花が咲いたよ、殺生丸さま。

きれい。きれいね。



 ―ぽたり



ほら、両手いっぱい。

抱えきれないの。



 ――ぽたり



この花は、あたしと殺生丸さまが一緒にいないと咲かないの。

なんてきれい。きれいね?




 ―――ぽたり。






   [ 赤い花 ]






人里離れた深山の木陰にりんは独りぼっちで座っている。
桂の大木に背をもたせかけ、細い両足を少々行儀悪く投げ出し。

留守番なら、いつものこと。
確かに、邪見どころか阿吽まで不在なのはあまりないことではあったけれど、それでも今までには何度もあった。


「…あっつい、なぁ………」


十分に繁った葉は容赦なく照りつける陽射しを遮ってはくれるけれど、気温が高いことには変わりがない。
なんとなく見上げた頭上から梢をすり抜けた光の破片がこぼれ落ち、りんの目を容赦なく刺した。


「…あーあ。しおれちゃった。」


朝方に手折った花は、この暑さのなか小さな手にもてあそばれて、朝露を受けた凛とした姿は見る影もないほどくったりと萎れている。

りんはその姿に自分を重ね見た。

汗が額をつたい落ちる。聴覚が遠い。
きっと今自分は酷く顔色が悪いに違いないと思い、そしてそれは確かに間違っていなかった。


「………っ…」


急に、薄の綿毛を思い切り吸い込んでしまったような心地がする。
咳き込みそうになって慌てて口をしっかりと噤み、胸を押さえて嵐が過ぎ去るのを待った。咳はかなり体力を消耗させるのだ。

咳なんかしたって、無駄なのに。身体に染み込んでしまったものは、出て行きやしないのに。

発作を堪えて、鼻だけで荒い呼吸を繰り返しながら、そんなことを考える。…もちろんそれでいがらっぽい綿毛の感触が消えることはなかったが。

苦痛の中で、美しい白銀の面影が脳裏をよぎった。

いま、何をしているんだろう。どこにいるんだろう。
今日、一人きりで残されたのは運が良かったと、りんは口角を上げるだけで笑む。

ようやく嵐が過ぎ去って、ゆっくりと口から長い息を吐いた。


「…おみず……」


だらりと力なく投げ出した膝を立てることさえ億劫だったが、ささくれだった喉を潤したいという欲求は強く、りんは四つん這いになる。
身を預けた桂の木から、歩けば7歩。目の前にある澄んだ沼は、途方も無く遠く見えた。



…りんが自分の身体の異常に気づいたのは、いつからだったろう。

疲れやすくなった。頻繁に眩暈を起こすようになった。
そのうちに、酷い咳の発作に襲われるようになった。鼻血が止まらなくなったこともある。

毒に冒された身体。

妖怪と人間は、もともと共に歩むことなどあり得ない存在である。殺生丸の強すぎる妖気が、行動を共にするうち、人間であるりんの脆弱な身体を蝕んでいたのだ。

尋常ではない咳を押し殺し、青ざめた唇を言い繕い。
身に降りかかった変調を、りんはただひたすら隠した。


殺生丸さまに気づかれちゃいけない。知られちゃだめだ。だって…



着物を汚し、ずるり、ずるりと身体を引き摺るようにしてようやく沼にたどり着く。
手の甲で汗を拭い、指先を水に浸すと冷たさがこの上なく心地よかった。

どこからか相当な量の水が湧き出ているらしく、澱んだ様子は全くない。水車前ミズオオバコや未草ヒツジグサが揺れるのを見ているだけでも涼しげだ。
りんは水辺特有の清浄な空気をゆっくりと肺に取り込んだ。
山奥の沼の周りに勿論人の気配はない。酷く穏やかな気持ちになって自然と微笑む。


大丈夫、大丈夫だ。今度こそ一人で。


両手を器にして水を掬い、それを口元に運ぶために身を屈める。

「…っは、げほっ……ぐぅ…っ」

途端、身体を曲げる動作が良くなかったのか再び咳の発作に襲われた。今度は堪えることもできず、水辺の湿地に倒れこむように激しく咳き込んだ。
弱った身体に咳の一つ一つが響いて辛かったが、どうすることもできない。

激しい嵐にもみくちゃにされながら、しかしどこか冷静に泥の中についた手と膝に零してしまった水の冷たさを心地よく感じる自分がいてりんは可笑しくなった。


あたしは最期の苦痛に慣れてしまった。


そう思うと何故だか大声で笑いたい気分で、りんは転がったままで咳とも笑いともつかない苦しげな声をあげ続けた。

「…はっ…がっ……うぅ」

悪寒と共に身体の奥から熱い物がせり上がってくる。


「…っ…かはっ!!」


それに逆らわず身を委ねれば、大量の鮮血が口から溢れ出してりんを染めた。
両手。袖。身頃。帯。吐血したことで発作は落ち着き、肩で息をしながらじっとそれを見つめる。その間にも唾液と混じった血液が、ぽたり、ぽたりと白いあごから伝い落ちた。


「赤い花………」


りんは身体中に咲いた花をしばらく黙って見ていた。
ふと、気配を感じて絶望と共に振り返った。


「…せっしょうまる、さま。どうして、」


先ほどまでりんが座っていた桂の木の下にたたずむ白い焔。


「馬鹿が。私が気づいていないとでも思っていたのか。」


そしてゆっくりと、こちらへ足を踏み出す。それを見たりんの目から涙が溢れ出し、まだ乾かない血に汚れた頬を一筋洗い流した。


「お願い、殺生丸さま。…来ないで、こっちに来ないで」


常に無くゆっくりとした足取りは、それでも止まる事はない。


「ねぇ、もういいでしょう?…十分でしょう!?」


優美な姿が目の前で膝をつき、りんを覗き込んだ。


「………りんは何回死ねばいいの…?」


大きな手が伸びてきて、止まらない涙を拭う。


「…さあな。」


少女は声をあげて泣いた。目の前の白銀の妖に縋ることはしなかった。



最初に「死んで」から何年、何十年、それ以上たったのだろうか。
時の流れを把握することはとうに放棄していた。

この美しい妖怪の毒に冒されて、衰弱して死んで。

最初のうちは命を繋がれることが嬉しかった。命を繋ぐことを望まれる自分が誇らしかった。

衰弱死を繰り返すうちに、疲弊した身体は成長を止める。もしくはそれは、天生牙を何度もその身に受けた副作用のようなものかもしれなかった。
10歳ほどの姿から成長しない自分。何度もくり返す日常。いつまで。どこまで。

澱んだ水は、腐ってゆく。

いつしかりんは死を望むようになった。



殺生丸が、震える薄い肩に手をかける。
びくりと大きく震えたのを無視して、横抱きに抱き取った。


「…お願い、殺生丸さま…もう死なせてぇ……」


少女の懇願はどこか甘さを帯びていると殺生丸には感じられた。
夜毎の睦言に似ていると。

事切れる直前にりんが見たのは、残忍にも見える妖の笑みだった。















そして、殺生丸は天生牙を抜いた。









人少なな山奥の街道を、美しい白銀の妖が歩む。

付き従うのは爬虫類を思わせる小さな妖と双頭の竜。
そしてその一行にはそぐわない、高い笑い声を響かせる楽しげな少女。

その姿は妖には見えず。

白く細い手足。目には狂人の光。着物に咲かせた大輪の赤い花。



…さりとて、人にも見えず。








02/08/16