華は、この国の王都にある、王宮が運営している王立学院の学生でした。華はまだ、入学したてで、あまりたくさんのことを知りはしませんでしたが、そこではこの国の役に立つことがたくさん研究されていました。まだ庶民には馴染みのない、写真、という技術もそうでした。王立学院の生徒になったら、最初の学期中に必ず一度は学院長の部屋を訪問する決まりなのですが、そこには現在国を治めている王様と、そのご家族の写真がすべて、立派な額に入って飾ってあるのでした。王族の皆様方のおかげで君達は勉強ができるのだから感謝しなさい、と訓辞を頂くのです。

「学院は今、夏季休暇中か、」
「そうよ、」

 動物が大好きで、学院では動物の生態について究め、怪我や病気を治したり、今は飼い馴らすことは不可能と言われている動物達と仲良くなってみたい、と考えていた華は、たくさんの動物が棲んでいると言われているこの国境の森で、休暇を過ごそうと思いついたのでした。

「……若い娘が、休暇中に他にすることねえのかよ、城下の流行りはそれなりに詳しいつもりだが、こんなとこで過ごすのが好まれるなんて話は聞いたことねえぞ」
「うるさいな、ほっといて」

 学院の生徒ともなれば、将来は要職に就く者も多く、引く手あまたでしたが、華は、賑やかな場所で着飾ったり、おいしいものを食べてたくさんの人達の輪に入っておしゃべりしたりすることは、あまり得意ではありませんでした。そのことを、これから大人になって仕事をするなら、苦手なままにしておいてはいけない、と気にもしていました。けれど、苦手なことよりも、得意なことを率先してやりたくなるのは、誰だってそうでしょう。華もそうでした。はじめての夏休み、社交術の修行よりも、動物に関わる修行を優先したのでした。

 森の木こりの小屋を借り、しばらく住めるように手を入れて、始めのうちは、近くの農場の、具合の悪い牛や怪我をした馬や雌鶏のヒステリーなど、動物のお医者の真似事をさせてもらって、のどかに過ごしていたのでした。ところが、夏に実る森のいちごを少しもらおうと、少し奥まったところへ足を伸ばした日、二足歩行の巨大な白兎と、ばったり出会ってしまったのです。兎の他に、狼や、蛇や、他にもこの国の図鑑には載っていないような動物が、人に似た姿で、二足歩行をし、人の言葉を喋っていました。

 兎は、隣国の王子の椎名だと名乗りました。そして、この姿を見られたからには逃がすわけにはいかない、とも言いました。逃すわけにはいかないと言われても困る、自分はこのことを誰かに言うつもりはない、と無関係を決め込むつもりだったのが、動物を集めるだけ集めて従わせておいて、ろくに管理もしない椎名の様子が気になって、いろいろと手を出し口を出し、としているうちに、いつの間にか華も、いつか開園するはずの動物園の関係者のようになっていたのでした。

「大事な部分が抜けてるな、」

 できるだけ丁寧に説明したつもりでしたが、伊佐奈はまた不満そうに華を見ました。

「そんな生活をしている椎名の、どうして呪いが解けた?やはりお前が何かをしたんじゃないのか」
「確かに、私の目の前で呪いは解けた。でも、原因は私じゃないと思うわ」

 その時のことを思い出して言えば、話せ、と伊佐奈が居丈高に言いました。華は、こいつ何様のつもり、と心の中で憤慨してから、王子様なんだった、と一人で納得しました。

「なんだ、」
「なんでもない。……縄張り争いに負けて怪我をした、大きな獅子を保護したの。怪我が治って、私が勝手にその子を自由にしてしまったら、この群の頂点に立つんだって暴れだしたわ。園長はそれを戦って止めて、それから納得させた。そしたら、呪いが解けた」

 ほら、私は居合わせただけで、何もしていないでしょう?勝手な判断で皆に怪我をさせただけ、と両手を広げて自嘲気味に語る華を前に、伊佐奈は腕を組み、ふむ、と何事か考えたようでした。

「熊の呪いが解けた時もお前は居たんだな?そのときのことも話せ」

 伊佐奈の態度のことで、いちいち腹を立てるのは無駄だ、と華は自分に言い聞かせました。それから、伊佐奈は、志久万の正体を知っているのだろうか、と考えました。志久万も、東にある小さな国の王子でした。

「旅の芸人の集団が、国境警備兵に追われてこの森に逃げ込んできたわ。芸をする動物や、人間も、少し怪我をしていて、手当てを手伝った。酷く具合の悪い子犬がいて、夜中に気になって様子を見に行ったら、芸に使う動物達が人間のような姿で歩いているのを見た、」
「……兎の時と同じような展開だな。お前、間が悪いとか言われないか?」
「ああもう、あなた、うるっさいな、いちいち」

 わめいてから、さっきから王子様にとんでもない口を聞いていることに気づいて、ぱっと口をつぐみましたが、伊佐奈は「不敬罪だ」だとか言う気はないようでした。態度がでかくて、性格はひねくれていて、短気で、王子には向いていないと呪われて、でも生真面目で、一庶民に怒鳴られても気にしない、変人王子様、と華は失礼なことを考えました。

「それで最初は私を殺すの殺さないのって話になって、園長や動物園の皆と争いになったりしたけど、和解して、私はこの森で採った蜂蜜を志久万さんに持って行ったわ。その時、いつも感じの悪かった志久万さんが私にお礼を言って、夏なのに雪が降るんじゃないかって思った。そうしたら、志久万さんの顔が人間に戻ったの。……これだって、別に私が相手じゃなくったって、同じことでしょう?」

 私は、医者でもないし、魔女でもないし、付け足すとスパイでもない。ただの学生で、呪いを解くことなんてできないわ。誤解は解けたかしら?腕を組んだままの伊佐奈に、華がそう尋ねると、人間の方の顔はほとんど表情が変わらないのに、鯨の方の顔だけで、王子様はふっと笑いました。

「俺はそうは思わない。貴様、小娘、ああいや、蒼井、学院の夏季休暇はまだ残っているだろう、その間、俺もここで過ごさせてもらおう」
「はあ!?」

 華はまた、わめきました。ここって、ここ!?冗談じゃないわ、あなた、私の話、聞いてた!?きゃんきゃんと騒ぐ声を、うるせえ、の一言で遮って、伊佐奈は、俺に逆らうのか、とだけ言いました。有無を言わさぬ響きでした。伊佐奈は、この国の王子様です。ただの庶民、しかも今は、王立学院の学生である華が、逆らうことなどできるはずもありません。

「……いいわ、すぐにわかるわよ、私が何の力もない普通の、ううん、普通よりできの悪い、ただの子供だって、」

 華は少しうつむいて、ぽつりと呟きました。つい今しがたの、王子様にきゃんきゃんと噛みついていた元気は息を潜めて、謙遜というわけでもなさそうな、否定的な響きがそこにありました。伊佐奈は気に入らなさそうにまた眉毛を跳ね上げましたが、華は見てはいませんでした。

 それでも華は、とんだお人よしと思われていることも知らず、律儀に森での暮らしについて高貴な鯨男に説明しました。森の奥から人の目に触れるようなところへ出てくる動物達は、たいていが椎名の仲間だということ、華の住む小屋の周りは中立地帯という約束になっていて、ここでは肉食動物も小鳥達も人間も捕食はしない、人間同士も争わないということなどでした。

「中立地帯、捕食はしないって、まさかお前、草でも食ってんのか?」
「草って何よ、野菜っ、ぎゃあああああ!」
「色気のねえ悲鳴……」

 何の脈絡もなく(としか華には思えませんでした)伊佐奈に胸をもにゅっと鷲掴みにされて、華は大声を上げて硬直しました。はっとして両腕を振り回すと伊佐奈はすぐに離してくれましたが、華は自分の身体を守るようにぎゅっと抱き締め、はあはあと荒い息を吐きながら涙目で、ぎっと伊佐奈を睨みました。伊佐奈は、仔猫が毛を逆立てて威嚇している様子に似ている、と暢気に考えました。

「バカ、肉食え、肉、せっかくいい乳してんのに、草ばっか食ってたら、しぼむぞ」
「…………っ、」

 華はもう言葉もなく、わなわなと震えました。そして心の中で、こいつは王子様、こいつは王子様、と何度も言い聞かせました。

「………………王子様に!わざわざ、お気遣いいただいて、ありがとうございますっ!休暇中、ここに住んでる間だけの食生活ですから、ご心配なくっ!!」

 先ほど伊佐奈が嫌がった「王子様」という呼び名をあえて使いました。このくらいは許されるべきだと思ったのでした。

 華だってまだまだ育ち盛りですから、いくら動物が好きだといっても、牛や豚の肉を食べずにはいられませんでした。けれど、野生の動物達はそういった気配にとても敏感でした。この小屋の周りを中立地帯にして、今は華から動物の肉を食べた匂いがしないので、この森の小さな動物達も華に近づいてくれるのです。学院に戻れば寮の食堂で、普通の食事を取るのですから、休暇の間くらい、肉や魚や卵を食べなくったって、問題はありません。

「ふん、」

 伊佐奈は華の全身をもう一度、上から下まで舐めるように見て、鼻を鳴らしました。

「俺は森に入って、動物の肉も卵も食うし、川があるなら魚も採るぞ」
「それはどうぞご自由に。この小屋の周りで狩りをしないのなら、別に止めたりしないわ。どんな生き物だって、食べなきゃ生きてはいけないもの」

 それにあなたは肉食動物の呪いがかかっているのでしょう、とは、華は口にはしませんでした。

「住むところはどうするつもり?」

 伊佐奈の視線が、華の後ろの小屋の辺りをうろつきました。

「あいにく、一人用よ、」
「だろうな、まあいい、森の中にいくらでも寝る場所くらいあるだろう。この身体になってから、野宿は慣れてる」

 暗い森の中に視線を動かした伊佐奈の、呪われた大きな生き物の目が暗闇を見て光りました。夜に活動する森の動物にも似ている目は、きっと、鯨というのは海の中でも深くて暗いところにいる動物なのだろうと華に想像させました。

「……あまりこの小屋から離れると、大きなけものに襲われるわよ、」

 おせっかいかとは思いましたが、森には人を襲う大きな動物もたくさん棲んでいますから、華は一応、忠告しました。伊佐奈は、ふっと、明らかに華を馬鹿にした様子で、口の端を吊り上げました。唇の薄い人間の方の顔はともかく、大きな口の、鯨の呪いがかかっている方の口などは、比喩ではなく、耳まで裂けたように見えました。

「襲う?」

 視界が、ゆらりと煙でにじみました。華が小屋の中で火にかけていた鍋から出たものではありませんでした。それが何か、華はよく知っていました。椎名もよく使うものだったからです。それは、かけられた呪いからにじみ出た魔力が目に見える形になったものでした。伊佐奈の黒い外套がぶわりと膨らんで、再び、大きな大きな鯨の尾鰭の形になって、華の上に黒々と影を落としました。

「何が、俺を、襲えるって言うんだ、」

 辺りの鳥達が、怯えて一斉に飛び立ちました。華はどこか無防備に、小さな子供のような仕草で首をそらせて、自分の上に影を作る、巨大な海の生き物の、歪な形を見上げました。

「あなたは、呪われていることを嫌悪しているのに、呪いに与えられた力を揮うことは、ためらわないのね」

 ぶん、と空を切る音がして、巨大な尾鰭が振り回されました。華は今度こそ、この呪われた王子の不興を買って殺されるのではないかと思いましたが、何故かぼんやりと立っていました。

「………………、」

 ぱちりと音がしそうなほどはっきりと視線が合って、伊佐奈の目は、憎悪でしょうか、憤怒でしょうか、ぎらぎらと燃えていました。けれど結局、尾鰭は空を切っただけで、華に振り下ろされることはありませんでした。

「貴様に、何がわかる」

 華は答えませんでした。ただじっと、伊佐奈の異形の姿を見ていました。しばらくすると、伊佐奈は尾鰭をまた外套の形に戻して、ぱっと背を向けると、小屋の周りの小さな庭の隅の、蘇芳の木の根元にどさりと腰を下ろしました。そしてもう、何も言いませんでした。

 華はそれから夕暮れまで、いつも通りに過ごしました。先ほど、自分が上に倒れこんでしまったせいで折れてしまった薬草を刈り取り、束ねて小屋の中に干したり、まだ無事に育ちそうなものは根から起こしてやって、支柱を立てたり、そんなことをしているうちに、椎名が仲間にしている動物が、ちょっとした怪我をしてやってきたのを見せてもらって簡単な治療をして、それから畑の草をむしってイモムシを除けたりしました。

 あまり大きくはない人間の目と、金色の大きな鯨の目と、左右非対称の一対の視線は気配が濃く、華は何でもない振りをするのにとても苦労しました。もともとおっちょこちょいなところはありましたが、今日はさらに、なんでもないところで転んだ回数はいつもの倍くらいでしたし、畑で鎌を使えば危うく自分の指を刈り落とすところで、何とかほんのちょっとの切り傷でとどめることができたのでした。にじんだ血をちゅうと吸って、とほほ、と息を吐けばもう、空気は茜色に燃えていて、木々の梢に空を覆われた森の中では、もう暗くなり始める時間でした。

「……逢魔ヶ刻だわ、」

 空を見上げた華がそう呟くと、ふと、伊佐奈が立ち上がって森の中へ消えていきました。それで、お昼過ぎから肩に入っていた力がふっと抜けて、華はへなへなとそこへ座り込みそうになって、あまりにも情けないと思い、何とかこらえました。

「きっと、夕ごはんを食べに行くのね」

 聞く者は誰もいませんでしたが、鯨に呪われた王子の気配に怯えて、いつもはたくさん辺りを行きかっている小動物の気配もなく、しんと静まり返った空気が嫌で、華はわざとそう、口に出して言いました。もう後姿も見えない、伊佐奈が消えていった方角の、闇の落ちた森を見つめて、どうも肉食らしい鯨という生き物の食事風景について想像してみようとして、ぶんぶんと首を横に振りました。

「私が勝手に想像したりするのは、無作法だわ。だって王子様は人間で、好きで鯨になったわけじゃないもの」

 華はいつも、動物のことが絡むと無神経な振る舞いをしてしまって、誤解されたり、嫌われてしまったりということがあるのでした。気をつけなければ、と今度はうんうんと頷いていると、小鳥達はもう巣に帰ってしまったようでしたが、夜目の効く樹上の小動物たちが、ようやくそろそろと小屋の周りに帰ってきた気配がしました。華は少しほっとして、自分も夕食を食べるために小屋の中に入りました。






あくまで「なんちゃってファンタジー」なので
社会の仕組みとか技術とか科学とか
詳しい時代考証はスルーしていただけると助かります
すみません
2012年1月7日