甘い匂いを撒き散らす、まるく黄色い桂の葉が散り敷いた裏庭で、縦縞のもんぺに身を包んだセイが何度も深呼吸を繰り返している。

及び腰で構えられたその両手には、肢を細縄で結わえられ、こけこくごごごご、と唸る鶏の首が握られていた。縁側では茶ばんだ葡萄色のもんぺに割烹着をつけ胸の前で両手を合わせた近藤夫人、ツネが心配そうに見守っている。

「セイちゃん、無理しなくていいのよ」
「い、いえっ」

セイは強張ったまま勢い良く首を左右に振った。頭に被った手拭の端が頼りなく揺れる。

「滋養をつけるには柏肉がいいんですっ!お、お、沖田先生がおおお元気にっる、為なら!」

ごくりと喉が上下する。

主食の配給すら覚束ない昨今である。この鶏は昨日、セイが買い出し列車にすし詰めになって赴いた郊外の農家で、輿入れのときに兄が支度してくれた、朱鷺色の綸子に鳳凰と松竹梅を描いた一張羅の訪問着と交換に、病人を抱えていると泣き落としで手に入れてきた食料の、その中でもとりわけ貴重な一品なのだ。雄鶏だから卵を産むはずもなく、つぶさなければ意味がない。

しかしいくら肝が据わっていると自他ともに認める彼女であっても、生まれて初めて鶏を捻るとなってはさすがに腰が引けてしまうのであった。農村ならばともかく、街中で生まれ育ったセイは、肉といえば肉屋で経木に包まれた状態のものを買い求めたことしかない。

「や、やります…!」

ツネは自分が縊り殺されるかのような顔をして目を閉じている。

「…えぇっ、覚悟ッ」

セイは討ち入りの侍のような掛け声とともに雄鶏の首を捻じった。

ごきり、と掌の中で確かな手ごたえがあった。

断末魔とはどのようなものであるかと戦々恐々としていたセイだったが、ぎょううぅ、という低く空気が漏れるような声がしただけで、首の折れるぼぐりという音の方がぎょっとするほど大きく響いた。雄鶏はしばらく鶏冠を揺らしてびくびくと痙攣していたが、やがて力を失って生温さを残したままだらりと垂れ下がった。

勢いが挫けないうちに、桂の木に吊るし出刃包丁で一気に首を刎ねた。血を受けるため下に錆びた盥を置いていたが、滴り落ちた具合が悪かったのか、飛び散って黄茶けた落葉が紅に染まった。まだ体温の残る濃厚な血臭が立ち昇ってきた。桂の木の下なら少しは紛れるかと思ったのだが、甘ったるい匂いと混ざり合って、かえって頭の痛くなるような何とも言えない空気を作っただけであった。

血抜きにはしばらくかかる。この血腥い身体を今すぐにでも清めて着替えてしまいたかったが、まだ羽を毟る作業が残っている。どうせなら全てを済ませてしまってからの方が良いだろうと考え、そこでようやくセイは、はふ、と息をついてその場にへたり込んだ。真っ青なツネはセイの様子に我に返り、行水の支度をしてくると言い残しぱたぱたと屋敷の中に消えていった。手伝いの娘は随分前に郷里へ帰した。風呂でなく行水なのは、燃料不足の為である。

残されたセイは、自分の掌をじっと見た。脂分のある羽毛独特の滑らかな手触りと、縊った瞬間の手ごたえがしっかりと残っている。臭いを嗅いでもみた。家禽独特の、糞と穀物の混じった臭いが指の股まで張り付いていた。

実家の家業の為に人の生き死に何度も立ち会ったセイであったが、自身の手で命あるものを殺すことは全く別の感慨であった。生きるとはこういうことかとも思った。このような国の非常時でなければ恐らく経験することはなかったであろうその不思議な感銘に、彼女は苦く笑った。そしてはっとした。

(歳さんは、お国のために、人間を殺しに行っているんだ。祐馬兄様も、近藤先生も、他の兵隊さんたちも、皆。)

異臭のなかで、しばらくそうして両の手のひらを見つめていた。


「…おきたせんせい、」

廊下に膝をつき小さな土鍋の乗った盆を下ろしたセイは、障子越し、遠慮がちに声をかけた。不定期な眠りを妨げてしまわないための、沖田が病床に就いて以来の習慣である。以前はセイが歩いて来るだけで気配に敏感な沖田は笑い顔を覗かせたのだったが。もそもそと衣擦れの音がし、しばらくして、どうぞ、と低く聞こえた。声に痰が絡んだ様子はなかった。

「よかった起きてらして。お昼をお持ちしたんです」

そっと開けると病室独特の停滞した匂いが忍び寄ってくる。

「今日は鳥粥なんです。滋養もつきますし白粥よりは食欲が出るのじゃないかと思ったのですけどいかがですか?少しでも上がれそうなら口をつけてみてくださいませんか?」

その空気に慣れるまで、最初の数十秒かはどうしても捲くし立てるように喋ってしまう。後はひとつ呼吸するたびに馴染んでゆく。立ち膝でいざり寄っていくと、沖田が、あれ、と呟いた。

「…?、何だか妙な…」

眉を寄せ、すんと鼻を鳴らしている。

「あ、すみません。いやだ、まだ臭いますか?」

セイは盆を置いて反射的に腰を引いた。床の上で身を起こしただけの格好のまま、追うように鼻先を近づけてくる沖田を慌てて押し留めた。

「あの、さっき、その、鶏を……。もう自分ではよくわからなくて。一応、行水して着替えたのですけど…ごめんなさい。あまり近寄らないようにしますね」
「鶏って、…もしかしてこれですか?」

置かれた土鍋が、鳥の出汁の良い匂いを漂わせている。

「…今朝の裏庭のあの騒動は、鶏を絞めていたからなんですか?それも、セイさんが?人を呼んだのではなくて?」

喧騒はここまで流れていたようだが、セイが鶏を絞めたとはまさか考えなかっただろう。感慨深そうにしていると思ったら、蓋を取り、小鉢に分けもせずに匙で掬って口へ運んだ。あちち、と眉をしかめているが、苦もなく咀嚼し飲み込む。

「セイさんが、鶏を、」

一言一言を味わうように言い、そして沖田は笑んだ。

「殺生をしたのははじめてですか?…あぁ、私の、全て、こんな私の為にねぇ」

声は愉悦に溢れていた。あぁ、と言った時の様子は恍惚といって良かった。

「これを食べて、がんばって良くならないと、いけないですねえ。」

ねとりとした、粘度の高いような笑みであった。嘲笑にも見え、真正面から受けたセイは身体を強張らせた。それは恐怖を感じたからであったが、セイの中の沖田に対する感情としてこれまで有り得なかったものだったため、彼女自身はっきり自覚したわけではなかった。

セイが黙り込んでしまうと、それから二人は一言も交わさなかった。ただひたすら、土鍋と大きな口を匙が往復し、もともと少なめに用意した粥はあっという間に減っていった。

「ごちそうさまです」

かたりと匙が置かれた。完食されるのは歓迎すべきことだったが、嬉しいとか良かったとか、どころかお粗末様ですとも、何も言えなかった。

「夜もちゃんと頂きます。もし寝ていても起こしてください」
「…………はい…」

小さな声でやっと返事をすると、土鍋と枕元の洗濯物を下げるのを口実に逃げるように辞去した。本当は隔離されている沖田の話し相手になるのもセイの役割の一つであったが、今はこれ以上居るのが苦痛であった。

秋の日は短く、傾いたと思えばもう夜をつれてそこまで来ている。セイはくつくつと音を立てる鍋を見るともなしに、ため息をついた。

医者の娘であった権限でもって、何人たりと、ごく短時間の見舞い以外の沖田への面会を禁じたのは他ならぬセイである。そのかわりに彼の看護は全て一手に引き受けた。それを重荷だと感じたことはないし、今さら結核の感染を恐れたわけでもない。それなのに、昼間のあの沖田。揺らめく炎を見つめながら狼狽を思い出す。

伝染する病よりも彼自身が恐ろしい。あの目で、あの笑顔で、再びじっと見つめられたら。沖田が何を考えているのかわからなかった。本当にあれは、いつも無邪気なあの沖田だったのか。

セイは身を震わせ、煮炊きの炎から目をそらした。日が落ちると結構な寒さである。いったん部屋へ戻り、押入れの土方の衣服を入れた行李から純毛のカーディガンを出した。結婚前、鳶色が目に暖かいこれを着ている土方を何度も見かけたし、新婚だった春先、まだ冷える夜に寝間着の上へも引っ掛けていた。夜遅くに繕い物をしていて着せ掛けてもらったこともある。夫と秋冬を過ごしたことのないセイにも馴染み深いものである。

朝からの騒動でもんぺの替えは全て洗濯してしまって、今のセイは洗いすぎて肘などが抜けてきた白いブラウスと、ぺらぺらのベージュのロングスカートというひどい出で立ちであった。カーディガンを羽織り、長すぎる袖を皺にならぬよう丁寧に折り返すと、膝近くまですっぽりと包まれ、すかすかの洋服の心許無さが消え失せる。脱いだのを受け取ったり肩に掛けてもらった時とは違う、鼻につく樟脳に違和感を覚えた。夫婦らしい夫婦生活は実質四ヶ月に満たないが、土方の匂いは忘れ得ず身に染み付いている。セイは自分の身を抱くようにして立ったまま壁に凭れた。

(歳さん、いま、どうしてらっしゃいますか)

土方がまだ内地に居る時は少ない休日のたびに土産を携え出向いていたが、先月から連隊が南方へ出征を果たしもう会うことも叶わない。こうなるまでに身篭ることが出来なかったのが残念であった。

現在あるじのないセイの実家、富永医院は焼け出され東京からやって来た父の知人の医師一家に貸してある。土方との新居は召集がかかった時に引き払うことを二人で決めた。今のセイの居場所は、近藤家のこの、土方が独身時代に間借りしていたのを再び借り受けた一室だけなのだ。

(私の仕事は、歳さんたちがお帰りになるまでこの道場と、近藤の奥様と、沖田先生と、そして自分の命を、守ること)

セイはまるで、それがいま彼女が縋ることのできるこの世でただ一つのよすがであるかのように、自分の肩を、肩に纏ったカーディガンを、つよく抱いた。そして目を閉じ深呼吸をすると顔を上げ、普段通り凛とした足取りで部屋を出た。

「沖田先生、セイです。失礼します」

障子を開くと、沖田は床の上に身を起こし寝間着に丹前をはおった格好で竹刀を握っていた。こちらを振り返った笑顔はいつも通りで、ほっとした。

「お加減、良さそうですね。でも無理はだめですよ?」

セイが軽く釘を刺すと、悪戯が見つかった子供のように笑いながら頭を掻く。途端に、昼間のことが思い過ごしだったようにも思えてくる。沖田の枕もとにはいつも竹刀が置いてあった。竹刀を持つ姿を見ると、剣のみを生きる標としていた師が道場に入ることも叶わず病床にあることを切なく思う。もともと仲の良い師弟である。

「お昼と同じ鳥粥なんですけど、先ほど全部召し上がってくださったから、お米もお肉も少し多めなんです。食べられそうですか?」
「はい、いただきます」

土鍋から粥を取り分け、沖田に差し出した。手渡す拍子に指を絡め取られ危うく零れそうになる。

「っと、すみません」
「熱いですから気をつけてくださいね。」

セイは微笑んだ。

「沖田先生は食欲があまり落ちないから、私、嬉しいです」

沖田の動きが止まった。一瞬、不自然な無表情になったが、横顔を見ているセイは気づかない。

「以前と比べたら、それは量は少ないですけど。私の今まで知っている肺病の患者さんよりずっとたくさんお召しですよ。きっと、きっと良くなります。」
「……………」

そして空いた器を取り上げ、再び粥を満たした。

「…セイさんの料理はおいしいですから。歳三さんは幸せ者ですねぇ」
「沖田先生ったら、からかわないでください」

俯くセイを見遣る沖田は、昼間と同じあのねとりとした笑みを浮かべている。

「セイさんも、歳三さんと離れ離れで淋しいでしょう」
「それは…。でも今は、国民全てが、堪えなくてはいけない時ですから、」

言いかけたのを遮って、沖田は猶も問う。

「特にこんな、夜はねえ。暗くなってくると、歳三さんが恋しくなるのじゃありません?」
「もう、そうやって先生は私のこと、子供扱いするんですから。ちっちゃな子供じゃあるまいし、暗くなったからって昼間よりも淋しいなんてこと、ありません。」
「子供?ふふ、おかしなことを言いますねえ、貴女」

セイはそこでようやく顔を上げ、沖田を見た。

「ええ、わかってますとも。セイさんは子供なんかじゃありません。若奥様でしょう。子供のはずがないじゃないですか。えぇ、えぇ、よく、わかっていますよ」

ねとりとした視線がセイを絡め取っている。一気に身体が冷えた。

「だから、夜は、淋しいでしょう?あの歳三さんの、奥さんだったんですものねぇ」
「お、せ、本当に、か、からかわないでください、もうお休みにならないと、お身体に障りま、…っ」

思わず後退って正座から崩した足首を、沖田が掴んで強く引いた。逃げる上半身と強引に引き寄せられた脚に、バランスを失って勢い良く仰向けに倒れる。咄嗟に腹筋を使い頭を打ちつける失態は避けられたが、事態をうまく理解できない。心臓が痛いほど早く打ち、耳元でがんがんと響いた。

「お身体、ねえ。」

掴まれた足首をぐいと手繰り寄せられ腰が畳を滑る。突っ張った腕も虚しくスカートの裾から剥き出しになった脚が布団へ引き込まれ、薄い靴下に包まれたつま先が熱く陰気に湿った沖田の身体に触れた。抵抗し畳の縁に引っ掛かけた爪がかりりと頼りない音を立てたのが却って不安を煽る。

「貴女本当は、私が結核なんかじゃないって、気づいているんじゃありません?」
「な、にを…」

沖田は、笑っている。

セイは震えた。足を取り戻そうと力を込めると、遠慮のない力でぎりぎりと締め上げられ小さく悲鳴を漏らした。沖田は本当に嬉しそうな表情になって、しっとりとすべらかなふくらはぎを何度も舐めるように撫で、上から覗き込んでくる。

「かなり最初の頃から、疑っていたでしょう?毎日毎日、何時間もセイさん一人で私をお世話してくれてましたものねぇ。ご実家で肺結核の患者さんを看たこともあるのでしょう。気づいて当然ですよねえ」

実際のところ、全く沖田の言うとおりであった。沖田は死に到る病ではないかもしれない、と密かに喜んでいたのである。

「連隊に合流する途中で倒れたのは本当なんですよ。多分、肺炎か何かだったんでしょう、結核ではいきなりあんな高熱は出ませんからね。夜ね、歳三さんと近藤先生が相談してたのが聞こえちゃったんです。『金なら何とかある。とにかく、軍人の前で医者に結核だと言ってもらえればいいんだ』って。『総司自身は名簿に徴兵不適格だと書かれるまで騙されてくれればいい、後は俺たちがどうしてそうしたか自分で考えるだろう』ってね。」

セイは言葉もなく、ただ目を大きく見開いている。

「診察に来てくれてるお医者、あのおじいさんは周斎先生の、亡くなった先代の親友だったんです。私が事情を説明したらあの人ったら、秘密は誰にも漏らさない、この家の女どもにも言わない、だから総司君だけでも絶対に生きてこの道場を継いでくれって、泣きながら縋るんですよ。もう、まいっちゃいました。」

そこで言葉を切り、ひとしきり声をあげて笑うと、今度は急に真顔になり顔を寄せて低く囁いた。

「みんな酷いんです。私が一人ぼっちは嫌いだと知ってて、どうやって一人にするか腐心しているんだもの。私が、近藤先生と歳三さんを、大大大好きだってわかっているのに、一人きりで置き去りにして行くんだもの。道場のこと出されたら、追って行くことも出来ないってわかってて。本当に酷いですよ」

闇の中の猫のように瞳が炯々と光っている。射竦められたセイは震えながらも畳の上でもがき、助けを求めるように片手でカーディガンの身頃をかき合わせた。その仕草に沖田は目を細めた。

「でもね、嬉しかったですよ。仲良しの貴女が居てくれるんだもの。セイさんも、歳三さんに置いてきぼりにされた、仲間ですもんね。私と貴女と、ここに二人で、これからもずうっと一緒なんです」

半ば無意識に拒絶を示して首を振ると、ほつれた髪が舞って頬にかかる。猶も逃れようとすると拘束する力は更に強くなった。剣胼胝のある太い指は細い足首にすっかり回りきってしまっていて、足先は鬱血し既に感覚がない。

踝からふくらはぎを往復していた掌がじわりじわりと上がってくる。その意味を理解し蒼白になったセイはさらに抵抗した。しかしただ闇雲に暴れるだけで、その力は沖田に危害を加える方向には働かない。ならば万にひとつも抜け出せるなどある筈なかった。セイの唯一知る男のものとは違う、がさがさした掌が膝頭を包み、武骨な太い指はその裏側へ猫の顎下をくすぐるように這い込んでくる。

「や…お願いです、やめて、やめてください、…放して!」

語気強く言い放った途端、沖田の瞳が凶暴な色になった。セイが危険を感じる間もなく、目の前が暗くなったと思うと頭の後ろでだぁん、と鈍い音がした。一瞬遅れて、両肩を押さえつけられて畳で背中と頭を打ち付けたのだと理解すると同時に、くらくらと眩暈がした。

「うるさい!」

沖田がセイの上で怒鳴る。腹の上へ体重をかけられいるので上手く息ができず、セイはただ喘ぐだけである。

「大好きな歳三さんと、貴女が、一緒に居て、笑っていて、それを見て私は幸せだったのに!どうしてですか!どうして!どうして……っ」

きつく目を閉じていたセイにぽつりとしずくが落ちた。ひとつ、ふたつ、次々と頬を叩くそれに、ゆっくりとまぶたを上げれば、セイを押さえつけているのは、裏切られたことに怒り、拗ねて、癇癪を起こし、そして一人残された悲しみと、己の不甲斐なさに、身悶えている、子供のような男だった。

「……歳さんはいつも、「総司が」、「総司が」って……」

喋ろうとし、軽く咳き込めば、腹の上に馬乗りにかけられていた体重が少し緩められた。沖田はいつも優しくて、そして弱いのだとセイは思う。

「歳さんが話してくれるのは、今まで知らなかった沖田先生でした。それを知って、私は先生のこと、もっと好きになりました。歳さんは、先生に、私の話をしたでしょうか……」

沖田を見上げるセイの目が、透明に潤み、清水が湧くように、盛り上がった涙がこめかみへ流れていく。

「私は、私の知っている歳さんの全てを、つよく、いつも、思っています。沖田先生は、沖田先生の知っているあの人を、思って…。そうしたら、私たちと一緒に、歳さんは居るんです。寂しくなんか、ありません。」

見上げる瞳も、見下ろす瞳も、同じ人を思って濡れていた。

「今は歳三さんを思って、待っていれば、必ず日本は勝って、みんな帰ってきます。帰ってきます。帰ってきます……!」

父親が軍医として招集されたときも、兄が出征したときも、夫の赤紙を受け取ったときも、名誉なことだと言って笑ってさえいたセイが、今は手放しで泣いていた。

「………灯りを、消しましょう。誰が、居なくても、」

沖田は一度そこで言葉を切り、天井から下がっている紐を引いた。

「……、居ても。わからないように。」

それでも、闇に満ちた息遣いは求める人のものではありえなくて、セイは涙を止められなかった。沖田はそれには触れなかった。ただ動き続けて、やがて何もわからなくなった。




2004年6月(加筆2008年2月)