と重く大きなため息をついた。
「わざわざそんな不愉快な質問をしてくるということは、見当はついているのでしょう。先日からの、話の流れは何となく理解できますが、それを口にした理由が理解できません。聞いてどうするのです」
「別に、ただ、確かめたかっただけだ」
日本の土着神は、名のある神から小さな神まで、概して、嫉妬深い。気に入られた人間はたいがい短命になるし、死後は魂を連れて行かれるから残された骸や墓などは留守になる。
それなのに、鬼灯は、丁は、生け贄として捧げられたのに、丁の魂が残ったまま、しかも肉体に鬼火が入り込むという方法で、鬼になっているのだ。
それが何を示すのかと言えば、つまり、丁は特定の神に捧げられたわけではないということだ。
どの神も、捧げられた丁に気づかなかった。
村人達はただ、対価を支払えば雨が降る、と考え、日照りの不安から逃れるために、あてもなく闇雲に丁を殺した。
そしてそのことを、鬼灯自身がよくわかっているのだ。自分が無駄死にだったと。
「ふぅん、だから、『神様』に恋をね?」
にやにやと笑ってやると、鬼灯が眉を顰める。それが傷ついたような顔に見えてまた、ばかだなあ、と思う。
「……なりそこないの生け贄が、優しくされて、舞い上がって、相手が神だという理由で想いを寄せて、自分を補完するために、数百年もつきまとったというのは、とんでもなく無礼な話だったと自覚していますが、だからといってあなたに糾弾される理由はありませんよ」
「糾弾、なんて。言っただろ、確かめたかっただけだって」
「何をです」
今度は作った顔でなく、口角がきゅっと上がる。
「お前は、まっさらな処女みたいな匂いがするね。」
この暴言は本心だったが、さすがに殴られた。素手だった。吹っ飛んだ白澤は、びたん、と自室の壁に逆さにはりつくハメになった。そのまま頭から床にずり落ちながら、抑えることができなくて、声を上げて笑い出した。
「気色の悪い、」
「お前が、女も男も経験がないなんてまさか思わないけど、それでも、『神様』とはなかったんだね。依存するのが怖かった?それとも意地?」
「「識って」いることを、何故訊くのです」
「こんなこと、お前の口から聞かなけりゃ、知ってることにならないさ」
鬼灯にとって、かなり不快な話題であろうに、怒ってここから出て行ったりはしない。白澤には、それがもう、可愛くってしかたがない。
「ねえ、キスしようよ」
どごん、と壁が揺れて、金棒が突き刺さって震えた。
「脳みそ腐ってんですか、この淫獣」
「さっき見たじゃない僕の脳みそ。腐ってなかったろ?」
「わかりませんよ、もう一回、」
頭を下にして上半身は床に、下半身を壁にはりつかせたままの白澤の、脚の間の壁に突き立った金棒を引き抜いた鬼灯が、ふと見下ろして、目が合う。
「お前はもう、大丈夫だよ」
鬼灯が、きゅ、と唇を噛んだ。そんな尖った犬歯で噛んだら、血が出てしまいそうなのに。
「お前が僕のことを好きなのは、生け贄と言って無駄に殺された『神様コンプレックス』のせいなんかじゃない」
「……あなたほんとうに、嫌な男だ。いけ好かない、」
ごと、と金棒が重い音を立てて床を転がる。鬼灯は白澤の頭の横にしゃがみ込んだ。
「僕だってお前なんか大嫌いだよ、僕もお前も好きだってわかってるのに、昔のことで悩んだりしてさ」
よ、と手をついて身体を起こす。白い頬に指を沿わせても、はたかれたりはしなかった。
「でもそういうとこも、好きだ」
顔を近付けても鬼灯は目を閉じないから、白澤も目を開いたまま唇を合わせた。噛みしめている唇をほどかせようと舌を這わせて、肩を抱き寄せて身体が近づいた。焦点の合わない至近距離にある瞳が揺れて綺麗で、きっといま同じことを考えているだろう、と思った。
某所で公開している小説を転載しました
初出:2014年2月22日
鬼灯様はコンプレックスの多そうな方だなあと思います。
2014年3月24日
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