『殺生丸様は化け犬。西国一の大妖怪…』
邪見から何度も何度も聞かされたその言葉を、りんが実感することはほとんどない。
(だって、普段の殺生丸さまに犬らしいとこなんてちっともないんだもの)
[ つがい ]
…眠れない。
大きな木の下で、傍らに座る殺生丸の毛並みを拝借し横になって丸まっていたりんだったが、何だか妙に目が冴えて眠りに入ることができずにいた。
(こんなに明るいからかな。でもきれい…)
ひさしのように垂れ下がる枝に遮られて今はその姿を見ることはできないが、今夜は満月。露の降りた野山が透明な光に照らされて蒼く光っている。
それはまさに「目の覚めるような光景」で、横たわったまま眺めているうちにりんはますます眠りから遠ざかっていくのを自覚するのだった。
それでも、眠らないわけにいかない。
この景色を見るために殺生丸に背をつける格好になっていたのだが、視界が暗くなれば少しは違うだろうかともぞもぞと身をよじった。明日の朝、寝坊をすればまたお小言を頂戴する羽目になる。
そこまで考えて、いつもその小言をくれる邪見の姿が見当たらないことに気づいた。
(さっきまでそこに座ってたのに…どこいっちゃったんだろう)
殺生丸のほうへ寝返りを打ったりんは何気なく彼を見上げ、
(…あ)
闇のなかで緑がかった光を放つ一対の金に、捕まった。
丸くなっていた身体を隻腕で仰向けに転がされ上から覆い被さられても、その先に何があるかを知っているりんは恐怖を感じない。
(りんが眠れないの、知ってたのかな。…殺生丸さまも、眠れなかったのかな?)
流れ落ちてくる銀糸に外界を遮断されて視界が暗くなる。
顔に息がかかったと思うと、少し体温の低い舌が唇を捉えた。
舌先に促されて薄く口を開けば、柔らかく忍び込んでくる。翻弄されるばかりで応えることのできないりんは息を継ぐのに精一杯で、そんな様子を見て喉の奥で笑った殺生丸にも気づけない。
顔中いたるところに舌を這わされ、こそばゆさに首を竦める。
それでも手を伸ばして目の前の長い睫毛にかかった前髪を梳くと、ふっと目を細めたのが暗さに慣れた目に映った。
(…普段の殺生丸さまに犬らしいとこなんてちっともないけど)
銀色の頭が下がって行く。
首筋の血流、急所にあたる部分をそっと甘噛みされ、うにゃっ、と猫の仔のような声を上げたりんを無視してさらに頭は進んで行く。
衿元に鼻先を突っ込み、匂いを嗅ぐように、自分の匂いをこすりつけるように、まだ膨らむ兆しもない胸にすり寄る。くすぐったさにくくっと笑いながら小さな両腕が殺生丸の頭を抱き、何度も撫でた。
(けど、こんな夜は、大きな大きな犬と遊んでいるみたい)
美しい白銀の妖怪が、じゃれつくように自分の胸に頭を乗せている。
それは誰にも懐かない大きくて恐ろしい獣と心を通わせたようで、幼いりんの自尊心を十分に満足させた。
(ずうっとまえに、にいちゃんが大きな野良犬を手懐けたことがあったっけ)
うらやましくて仕方なかった。それは、ただ懐かしい記憶。
二度と来ない日々への切なさはある。けれど痛みを伴わなくなったのはいつからだっただろう。
手触りの良い銀糸を指に絡めもてあそびながら追憶にふけっていると、自分から心を離したことを咎めるように白い獣が身を起こした。そのままりんを片手で抱き起こす。
意図を理解してりんが自ら帯を解くと、殺生丸は隻腕でりんの背を支えたまま器用に口と鼻面を使って薄い肩から着物をすべり落とした。
その間にりんは手探りで殺生丸の帯も解く。りんが脱がさなければ殺生丸自身は着物を脱ぐことはない。
(じかにさわった方が気持ちいいのにな)
懐に手を差し入れ、前を広げる。
汗ばんだ肌は、着物越しに触れたときのようにさらさらと滑りはしないけれど、涼しげな外見からは想像もできない熱を感じることができた。
先ほどとは逆に、りんが厚い胸板に頬を摺り寄せる。
妖怪のようには鼻が利かなくても、殺生丸の膝におさまってこうしていればいつもよりずっと強い匂いがした。触れ合った熱から生まれる汗の匂い、いとおしい体臭。
ここにいるから、家族で幸せに暮らしていた時のことを思い出しても、辛さより懐かしさが勝るのだ。
大きな身体に一生懸命腕をまわして抱きしめる。
「殺生丸さま、だいすき。」
「…知っている。」
毒の爪を持つ手が小さな背中を滑り降り、さらに奥まで探る動きにびくり、と身体がしなった。
(あたしも、犬になりたい)
ほんの僅かにあった筈の眠りの気配はとうに霧散していた。しかし、こうやって真夜中に遊んだ次の日は、日が高くなるまで眠っていても怒られたことはない。
(ねえ、もっとさわって…もっとさわらせて?)
胸元を、汗の珠がつうっと転がり落ちる。
月明かりの下で、草の上で。つがいの犬がじゃれ合うように。
次第に荒くなってゆく互いの呼吸が、獣のようだと感じてりんは嬉しくなった。
02/07/23
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