部活後の教室には誰もいない、はずだった。
薄暗い廊下を小走りに行くと汗臭さが鼻につく。身に付けているセーラー服がはためくたびに、こもった臭いが押し出されてくるのだ。蒸し暑い一日を過ごした後で3時間のテニスをこなした身体は制汗スプレーくらいで脱臭されない。
教室に辿り着いて勢いよく戸を引き開けた菜摘なつみはぎくりと身を強張らせた。無人とばかり思っていた室内に人が、いる。
薄暗い廊下から比較的明るい教室に飛び込んだために慣れない目を細めると、窓際に座った影が見知ったものであるとわかり安堵した。むしろこの偶然への喜びが訪れる。
「…びっくりした。まだ帰ってなかったの?」
「そっちこそ。先生かと思っちゃった」
開けた時とは対照的に後ろ手でそっと扉を閉めると、先客だった由佳ゆかは耳から何かを外す仕草をした。それで彼女がイヤホンで何かを聴いていたことがわかった。吹奏楽部の由佳は普段から音楽をよく聴くほうだが、放課後の教室では珍しい。菜摘がそれについて言及する前に由佳の方が先に口を開いた。
「忘れ物?」
「うん。ジャージ置きっぱなしで」
「あ、そっか。テニス部、今ユニフォームで練習してんだっけ?」
「試合の時しか着ないのもったいないって、部長が」
「部長誰だっけ?B組の山崎?」
「そう。山崎。山崎貴子。」
「うーん、…言いそう」
「1回戦で負けるから、そりゃもったいないと言えばもったいないけど」
そう言ってひとしきり笑うと沈黙が落ちた。菜摘は自分のロッカーからジャージを取り出す。体育で使ったそれは部活で着なくてもやっぱり汗臭い。いつもは適当に丸めてナップザックにつっこむのだが、今日は由佳が見ていると思うと思わず丁寧にたたんでしまう。
「由佳はそれ、何聴いてたの?大丈夫?」
忘れ物の回収を終えると由佳の机に近づいた。既にずいぶん暗くなった教室の中で、窓からの夕暮れの光を反射してCDとCDウォークマンが光っている。教師に見つかったら恐らく没収だ。
CDのケースを手にとるとそこには横文字が並んでいた。流行のJ-POPくらいしか聴かない菜摘には外国の曲だということしかわからない。
「今度やる新しい曲。エルヴィス・プレスリーだって。」
「あ、名前は聞いたことある」
ふと、由佳が一瞬沈黙した。そして窓の外を見ると少し違う顔で言った。
「探してたら澤田が貸してくれた」
由佳は2ヶ月前から同じクラスの澤田と付き合っている。背が高く人懐こい性格で男女問わず人気がある野球部の副部長と目立つことを嫌う由佳が、いつ接点を持ったのか菜摘には知ることが出来なかった。2ヶ月前に突然「菜摘には話しておくね」と言われ思わず「どうして」と問い返すと「だって、告白されたから」と言って微笑ったのだ。
「……ふぅん、澤田、こういうの聴くんだ」
そう言いながら真新しいCDを見て、由佳に気に入られたくて慌てて買ってきたんじゃないの、と過ぎった思考に菜摘は我ながらうんざりした。澤田に対しては別に悪いとは思わないが、何だか悲しくなって椅子に座った由佳の後ろに回ると綺麗なロングヘアの頭の上に顎を乗せる。その下にあるセーラーの襟に両腕を滑らすと、意味もなく由佳のスカーフの結び目をいじった。シャンプーのいい匂いがする。
「どしたの?」
「……疲れた。」
「運動部は大変だよね。お疲れ様」
笑った由佳が菜摘の腕に自分の腕を絡ませるようにする。汗でひんやりした肌に触れる由佳の肌は乾いていて熱く感じた。
あたし男だったらよかったのに、と菜摘は心の中で呟いた。
男だったら由佳を澤田と付き合わせたりしない。好きだって言って、それで押し倒して………違う。
好きだって言って、毎日毎日好きだって言って、由佳をお姫様みたいに扱う。下僕になってもいい。付き合わなくても、由佳が今みたいに友達で居てくれたらそれでいい。男だったらそれでもきっと笑われるだけで、誰も変だとは思わない。由佳のちょっとした態度に大げさに一喜一憂して、澤田にライバル心を剥き出しにして、そんな風に男だったら良かったのに。
めちゃくちゃだ。意味不明なことを考えてる。由佳を目の前にしてこんな妄想をしている自分が後ろめたくて、菜摘は必死にその考えを頭から追い出そうとする。
「…やっぱり女の子はいいな」
内心の焦りの所為か由佳のその言葉がよく聞こえなくて思わず訊き返した。
「え、何?」
「いい匂いがする」
笑いながらそう言われて逆にぱっと離れた。
「あ、ごめん、あたし汗臭い…」
「そんなことないって。いい匂いって言ったのに」
振り返った由佳が菜摘のセーラーの半袖の袖口をそっと掴む。そのまま引っ張られてまた近づくと、今度は由佳はこちらを向いているから鼻先に菜摘のスカーフが触れるような格好になった。上目遣いに菜摘の顔を見る由佳は、袖口から手を離すと菜摘の腰に両腕を回して目の前にある白い綿の生地にぱふんと顔を伏せた。
「澤田はすっごい汗臭いもん。部活の後なんて近寄られたくないくらい」
顔は見えず声もくぐもっていて、由佳の表情は菜摘にはわからなかった。ただ、由佳の声が振動として直接身体に伝わる感覚に胸が震えた。
「…そっちこそ、どしたの?」
由佳は答えなかった。そのまま沈黙が続いて、菜摘はやり場に困っていた手で由佳の長い髪を梳いた。指の間をさらさらと滑ってゆく冷たい感触が心地良く、いつの間にか無心に繰り返していた。
また、振動が伝わる。
「澤田より、菜摘のほうがずっと好き。」
そして腰に軽く添えられていただけの細い腕がきつく絡みついた。
その言葉がどんな意味なのかわかっていて、菜摘は今悲しいのか嬉しいのかちっとも解らなかった。ただ泣きたい気分になって苦く笑うしかなかった。
アリガト、と小さく言った声は自分のものではないような響きを持って、指は由佳の髪を梳く動作を機械のように繰り返している。
『…校内に残っている生徒は、今すぐ下校しなさい。えー、早く帰りなさい』
微妙な沈黙を破って、突然スピーカーががなりたてた。
「あ、今日の見回り、数学の多嶋だって!」
「げ、まじ?」
何事もなかったように慌てて立ち上がる由佳につられて、菜摘も足元の鞄を掴むと扉に駆け寄り、廊下を伺いながら由佳が支度を終えるのを待った。
「まだ大丈夫そう。今のうちに早く行こ!」
鬼教師に見つかる前に昇降口に向かって駆け出す。足の遅い由佳を先にして、その後ろを行く菜摘は何となく廊下の窓から外を見た。空は下のほうが赤く、そこから不思議なグラデーションを描いて灰色から藍、黒になり、遠くの山の上には白い月が出ている。
目の前ではついさっきまで手の中にあった由佳の髪が揺れる。
この瞬間を、きっと一生忘れないだろうと菜摘は思った。
あの空と月、長い髪、吐息と振動に震えた胸。
菜摘は由佳を追い越すとその手を握り、引っ張るようにして走った。
既に息が乱れて喋ることも出来ない由佳は、ただ強く握り返した。
03/07/11
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