青峰は別に釣りの過程を楽しみたいわけではなく、生き物を捕まえること、その行為自体が好きだから、道具には特にこだわりはないし、むしろそういうのはめんどうだと思っている。
 だから河原に下りたらまず藪に入り、ポケットに忍ばせてきた大きめのナイフでよくしなりそうな笹竹を選んで切り、ざあざあと渓流の音が聞こえる河原の白い石の上で、くたくたのヒップバッグから釣り糸と釣り針と錘を取り出して結わえ付けると、浅瀬の手ごろな石をひっくり返していくらかの虫を捕まえて針につけ、すぐに竿を振った。
 親指くらいの太さのただの笹竹は、超高校級の運動神経にびゅんと振られて素直に従い、流れの中にぽちゃんと針を落とした。
「……ザリガニ釣るんですか?」
「ちっげーよ」
 山の中の急流は美しい翡翠色の流れがごうごうと、それをぬって聞こえる声は決して聞き取りやすいものではないはずなのに、青峰の耳にはまっすぐに届く。もう彼の声を聞き逃したくないというなかなかに必死な決意をした耳は、最近少し性能がよくなった。
 青峰は振り向く。振り向いた先に黒子がいる。そのことについて考える。
「んなキレーな水にザリガニいねー、水温も低すぎる」
「そういうものですか、」
 青峰が具合のいい釣竿を探し準備しているうちに、黒子はそれに付き合うでもなく、さっさと手ごろな岩の一つに腰を落ち着けていた。スニーカーとソックスを脱ぎ、チノパンをいくらか折り曲げて、真っ白な足先を透明な水に浸している。手には書店のカバーが掛けられた新書を持っていたが、傍らに下ろされたボディバッグはでこぼこと角ばっていて、一冊二冊ではない量の書籍が入っているのだろうと思われた。
「日陰じゃなくていいのか、目ぇ悪くすんぞ」
 黒子が一緒になって水辺で生き物を捕まえはしゃぐ姿は青峰にもあまり想像できなかったが、それにしてもここへ来て読書をするというのは予想外だった。本当は青峰と出かけるよりも自宅で本を読んでいたかったのじゃないか、というもう何度も考えては振り払った疑念がまた、入道雲のようにもくもくとわいてきて、内心でぶんぶんと首を振る。
「ここだと水が気持ちいいので。それに、僕にはいいものがあります」
 たぶん親しい人間以外にはただの無表情に見える「ドヤ顔」で、黒子はボディバッグの上にくったりと横たわっていた「いいもの」をかざした。
「…………、」
 黒子が傘のように肩にのせて頭上にかざしているのは、大きな大きな里芋の葉っぱである。昼過ぎに宿屋について泊まりの荷物だけをまず預かってもらい、その時に黒子を幽霊と間違えた隠居の爺さんが、色の白すぎるのを心配して日傘に使えと畑からぶった切ってきた。黒子が持っているのはとても似合っているのだが、見た目があんまりにもファンシーで、絵本の1ページを見ているように現実味がない。
 それをここまでの道のりもずっとかざしてきたのだ。
 ぐっとまっすぐに伸びた茎は子供の手首ほどもあって、夏の日差しに葉っぱの端はしおれかけてはいたものの、まだまだしっかりと黒子の頭上から、本を読む手元に影を作っていた。
「……トトロみてぇ、」
 ただでさえ青峰より背の低い黒子がちんまりと岩の上に座っているものだから、目線はずいぶん低い。
「いいですね、木の実を拾って、どこかにまいておきましょうか」
 顔を青峰へ向けた黒子はまぶしそうにふっと微笑んだ。
「、まだ夏だし、どんぐりも落ちてねえよ」
 視線をさっと釣り糸の先へ戻して、頬に朱が昇ったのを黒子に見られていないように祈る。
「それは残念、」
 ぱしゃ、と小さな魚が跳ねるような音がした。黒子が水面を蹴ったのに違いない。

 しばらく沈黙が落ちて、白い飛沫を上げて岩にぶつかる水の音ばかりが聞こえた。自然の中でも夏の日差しは暑かったが、河原に並ぶ白い石と深いあおい色合いの清流は強い光に消毒されたように美しかった。
 青峰はもう一度静かに黒子を振り向く。里芋の葉の傘を差して、小さな影の中で手元の本に視線を落としている。裾をまくったチノパンから出た真っ白な足の甲がすうっと曲線を描いて、きらきらと光る水滴がころがり落ちる。バッシュの中で変形して少しかたちの悪い爪がついたつま先は、水の中でぐーぱーぐーぱーと何か別の生き物のように蠢いている。血が通っているのか疑わしいほど白い指が流れの中でおどる。それらをじっと見る。
 黒子に夏の光がまとわりついている。
 無邪気にじゃれるように。貪欲にのみこむように。
 ふと、強すぎる視線に気づいたように黒子が本から顔を上げて青峰を見た。眠そうにしているように思える。
「どうしました?」
「テツ、退屈じゃね?」
「いえ、ちっとも」
 目を細めて返された言葉が本心なのか青峰にはわからない。中学生の時には、わかっていた気がするのに。
「……お前さ、なんで、」
「あ、青峰君、引いてます、竿、」
「うおっ」
 黒子の前でエサだけとられて逃げられるなどという失態をおかすことは嫌で、さえぎられた問いはとりあえず置いておいて、ただ手元に集中して慎重に竿を引く。糸をたぐれば20cmはあろうかという立派なオイカワがびちびちと跳ねた。
 ちらりと黒子を見る。読みかけの本と里芋の傘を岩の上に置いて、ぱちぱちと拍手をくれる。
「おっきいですね。それ、なんていう魚なんですか?」
「これか?あー、ハヤっつってるけど、ホントの名前はたしか、オイカワだな」
「なるほど、」
 ふむ、と頷いた黒子はボディバッグのジッパーを開けた。ごそごそとかき回して、一冊の本を取り出す。カバーが掛けられていない本は表紙に魚の写真が載っている。オイカワ、オイカワ、と呟きながら白い指先がぱらぱらとページをめくる。
 ぴちぴちとおどる魚をぶら下げて、青峰はゆっくりと黒子に近づいた。
「何見てんだ?」
「図鑑です、水生生物の。図書館で借りてきたんです」
 すこし心拍数が上がった気がする。落ち着かなくてうろうろと視線をさまよわせ、岩の上に置かれた、ついさっきまで黒子が読んでいた本を適当に手に取ってみる。
「あ、それ、買ったばかりなんで、汚さないでくださいね」
「おー、」
 真新しい新書のタイトルは『ザリガニの謎―アメリカザリガニ100の雑学―』とある。
 血圧も上がった気がする。
 わざわざ今日のために用意したのだろうか。

 夏休みも半分を過ぎた頃、偶然出くわしたマジバで、偶然お互いひとりで、偶然夏休み後半の部活休みが重なっているとわかって、そうしたらもう、じゃあ二人で出かけよーぜ、山とか、とぽろりと口からこぼれていた。あっさり、はい、行きましょう、と頷かれて、驚いたのは誘いをかけた青峰のほうだ。
 中学生の時の黒子は長期の休みといえば部屋にこもって本を読んでいたのを覚えている。あれから数年たって変わったものは多いけれど、青峰が未だにセミをとってザリガニをとっているのと同じに、こういうことはそう変わるものでもないだろう。山に行ってセミをとって、川に行って魚をとって、沼に行ってザリガニをとるなんて小旅行、黒子が好んで行きたがるとは全く思えなかった。ただ無表情でバニラシェイクを吸う顔からは感情はうかがえなかった。
 先ほどうやむやになった問い、なんで行こうつった、計画を立ててから今日まで何度も口にしかけたけれど、じゃあやめます、そんな言葉が返ってきたら、と思うと結局一度も訊けなかった。

「オイカワって、成魚で体長15cmほどって書いてありますよ。特大サイズを釣ったんですね、さすがというかなんというか」
 野性ってやつですか、とあまり褒めていない口調の黒子の視線はハンディ図鑑のページを行ったり来たりしている。
 少なくとも、旅に乗り気でない者の態度、ではない。
「わかりづれーよ、お前……」
 はあ、と息を吐けば
「もっと大きい図鑑の方がよかったですか?」
 なんて、きょとんと見上げてくるのだから、青峰はもうどんな顔をしたものかもわからない。
「そっちじゃねー」
「?、どっち、」
 がりがりと頭をかきむしって、黒子の足元、浅瀬にしゃがみ込む。手ごろな石をいくつか拾って、ごとごとと組んで壁を作る。
「捕まえた魚入れる、いけす作っから、ちょい手伝ってくれ」
「ああ、はい、」
 ぱたん、と図鑑を閉じて、黒子も目の前にしゃがむ。大きさはこのくらいで、下は少し掘って底を深めに、指示を出せば、慣れない手つきなりに石を並べる。水面が光って、黒子の身体に水紋を描いている。
 別に、絶対に逃げないように、なんて考えているわけではないからすぐにできあがって、青峰はそこへ釣り針から外した魚を放した。
 黒子は興味津々といった態でつたない作りのいけすを覗き込んでいる。ぴしゃん、と尾鰭から水がはねて、ポロシャツの袖で顔を拭って、ふふ、と笑う。
「……誘っといてアレだけど、お前にはつまんねーだろーと思ってた。バスケはナシで、俺と二人とか」
 青峰がぼそぼそと言えば、黒子はぱっと顔を上げる。ぴん、と片眉が上がっている。なんですかそれ、と不満そうに頬を膨らませる。
「さっきも言いましたけど、退屈なんてちっともありませんよ」
 黒子はそういうけれど、青峰にはさっきから気になっていることがある。
「……ウソじゃないよな?」
「なんなんですか、」
「だってお前さ、ここ着いてから眠そうにしてっから、やっぱ退屈なんじゃねーかって、」
 ふっと沈黙が落ちたから、青峰は最初、黒子が図星をつかれて黙ってしまったのだと思った。やっぱり、と顔を上げて、それで向かい合った目の前の黒子の顔を見て、間抜けにもぽかんと口を開けてしまった。
「なんだ、その顔、」
「…………っ!」
 首から真っ赤になっている。黒子はそれを冷やそうとするように、川の水で濡れた手の甲を自分の頬に押し当てる。
「ね、眠れなかったんです!ゆうべは、」
 かんしゃくを起こしたようにそこまで言って、それからぴたりと口をつぐんでしまった黒子を見て、マジバで誘いをかけた時のようにぽろりと、青峰の口からまた言葉がこぼれ落ちた。
「それって、俺と出かけんのが楽しみで?」
「……青峰君のくせに!」
 理不尽なことを言って、ばしゃんと水を掛けて、立ち上がった黒子は、慣れない河原をおぼつかない足取りで駆けてゆく。
 今度こそ、図星をついてしまったようだ。
 腹のそこから大きな声で笑いたくなった青峰は、しかしそうせずに、後を追うために立ち上がる。
「おい、あんま走んなよ、転ぶぞ」
 さえぎるものもない真っ白の夏の光が、二人にふりそそいでいる。





初出:12/09/21
別名義で公開している小説を転載しました
黒子くん視点で続きを書こうと思っていて
結局書きませんでした
(12/12/23)