庭先の木下闇にささゆりが揺れる。淡い色を、薄い闇が妙に艶めいて見せている。

黒い稽古着のまま濡れ縁に腰掛け、ひょろりとした足を持て余すようにぶらぶらさせていた沖田は、軽い足音が途中あちこちと寄り道しつつ次第にこちらに近づいてくるのを聞きながらご機嫌であった。足音は明らかに彼を探していたが、居場所を知らせることはしない。ただ嬉しげに足を身体を揺らし、奔放な癖毛がゆらゆらとそよいでいる。

「ああ先生、こちらにいらっしゃったんですか」

思った通り背後で音が止まり、にんやりと笑った。

「おや、セイさん。もしかして私のこと、探してました?」

廊下に立つセイは質素ながら洋装である。土方の妻となって三ヶ月、若奥様が板についてきた。

「お弟子さんに頂いた小豆で水羊羹を拵えたんです。そろそろ頃合だと思うのですけど、沖田先生お味見して頂けません?」

今年最初の水羊羹ですよ、と笑いながら言う。物品不足の折、甘味の多くが店頭から消えつつある。沖田は諸手を上げて喜んだ。

これまで母屋に間借りしていた土方は、近藤らの勧めもあって、セイとの結婚と同時に近所へ居を移した。ちょうど手頃な文化住宅が貸しに出ていたのである。だが、だからといって道場に入り浸りの生活が変わるわけでなく、家にいても夫婦二人分では家事も少ないからと、セイは近藤家へ奥向きの手伝いに顔を出すようになった。素直で快活、器量良しの上に働き者、道場の元門下生で事情にも詳しく、しかもあの土方と夫婦として上手くやっている。三拍子どころか何拍子も揃ったセイが、手伝いの娘から近藤の奥方にまで、気に入られるのに時間はかからなかった。

「ここ、風が気持ち良いんですね。ささゆりの香りがします」

眩しそうに手をかざし庭を見る、額には汗がにじんでいる。立ったままのセイを下から見上げる形になった沖田は、その形の良い顎から首の流れるような線をひっそりと観察した。ささゆりの花弁のような曲線。セイがただの教え子であった頃には知るべくもなかったものだ。

「折角ですから、こちらにお持ちしますね」

ありがとうございます、と言う頃には既に彼女は踵を返している。その忙しない様子にまたにんやりと笑って、暗い廊下の奥へ消えてゆく白いふくらはぎを見送った。

と、

「なぁに他人の女房の尻眺めてにやにやしてやがる」
「うわ、歳三さん。吃驚した」

セイが消えていった廊下の反対側から腕組みをした土方がやって来た。行水でもしたのか、着流しに濡れ髪で肩に手拭を引っ掛けている。

「いやだなぁ人聞きの悪い。尻なんて見てませんよ、足を見てたんです。綺麗だなぁと思って」
「馬ァ鹿、おんなじじゃねぇか」

人妻の足に見蕩れていたにしては邪気もない物言いに、土方は思わず吹き出して弟分の頭を小突いた。確かに、剣道をやっていたセイの足運びは凛としている。なんだかんだ言って、沖田を実の弟のように可愛がっている土方には、妻であるセイが、女を苦手とする沖田の、身内以外で認める唯一と言っていい女であることが嬉しく誇らしいのである。

「歳さん!お帰りだったんですか?もう、声を掛けてくださればよろしいのに」

セイが盆を持って奥から戻ってきた。「おう」と返事になっていない応えを返す土方は、そっけないというよりただ気を許している。セイは軽く断って沖田の脇に盆を置き、土方の肩から手拭を取り上げて髪を拭う。

「廊下に滴が垂れてるじゃありませんか。ちゃんとなさってください。暑いからって風邪でもひいたらどうするんです」

廊下が濡れたのを怒っているのか夫の身体を気遣っているのかわからないことを言う幼な妻に、口煩くてかなわねぇなと零しつつ、土方はされるがままになっている。絡んだ髪を指先で梳きながら丁寧に水気を取っていくセイも、口調こそぷりぷりとしているもののいとおしそうであった。この照れ屋同士の夫婦が他人の前でそれらしく振舞うことは珍しい。睦まじい様子を見ていることができなくて沖田は庭のささゆりに視線を移した。今は殊更に強く香っている気がした。

「まったく、子供みたいなんですから」
「お前に言われたかねぇな」

背を向けた後ろでは、土方の艶のある真っ直ぐな髪をセイの白く繊細な指が整えているのだろう。沖田はその動きを想像し、脳裏に仔細に描き出した。まるく桃色のつめを持った指先が、黒い波の中をゆったりと滑る。どんな心地であろうか。空想の中で、形良い指に梳かれる髪は癖毛に置き換わっていた。目を細め、その指に自分の浅黒く骨ばった指を添わせる。

「…おい、セイ。総司に菓子を持ってきたんじゃねぇのか?待ち切れなくて拗ねてるぜ」

指から手の甲、腕へ辿ろうとしたところで、浅い夢想から引き剥がされた。

「やだ、お待たせしてごめんなさい」
「いいえ」

沖田は、振り返ってにっこりと笑った。

盆の上には、冷茶の入った湯呑がふたつと、どんぶりほどの大きさの、色絵で季節の風景が描かれている蓋つきの鉢、それに朱塗りの匙が載せられていた。冷茶のひとつは自身で飲む心積もりだったのであろうが、セイは茶托に乗った湯呑を二人の男の前にひとつずつ置いた。そして鉢に手を伸ばし、くすっと悪戯っぽく笑った。

「どうぞ、沖田先生」

両手で捧げ持つように差し出す。その様子に多少不可解なものを感じつつも、受け取って鉢の蓋を持ち上げ、

「うわあ、」
「げ」

沖田は目を輝かせ、土方はげっそりと目を逸らし茶を口に運んだ。鉢の中には切った羊羹が並んでいるものと思っていたのだが、そこにあるのは直接流し固められたどんぶり一杯分ほどの水羊羹である。なるほど、黒文字ではなく匙が添えられている筈である。二人の様子を見て、セイは堪え切れないというようにくっくっと笑った。

「沖田先生の甘いもの好きは、尋常じゃないんですもの。特製です」

セイの日常には自分がちゃんと居るのだという事実が、沖田の胸の中に和三盆のようにほろりと残った。いただきます、と早速匙を取る。きちんと裏漉しした餡でなく、豆の粒を半潰しにしただけなのがかえって美味そうに見えた。匙から零れ落ちそうなほど大きく掬って口に放り込む。

「ああ、美味しいですねえ」
「よかった。ありがとうございます」
「とっても口当たりがいいです。寒天だけじゃないでしょう?」
「わかります?葛粉を入れてみたんです」

甘味に関しては剣と同じくらい機微に聡い男である。

「歳さんも召し上がってください」
「…こんなに要らねぇぜ、俺ぁ」
「ふふっ、他は普通に流し函で固めてますよ。切ってきますね」

セイが再び奥へ消えていった。土方は、鉢を抱え込んで大量の水羊羹を胃に流し込む沖田を、視界に入れたくないとばかり庭を見ている。風がまた花を揺らした。それに目をやったまま唐突に口を開いた。

「赤紙が来た。」

言葉が脳に達した瞬間、かぁん、と、滑り落ちた匙が鉢の底にぶつかって高い音を立てた。

「…あ、……と、…っ?…」

土方の奇襲は沖田の言語中枢を壊滅させた。まず頭に浮かんだのは先程の若夫婦の情景である。

「………………セ、イさん、は、」
「受け取ったのはあいつだ」

眩暈がする。沖田は口許に手をやった。結婚してすぐにセイの父は軍医として召され、その一月後には兄の祐馬が入営している。そして今度は夫の赤紙を受け取ったのだ。継嗣でもなく、義務教育しか終えていない土方には、兵役を逃れるどころか縮める術もない。

既にほぼ空になっていた鉢を見下ろした。小豆も、砂糖も、葛粉も、惜しげなく使われた水羊羹は、ついさっきまで幸せの塊であったというのに、今はもう途方もなく哀しいものに見えた。

「勇さんが志願兵として一緒に行くって聞かねえ。今夜はこっちに泊まるぜ。」

話し合う、ということだ。

「……私、私も…!」

土方が舌打ちした。

「言うと思ったぜ。お前ぇは長男だろうが。…いい、話は夜だ」

いつの間にか、廊下の暗がりに盆を持ったセイが立っていた。その立ち姿は木下闇のささゆりそのもののようである。唇は微笑を刻んでいたが、澄んだ瞳の奥は空虚であった。ふいに激情にかられ、沖田は足音も荒くセイの脇をすり抜けてその場から去った。

結局、召集された連隊へは近藤と沖田も含む三人で出向き、近藤は志願兵として受け入れられたが沖田は徴兵検査ではじかれた。

肺結核に感染している、というのがその理由であった。




2004年6月