邪見さまと阿吽はお留守だった。
あたしが初めて殺生丸さまに抱き上げられたとき、殺生丸さまはそのまま空を駆けた。あたしの背中には切りつけるような風がぶつかって、押し付けられた白い毛の向こうに新緑のきれいな森がどんどん流れていった。すぐ後ろ、あたしの目の前にはげじげじを大きくしたような姿の妖怪が迫っていて、その姿に気味が悪いとは思ったけれど自分の身が危険ということには恐ろしいなんてちっとも思わなかったんだ。
ただ、片手しかない殺生丸さまのその腕があたしを支えてたから、あたしは肩のところの白くてふかふかした毛に足まで使ってしっかりしがみついた。
森が途切れて広い原っぱに出て、こんもりと盛り上がった黄緑のかたまりがあっという間に遠ざかっていく。あれがついさっきまで歩いてたあの森だったなんて嘘みたいだ。
そこで突然殺生丸さまは振り返る。視界が急に回転してちょっとだけくらくらしたけれど、一度死んで生き返ってからこっち、飛んだり落ちたりが日常茶飯事になってしまっていてこのくらいじゃなんともない。さっきまであたしに見えていた景色の反対側には大きな川が流れていた。丸い石ころが転がる河原が広がっていて、今日はいい天気だから水がお日様を反射してきらきらきれいだった。
殺生丸さまはあたしを抱えていた手を離して、腰にさしていた鞘がないほうの剣を抜いた。離すぞとか、つかまっていろとか、そういうのは一言もなくて手を離されたのがなぜだかすごく嬉しい気がした。もちろん足まで使って殺生丸さまにしがみついていたあたしが手を離されて落ちるわけもない。
当然だと思うけど、殺生丸さまはすぐにそのげじげじ妖怪をやっつけた。あたしは肩から降ろされると「水を浴びて着物を洗え」と言われた。あたし自身には見えなかったけど、背中にげじげじ妖怪の血が飛んでいたんだ。妖怪の血は人間には毒だし、単純にそんなもので汚れているなんて気持ち悪かったから、否やもなく浅くて流れの緩いところへ飛び込んだ。裸になって着物を水の中でゆすって洗う。前に神楽を助けようとして流されてしまった前科があるせいか、殺生丸さまは大きな岩に腰掛けてずっとこちらを見ていた。
「きれいになったかなぁ?」
あたしは鼻のいい殺生丸さまに向かって着物を広げて訊く。何も言わないってことはきれいになってるってこと。帯と着物を岩の上に広げておく。葦の茂みに近寄って、根元の泥に手を突っ込んだら大きな鮒が捕まった。そうやって同じように魚を3匹捕まえて、泥だらけになった体を洗っていたら、殺生丸さまの肩の向こうの空から阿吽に乗った邪見さまが飛んでくるのが見えて、嬉しくて大きく両手を振った。
□
今夜も邪見さまと阿吽はいない。
あたしの背中には柔らかな草の褥があって、目の前の殺生丸さまの肩の向こうには澄んだ星空が広がっていた。今夜はもうずいぶん長いことその状態であったはずなんだけれど、あたしがそのことにはっきりと気づいたのはついさっきだった。ちょっと前までそんなことを考えている余裕はなかったから。
肩越しの星空を見ながら昔を思い出していたあたしの目はちょっと虚ろだったかもしれない。殺生丸さまのきれいな指があごから頬にかけてをそっと撫で上げて「…大丈夫か」と低い声が訊いた。あの時とは違って気遣う声をかけられたことが嬉しい。
「うん」
あたしは答えて殺生丸さまの首に腕を回し、接吻をねだる。柔らかく唇をふさがれながら、もう今ではあたしが肩にしがみついていたら邪魔になってとても剣を抜くことなんかできないだろうと思い、その様を想像すると可笑しくって仕方なかった。
「なにを笑っている…」
鼻先の触れ合う距離で訝しげな顔。唇をつけたままそう言われたらその感触にぞくぞくとして、さっきまでの熱がよみがえりそうになってしまったからあたしはそっと離れて体を起こした。すぐそばに落ちていた自分の着物を羽織って殺生丸さまにもたれて座る。
「もっとあたしが小さかったころ、何度か殺生丸さまに抱えられたことがあったでしょう。あのとき殺生丸さまの肩越しに景色を見て、今も肩越しに空を見ることがあるけど、ずいぶん違うなぁと思ったの」
そう言って自分でくすくす笑っていたら
「ひゃあっ!?」
いきなり殺生丸さまが立ち上がって、それはあたしを抱えあげてそうしたものだから、吃驚した。
「もうっ!」
口では抗議をしてみるものの、やっぱり可笑しくって笑い出してしまう。首にしっかりしがみついて乱れた銀髪に頬を寄せると尖った耳にちょうどあたしの口がぶつかるからそっと喋った。
「あたし、大きくなったでしょう」
「こういうことが出来る程度には」
「………うー」
昔を思い出しておっとうに自慢するような気持ちであたしは言ったのに、殺生丸さまはそんなことを言うから耳に噛みついてやったらくっくっと低く笑っている。腹が立つ。
「…水浴びしたい!」
あたしが怒って要求すると、殺生丸さまは別段焦った様子もなく視線を下にやって「そうだな」と言いながら空をすべるように動き出した。あたしは一瞬遅れて同じように下を見て、殺生丸さまが確認したのがあたしのおなかところに絡みつくように広がっている殺生丸さま自身の精だということに気づいて赤くなったけど、久しぶりに見る肩越しに後ろ向きに飛んでいく景色がおもしろくて怒るのはやめた。
思い出していたあのときと同じに水を浴びに行くのだけど、あのときと同じに殺生丸さまはまたあたしをじっと見るのかしらと思った。
殺生丸さまの肩の向こう、乱れて広がる銀の髪の先に、十三夜の月が出ている。
04/04/29
「文字書きさんに100のお題」86:肩越し
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