暗闇の中を綿雪が舞っている。丑三ッ刻水族館の最上階、館長室、この部屋のあるじが、大きな窓の縁に腰掛けて、闇に目を凝らすでもなくぼんやりと、ライトアップの照明が浮かび上がらせた頼りない小さな白を目で追っている。腰掛けるというほど安定した姿でもない、窓の下の少しの出っ張りに尻を乗せて、外気によって冷やされた氷のように冷たい窓ガラスに、くったりと上半身を預けているだけだ。
湾岸地域で珍しく雪が舞うほどの寒さの中、わざわざ水族館へ来ようという酔狂な客も少なく、色とりどりのLEDが人のいない敷地内をむなしく照らしている。そんななか、駅からまっすぐに伸びる遊歩道を、必死に駆けてくる小さな人影がある。黒い髪が動きに合わせて揺れて、イヤーマフが見え隠れする。大きな荷物を両手に抱えていて、傘も差していない。蒸気機関車のように白い息を吐いて、ひたすらに走ってくる。伊佐奈に向かって。
それまで茫洋としていた視線が、急に光を取り戻した。転んで荷物を台無しにしてしまわないためだろう、少女の影は下を向いてつむじばかりで、はるか上の窓辺にいる姿には気づきそうもない。無表情だった青い顔に、ふ、と笑みが浮かぶ。鯨の皮膚に覆われた生きたコートを揺らして、伊佐奈は立ち上がった。扉を開けて、館長室の裏側にある私室に向かい、電気ポットの湯が沸いていることを確認し、暖房を強くする。それから、ふかふかとした大判のバスタオルを取り出した。少し前まで、どれもこれもこの部屋にはなかったものだ。彼が、必要としなかったものだった。
五分も経たないうちにばたんと扉が開いて、息を切らした少女が飛び込んできた。はあはあと頬と鼻の頭を真っ赤にして、あまり長くもないまつげには綿雪を纏いつかせている。
「今日はここに居たんだ、外、すっごいさっむいよ!」
伊佐奈の顔を見てこれほど屈託なく笑う人間など他に居やしない。ずっと締め切った閉塞した部屋の中に、雪を含んだ湿った外気の匂いをさせて、蒼井華は両手に持った荷物のうち、まず大きな白い箱を机の上に置いた。
「ケーキ買ってきたよ!もー、伊佐奈が特にリクエストはないって言うから、迷っちゃったよ、そういうのってかえって、難しい、」
賑やかに喋りだす少女の高くて甘い声と、白い箱から漂う甘い香りと、それらを楽しみながら、伊佐奈は華の頭からばさりとバスタオルをかけて、上からわしゃわしゃとかき回した。
「うわっぷ、ん、ちょっと、髪がぐしゃぐしゃになるっ」
「いつもボサボサだろ、割と」
「ひどいっ」
タオルをかき分けて覗いたふくれっつらは、暖かい部屋で溶けた雪で少し濡れていて、赤く染まった頬と湿った漆黒の髪が愛らしい。思わずかがんで、ぺたりと人間の頬を少女の頬につけた。
「今日はさすがに私のほっぺたの方が冷たいね」
勝った!とよくわからない喜び方をしている姿の、何もかもが愛おしかった。頬に張り付いた濡れた髪をさらりと払って、唇を当てる。
「ねえ、今日、仕事は?もしかして、皆からプレゼントでお休みもらったとか、そんなの?」
「違え、ただのサボり」
「こら!」
こら、と言いながら華はくすくす笑っている。伊佐奈も笑って、いくつもいくつも唇で触れた。華が首を曲げて、唇と唇が触れるようにした。
私室から館長室まで、コーヒーの香りが満ちた。コーヒーメーカーのぽとぽとと琥珀色の液体を落とす音が響いて、やがて静かになった。持ち込んだ荷物を、冷蔵庫や食器棚、あるべき場所へ片付けて、コートを脱ぎイヤーマフを取った華は最初のうちこそ仕事に戻らなくていいの?と時計を見てそわそわしていたが、伊佐奈がもう仕事に戻る気がないことを見て取ると、今度は、二人でゆっくり過ごすことできる、ということにそわそわしている。
華は、多忙な伊佐奈を拘束することを恐れていて、ここへ来て顔を見れば弾丸のように喋る言葉をぶつけてくる。けれど時間があるとわかれば今度は静かになって、二人で一緒に居る、空気そのものを大事にしようとする。
館長室の、普段は室内側を向いている椅子を窓の方へ向けて座っている伊佐奈のところへ、私室の方から華の手でコーヒーカップと、ケーキ皿と、フォークが、それぞれ二つずつ運ばれた。コーヒーメーカーから取り外したサーバーとケーキナイフも運ばれて、普段はパソコンと書類で埋まっている机の上が、束の間、華やいだ空気に満ちる。
「ここ、座れ」
「ええ、椅子持ってくるよ?」
執務机の椅子は当然、今伊佐奈が座っている一つだ。机の方を向いて座りなおして、ここ、と膝を指で示すと、寒さの所為ではなく頬を染めた華は視線をさまよわせて、少し尻込みする素振りをした。もちろん無視して、ぐいと手首を引けば、それ以上抵抗する様子もなくちょこんと横座りになった。
「あ、あのね、ケーキ、伊佐奈が何でもいいって言うから、迷ったんだよ、もう一週間くらいずっと、授業中まで考えてたんだからね」
そうやって、自分のことをずっと考えて欲しかったのだ、と言ったら、怒るだろうか。逃げていかないように腰に手を回せば、それで姿勢が安定したのか、華は膝の上から器用に給仕をする。私室の方は灯りをつけていたが館長室の照明は落としていて、扉から漏れてくる蛍光灯と、窓から入ってくる遊歩道の水銀灯が、まるで雪明りのように仄かに室内を照らしていた。
「じゃーん、」
箱の形状からだいたい予想はついていたが、ケーキは18cmのホールだった。白いクリームと、赤いイチゴと、それからチョコレートのプレート。
「誕生日おめでと!……まだちょっと早いけど、」
1月31日の23時過ぎ、あと数時間をフライングだと、膝の上からはにかんで笑う。伊佐奈の顔に影が落ちて、鯨の噴気孔のあたりで、ちゅっ、と音がした。人間の皮膚と違って鯨の肌は、頑丈な代わりにそれほど敏感でもない。残念なことに、唇を押し当てられただけではよくわからない。以前一度だけ、そう言ったのをずっと覚えていて、華は鯨の方の顔にキスをするときは、下手でも必ずリップ音をさせる。
「はい、あーん、」
クリームの中から、「おたんじょうびおめでとう」と書かれたチョコレートを指で摘んで引き抜いて、伊佐奈の方へ向けてくるのを、素直に咥えた。
「ん、」
端を唇に挟んだまま、華に向かってあごを上げて突き出せば、やはりこちらも素直に、赤い顔で反対の端が咥えられた。ゆっくりと口に入れて、けれど真ん中で華がぱきんと歯を立てる。横を向いてもごもごと咀嚼する、耳が真っ赤になっているのを見れば、唇が合わせられなくとも何の不満もない。
「……で、だから、ケーキ!」
ごくんとチョコレートを飲み込んで、華はわざとらしく咳払いをした。それを見ている伊佐奈は、顔がにやついている自覚はある。
「伊佐奈はお子様味覚だから、プリンケーキにしたの。スポンジの間に、プリンが挟まってるやつ、」
「食ったことねえな、」
「でっしょー」
伊佐奈がずっとマッコウクジラとして深海で「エサ」を食べていたことには華は触れないし、伊佐奈も触れない。ただ得意そうな笑みで、華はケーキを切り分ける。粗忽者が奇跡的に、クリーム、スポンジ、プリン、スポンジ、の層を美しく出してピースケーキを皿に乗せた。
「雪みたいだな」
白く柔らかなクリームにフォークを差し入れて、ふとそんな言葉がこぼれた時、華が伊佐奈の顔を覗き込むようにした。
「私がここに来た時も、ついさっきも、外、見てたね。雪?」
「、綺麗だな」
何かを褒めることがあまり無い伊佐奈の言葉に、華は軽く目を見張って、それから柔らかく目元を和ませた。
「雪、好きなの、」
「好きつうか、」
言いよどんで、視線をさまよわせた伊佐奈の手から華がフォークをそっと取り上げて、一口分すくったケーキを口元へ差し出した。口に含むと、すっと溶けた生クリームと、ほろりと崩れたスポンジに、なめらかなプリンの、卵の素朴な味も、食感も、何もかも優しいケーキだった。華の言うとおり、子供の好む食べ物、それを凝縮したようだと思った。
「……お前なら知ってると思うが、」
「、マリンスノー?」
もうすっかり乾いた髪をさらりと揺らして、首をかしげた華が言う。ふ、と笑い混じりのため息が出る。
「潜っていくと、だんだん暗くなる。1000mを越えたあたりで急に水温が下がって、4℃、3℃……水圧で身体もどんどん圧迫されて、それでも食いもんがある深海へ下りる。潜水するのも時間がかかるが、浮上する時間も考えなきゃならん。行動は鯨なのに、思考は俺の、人間のままだから、暗闇の中で意味分からん形の生物にいくつも行き会うと、頭がおかしくなりそうな気がした」
今伊佐奈の膝の上にある身体は、体温を持ったむっちりした肉をつけて、シャンプーや、ケーキや、それから少しの汗、動物園の藁や動物の糞の匂いをさせている。それをぎゅっと抱き締める。熱と質量。地上の太陽の下を生きる人間の匂い。水とは違う、力を入れても腕の中に残るかたち。
「気がつけば、白い、雪みたいなかたまりが、ゆっくり、いくつも、無数に、止むこともなく、ずっと、降ってる。雪と似てても、あれはほとんどが生物の死骸だ。どこかにある海底火山の硫黄の匂いや、腐った深海魚匂い、それに群がる甲殻類が争う音が、振動になって伝わる、」
叫びだしたいこともあった。けれど、1000mを越えた深海でパニックになれば、窒息して死ぬだけだ。
「夜の雪は、深海を思い出すから嫌いだった、でも」
華のうなじに唇をつけると、ふる、と震えた後、ん、とかすかな声がした。その篭った鼻声も、身じろぎの衣擦れの音も、温度を上げたうなじから上る少女の肌の匂いも、全く悪くない。
「ここは地上で、あれは凍った水で、部屋の中はお前の匂いがする。……夜の雪ってのは、綺麗なもんだな、」
抽象的な物言いになった自覚はあったが、華は伊佐奈を笑うこともなくぎゅっと抱き締め返して、あったかい部屋で冷たいもの食べたり、冷たい雪を綺麗だねって眺めるのは、最高の贅沢だよ、と暢気なことを言ったので、伊佐奈が言いたかった事はちゃんと伝わったのだ、と思った。
「ねえ、今日は、ここの床に布団敷いて、ここで寝ようよ。それで雪見ながら、深海の話、して?」
「おう、図鑑なんかより正確で貴重な話をしてやろう」
華は、わあい、と歓声を上げて、大げさなほど、何度もちゅっちゅと音をさせて、鯨の顔、人間の顔、区別なくいくつもキスを落とした。伊佐奈はただ目を閉じて、海の中でマリンスノーが顔にぶつかる感触と似ていながら、決定的に違う柔らかで温かい唇を享受した。
深海のぞっとするような光景を忘れることはないだろう。けれどこれからは思い出すたびに華にその話をする。そうすればそれは、暖かい部屋でガラス越しに見る夜の雪のように、綺麗なものになる。
「もうすぐ日付が変わるよ、」
わくわくした顔で、華が伊佐奈の手を取って、手首の腕時計を覗き込む。自分がこの世に生を受けたことを、祝福しようとしている存在がある。これ以上の贈り物があるだろうか。もう一度、祈るように下りたまぶたの上に、華の唇が触れた。
ただいま2/1の午前2:35
1:37に更新するくらいの根性を見せやがれ!
と自分ながら思うのですが
後の祭りです
館長お誕生日おめでとうございます!
外面が人間に近くても内面が人間から遠かった館長が
華ちゃんと一緒に少しずつ人間らしくなる
未来がくることを祈ってます!
2012年2月1日
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