「ねー、殺生丸さま」

りんはゴブラン張りのチェアに腰掛けて脚をぷらぷらさせながら、重厚なオークのテーブルに右腕で頬杖をつき、左の手で目の前にある物体をつまみあげた。

「なんだ」

テーブルを挟んだ向こう、メープルのカップボードをなにやら探っている彼女の養い親は、返事をしながらも振り向かない。

「りん、うさぎ好きって言ったよね?」
「……好かんのか、」

殺生丸の返答が微妙に答えになっていないのは、りんが少々むくれて掲げているものが、先ほど彼自身が剥いたいわゆる「うさぎりんご」だからである。兎が白い身体を保てるようレモン汁で処理も施されている。

「好きだから、食べられないんです。しかもレモンかけてあるし。ヤなのに」

手にした小さな兎を皿に戻す。ロイヤルコペンハーゲンのホワイトハーフレースプレートの上でひたいを寄せ合った、ちっちゃくて、可愛い可愛い、空調にあてられて今にも乾いてしまいそうな、八匹の兎。

「殺生丸さまが作ると、邪見さまのより可愛いんだもの。余計に齧れない」

程よく削られ、あたまとおしりも愛らしく全体が丸みを帯びている。邪見は勿体無いといってそれをしない。まぁただでさえこれは貴重な真夏の林檎だ。中元の貰い物だからこの家が財布を痛めたわけではないが。

殺生丸はカップボードから目当てのバカラのミルニュイをようやく取り出し、振り向く。

「ならば食わぬがいい。そもそも、自分の食い物は自分で支度しろと言っている」
「だって、殺生丸さまに、むいてほしかったんだもん」

「殺生丸さまに」をことさら強調し、桜色の頬がぷうと膨らんで唇が尖った。口付けをねだっているように見えないこともない。殺生丸は用意しておいた飲み物をグラスに注いだ。ぷしゅ、こぽこぽこぽこぽ、と非常に魅力的な音がする、ヱビス(缶)。まず一口。

「殺生丸さまはかわいいいとか好きって思えるものを、食べちゃったりできるのー?」

上唇についた白い泡をぐいと拭う。

「別に」

というかむしろ、積極的に食べている。さすがに噛み砕きはしないが。しかしそうしたいという欲求に駆られたことも幾度かある。

銀の前髪から雫が垂れた。りんはチェアの座面に織り込まれた薔薇の園を素足で踏みつけ立ち上がると、テーブルに片膝を乗せて伸び上がり、殺生丸の裸の肩にかけられたタオルを取って髪をわしわし拭った。

「ビールに入っちゃうよ」
「お前シャワーはいいのか」
「プールでちゃんと浴びたもん。夜お風呂に入れば平気です」

午後から二時間ほど、市民プールに行って来たのである。夏しか営業しない屋外プールで、頓着しない二人は無防備に出かけて大いに焼いた。りんが部屋着にしている袖なしのワンピースは襟ぐりが広く、上から見下ろしている殺生丸には中身がほとんど見えている。まるで水着を着たままのように日焼け跡のついた、未だ性別を感じさせない幼い裸体。

「お腹すいたし、のどかわいたし、りんご食べたいのに」

なおも言われ、殺生丸はグラスを置いた。兎を一匹丸ごと口に放り込む。もぐもぐと顎を動かしながら身をかがめると、りんの髪から塩素の匂いがした。

「んっ…ん…ん、ん…」

顎を掴むと、眉をしかめながらも、小さくつややかな唇はいつもより大きく開いて流れ込む果汁と果肉それに混じった唾液を招き入れた。堅牢なテーブルは小さなりんが乗り上げても軋むこともない。細い喉が少しずつ流動体を嚥下する。双方の口内から殆どの林檎が消えると、上顎や歯茎の隙間、舌下に残る残滓を探し出すのに熱中し、なんどもお互いを行き来した。

「………っ…、…」

林檎の味がなくなってしばらくして、絡めあった舌がゆっくりと離れた。りんのため息が鼓膜を震わせ、殺生丸はさらに身を乗り出す。と、こめかみの生え際からシャワーの名残と汗が混じった雫が落ちぽつりと微かな音をたてた。それを引き金にりんが伏せていた目蓋を上げふいとテーブルから降り、手の甲で口許を拭う。

「疲れちゃったからお夕飯までお部屋にいるね」

ありがとー、余韻も残さずけろりと言って立ち去る。

殺生丸はやれやれ、と再び頭を拭うと、温くならぬうちにグラスの残りを飲み干した。残りの林檎は冷蔵庫に入れるべきだろう。もう一本飲みたくもありキッチンへ向かった。そうしながら、手にある白い皿の中を見た。塩素の匂いのする鎖骨を齧ってみたくなり、殺生丸は愛らしく成型された兎を一つ食べた。そして、先ほど軽やかな足音が消えていった方へ行き先を変更した。

この屋敷で過ごすりんの初めての夏休みは、まだ始まったばかりである。




04/07/25