「沖田先生、お話があるのですがこの後宜しいでしょうか」
刻限を幾分か過ぎ、閑散としはじめた道場に爽と風が吹き込む。舞い込んできた白梅の香りのように凛と、若き師範の前に立つのは富永セイ。この春女学校を卒業する娘である。
「失礼致します」
道場とは中庭を挟んだ母屋の一室、躊躇うことなく襖を開けたセイは、既に稽古着ではなく学生らしい袴姿だ。稽古のときは一つに結い上げている髪をお下げにしているのが活発な性格に合っていて愛らしい。
「どうぞ、お入りなさい」
今しも五つ目の酒饅頭に齧り付こうとしていた沖田は、菓子器の端にそれを戻すと微笑んで座卓の向かいの座布団をすすめた。ではと座そうとするセイを尻目に大声で茶を頼む。恐縮する彼女を笑顔で押し留めているとすぐに茶が運ばれてきて、まずは二人で熱いお茶と蒸かしたての饅頭を賞味した。
「…で、お話というのは?」
最近の稽古についてしばし歓談すると沖田のほうから切り出した。まるで屈託の無いセイに、悪い報せではないだろうと判断したためである。すると、それまで無邪気だった娘の様子が一変した。顔を赤らめ、どこか緊張している様子である。
(なんだか、照れちゃいますね)
視線を逸らせ、ぬるくなった茶を継ぎ足して啜る。急須に入れたままになっていた茶は渋く、粉っぽさが喉に残った。
「あの、今月で道場を辞めさせて頂きたく、…その」
意を決したように放たれた声に沖田の動きが止まった。
「縁談が、ありまして…」
「ええっ!?」
湯呑みを取り落とす。あまりの驚き様にセイの方がひいている。空の湯呑みは畳をころころと転がって、臙脂の袴の膝元で止まった。お下げ髪を畳に擦って拾い上げる娘と、覗き込んだ座卓の下で目が合った。苦笑を零している。沖田の動揺に却ってセイの方は落ち着いた様子なのが年上の、しかも剣の師匠としては気まずく、こほん、と白々しく咳払いなどしてみたが無駄だった。
「私に縁談があるのは、そんなに驚かれることでしょうか」
セイは拾った湯呑みを卓上に戻さず両掌で弄ぶようにしていたが、顔を上げた。
「良いお話で、お断りする理由も無いですし。この時世です、夫に仕えて少しでも早く良き母となることが何よりもお国のためになるでしょう?」
「でも貴女、ええ、その、…そう、まだ学生でしょう。女学校の方はどうするのです?」
ようやく我に返って質問などしてみたが、余計にセイの苦笑を深めるばかりであった。
「先生、お忘れですか?私、この春には修了なんですよ」
卒業後にはすぐに嫁することになる、その為に、道場へ来る時間も花嫁修業を含む支度に充てねばならない、ということであった。その手のことは女学校でも散々に習ったのであろうが、実際に輿入れとなればまた話は違うのだろう。まして、早くに母を無くし男手で育てられたセイである。周りの者も、いくら支度をしてもし足りないのであろうと容易に察しがついた。
「近藤先生の方には父から話が行っていると思いますが、沖田先生には自分でお知らせしたくて…」
もともとこの道場に女子はセイ一人であった。危なっかしい紅一点を甥や姪の姿に重ね合わせて気にかけるうち、自然と師弟のような関係になっていたのである。
「…そうですか。しかし、寂しいなぁ。セイさんの無茶な剣にお付き合いできなくなるかと思うと」
同じ道場にセイの兄、祐馬が先に入門していたため、その後にやって来たセイは区別に自然と下の名前で呼ばれることが多かった。その筆頭が、沖田である。若い娘の下の名を無邪気な子供のように躊躇い無く呼ぶ。
「もう、沖田先生たら」
頬を膨らませて見せたセイだったが、すぐに我慢できないように笑い出した。
「どうしたんです?」
冗談に紛らわせてみたものの、寂しいという言葉に偽りのない沖田には楽しそうなセイの様子が面白くない。しかし娘はいくら竹刀を握っても白く華奢なままの手で口許を押さえると、悪戯っぽい上目遣いで沖田を見る。そして急に小声になって秘密ですよ?と顔を寄せた。こめかみの後れ毛が笑いを含んだ吐息で靡き、肩にぶつかったお下げから香る甘い匂いが落ち着かない気持ちにさせた。
「…私のお見合いの相手、土方先生なんです」
誰が聞き耳を立てているわけでもなかろうに耳元でそっと囁かれたその声は、沖田の鼓膜を甘く震わせた。
「…!!それじゃあ…」
「はい。春になったら、これまで以上にお世話になることと思います。不束者ですがどうぞよろしくお願いします」
セイが座布団から降りて頭を下げる。沖田も慌てて自分の座布団を蹴飛ばした。『それじゃまるで私がセイさんをお嫁にもらうみたいじゃないですか』と笑って言おうと思った言葉は、何故か喉に引っかかって出なかった。
土方は、沖田と家族同様の兄弟子である。
「でも、おかしな感じです。私が土方先生に嫁いだら、沖田先生は私の弟になるんですね」
「ふふっ、五つも年下のお姉さんですか」
お互い身近な存在になることが何故こんなにも心を浮き立たせるのか、理由にまで思い至らない初春のことであった。
2004年6月
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