※一十木くんと春歌ちゃんが卒業後にいちゃいちゃしてる話
※アニメ未見、Repeatの一十木くんコンプ聖川さまコンプ四ノ宮くん恋愛エンド来栖くん恋愛エンドプレイ済み




 春歌が、鼻歌を歌っている。

 音也はソファの上で、クッションを抱えてごろりと転がる。ふんふんふーんとでたらめなメロディは、しかし聴いているだけで幸せな気分になる温度を孕んでいる。
 春歌が幸せそうだと、音也も嬉しい。
 音也も嬉しい。
 ……嬉しい、けれど、音也が全く関わっていないところで、心底幸せそうな春歌を見ると、ちょっとだけ、ほんの少しだけ、寂しい。

 春歌の幸せをいつも心から願っていることは確かなのに、恋って不思議だ。
 音也は心の中で首をかしげて、ぽて、とクッションに顔を埋める。ご機嫌の彼女の鼻歌はサビらしき部分に差し掛かり、ふわふわとしゃぼん玉でも見えそうな、可愛らしい盛り上がりを迎えている。窓の外、風に乗って舞い上がっている桜の花びらも、春歌の鼻歌を彩っているようだ。

「その曲、いいね」

 俺のこと見てくれなくて寂しい、と、彼女の幸せは俺の幸せ、二つの気持ちが心の中でせめぎあって、結局、音也はそんな風にして春歌の気を惹いた。のに、いつになく大きいバッグの中身をのぞきこんで、持ち物を点検していた可愛い恋人は、ぱっと顔を上げてにっこり笑って、

「本当?トモちゃんの次の曲にしようかな。すぐにってわけじゃないけど、また私が作曲で、ってお話をもらってるんです」

 と弾む調子で言ったから、あえなく撃沈する。
 トモちゃんといえばもちろん、渋谷友千香だ。春歌が鼻歌を歌うほど上機嫌で、今から会いに行く相手だ。

 学園の卒業オーディションを経て、友千香もシャイニング事務所からのプロデビューを勝ち取った。在学中にパートナーに鍛えられた抜きん出た歌唱力、華やかなルックス、媚びない物言い、人気は少しずつ、しかし着実に上がってきている。
 春歌が何度も「同室がトモちゃんだったから、退学しろって言われた時も頑張れたのです」と言うのを音也も聞いたけれど、もともとの姉御肌のためか、異性のファンがメインになるアイドル歌手には珍しく、友千香のファンの男女比率はほぼ一対一、事務所からも期待されている新人の一人だ。

 最初はキャラクター作りもあり、デビューから二曲、クールなダンスナンバーが続き、三曲目はそろそろひとつ、作曲家も変えて、しっとりしたバラードを、という話が持ち上がった。前二曲で出来上がった渋谷友千香のイメージを、良い意味で壊して、自慢の歌唱力をじっくり聞かせ、新鮮さを。それから、新規ファンの獲得。友千香本人サイドと、シャイニング事務所サイドと、ほぼ同時の形で、作曲家には七海春歌を、と声が上がり、即決した。

 渋谷友千香の三枚目のシングルは、重厚なオケに深みのある声が乗ったスケールの大きいラブバラードが完成し、狙い通り新規ファン層を開拓した。
 発売と同時に、いや少し遅れて、カップリング曲も良い、と口コミで評判がじわじわと広がり始めた。意図していないことだったが、もちろん喜んでよいことである。渋谷友千香の楽曲としては少し異色の、可愛らしい女の子同士の友情ソング、女の子たちへの応援歌だ。本当のところは、春歌と友千香がお互いへ贈ったラブレターのようなものだ。
 歌番組ではもちろんバラードの方を歌うのだけれど、カップリング曲も話題になってるそうで、と司会が振った話に、友千香は、作曲家が学生の時からの友人で、実体験も入ってますから、そこに共感して頂けたのなら嬉しいです、と答えたのだ。

 そこで、今日である。
 女同士の友情と、これからの女の生き方について、読者と同年代のフレッシュなお二人で対談を、という話が、ティーン向け女性ファッション誌から来たのだ。トモちゃんにまた新しいファンが増えるかもしれませんし、雑誌なら私でも何とかなりそうです!(雑誌の対談ならどんなドジをしたとしてもいくらでも修正がきく)と、春歌はやたら張り切っている。

 音也の方を見てくれないくらいに。

 クッションで顔を隠して、ぶう、と頬を膨らませる。友人として、友千香が売れるのは嬉しいし、めでたいことだ。それが春歌の作った曲なら、なおさら。
 だけど。
 だけど、と続いてしまう。

 音也だって、忙しい日々の間のやっとの休日で、今日は一日春歌とイチャイチャ、と思っていたのだ。
 勝手な話である。

 別に、春歌はずっと部屋に篭っていれば良いとか、閉じ込めておきたいとか、思っているわけじゃない。作曲家として顔が出るのは良いことだと思う。歌はアイドルだけのものではなくて、華やかな表舞台からは見えないところでたくさんの人間が作り上げたものだと、ファンの人たちに知ってもらうのも、素晴らしいことだ。

 建前は。

 本当は、音也が部屋にいるなら春歌も部屋にいてほしいし、若い女性の作曲家だと取り上げられてメディアに露出するのもおかしなファンがつくんじゃないかと気が気じゃないし、そもそも、音也以外の歌手に曲を書くこと自体、嫉妬で苦しくてしょうがない。

 音也だってこれでもかと言うほど実体験を歌っているのに!ポップなラブソング、疾走感のある切なさとか、涙が出た後で心が温かくなるようなバラードだって、みんなみんな、春歌への思いを込めたものなのに!友千香はみんなの前で幸せそうに宣言できて、音也は必死に隠さなきゃいけないなんて!不公平だ!ずるい!!

 ……つまり音也は、拗ねているのだ。

 今日だって、音也がこうして顔を埋めるのは、自分の部屋の埃っぽいクッションなんかではなくて、春歌の部屋の、ベッドの、髪の香りが染み込んだ枕、いや直接、春歌の柔らかな、

「音也くん?」

 優しく投げかけられた声がとても近くて、もやもやと物思いに沈んでいた音也は驚いて顔を上げた。

「ぅんっ!?」

 動揺でおかしな返事になる。いつの間にかすぐ目の前にいた春歌はあっという間に物憂げな表情になった。

「ごめんなさい、眠ってました?久しぶりのお休みだもん、疲れてますよね」

 わずかに寄せられた眉根は、綺麗に整えられて、ブラウンで丁寧に描かれている。すっとひかれたアイライン、まぶたは控えめながら蝶の翅のようにパールがきらめいて、カールしたまつげが黒々と上を向いている。つやつやぷるぷるの、キスしたくなる唇。覗き込まれ、髪が揺れた拍子に甘く香って、音也は初めて、春歌がフレグランスを使っていると知った。ふわりとふくらんだ春色のワンピースは、タグを切ったばかりのおろしたて。

 万事控えめな春歌が、呼んでくださった雑誌の編集の方と、トモちゃんへの礼儀ですから、と彼女なりに最大限に装った結果は、それはもう、当然に、逢瀬の相手が友千香だとわかっていなければ、そんな格好で俺以外の誰の気を惹きたいの、とおとなげなく酷いことをしてしまいそうな可愛らしさだ。

「今日は一日詰まってるから、出かける前にどうしても音也くんの顔が見たくて、トモちゃんとのお仕事が認められたのも嬉しくて、お話したくて……わがまま言って押しかけて、ごめんなさい」

 しゅんとうつむいて、今にも部屋を出て行ってしまいそうな春歌を、手を取ることで慌てて引き止めた。

「ち、違う!春歌が来なかったら、俺が行こうと思ってたくらいで、俺、その、えーと、あー、…………、しょ、正直に言うけど!今日の春歌がすっげー可愛いから!可愛いから、今日春歌が会いに行く相手が、その、俺だったら、良かったのに、なんて、……なんて、」

 春歌の、折れそうに細い手首をぎゅっと掴んで、けれど真新しい服にシワをつけるのも忍びなくて、それ以上抱きしめることもできずに、音也は赤くなった顔で、たはは、と情けなく笑った。

 とてもかっこわるい音也の本音を聞いて、それなのに春歌は、はにかんで、頬を染めながら嬉しそうにくすぐったそうに笑った。握りしめた手首の温度が、すこしだけ上がった気がした。

「……今日の私は、音也くんに、可愛く見えていますか?」

 桜色のほっぺたで、さらりと髪を揺らしながら、ちょこん、と首をかしげるしぐさをするなんて、反則以外の何者でもない。

「春歌は、いつだって、寝起きで寝癖がついてたって、徹夜でクマがあったって、大きな口でメロンパン食べてたって、可愛いけど!今日は、マジで、めちゃくちゃ可愛い!!」

 春歌は、顔以外に、ワンピースからのぞいている首や鎖骨や可愛い膝までかあっと真っ赤に染めながら、もう昔のように、可愛くなんかないです、と音也を否定したりしないのだ。

「う、嬉しい、です。このワンピース、もしも音也くんとデートするとしたらこれ着たいって思って、欲しくなって、でもそんなことできないから、ずっとしまってあったの、今日おろした、から、」
「…………〜〜っ、ああああああああ!!そんなこと言われたら、俺、せっかく春歌がそんなに綺麗にしてるのに、もうぐしゃぐしゃに、ぎゅーって抱きしめたくなるっ」

 たまらなくなって音也は、しかたなく自分の頭をぐしゃぐしゃにかきむしった。
 髪が痛んでしまいます、と春歌は音也の両手をとって、それから照れて笑って、両方の手の甲に、ちゅっちゅっと唇で触れてくれて、夜にメールしますね、と大きなバッグを持って背を向けた。

「っ、いってらっしゃい!」

 ぱたんと閉まった扉を見て、未練がましく、両の手の甲、春歌の唇の感触をなぞるように自分の唇をつける。少しだけグロスがついていて、甘い香りがした。

「……つまんない、」

 身体の熱を上げたって、春歌はここにはいてくれない。もう見る人もいないので、音也は隠すこともなく、ぶう、と頬を膨らませて、ソファにぐずぐずと崩れた。崩れてすぐに、ぱっと起き上がってベランダに駆け寄った。からからと窓を開けて、手すりから身を乗り出すように、エントランスを見る。

「はぁるかーぁ!」

 目論見どおり、ちょうど外に出たところだった春歌をみつけて、後先考えずに大声で名を呼ぶと、ぶんぶんと手を振った。驚いて少し飛び上がった春歌は(「ぴゃっ」という声が聞こえてきそうな、小動物的な愛らしい動きだった)ぱっと音也を見上げて、少し困ったように眉を寄せて笑いながら、周囲を気にしてか小さく手を振った。肩にかけた大きなバッグを抱えなおして、もう一度ちゃんと笑ってくれて、桜の舞う道を小さくなる背中を見えなくなるまで見送る。

「……何持ってってんだろ?」

 ふと、その小さな身体に見合わない、大きなバッグが気になった。春歌は普段、あまり荷物を持たない。今日持っていたのは、いつも使っているのとは別のものだ。対談で何か必要なものでもあるのかな、と流してしまおうとして、あれ、と首をかしげた。最近、春歌が同じように大きな荷物を抱えているところを、何度か見たような?
 華奢な背中が角を曲がって完全に見えなくなったのにため息をついて、ベランダから室内へ戻った音也は、顎に手を当てて考えてみる。基本的に、この寮か学校のレコーディングルームに篭って仕事をしている春歌だけれど、以前よりは仕事で外出することも多いのだ。

 多忙、と言えばやはり音也の方で、最近はこの部屋も寝に帰っているだけの状態だけれど、仕事のバリエーションの多さと言えば、春歌には到底かなわない。
 当然のことながら、音也の歌う曲作り(音也は今のところ、春歌の曲以外は歌わない、と宣言している)、歌以外にも、販促イベントのBGMや、出演CMなどがあれば、CDに使った音源をただ切り貼りするのではなくて、オケは別アレンジで作っている。出演ドラマの音楽を担当してくれたこともある。
 音也が関わっていない仕事も多くて、早乙女学園のオープンキャンパスのTVCM曲だとか、活躍中の卒業生に話を聞く特別授業に呼ばれたり、それから音也の歌を聴いた他の歌手からの指名、

「あ、」

 どこで見たのか思い出した。音也はぽんと手を打った。
 春歌は、友千香に曲を書く前に、レンにも曲を提供していて、その打ち合わせのたびに神宮寺は「レディと密会」と音也に写メを送って来た、そこに写っていたのだ(音也をからかっているようで、実のところ、密室に二人きりでも心配するようなことは何もないよというメッセージだ。こういうマメなところが女にもてるんだろう、と思うのである)。
 レンから連想ゲーム的に記憶がつながる。聖川様にピアノの調律のことで訊きたいことがあって、と真斗に会いに行く時にも持っていた。
 逆にトキヤから、作曲家と意見が食い違ってもめているのですが、あなたの意見を聞かせてもらえませんか、と呼び出された時にも、慌しく出てゆく春歌の肩にはあのバッグが掛けられていた。

 どうも、学園の同窓生と会う時には、大きなバッグで出かけているようである。

「…………?」

 春歌は今でも学園に出入りすることが多いから、卒業生へのおつかいでも何か頼まれているのだろうか。
 彼女がここにいない限り答え合わせのできない問いを、音也はすぐに投げ出して、再びソファに転がった。大きなカバンでも小さなカバンでもどうだっていい、丸一日オフというこの日を、春歌と一緒には過ごせないのだ。また、ぎゅうとクッションを抱きしめる。
 音也にそんなつもりはなくても、疲れた身体は休息を欲していて、やりたいことも考えたいこともなければ、あっという間に眠りに落ちてゆく。せめて春歌の夢を見たい、来週にある音也の誕生日には、また今日のように、一時間に満たなくても顔を見て話をすることくらいできるだろうか。ぼんやりと考えながら、いつの間にか目を閉じていた。


 春歌分が足りない。
 22時ならまだ宵の口、ばたばたと慌しく人の行き交うテレビ局の廊下を、生気の抜けきった音也がふらふらと歩いている。

 春歌分は音也が生きていくために欠かせない、必須の栄養素である。
 欠乏による主な症状としては、ぼーっとする、ちょっとしたことで落ち込む、ご飯がおいしくない、眠っても疲れがとれない、などで、特に控え室や楽屋といった人目のないところで、顕著に発症する。
 応急的な対処としては、春歌が音也のために作ってくれた曲を聴く、携帯の春歌写真フォルダに火を噴かせる、保存してある留守電を聞く、などがあるが、いずれも効果は一時的で、早急に根源的な治療が必要である。

 音也は死んだ魚の目をして、挨拶をしてまわり、着替え、荷物をまとめて、用意されたタクシーに乗り込んだ。後部座席でずるずると沈み込む。視界の端を赤や黄色の明りが高速で移動するのがくらくらして、目を閉じる。耳の奥、頭の中では、たくさんの音が残響のようにわんわんと響き、回っている。

 一十木くん、オトヤ、一十木さん、音也くん、
 誕生日おめでとう!

 マネージャーが、スタイリストさんが、共演者が、番組のスタッフが、雑誌記者が、入り待ち出待ちのファンの女の子達が、贈ってくれた言葉が、疲れた身体にも染み渡っている。施設の仲間は忙しいんだろうと前もって、手紙と小包を送ってきてくれたし、携帯電話には、早乙女学園の同級生、仕事を始めてからできた友人たちから、日付が変わった瞬間に大量のメールを着信した。事務所からも、手紙や贈り物を大量に預かっているから取りに来いと言われているし、お礼に返送してもらうカードに使う、写真もサインも選んである。

 小さな子供の時、大事な人は皆この世からいなくなって、音也が4月11日にこの世に生を受けたことを、知っていて、それを祝ってくれる人は、とても少なかった。だから、自己紹介の機会があれば、誕生日を必ず口にした。
 音也がここに生きていて、悲しくて、嬉しくて、辛くて、楽しくて、淋しくて、幸せで、歌ったことを、この世界の誰か、一人でも、覚えていてもらえるように。

 それが今では、たくさんの人が音也の歌を聴いていて、音也が生まれた日を、おめでとう、嬉しいです、と祝ってくれる。

 幸せなことだ。
 とてもとても、幸せなことだ。

 それなのに、音也の罪深い心は、でも、だって、だけど、と繰り返している。
 先週、友千香との対談に出かける前に部屋に来てもらってから、一度も春歌の顔を見られずにいる。何度も迷って、昨夜、深夜のスタジオから、明日仕事の後会いたい、とメールを送った。零時になった瞬間、返ってきたメールには、お誕生日おめでとうございます、何時でも待っていますからぴんぽんしてくださいね、とあった。

 静かに停車したタクシーのドアが開いて、ぺそ、と路上に吐き出された音也は、荷物を引きずって、目の前の寮に向かってのそのそと歩いた。三歩目から歩幅が大きくなり、のそのそはすたすたになって、オートロックを開けながらぺしぺしと足踏みした。びいーんと両側へ開く強化ガラスのドアの隙間へもどかしげに身体をねじ込んで、ぱたぱたとエレベーターに駆け寄る。全基が最上階付近に止まっているのを見れば待っていられなくて、階段室のドアを開けてひんやりしたコンクリートに足を掛ける頃にはもう、五段飛ばしの全力ダッシュになっている。
 余力を残すような仕事をしたつもりはないのに。

 夜中だということも忘れて、同期生達と音也が住む階で、がごーん、と騒音を立てて階段室のドアを蹴り開けて、わき目もふらずにただ自室の隣、春歌の部屋のドアを目指した。チャイムにぐっと指を押し付ける。連打するより前に、すぐに扉が開く。

「音也くん?おかえりなさ、」

 待ち望んでいた声が聞こえて、音也は物も言わずに飛びついた。悲鳴を上げようとした春歌は、今の時間と、扉が開いたままだということを考えたのか、自分の両手でぐっと口を押さえて、だから音也を支えきれずに受身も取らずに玄関先へ押し倒された。もう春歌がつぶれるとか危ないとかそんなことは何も考えられずに音也は、床に広がった髪から、耳、首筋、肩、鎖骨、と順番に頬を擦り付けていって、柔らかな胸にたどりつくとそこでぐいぐいと顔を押し当てた。すー、はー、すー、はー、と何度も深呼吸をした。洗濯された清潔な部屋着と、その繊維を通り抜けて肌から香る入浴剤、それから少しの汗、そんな春歌の匂いを鼻腔から肺一杯に満たして、ふはー、と満ち足りたため息をついた。

 とりあえず満足して顔を上げると、くしゃくしゃになって転がった春歌が、困った顔で笑って音也を見上げていたから、また抱きしめたくなって音也も困って笑う。

「ごめん、春歌」

 ゆっくり起き上がって、まず玄関を閉めた。がちゃん、と鍵をかける。確認してから振り返って、小さな子供にするように、ぺたんと座り込んでいる春歌の両脇に手を差し込んで、よいしょ、と立たせた。

「どうして謝るの?」
「痛かったろ、床とか、それに俺、埃っぽいし汗臭いし、汚いの忘れてた」

 春歌は、頭や、背中や、お尻や、脚も、ずいぶんぶつけたに違いないのに、ふんわりと笑って首を横に振って、どこも痛いところなんてないですよ、と言った。お仕事を頑張った、格好良いお姿です、とも。

「あっ、いま何時でしょう!?」

 それから急にきょろきょろして、何も着けていない自分の手首を見て腕時計のないことに気づいて、慌てて音也の顔をじっと見て、尋ねた。

「……11じ、57ふん。」

 本当はもう、4月12日になって2分ほど過ぎていたけれど、手首のデジタル表示を見ながらそう言うと、春歌は多分わかっていながら、花がほころぶように笑ってくれた。

「お誕生日おめでとうございます、音也くん。音也くんが生まれてきてくれて、歌を歌ってくれて、私はとても幸せです。ありがとう、」

 肩に小さな手が乗って、春歌が背伸びをする。音也は腰をまげて頭を下げた。どちらからともなく目を閉じて、何もつけていない柔らかでさらさらした春歌の唇が、小鳥が啄ばむように、唇から少しずれて、唇と鼻の中間辺りに触れた。失敗だった。

「もう、私ってどうしてこうなんでしょう、」

 息が掛かる距離で、囁くような声で、そんな色っぽいシチュエーションで春歌は、眉を寄せて情けなさそうに言った。ははっ、と音也も小さく吐息だけで笑った。

「俺を見てキスしてよ、」

 背伸びした仔鹿のような脚がふるふると震えていて、音也の腕でぐっと腰を支える。見つめ合ったまま、少し赤い顔で、確かめるようにそっと、ようやく唇が触れ合った。ちゅっ、と可愛らしく鳴った。

 その途端、一日中音也に贈られた、たくさんの人たちからのたくさんのおめでとうが、本当に、実感を持って、心の中に美しく降り注いだ。

「音也くん、おめでとう」

 三段重ねのケーキのように積み重なった、音也の誕生を祝う言葉、そのてっぺんに飾る苺みたいに、春歌がもう一度言ってくれた「おめでとう」が一番上にちょこんと乗った。じわりと眼球が熱くなって、恥ずかしくてぎゅっと目を閉じて、それからまばたきした。

「ありがとう、春歌、ありがとう、俺、すげー嬉しい、三時間くらい歌わなきゃうまく伝えられないって思うくらい、嬉しい!」

 声が震えていたのはばれてしまっただろう。春歌はもう一度、不器用なキスをくれた。


 沸かしておいたからどうぞ入ってください、という言葉に甘えて風呂を使わせてもらい、出してあったふわふわのバスタオル(春歌の匂いがする!)で頭を拭きながら上がって、差し出された水をごくごくと飲んでいると、春歌が寝室の方から大きなバッグを抱えてきた。
 例のバッグだ。

「ささやかですが、豪華なプレゼントです」
「それって、どっち?」

 すっかり幸せな気持ちになっていた音也は、吹き出して、くくくく、と笑った。春歌はただ黙ったままにこにこして首を傾げて、大きなバッグから、音楽関係者が良く使う、大きなICレコーダーを出してリビングのスピーカーに繋げた。音声の再生が始まって、少しだけ部屋の照明を落とした春歌が、音也が座っているラグの上に戻ってくる。捕まえて、あぐらをかいた膝の上に乗せた。

 それは確かに、ささやかで豪華なプレゼントだった。

 静かに始まったのは、オルゴール風のHAPPY BIRTHDAY TO YOUだ。他の人間ならわからないくらいのわずかなクセがあって、それで音也にはこれが、春歌がキーボードで演奏したものだとわかる。その証拠に、膝の上の春歌は、ほんの少し、緊張しているように思える。本当のオルゴールのぜんまいが少しずつ止まるように、だんだんと音がまばらになってゆっくりとワンコーラスが終わった。

「うわっ」

 音也は思わず、小さく声を上げた。賑やかなクラッカーの音が響いた。

『音也くん、お誕生日おめでとう!』
 春歌の声。
『誕生日おめでとう』
 落ち着いた声は真斗
『おめでとー!』
 賑やかな那月と翔の二重唱
『音也っ、おめでとさん!』
 はじけるような笑い声の友千香
『HAPPY BIRTHDAY!』
 レンは少し気取っていて
『おめでとう』
 トキヤの短い声は決して冷たくない。

 そこからヴィオラの甘い音色が、HAPPY BIRTHDAY TO YOUをもう一度繰り返して、次にヴァイオリンが加わって、ポップな二重奏になった。
 きらきらしたピアノがかぶさって、華麗なる大円舞曲風のアレンジで鳴って、途中から連弾に変わり、HAPPY BIRTHDAY TO YOUの裏で可愛らしい仔犬のワルツ。
 一転、「仔犬」に対抗するように、艶のあるサックスでEv'rybody Wants to Be a Catが鳴り響き、またHAPPY BIRTHDAY TO YOUに戻ってくる。
 今度は打ち込みのオケに、男女のボーカルが掛け合うように乗る。トキヤと友千香。とてもクールな音作りがしてあるけれど、やはりベースはHAPPY BIRTHDAY TO YOU。歌いきって、一度無音になった。

『ハッピーバースディ トゥユー
 ハッピーバースディ トゥユー
 ハッピーバースディ ディア音也
 ハッピーバースディ トゥユー!』

 七人のアカペラの合唱の後、いえーい、とか、おめっとー、とか、拍手と歓声と口笛が最後に思いっきり響き渡って、スピーカーが沈黙する。

「……私と、皆さんから、です。去年は学園の寮からこちらへの引越しや、お仕事の挨拶回りで音也くんのお誕生日を祝えませんでしたから、今年は皆で集まりたいと言っていたのですけど、全員で集まるのはやっぱりどうしても無理で……、後でCDをお渡ししますね」
「うん、……っ、うん、……!」

 確かにささやかだった。言葉で表すなら、同級生が七人でHAPPY BIRTHDAY TO YOUを歌ってくれた、というだけのことだ。でも、この世に二つとない、この上もなく豪華なプレゼントだ。きっとこれから、この音楽が音也を励ましてくれる。

 頬が熱くなって、ずずっと鼻をすすって、音也は髪を拭いていたタオルで顔を隠した。前も見えないまま、膝の上の春歌をぎゅっと抱きしめた。
 いつから準備していたのだろうか、五分でも時間があるのならそのぶん寝ていたい、そんなスケジュールの人間ばかり七人、春歌が楽譜を書いて、配って、仕事をしながら練習して、録音して回って、編集してくれたのだ。

「おれ、……俺っ、生まれてきて、よかった、っ」

 ぎゅうぎゅうと潰すほど抱きしめた腕の中の春歌は、そっと手を伸ばして音也の背をなでてくれた。タオルを被って見えないまま見当をつけて、小さな頭にこめかみをすり寄せる。すると遠慮がちにタオルに手が掛かって、そっとかき分けて、春歌が覗き込んできた。
 涙と鼻水で相当情けない顔をしているはずだけれど、春歌は気にした様子もなくにっこり笑って、顔中にキスをしてくれた。

「ねえ春歌、俺、今日、ここ泊まってもいい?」
「もちろんです、明日は朝早いんでしたよね、朝ごはんができたら起こしますから」
「うん。ありがと春歌」

 泣いてしまったし、もう眠らないと、顔が商売道具の身の上では翌日にさしつかえる。手を繋いで、柔らかな身体によりそって、春歌の匂いを呼吸しながら、ただ優しく眠るだけだ。

 仕事が多く多忙なことを、感謝しこそすれ、忌々しいと思ったことなんて一度もなかった音也だけれど、一つ歳をとって初めて、明日の朝一番の仕事がなければ良かったのに、なんて、少しだけ思った。





初出:12/04/11
別名義で公開している小説を転載しました
一十木くんの誕生日祝いでした
(12/12/04)