一昨日の夜からずっと食べている、大きな鍋の野菜スープを火にかけて温めて、戸棚から、もう乾いてかさかさになったパンの切れ端を取り出し、それに野いちごを適当につまむ簡単な食事を済ませると、華はランプの小さな灯りの前で今日の日誌をつけました。診療(のまねごと)日誌と、この森での暮らしの日記を兼ねている日誌でした。

 今日一日のことを思い出すと、血色の悪い王子様の顔と、皺のよった褐色の鯨の肌、そして暗い影を作った大きな尾鰭、じっと華を見据えた金色の大きな目のことが頭に浮かんで、日誌をつづる手は何度も止まりました。帳面にはいくつもインクの溜まった染みができ、書き損じをぐしゃぐしゃと消した毛虫のようなかたまりもたくさんできました。苦労しいしいやっと書き終えて、まったくひどい、子供が書いたようなありさまの帳面の今日のページを見て、大きなため息をつきました。

 華は、自分はどうしてこんなに心を乱されているのだろうか、と考えました。「呪われた王子様」と会うのはもう三人目でした。最初に椎名と会って、その時は本当に驚いて取り乱しました。次に志久万のことがわかった時には、それはその時にはずいぶん驚きましたが、それでも椎名のことがあったので、そんなに動揺はしませんでした。伊佐奈は三人目なのだから、志久万のときよりももっと、動揺しなくたってよさそうなものでした。なのに、なぜでしょう。

 伊佐奈がこの国の王子様だから?自分が世話になっている学院の出資者が呪われていたと知って動揺しているのでしょうか?……学生になってまだ日が浅い華は、学院の教師たちには世話になっていると実感を持って感謝していますが、正直なところ直接顔も見たことなかった王族の人間たちには心から恩義を感じているというわけではありませんでした。なんだか違う気がします。尾鰭でぶたれそうになったから怖かった?……いいえ、志久万たちに見つかった時には、華は自分の目の前で、自分を殺すの殺さないのと争っているサーカスの連中を見ていました。それに比べたらそんなに恐ろしかったと言うほどではありません。

「どうしてかしら、」

 自分のことなのに、考えてみても、華にはわかりませんでした。自分の気持ちに鈍く、他人の気持ちに疎く、人付き合いが上手くないのも当然だ、とまたため息が出ました。

 ランプの明かりがゆらりと波打つように揺れて、華ははっとして帳面を閉じました。華は獣を殺して採る油を使うのが嫌で、灯りにも高価な植物の油を使っていました。学生の華は植物油を十分に燃やすほどの資金は持ってはいませんでしたから、暗くなってからの作業は最小限にとどめ、日の出とともに目覚めて、日没が過ぎたらできるだけ早くやすむ、森での暮らしはそんなふうに回っていました。

 考えてもわからないことを考えていてもしかたない、早く片付けて眠ろう、と手早くペンと帳面をしまい、スープを食べるのに使った、木をくりぬいただけのおわんとスプーン、それに乾いた布を何枚か、左腕に抱えて、右手にはランプを提げて、華は小屋を出ました。

 夜空は、覆いかぶさるような木々の枝と、ところどころ雲がかかって、半分欠けた月が見えたり隠れたりしていました。日の暮れた森は、動き出した夜行性の動物達の気配があちこちにしましたが、椎名の仲間の動物たちから話(?)がいっているのか、華が危険を感じたことはありません。ふと、いまごろ、この広く深い森のどこに鯨の伊佐奈王子はいるのかしら、と考えて、慌てて首を左右に振りました。余計なことを考えて転んでしまっては、ランプがだめになってしまいます。

 森の入り口から、華が暮らしている小屋までの距離、それとだいたい同じくらい、さらに森の中へ入りました。そこには澄んだ水がたっぷりと湧き出している大きな泉があって、溢れた水は川となって流れ出していました。華は毎朝、この泉で水を汲み小屋の水がめに溜め、夜は眠る前にここで水浴びをしていました。

 泉の上には木々にさえぎられることなく、ぽっかりと丸く夜空が見えていましたが、今は雲に覆われて、月の姿はない濃灰色の空でした。湧き出して流れていますから、風がなくともわずかなさざなみを常に立てているはずの水面は、光もなく油のようにねっとりと沈んでいるように見えました。華はなんだか胸騒ぎがしましたけれど、周囲を見回してみても、深夜に水を飲みに来る大きな獣の気配も今はなく(華は数日前に、どうしても姿を見たくって、この泉のほとりの木の上に一晩隠れて、水を飲みに来る動物たちを徹夜で観察したのです)、いつもと同じ夜の泉です。

「考えすぎだわ、」

 色々な意味を込めて、華は自分に言い聞かせるようにぽつりと呟きました。水際にしゃがみこむと、油気もなく水で簡単にきれいになる食器を洗って、それから手早く着ていた服を脱いで、じゃぼんと泉に飛び込みました。

「はあ、」

 冷たい水に一日の汗が流れていって、いい気持ちでした。華はやっと身体の力を抜いて息を吐きました。泉のほとりに生えている、よい匂いのする草を束ねて身体をこすり、あかを落としました。ぶくぶくと頭までもぐって、髪をすすぎました。身体がすっきりすると、なんとなく心まですっきりしたような気がしました。華は水面に仰向けになって、ゆったりと浮かび上がりました。自分がたてていたばしゃばしゃという音がやむと、さらさらと湧き出した水が川になって流れてゆく音が聞こえました。風はなく、ときおり近くの梢から、ふくろうの鳴く声がしました。かさかさ、と草むらにいるのは蛇でしょうか。かえるの鳴き声もしました。

 そうやって、ぷかぷかと浮かんだまま、しばらくは森の静かな騒音に耳を傾けていた華は、はっと閉じていた目を開けて、泉の底に足をつけて立ち上がりました。そのままじっと耳を澄ませると、できるだけ水音をたてないように岸まで戻り、ランプの灯りを消して身体に布を巻き、近くの木陰に隠れました。

 華の耳がとらえたのは、ばしゃばしゃと川の流れを蹴立てて、何かが走る音でした。鮭をつかまえる熊でもなければ、そんな風に川に入ってばしゃばしゃと派手な音を立てるような動物なんて、華は知りませんでした。しかし、まっとうな人間がこんな時間にこんなところへ用があるともとても思えません。街から逃げてきた盗賊でしょうか?華は木の根元の草の陰にそっと身を潜めて、息を殺していました。

「でら水が少ない、しかも真水だ、」

 川を遡って黒く大きな影が姿を現し、低い低い男の声が、不思議なイントネーションで言葉を発しました。暗闇の中では、ぼんやりとした形しか分かりませんでしたが、頭の上には何か角のような突起が一本立っていて、背中から足元にかけてゆったりと広がるものを身につけているようで、じっと目を凝らした華は、王宮騎士の甲冑とマントを身につけた男かと思いました。それから、ぞっとしました。男のそばに生えている木の枝振りから考えると、いくら甲冑を身につけていたとしても、人間にしては大き過ぎたからでした。

 人間なのか、そうでない生き物なのか、華にとって悪いものなのか、そうでないのか、これから毎晩ここへ出没するようなら、水汲みの場所を新しく考えなくてはいけません。もう少し様子を探ってみよう、と思う気持ちと、殺されたら元も子もない、とりあえず今すぐ逃げよう、と思う気持ちがせめぎあって、迷いが華の足を竦ませました。意思に反して力の抜けてしまった腰が崩れて、がくりと手をつき、下にあった枯れ枝がぱきんと音を立てました。

「……誰かいるのか?」

 声の聞こえ方が変わって、その怪しい影が華のいる方へ振り向いたのが分かりました。きっと人間ではない、恐ろしい、逃げなくては、頭の中ではうるさいほどに警鐘が鳴り響いているのに、力が抜けてしまった手足はかくかくと、全く動いてはくれませんでした。

「こんな時間に、こんなところに、なぜ人間がいる」

 ざくざくと草を踏み分けて、近づいてきたその姿の、本当に巨大なことといったら、華はもういっそ、恐怖で気を失ってしまいたいと思うほどでした。

「……っ、ゃ、」

 少しの声も出ませんでした。黒い影が華の目の前に立ったとき、さっと雲の切れ間から、半分の月が姿を現しました。華は逃げることも、叫ぶこともせず、ただこぼれ落ちそうなほど目を見開いて、月明かりに照らされた黒い影を見るばかりでした。

 「それ」は、もちろん、鎧を着た人間などではありませんでした。頭の上の大きなツノ状の突起、のっぺりした真っ黒の顔、最初は仮面をかぶっているのかと思いましたが、よく見ればぎざぎざの歯が覗く巨大な(華の頭くらい簡単に入ってしまいそうでした)口があって動いていて、仮面や兜などではなく、間違いなく本物の「それ」の顔なのでした。巨大な身体には、誂えたようにぴったりの、王に仕える文官の純白の制服を身にまとっていました。ただ、胸元のスカーフは濃緑のはずでしたが、「それ」がつけていたのは濡れたような赤色で、やけに厚みがありました。

 王宮の文官の服を見て、恐慌状態だった華の頭にやっと、ひらめくものがありました。もしかして、椎名や志久万の仲間のように、鯨の王子様、伊佐奈が、呪いで姿を変えた海の動物なのでしょうか。

「俺たちがここに来ることを知っていたのか?」

 逃げる間も、抵抗する間もなく、真っ黒い大きな生き物は、華の両手首を捕まえて、ぶらんと宙に吊り下げました。乱雑に巻きつけただけの布が、太ももを掠めて頼りなく揺れました。

「なんだ、何かと思えば、お前か、」

 壁のように大きな黒い生き物の後ろから、聞き覚えのある声が聞こえました。さきほどひらめいた通り、やはり伊佐奈でした。濡れた髪に、あられもない姿で、黒い生き物に宙吊りにされている華の姿を、頭のてっぺんからつま先まで、何度もじろじろと眺めました。

「……やっぱり、お前、間が悪いとか言われないか?」
「よ、余計なお世話、」

 声はまだ力なく、少し震えていました。伊佐奈の顔が、とても意地悪そうに歪んで、華は悪寒にぞくぞくと鳥肌を立てました。

「このメスは、」

 華と伊佐奈の、罠にかかった兎と猟師のような構図に何度か視線を往復させた後で、大きな黒い生き物は、眉間(人間の顔とはずいぶん様子が違いましたが、おそらくそこが眉間のはずだと華は思ったのでした)にしわを寄せて、説明を求めるように伊佐奈を見ました。

「ああ、こいつが例の、」
「熊の呪いを解いたという?」
「そうだ」
「……誤解だったら、」

 華はうなだれて小さな声で呟きましたが、伊佐奈と大きな黒い生き物は、聞いた様子もありませんでした。

「ねえちょっと、はっ、はなしてよ、」

 吊り下げられている手首が痛くなってきました。丸裸の上に布を巻いただけの格好でいるのも心もとなく、自分が不審者でないことがわかったのなら下ろしてくれ、と華は脚をばたつかせて主張しました。黒い生き物はまた視線で伊佐奈に訊ねました。

「貸せ、」

 伊佐奈が、鯨の皮膚に覆われた左腕をさっと伸ばしてきました。昼間と同じに黒い外套を身につけていましたが、袷を閉じてはおらず、中に着ている装束が華にも見えました。ところどころに金モールの縁取りと、金色の金具が使ってあるほかは、まったくの真っ黒のびろうどで仕立てられた高い襟の上着に、皮製の幅の広い剣帯を締め、やはり墨を流したように真っ黒の細身のズボンを穿いていました。まるで喪服のようでした。

「、やっ、いた、」

 驚いたことに、ひょろひょろとして顔色の悪い、不敬を承知で言うならば「もやしっこ」という形容がぴったりの王子様は、黒い大きな生き物と同じように、片手でひょいと華をぶら下げました。

「放してったら!」

 近い距離で顔を覗き込むようにされて、華はまたばたばたと暴れました。大きな黒い生き物と違って、痩せた伊佐奈ならば、華が暴れればよろけて手が緩むのではないかと思いましたが、それこそ魔法を使ってでもいるように、鯨の皮膚で覆われた褐色の手はびくともしません。それでも何とか、ばし、ばし、と自由な脚で高級そうなびろうどの服にむかって蹴りを入れていると、身体に巻きつけていた布の結び目が緩んできました。

「あっ、わっ、や、やだっ」

 慌てて動きを止め、身を固くしてももう遅く、華の身体を覆っていた布がゆっくりと滑り落ちていきました。ついさっきまで雲の陰に見え隠れしていた半分の月は、こんな時ばかり、夜空にぽっかりと浮かんで、真っ暗な森の中の泉と、そのほとりにいる三体の動物を照らしていました。

「は、はなしてっ、下ろしてよ!みっ、み、見ないでよぅ、」

 黒い動物は伊佐奈の指示がなければ何もしないようで、彫像のように微動だにせず、黙って立っていました。伊佐奈も何も言わず、華をぶら下げている以外には何もせず、ただじっと、身体を隠すものが何もなくなってしまった華を見ていました。華は最初のうちは叫んだり、何とか逃げられないかと腕に力を込めてみたり、視線を遮ろうと身体をよじったりしましたが、何の効果もないとわかると、語尾は次第に鼻声になって濁り、それでも泣くのはどうしても嫌で、ぎゅっと口を閉じて唇を噛みました。本当はもう目も閉じてしまいたかったのですが、視線を反らしたら殺される、というのは自然界の鉄則でしたから、嫌だと思ってもどうしても涙の溜まってしまう目をきっと開いていました。

 白い月の光が、開花寸前のつぼみのような、十代の少女の身体を照らしていました。物語には、「月光のように白い肌」などと深窓の姫を賞賛する言葉が出てきますが、学院では厩舎と農場に通いつめ、この暑い季節に森で暮らしているため、華は浅黒い肌をしていました。けれど、決してたおやかではない筋肉のついた手足と、はりのある肌は、生き物としての躍動を感じさせ、生命力に溢れた、美しいものでした。濡れたままの髪の先からぽつんと肩に落ちた雫が、美しい珠になって、身体の中心を転がり落ち、骨盤の辺りで止まりました。伊佐奈の視線が、じっとそれを追うのを感じて、華は羞恥でかっと全身が熱くなりました。

「……何だ、そりゃ、」

 ふと、ずっと黙っていた伊佐奈が、何かに気づいたように口を開きました。人間と鯨と、左右非対称の一対の視線の見ているものが何なのか知る前に、伊佐奈が人間の方の手をすっと伸ばしてきて、華はびくりと身を竦めました。

「転んだ……違うな、こんな場所に」

 すべての指に装飾具のはまった、重く冷たそうな手が触れたのは、華の脇腹にあった、どす黒い打ち身の跡でした。

「ああ、あちこちにあるな、自分からぶつかったんじゃねえ、ぶつけられた、……投石、か?」
「いっ、」

 脇腹の背中寄りの部分、ひときわ大きな内出血の上を、手加減もなくぐっと押し込まれて、華は呻きました。伊佐奈の言うことは、当たっていました。一国の王子が、怪我を見ただけで、どうやってできた傷なのかわかるほどの医術の知識を持っていることに、内心で驚きました。

 少女一人を難なく吊り下げていた細腕が下りて、素足の先をようやく地面につけることができた華は、解放されるのか、とほっとしたところへ急に足払いをかけられて、柔らかな草の上に、どさりと仰向けに転がりました。背を打ち付けて、けほ、と軽くむせ、何が起こったのかわからないでいるうちに、伊佐奈が華の身体を跨いで、上から覆いかぶさるようにしました。黒く、生き物の厚みを持った外套が痩せた背から滑り落ちて、華の身体の脇に天蓋のように垂れ下がりました。

 ある意味ではのんきなことでしたが、華はここでようやく、自分はいま、貞操の危機にあるのではないか、ということに気づきました。息を吸おうとして、ひく、としゃっくりのように喉が引き攣りました。

「や、っ、ぃ、さ、さわらないで」

 伊佐奈がまた、さっきとは別の打ち身の跡を指でくっと押しました。水浴びをしたまま、濡れた身体で、裸で、冷えた肌よりももっと、伊佐奈の指は冷たく感じられました。昼間、服の上から「いい乳」と判断された胸は、豊かな脂肪に森の暮らしで鍛えられた筋肉が手を貸して、仰向けになっても柔らかく隆起した、やはり「いい乳」でした。醜く変色した狼藉の跡に伊佐奈が触れるとびくりと身体が揺れ、陽に当たることもなく白いままの乳房も、ふるり、ふるり、と震えました。淡く染まった隆起の頂点は、縮こまって怯えていました。

「学院内で揉め事でもあったのか?投石とは穏やかじゃあねえな」

 かたかたと歯の根を合わせられず、青ざめて震えて、問いに答えることもできない華の様子を見て、伊佐奈の眉間に寄っていたしわが、ふっと解かれました。

「お前、つくづくおもしれえ、鯨の尾鰭で叩き潰されるより、人間の男に襲われるほうが怖いのか、」
「やだ、やめ、っ」

 とうとう華は、私は今獣に噛み殺された、と思いながらぎゅっと目を閉じました。昼間のようにまた伊佐奈の手が伸ばされて、もにゅっと胸を鷲掴みにしました。昼間と違ったのは、華の乳房と伊佐奈のてのひらの間には、遮るものが何もないということでした。人間の方の手でしたが、本当に冷たく、そのまま胸から心臓まで冷えて止まってしまいそうでした。伊佐奈は柔らかな肌に指を埋めて、尖った頂にてのひらを押し当て、あったけえ、と呟いて、そしてすぐに手を離しました。

「勘違いした貴族のバカ息子にでもちょっかい出されたか?」

 くっくっと笑う声が聞こえ、華はそっと目を開けました。けれど首を横にむけて、視線を合わせるのは避けました。学院には身分関係なく入学でき、人付き合いが下手で身体ばかりが発達した庶民の娘の華に目をつけて、何かと噴飯ものの話を持ちかけてくる「勘違いした」貴族の子弟は確かにいましたが、暴力をふるわれたり、襲われたり、ということはありませんでしたから、ぎこちなく首を横に振りました。

「が、学院で、できた痣じゃ、ない」
「じゃあここへ来てからか。……あばら、浮いてるぞ、肉食えよ」

 つうっと人差し指が、あばらをなぞってまた離れました。どうも伊佐奈は、気まぐれに華の身体に触れては、その反応を見て楽しんでいるようでした。それがわかったからといって、恐怖心も羞恥心もなくなるわけではなく、華にはどうすることもできませんでしたが。何故こんなことを、しかも裸で、この国の王子に言わなければならないのか、と華の心の中では色々な感情が渦巻いていましたけれど、この体勢で無駄に抵抗したところで、華の状況がますます不利になるのはわかりきっていましたから、のろのろと口を開きました。

「……森の中で、園長と話してたところを、牧場の子供に見られて、」

 ふん、と伊佐奈は鼻を鳴らしました。また「間が悪いな」と言いたかったのでしょう。すっかり悲しくなって、まばたきをすると、ついに華の目尻から、ぽろりと涙の粒が転がり落ちました。伊佐奈はそれをじっと見て、耳の辺りまで裂けている巨大な鯨の口をがぱりと開くと、そこから牛のような大きな舌を出して、まつげに溜まった涙とこめかみまで伝った跡を舐めました。生暖かくねっとりした感触に、ひゅっと息を吸い込んで、華は硬直していましたが、鯨の舌はなんだか優しい気がする、とも感じていました。

「それで、化け物と知り合いの、森に棲む魔女だって言われて、大人は誰も信じてないけど、子供達は私の姿を見ると、森から出てくるなって、」

 涙で濁った声は、石を、とははっきり言えませんでした。その前日まで、ヤギが怪我をしたみたいなの、学生のお姉ちゃん、と懐いてくれていた子供達が一転、憎悪をむき出しにしてきたことは、それは悲しいことでしたが、華の中ではもう諦めがついたことでした。けれど、裸で転がされて、いたずらに身体に触れられたり、痣だらけの醜い身体について問い質されて、子供達に石をぶつけられたことを話していると、ただもう惨めな気持ちでいっぱいになりました。伊佐奈はまた、ぽろぽろといくつか連続で転がり落ちた華の涙を舌で撫でました。

「海水と似た味だが、海水よりはうまいな、」
「……なにそれ、」

 海水というのが舐めた涙に対する感想だということに気づいて、なんだかもう、色々とどうでもよくなってしまった華は、相変わらず全裸でしたが、ふっと力を抜きました。

「お前は、人間が苦手なんだな、特に男、」

 否定することはできませんでした。子供の疑いさえ解くことの出来ない華が、まともな人付き合いや、恋人など、できたわけがなかったのです。

「……そうよ、」

 華はゆっくりと横に向けていた首を戻して、もう一度伊佐奈の顔を見ました。すると、華の手首をずっと拘束していた鯨の手が緩み、伊佐奈は華の上からどきました。そしてずっと黙って突っ立ったままだった、黒い大きな生き物に何か指示を出すと、黒い生き物はすぐ近くに放り出されていた華の服と食器とランプを持ってきました。のろのろと草の上に身体を起こした華の上に、ばさりと布が掛けられました。半分湿った布が、驚くほど暖かく感じられて、それで華は自分の身体が冷え切っていたことを知りました。

 伊佐奈は立ち上がって、さざなみが月光で白くなっている泉のほうを見ました。目を反らしてくれているのだと気づいて、華はようやく身体を拭き、服を身につけることができました。大きな黒い生き物は、ざばざばと波を蹴立てて、泉の中で水を被っていました。

「お前、学院は何年目だ?」

 なぜ今、そんなことを訊かれたのかはわかりませんが、華はとりあえず答えました。

「に、二年目」
「ふん、じゃあまだ、口の悪い上級生どもの噂話からは遠いか、」

 学院は基本は六年で修業しました。もちろん、六年経っても学問を修められずに学院にとどまる者もいましたし、六年よりはやく才能を認められて働きに出る者もいました。王立学院は、王宮が優秀な人材を発見するために設立されたものですから、卒業生は王家に関わる仕事に就く者が多いですし、在学生でも、王宮に入って手伝いをする者もありました。そういったところから、王家に関する口さがない噂が漏れて、学院の上級生は王家の情報通を気取っている者が大半でした。

「もうずいぶんな噂になってるが、俺は、「男」としての機能が無い、ということになっている」

 動物のことを学ぶのに、性行動に関する知識は欠かせませんから、華はすぐに意味が分かって、思わず伊佐奈の下腹部に視線をやり、慌てて横を向きました。

「考えてもみろ、」

 華が服をすべて着終えたことに気づいたのでしょう、伊佐奈は振り返って、一人分空けたくらいの距離の、華の隣に、どさりと腰を下ろしました。

「十歳になって十日も経った頃だったか、俺に礼法を教えてたババアが真夜中にいきなり部屋にやって来て、失礼しますとか言いながらいきなり布団はがされてチンポをしごかれるわけだ、」

 華は何と返事をしたものかわからず、変な顔をしながら、この話がどこへ着地するのか、黙って成り行きを聞きました。

「そんで、射精できなけりゃ、少しお早いようでしたわね、失礼いたしました、ゆっくりお休みくださいませ、とか言いながらババアは退室して、ひと月ごとにその繰り返し」

 つまり、現国王のたった一人の息子である王子様に、子孫を残す能力があるのかどうかの試験、ということでした。間違いが起きないようにわざわざ、もう生殖能力のない、高齢の女性が寄越されたのでした。

「そんなんで女に興味がもてるようになるわけもねえ、勃つもんも勃たねえつーの」

 女性として考えたのならば、月経があったかどうか、毎朝、下着や排泄物を調べられるというのと同じことでしょう。たったいま自分がされたことも一瞬忘れて、華は、王位があるというのも大変なんだなあ、伊佐奈の人格がとんでもなく歪んでいるようなのも、仕方のないことなのかもしれない、といたって庶民らしい暢気で感情的な感想を持ちました。

「つまり俺は、人間が、特に、女であることを主張して近寄ってくる女が、嫌いだ。けどこのままじゃ、俺は呪いが解けたところで、『王子様』じゃなくなるだろうな」

 伊佐奈はそこで、華を見ました。

「お前の乳は悪くなかった」
「……っ、」

 しゃあしゃあとそんなことを言ったものですから、華は、伊佐奈をぶん殴ってやりたい、と思いましたが、性格が歪んでいるのは仕方がない、と何度も心の中で唱えて、こらえました。

「お前は俺の女嫌いを治すのに協力する。俺はお前の社交術習得に協力しよう。どうだ?」

 ぐっと奥歯を噛みしめて、華は伊佐奈の言ったことについて考えました。華にとって悔しいことには、確かにそれは、ありがたい申し出でした。動物の世話をするということは、その飼い主と交流するということでしたから、華が本当に動物に関わる仕事をしたければ、社交術を磨くことは、必須でした。

「………………もう私を裸で吊るしたり、む、胸を触ったり、打ち身を押したりしないのなら、」

 唸るような華の言葉で、伊佐奈は笑いました。それは、皮肉気でも嘲笑でも、鼻を鳴らすのでもない、不器用だけれど、本当の微笑みでした。その顔を見たら、華は毒気を抜かれてしまいました。もともと、お人よしの性質なのです。伊佐奈は、握手だ、と鯨の皮膚に覆われた左手を差し出そうとして、慌てて引っ込め、人間の右手を差し出しました。

「あなた、本当は、左利きなの」
「今は、両利きだ、」

 華は、人間の手同士、右手で握手して、それから、左手も差し出しました。伊佐奈はむっと眉間に皺を寄せて、だまってその手を見ましたが、何十秒か、華がそのままの姿勢で立っていると、しぶしぶと鯨の手を出して、そっと華の手を取りました。

「握手ね、」

 華が、握った手に力を込めた時でした。さらさらと伊佐奈の手が崩れるような感触がして、ぎょっとしました。

「なん、」
「まさか、」

 伊佐奈の左手を醜く覆っていた、皺だらけの褐色の肌がはがれて、人間の皮膚がその下から現れました。左手が、元に戻ったのです。はっとした伊佐奈が、両手でぺたぺたと顔を触りましたが、華の目にはっきり見えている通り、顔の半分はまだ鯨のままでした。

「左手の呪いが解けた、」

 それでも、呆然として、伊佐奈は自分の左手を見つめています。服の下がどうなっているのかは華は知りませんが、これで伊佐奈の見えている部分で呪われているのは、頭の左半分だけになりました。

「お前、もしかして、兎と熊にも素っ裸で吊るされたのか?」
「バカなこと言わないで!」

 呪いが解けたことと華との関連性に、とんでもない仮説を持ち出されて、真っ赤な顔で怒鳴りながら、華は、きっと良い王様というのは、伊佐奈のように知識を詰め込んだだけではだめで、椎名のように仲間から慕われるだけでもだめなんだろう、と思いました。呪いを解く鍵がそこにはありそうでした。このワガママで人格の歪んだ王子様と生活をするのは、華にとってもこれ以上ない、人間関係の修行に(むしろ苦行の域かもしれませんでしたが)なりそうでした。不安材料は数え切れないほどありました。けれど、何かきっと、華にも、伊佐奈にも、椎名にも、良い方向に、何かが起こるという予感がしました。

 真夏の森で、華と伊佐奈の奇妙な共同生活は、こんな風にして始まりました。









冒頭にも書かせていただいた通り
【パラレルお題作ったー】より
「伊佐華で病院パロでR18な作品を9時間以内に9RTされたら書(描)きましょう。」
というお題をいただきました
やたらシモく、ゲスくなっただけで
R18の部分が達成できませんでした
ていうか医者とか治すとか言ってただけで別に病院パロでもない
ふがいない

始まりましたと言いつつこれで終りですが
このあと椎名の国と伊佐奈の国の間であわや戦争の厳しい外交を繰り広げて
それに三人が巻き込まれたり
呪い主と戦うバトル展開になったり
怒涛の夏休みを終えて学院に戻った華の前に
学院の一般教養の講師に就任した伊佐奈が現れて学園ラブコメになったり
華ちゃん相手じゃなきゃ勃たない伊佐奈が
華以外の女とはセックスしないとダダをこねて
華ちゃんが命を狙われるハーレクインになったりします
たぶん

ここまで読んでいただいてありがとうございました!
2012年1月13日