「芽が出たばかりの時って、緑じゃないのね!きらきら光っててすごーく綺麗っ!」


春を迎えた森は命を育む光に溢れている。
一行がひと時の憩いを求めた小楢コナラの林に、少女の華やいだ声が似つかわしく響く。

「きらきら、か……そうだね。とっても綺麗だ」

和毛にこげをまとって輝く小楢独特の萌黄を、退治屋の娘より五百年先の時間を生きる少女はそんな風に表現する。その無邪気な喜びはただ微笑ましく、好もしいものとして映る。

「でも、」

だから。

「なぁに?珊瑚ちゃん」
「……ごめん、なんでもない」

 ―でもね、かごめちゃん、本当は、

だからそこで口を噤んでしまったのは、少女のことを、そのことを打ち明けるに値しない相手と見なしたわけではなく。




 [ 春の夢 銀雲遥か ]




「でもね、琥珀、本当は、夜もすごくすごく綺麗なんだ。」


眠い目をこすってむずかる小さな弟を叱咤しながら、自分も息を切らして物見櫓に登る。
目に映る手足は驚くほど幼くて、珊瑚はその時これが夢と知った。


「ほら、ここから見てみな!」

ようやく辿り着いた見張り台に立つと、顔を真っ赤にした弟を振り返る。

気の弱さか優しさか、そんなところのある弟は小さな頃は本当に臆病で、いつもいつも自分の後ろから離れなかった。
その夜も、昼間に珊瑚の話を聴いた時から一緒に行くと言ってきかなかったくせに、実際に連れ出してみれば櫓に登るだけで今にも泣きそうで手がかかって、でもそんなところが本当は可愛いと思っていて。

「うわぁ!」

少し身体をかがめて弟の小さな背を押し出してやると、広がる景色に零れ落ちそうなほど目を見開き、泣き出しそうに洟をすすっていたことも忘れて見入っていた。

「…今泣いたカラスがもう笑った」

ああ、覚えている。
私が笑いながらからかったら、あの子は顔を赤くして

「な、ないてないよ!」
「ばかっ、声が大きい!」

むきになって叫ぶから、慌てて口を押さえたんだ。


退治屋の里は森に囲まれていた。
春が来ると辺りは命の芽吹きで彩られ、特に小楢の、柔らかな銀の産毛に被われた萌黄色の芽は、岩のように荒く猛々しい黒い幹から想像もつかない繊細な美しさで山を輝かせた。

あの日、初めて見るでもあるまいに山が綺麗だとはしゃぐ琥珀に、今の弟くらいの歳だった私は言ったのだ。

「でもね、琥珀、本当は、」

―声をひそめて、宝の地図を渡すみたいに

「本当は、夜もすごくすごく綺麗なんだ。」


空には大きな満月があった。
冬ならば黒い幹を闇に溶け込ませているはずの小楢の林は、芽生えの和毛が月光を照り返し、枝先が銀色に鈍く光る。眼下に雲海のように広がり、風がさざなみを生んだ。

「……あねうえ、ほんとだね。すごくすごく、きれいだね。」

春の宵はまだ冷気を含むから、二人で身を寄せ合った。
時折顔を見合わせ、微笑みながら、いつまでも春の雲海を見ていた。




濡れた睫毛に抵抗を感じながら目蓋を押し上げ、映った夜空に月はなかった。

身を起こすと、眦を伝った涙がこめかみから顎へ落ちる。
朔の日でないことは確かだから今夜は曇っているのだろう。そう思い首をめぐらすと、雲の一部が薄ぼんやりと光っているのが見えた。小楢の森は闇に沈んでいる。

「……ふ……ぅ……っ」

胸に満ちている甘い痛み。
止まることのない涙は母に抱かれて流した涙と同じ味か。

「………珊瑚ちゃん…?」

しばらく涙の流れるに任せていると、遠慮がちな声が夢の余韻に優しく割り込んできた。

「ご、めん…かごめちゃん……起こし、ちゃった…?」

涙で声を詰まらせながら、それでも彼女は自分が穏やかな顔をしていると思った。だから少女も声をかけたのだろうと。

「ううん、それはいいの。……だいじょうぶ?」

そう言って戸惑いがちに周りをうかがう。
その仕草を見て密かに苦笑した。法師も犬夜叉もとっくに、おそらく珊瑚がまだ目を覚まさずに泣き出した辺りで覚醒しているだろう。声をかけようか迷っているうちにかごめに先を越されてしまい、起きるに起きられなくなったというところか。

黙って立ち上がった珊瑚に、ほんの少しの逡巡の後、かごめがついてきた。
落葉が堆積した柔らかな感触を踏みしめる。

「夢がね、幸せだったんだ、すごく」

彼女の様子に何かを感じ取ったのか、かごめはただ黙って話を聞いた。

「…おかしいよね。幸せだったから、泣いてしまった……」

弟と生まれた里で過ごした他愛もない日々の思い出を幸せと感じる。
切なさに立ち止まって顔を覆った珊瑚の肩を、少女がいたわるようにそっと抱いた。

「ごめ…、な…みだ、とまら…な……」
「私、戻ろうか?…一人の方がいい?」

しゃくりあげるようになってしまった背中を、ゆっくりと上下する手が優しい。珊瑚はそっと首を横に振った。

「そこに……いるだけで、いいから。…いっしょに、いて……」

その言葉に、足元の小さな切り株に腰を下ろしたかごめは、何をするでもなく曇った夜空を見ていた。その距離の取り方がありがたかった。



記憶をなくす前、琥珀はあの夜のことを覚えていただろうか。

これから毎年見ようねと無邪気に交わした約束は、雨が降ったり、森の萌芽の頃に望月が巡ってこなかったり、彼女が仕事で里を空けていたりで、結局一度も果たされなかった。

覚えていなくてもいい。
来年は一緒に見よう、琥珀。

その時はきっと屈託なくかごめにも話せるだろうと思った。

「ありがとう、かごめちゃん。そろそろ戻ろう」

いつの間にか嗚咽は止まって、懐の手拭で涙をぬぐう。
微笑んで立ち上がり夜着の裾を払う友人に向かって、珊瑚は呟くように「あたし、頑張るね」と告げた。

「…珊瑚ちゃんがどんな夢をみたのかあたしは知らない。けど、珊瑚ちゃんは十分頑張ってるよ。」

優しい少女は、春の月夜の森の美しさを知らない。
小さな肩に、そっともたれた。

「……ありがと、」


今はまだ、旅のさなか。







03/04/20