「んあ、」

 伊佐奈が突然、大きく伸びをした。夏休み、丑三ッ刻水族館の館長室、猛暑の中、冷房効率の悪そうな窓の大きな部屋に空調を効かせデスクに向かって書類仕事を片付ける館長様の足元に大きなクッションを置いて座り、椅子の上の黒いスラックスの膝に頭をもたせ掛けて、最近古書店で購入した子供向けの古い魚類図鑑に没頭していた華は、驚いて顔を上げた。ぐっと天井に向かって腕を伸ばして、ぴんと伸びた背中と肩から、ぼきぼきという音が足元にいる華にまで聞こえてくる。

「終わった……」

 溜まっていた仕事を片付け、どろりと濁った目で足元の華を見下ろした伊佐奈が、椅子の上から華の上へ、ぐずぐずと崩れて落ちてくる。

「え、待っ、ちょ、ふぎゃん!」

 いくら伊佐奈が青白く痩せこけていると言っても、華より20cm以上も身長の高い成人男性である。抱きとめられるはずもなく、伊佐奈ごとクッションから床に落っこちて、頭をぶつけるハメになった。がごん、と景気のいい音がした。

「痛い!こらあ!」

 涙目の華が上げる悲鳴も聞いちゃいない。もうしばらくディスプレイ見たくねえ、と充血した目をぎゅっと閉じて、華の胸にぐりぐりと顔を押し付けている。

「もー、」

 しかたなく、尻だけはクッションに乗って頭は床の、逆さになったおかしな体勢のまま、脚だけは椅子の上に乗って顔は華の胸にある、もっとおかしな体勢の伊佐奈の背を、子供を寝かしつけるようにぽすんぽすんと叩いた。しばらくするとふと身体が軽くなったから、退いてくれるのかと思えば、二人の身体の間にあった図鑑が引っ張り出されてぽいと投げ出された。

「それ表紙が取れそうなの!優しく扱ってよ」
「お前は俺を優しく扱え」
「やだあ」

 大げさに顔をしかめて、ええーと嫌がってみせると、椅子の上に乗っていた脚もどしんと落ちてきて、ずるずると華の脚に絡まった。ぎゅうぎゅうと体重をかけられて、重いし痛い。

「ねえちょっと、どいてよ、」
「肩凝った、温泉行くぞ」
「はいはい、わかったから降りて」

 行きたい、ではなく、行くぞ、だったのを、仕事疲れからのうわごとと決め付けて、呆れたように気軽に返事をすると、急に伊佐奈ががばりと起き上がった。

「よし、じゃあ、支度しろ」
「は?」

 貧血を起こすのではないかと見ているほうが心配になるほどしゃきんと立ち上がって、ついていけずに床に張り付いたままの華の手を、助け起こすように引っ張る。

「まあ宿に何でも揃ってるし、一泊だけだ、パンツ一枚あればいいだろ」
「え、何?え、温泉?ほんとに行くの?え、えっ?今から?え?」
「お前、「え」言いすぎ」

 まったくもって理解不能なところへ、ぷ、と笑われて、腹が立った華は、掴まれた手をほどいて自力で起き上がった。

「何なの、もう!ちゃんと説明してよ」
「あー、悪かった、怒るな、こっち来い」

 こっち来い、と言いながら伊佐奈の方から近寄ってきて、くしゃくしゃになった華の髪を撫でて直した。

「今から華は、お仕事に疲れた俺をねぎらうために一緒に温泉に行って一泊する。OK?」
「一泊って、ここは?明日は休みじゃないでしょ?」
「シャチらには前から話を通してある、仕事も二日分、できるだけやったしな」

 道理で朝から必死の形相だったはずである。それでもまだ腑に落ちないことが多くて、華は重ねて聞いた。

「その、顔、はどうするの?温泉行っても入れないんじゃしょうがないよ、」
「山ん中の温泉の風呂付きの部屋だ。行くまでは包帯ででも隠すから、ちょっと手伝え。1時に車が来る」

 1時!?、と華は伊佐奈の腕を掴むと、手首の金時計を見た。もうあと二時間もない。昼食を食べて支度をしたらギリギリだ。

「何で今言うの、」

 呆然とする華から、ふと視線をそらして、ぼそぼそと小さな声が聞こえた。

「明日、華、誕生日だろ」

 サプライズ、をやりたかったのだろうか。プレゼントくらいならともかく、一泊旅行をサプライズにされても困る。が、その無計画な様子が、伊佐奈がこういった事態にいかにも慣れていないことを予想させた。ようやく状況を飲み込むと、かあっと顔に血が上ってきた。あうあうと意味もなく口を開けたり閉じたり、ようやく一言だけ言葉を絞り出した。

「あ、ありがと、」
「もっと喜べ、」

 偉そうな伊佐奈に、ぷく、と一度頬を膨らませて見せて、それからもやもやした感情が胸の中ではっきりと喜びという形になるのを感じた華は、顔全部で笑って黒いスーツに飛びついた。

「ありがと、嬉しい!一緒に出かけるの、はじめてだね」
「おう」

 伊佐奈はようやく満足そうな声で、華の頭を撫でた。水族館の中で会って、話をしたり、足元で本を読んだり、仕事をしているのをこっそり覗き見したりする現状に不満があるわけではなかったけれど、お外で手を繋いでデート、とかそういったイベントにまったく憧れがないといえば嘘になる。きっと水族館から宿までタクシーに乗って、チェックインしたら部屋から一歩も出ずに、またタクシーに乗って帰ってくることになるのだろうが、それでも伊佐奈が華と一緒に外へ出ようと思ったことが嬉しい、と思った。

 少ない荷物を持って通用口から車に乗った。頭の左半分をぐるぐる巻きにした包帯で隠した伊佐奈は、人間の目、片目だけの視界では距離感がおかしいらしく、危なっかしい様子なので手を引いてやった。運転手は初老の男性で、仕事も長いのか、明らかにちぐはぐな取り合わせの男女が乗っても詮索するでもなく、口数は少ないが感じも良くて、滑るように市街を抜ける車内でいつの間にかもたれあって眠っていた。眠ろうと思えばいつでも寝られる、という生活をしている二人である。

 熟睡していたから、伊佐奈の言った通り、山の中の高級そうな日本旅館の門前に車を横付けにされて起こされたとき、西へ来たのか東へ来たのか、ここは県内なのか、見当もつかなかった。

「タヌキに化かされた時ってこんな感じなんじゃないかなあ、」
「あ?」

 伊佐奈は「風呂付きの部屋」と言ったが、着物を着た女性に案内されているのは、旅館の本館から青いもみじの茂った庭の中を、苔の中に点々と浮かぶ飛び石を伝って行った先の、どう考えても部屋ではなく離れの丸々一棟だった。お荷物お持ちいたしますと言われても突然のことで本当に小さなバッグに下着しか入れられなかった華は、右手にバッグ、左手は伊佐奈の手を引いて、蝉の声だけが響く木立の中を進みながらぽつりと呟いた。

「タヌキもキツネも出ますから、夜にお庭に出るときは気をつけてください」

 独り言のつもりだった呟きが旅館の女性に聞こえていたことに気づいて赤面した。従業員は気を悪くした風でもなく微笑んで、お風呂は外でも囲いがしてありますから安心なさってくださいね、今夜は月が綺麗だと思いますよ、と言った。

 伊佐奈と華がお互いに釣り合わない組み合わせである、というのは、伊佐奈にとっても華にとっても弱点だ。ここまで乗ってきたタクシーの運転手、それから目の前に立つこの旅館の従業員、教育が行き届いていて、このおかしな道行きについて何ら不審を顔に表わすでもない。華の若さによる潔癖が、とかく金銭に対して嫌悪を持つことが多かったが、潤沢な資金があるということは、ささいな痛みを減らし心身の磨耗を防ぐのに効果的である、と新しい世界を垣間見た気がした。

 玄関を入って、応接セットを置いた板の間、その先のふすまを開けると八畳の和室が二間続いて、奥の部屋には布団が敷いてあり、手前には座卓に茶の用意がしてあった。障子を閉めた部屋は薄暗く、空調が効かせてあったが、障子を開け放すと縁側があり、ガラス戸を引いても青々と茂った木立の間を抜ける風が吹き抜けてきて心地よかった。どのくらいの広さがあるのか広大な旅館の敷地内で、この離れの庭はさらに高い垣で囲まれていて、他の客が散策に来てもその視線からは遮られる作りになっていた。外から見ても大体予想はついていたが、自分の目で確認して、うん、と頷いた華はようやく安心して伊佐奈を振り返った。

「包帯、早く解かないと暑いよね」

 さっき頭の後ろで結び目作っちゃったから私が解くよ、と近づけば、あぐらをかいて座卓に肘をついた伊佐奈は笑っていた。

「なに、にやにやして」
「別に?」

 興味しんしんで室内を探索する華を見て、面白い(可愛い)から今度は洋間にするか、などと伊佐奈が冬に向けて考えをめぐらせていたなど、華には知るすべもない。思い出し笑い?いやらしいなあ、と包帯に手を伸ばせば、捕まえられて膝に乗せられてしまった。無視してそのまま包帯を解きにかかる。汗腺のない鯨の肌はつるりとしているが、人間の皮膚はじっとりと汗をかいていた。洗面か浴室にタオルがあるだろうから、取ってきて拭いてやろうとして、華は伊佐奈の膝から立ち上がるのに失敗した。腰をぎゅっと捕まえられていた。

「タオル持ってくるよ。汗、気持ち悪くない?」
「温泉なんだから、風呂入ったほうが早いだろ」

 つつ、と意味ありげに背を指が這う。ふむ、と首をかしげた華は、先ほどここまで案内してくれた女性が、本館には大浴場があると言っていたが、自分は一度そちらに行ってみたいと言ったら伊佐奈は拗ねるだろうか、と考えた。黙った華を何と思ったのか、伊佐奈が唇を尖らせる。

「んだよ、別に、飯の前に何かしようとか思ってねえぞ」
「そんなこと考えてたわけじゃないけど」

 もう既に拗ねている伊佐奈を見ると、大浴場に行ってみたいとは口に出さないほうが良さそうだった。私も結構汗かいてるからお風呂入りたい、と答えてから、はた、と動きを止めた。

「……ご飯食べたらお風呂で何かしたいってこと?」

 何か、というのは、楽しくトランプだとかそういうことでは絶対にない、というのは華にもわかる。伊佐奈は返事をせず、あっさりと上機嫌になって、華のノースリーブのブラウスの前ボタンをさっそく外している。そうだ、と言われたところで逃げ場もないし逃げる気もない華は、仕方なし、とため息をついた。そして、早々にボタンを全て外したブラウスの前を開いて、伊佐奈が華の胸を、いや正確には下着を、凝視しているのに気づいて、心当たりがあって慌てて布地を掻き合わせた。

「いつもと違げえ、」
「…………っ、」

 ドレープの寄ったピンクとホワイトの細いストライプのサテン地に、たっぷりと縫い付けられたレースとリボンはブラック、中央にはパールビーズのモチーフが揺れている。下はまだ隠れていて見えないが、上下揃いのデザインだ。動物園で汗をかくから、とコットン100%の無地、せいぜい頑張って花柄か水玉か、という普段の華からしてみれば、イメージチェンジどころの話ではない。

「こ、これはっ、と、友達が!」

 別に透けていたり紐だったりするわけではない、華と同年代の少女たちでも普通に購入しているような下着なのだから、変に意識するのもおかしな話だ、と頭ではわかっていても頬の温度はどんどん増してゆく。

 典子と育美が、華の下着はいろいろありえない、とバッサリと切って捨てるダメ出しと共に、誕生日プレゼントとして贈ってくれたのだ。誕生日に男と会うのなら着けて行け、とわざわざ明日に間に合うように渡してくれた。しょっちゅう泊まっているのももう知られていて、ご親切に洗い換えだと2セット入っていたから、バッグの中に入れてきたのもパープルにホワイトの水玉の同類の下着である。出したりしまったり、散々悩んだ挙句に身に着けてきた今朝にはまさかこんなことになるとは思っていなかった。

「つまり俺に見せるために着てきたと、」
「ち、違っ、」
「違うのか?」

 違うとは言い切れないが、違わないと言い切るのもまた少し違う気がする。真っ赤な顔でうつむいてうーうーと唸っている華を立たせて、浴室へ向かう伊佐奈はご機嫌で、朝方仕事を終えたときの溶けてしまいそうなどんより感はどこにもなかった。典子と育美に、普段が普段だし効果絶大!と胸を張られた時にはツッこむ気力もなく呆れた半眼で見やったが、本当に効果があった、と鼻歌でも歌いだしそうな伊佐奈を見て友人二人にそれなりに感謝した。

「……こういうのって、う、嬉しいの?」
「そりゃ、まあな」

 お約束というやつはなかなか侮れない。華は友人たちの言葉をいくつか頭に思い浮かべた。動物の求愛行動も定型に沿っているのだから、お約束と言えばそうなのかもしれない。クジャクの羽、アオアズマヤドリの青い巣、どちらにしろ、オスとメスが逆だったが。

「動物の求愛行動とは違うぞ、お約束侮りがたし、つうのは否定しねえが、」

 じっくりと観賞されてはたまらないので件の下着はすぱんと脱ぎ捨て、屋内の洗い場で簡単にかけ湯をして、長くひさしの張り出した軒先にある露天風呂にじゃぼんと浸かった。源泉に足し湯をしていないのが売りだと脱衣場に貼り紙のしてあった湯はかなり熱めで、「何か」したらのぼせちゃうんじゃないかなあ、とぼんやり考えていた華は顔を上げた。

 何事も、人間の行動と動物の習性を同列に語りたがる華と、人間は動物とは違うと主張する伊佐奈の間では、こういった議論がよく起こる。出会ったばかりの頃はけんかの原因だったが、一年も経った今ではコミュニケーションのひとつになっていた。一般家庭の浴槽の二倍ほどの大きさの岩を組んで作った湯船に向かい合う格好で浸かっていたが、華はじゃぼじゃぼと近寄っていって伊佐奈の隣に座った。とん、と触れ合った肩が汗で滑った。

「そもそも、俺が興奮するのはお前の下着の中身であって、下着そのものではない。」
「それって、こんな気持ちいい木漏れ日とそよ風が吹く中で露天風呂に浸かって、ひぐらしと小鳥のさえずりをバックに堂々と言うことじゃないと思う、」
「厳然たる事実だ。」
「事実でも。」

 微妙な顔の華を無視して、感情の問題だ、と伊佐奈は言う。

「剥ぎ取る時に俺が見るだろうっつうことを前提にして、パッケージを上等にしようとした華の心理が俺を喜ばせたのであって、パッケージそのものが嬉しいわけじゃねえってことだ。」

 つまり、飾り羽の立派さやあずまやの大小そのものがパートナーを選ぶ決め手になるクジャクやアオアズマヤドリと同じではない、と言いたいのだ。近年の研究で、自慰行為をしたり、生殖が目的ではない性行為をしたり、同性愛行動をすることがある、とわかってきた動物の世界で、定型の求愛行動の中に感情が介在していないとは言い切れない。しかし、動物が人間が思うのと同じような感情を持って恋愛をしている、と華が言い切れる材料もない。

 ううん、と考え込んでしまった華のあごに伊佐奈の手が掛かった。今日は指輪は全て外している、筋と骨が出っ張った、細いのにごつごつしている指だ。

「三十手前の呪われた男と女子高生の恋愛における行動様式について論文でも書く気か?」
「……ネイチャーには採用されそうにないね、」

 苦笑した顔が近づいてくるのを避けはしなかったが、目も閉じずにいると、目の上に唇が降ってきたから目蓋を下ろした。人間のつがいが唇を触れ合わせることが求愛行動の定型だとして、伊佐奈の見た目よりも柔らかで熱い人間の唇と冷たくてすべすべした鯨の口先が顔中に触れる心地よさと安心感を、他のつがいの行動になぞらえることは何の意味もないな、と思い、合間に、華、と耳元で名前を呼ばれると、頭の中を占めていた鮮やかなクジャクの羽やアオアズマヤドリのアメジストのような瞳のイメージは霧散してしまった。

 結局、「何か」をせずに風呂を上がることはできず、声を上げないように自主的にタオルを口に入れたり伊佐奈の肩口を噛み締めたりしていた華はすっかり疲れてしまって、浴衣を適当に巻きつけて縁側に倒れこむと、部屋に備え付けのうちわで伊佐奈に扇がれながら夕食までうたた寝していた。

 食事は出来立てを一品ずつ厨房から離れまで運んでくれるのが本当だそうだが、伊佐奈の顔のこともあってそれでは落ち着いて食べられないから、無理を言って最初に全て運んでもらった。山の中ならば温泉旅館にありがちな刺身の類は無く、魚類は川魚の塩焼きが一品ついただけで、あとは山菜の天ぷらや獣の肉を朴葉で包んで焼いたものなどだった。華はなんとなく、食事内容も伊佐奈がこの宿を選んだ理由の一つなのではないか、と思ったが、あえて確認はしなかった。冷酒の徳利と烏龍茶のピッチャーが置かれ、互いに注ぎ合えば二人だけの宴会が始まった。

「おいしいね」
「お前、見事な食いっぷりだよな」

 言われてはっとした。仕事柄、女子高生にあるまじき量を食べるのである。日頃から友人たちに「あんたが食べてるとこ見てると胸やけして自分が食べられないわ」と言われている。食事中の所作だって、もともとお坊ちゃんの伊佐奈ほど綺麗には食べられない上、こんなちゃんとした日本料理を二人で食べるのは初めてだ。もしかしてとんでもない粗相をしているのでは、と内心冷汗をかく。

「見てるとつられて俺もすげえ食っちまう」

 が、続いた言葉で、少なくとも伊佐奈の食欲を減退させるようなことはしていないらしいとわかり、ほっと胸をなでおろした。

「ほんと、美味そうに食うよな」

 褒められている気もするが、ここで喜んで見せても「ばーか、食い意地が張ってるって言ってんだよ」などと言われる可能性も否定できず、空になった猪口に酌をしてやるのみにとどめた。伊佐奈は面白そうににやにやと笑っている。と、とんとん、と離れの扉を叩く音がした。驚いて伊佐奈の顔を見たが、知らん振りで今華が注いでやった酒を啜っている。どっちみち鯨の顔を隠していない彼が出ることはできないから、華は、はあい、と返事をしながら戸口に立った。そうっと扉を開けてみれば、到着した時にここまで案内してくれた女性が、両手に乗るくらいの白い箱を持ってにこにこと立っていた。

「こちら、お連れ様から頼まれていたお品物です、どうぞ」
「えっ、あ、は、はい!ありがとうございます、」

 それこそキツネかタヌキにでも化かされたような気持ちで部屋に戻れば、その「お連れ様」は人間の方の口も耳まで裂けてしまいそうなくらいにやにやしていた。

「伊佐奈、これ、何?」
「開ければいいだろ、お前のだ」

 ぼうっとして、言われるままに箱を座卓に乗せると蓋を外した。箱の形状から大体の想像はついていたが、入っていたのは直径12cmほどの小さなデコレーションケーキだ。真っ白いクリームで覆っただけのシンプルなもので、ただ、中央には青いクリームが薔薇の形にいくつも絞ってあってミニチュアのブーケのようになっていた。

「あおいはな、」

 思わず呟くと、してやったりという顔で笑った伊佐奈が自分の膝を指で示して、感激のあまり抱きついてくれてもいいぜ?などと言うので、華は這って座卓を回りこんでいってそのまま頭から鳩尾の辺りにタックルした。

「ぐえっ、おま、」
「かっこつけ!にあわない!きざ、きもい……」

 語尾は湿って不自然に途切れた。

「泣くな、喜べ、」
「……よろこんでるから、ないてるんじゃん」
「なら許す」

 膝の上に仰向けにころりと転がされて、涙ぐんで真っ赤になった汚い顔を浴衣の袖でごしごしと擦られた。そして伊佐奈が、惜しむことなくそのケーキにざっくりとフォークを突き立てたので、せめて携帯で写真を撮りたかったと思ったが、大きく掬ったひとかたまりを口の中に押し込まれたから抗議もできなかった。今まで食べたケーキの中で一番美味しいと感じるのは主観か客観か、と華は少し悩んだ。

「すごくおいしい」

 んぐんぐと大きすぎる一口を何とか飲み込んで素直に感想を告げると、伊佐奈は満足そうにフォークを置いた。それから華の左手をとった。

「本当は、」

 それだけ言って、中途半端に口を開いたまま止まって、一度閉じて、また開いて、やっぱり閉じた。何を言おうとしたのかとても気にはなったが、伊佐奈があんまり困った顔をしているので、華は黙ったまま待った。しばらく沈黙が落ちた。今日はもう言葉の続きは聞けないだろうか、と思い始めた頃、唐突に、再び口を開いた。

「俺は戸籍がねえ、」

 戸籍というものが華にはまだ縁遠いものだったから、耳から入った音が漢字変換されるまでに5秒ほどかかった。時間はかかっても変換はされたが、戸籍がないということがどういうことなのか、具体的にはわからなかった。

「俺は船の事故で遭難したことになってて、親もしばらくは探してたようだが、死亡届が出されてたのを最近、確認した」

 話の着地点がわからずに、華は伊佐奈の膝の上に仰向けに転がされた姿勢のまま、黙って聞いていた。伊佐奈は華の左手をぎゅっと握っていた。

「家の人間には、知られたくない。だから、戸籍を復活させるつもりはない。本当は、」

 伊佐奈が、握っている華の左手の、薬指をじっと見ていることに気づいた。つっと指でなぞられた。

「本当は。華の誕生日のことを考えたとき、ここに何か、着けようと思ったが、」

 珍しく目が泳いでいる。華は膝の上で起き上がって、じっと顔を覗き込んだ。黒い人間の瞳、金のマッコウクジラの瞳、両方を、視線で捕まえる。伊佐奈が何を気にしているのかようやくわかった華は笑った。嬉しかったのだ。

「私、伊佐奈とずっと一緒にいる、お婆ちゃんになって、死ぬまで。語呂がいい名前だから、苗字なんか変わらなくってもいいよ」

 ぎゅうっと首の後ろに腕を回して抱きついて、こんなことが軽く言ってしまえるのは自分が子供だからかもしれない、と華は考え、そして伊佐奈もそう思っているだろうと思った。けれど、明日17歳になる華が今、心から言える本当の気持ちだった。

「喜んでよ、」

 伊佐奈を真似て華もそう言ってみた。笑う気配がした。

「喜んでる、」
「もっと喜んで」

 言い終わらないうちに、がばと押し倒されて、華の口の中のケーキの味と伊佐奈の口の中の川魚と冷酒の味がすっかり混ざって気持ちが悪くなるようなキスをした。あんまりにも不味くって、唇が離れたとたんに二人とも声を上げて笑った。はあ、と一通りの笑いが収まると、急に真顔になった伊佐奈がもう一度華の左手をとった。

「んじゃ、予約。」
「痛、……っ」

 薬指が人間の唇の奥へ引き込まれて、白い前歯が、ごり、と音がするほど強く指の付け根を噛んだ。皮膚が破れて赤が滲み、痛みに指の筋がびくびくと引き攣った。ぎゅっと眉を寄せて痛みを堪えながら、血と唾液が滴った指を見て、それでも顔が笑ってしまうのをとめられなかった華は、もしかして自分はマゾヒストになったのだろうか、と危ぶんだ。傷口に舌を這わされてぞくぞくと背筋を駆け抜けたのは、嫌悪感とはまったく逆の感覚である。

「しばらく残るね」
「怨念込めたからな、浮気するとフジツボ生えてくるぞ、そこから」
「本当に聞こえるから怖い!」

 明日は午後から動物園の仕事で、軍手をしている間は隠れて見えないが、閉園後は華のバースデーパーティをやってくれる、と皆が言っていた。目敏い道乃家辺りには絶対に訊かれるはずだ。いつもからかわれてばかりだから、たまには思いっきりのろけてやるのもいい、と色惚けしたことを考えた。

「次の誕生日にも欲しいな、これ、ずっと」
「……お前、実はマゾか?」

 もうどす黒くなり始めている薬指を見ながら呟いた華に、口調だけは嫌そうに、表情は面白そうに唇をゆがめて伊佐奈が距離を詰めてくる。

「伊佐奈がサドなんだったらマゾでもいいよ、」

 笑って答えれば、ぺろ、と小さく舌なめずりするのが見えた。食事が終わったらまた風呂に入るだろう。今日が16年で一番嬉しい誕生日プレゼントで、きっとこれから毎年その一番が更新されるのだと思えば、華は自分から「何か」して欲しいとせがみたい気持ちになった。確かに幸せだった。






ただいま2011/8/19の01:48
遅刻すみません
華ちゃんお誕生日おめでとうございます(8/17)
館長と末永くお幸せに

今回ツイッター診断メーカーから
【3つの恋のお題ったー】より
いさはなへの3つの恋のお題:痛い、けど、気持ちいい/どうしても言えない/過去は過去、未来は未来
【お題出しったー(改訂版)】より
二時間以内に4RTされたら、お風呂で、苦笑しながら唇にキスをするイサ華をかきましょう。
以上二つのお題を頂いてます

2011年8月19日