蒼井華は動物が好きである。それは別に、図鑑に載っているような野生動物ばかりを好んでいるというわけではなくて、別に、飼い馴らされたペットの犬だって猫だってインコだってハムスターだってヤドカリだって熱帯魚だって好きなのだ。だから日曜日の朝、バイトにやって来た華が動物園前のバス停でバスを降りたとき、華よりかは幾分年上の男性にリードを引かれた、甘い栗毛の陽気なアイリッシュ・セターを見かけた華の脳裏をよぎったのは、「うおおおおおお!モフらせろおおおおお!!」の一言だった。

「お、おはようございます」

 犬よりも飼い主に警戒されることを恐れ、華はまず無難に声をかけた。このあたり、徒歩で犬の散歩に来られるような範囲に民家があったとは知らなかった。もしもご近所ならば動物園の騒動で迷惑をかけることもあるかもしれないし、愛想は良く振舞っておくに限る。決して、仲良くなっておっきなわんわんを好きなだけモフり放題!なんて下心ではない、決して、と心の中で言い訳を並べながら、よそゆきの笑顔を浮かべる。

「おはようございます!」

 幸いなことにアイリッシュ・セターを連れた青年は、大型の猟犬を飼っているだけのことはある体育会系の爽やかな笑顔で華に挨拶を返してくれた。きちんとしつけが行き届いているようで、簡単な指示できちんとお座りして、ワフワフと飼い主と華を見上げている。その人懐っこそうな顔と、お座りして華の腰あたりに頭が来る立派な体格、手入れの行き届いた艶やかな被毛。華はヨダレを必死で隠した。

「この辺りにお住まいなんですか?」
「そうですね、って言っても、ここから5qは離れてますが。こいつが運動好きなもんだから」

 立ち話で青年から、バス停で五つ先の住宅地に住んでいること、休日は犬をたっぷり遊ばせるためによくこのあたりまで走ってくること、青年が大学生であることなどを聞き出した。休日はみんなが姿を見られないように注意、とこっそり心の中に書きとめる。華がそこの動物園でバイトをしていると言えば、営業してたんですか!?とお決まりの反応が返ってきた。

「あ、すみません、失礼なことを」
「いえ、……よく言われるんで」

 顔が引き攣ってしまうのは仕方がない。

「あ、あの、触らせてもらっても、……?」
「えっ、ああ、どうぞどうぞ、大きいですけど、噛んだりしませんから、」
「ありがとうございます!」

 よっしゃあああ!とばかり、華はさっとしゃがむと、犬と同じ目線になった。目はあわせない。鼻先が近づいてきて、ふんふんと匂いを嗅がれる。

「ちょ、ちょっと、触らせてね?」

 ちょっと、というのはまあ、言葉の綾である。ちょっとで済ますつもりは毛頭ない。アイリッシュ・セターはもともと人懐っこくやんちゃで遊んでもらうのが大好きな、甘えん坊の犬種である。遠慮がちななでなでから、激しいハグに変わるまで時間はかからなかった。

「あー、よしよし、いい子だねー、可愛いねー」

 でれでれになった華のスキンシップに犬の方もワフワフペロペロとお返しをくれる。存分にモフりモフられ、お互いにボサボサになったところで、やっと離れた。

「すみません、綺麗な毛並みを乱しちゃって」
「構いませんよ、どうせこのあと運動したらいつもぐしゃぐしゃですから。それにしても羨ましいな、こいつ、あなたみたいな可愛い子に撫でてもらえるなんて」

 爽やか青年はお世辞を言っても爽やかである。土日は朝夕と二回このあたりまで来るから、良ければ夕方リードを引いてみませんか、という大層魅力的なお誘いを華は断腸の思いで断った。今日は日暮れまで働いたあと、水族館へ行く予定だった。

「すっごく嬉しいんですけど、バイトのあと行かなきゃいけないとこがあって」
「そうですかあ。……あっ、もしかして、デート、とか、」

 その時華の脳裏によぎったのは、あの冷たい鉄のヘルメットが頬に当たった時の感触だったかもしれないし、その向こうからくぐもって聞こえる「華、」という低い声だったかもしれない。もしかしたら、普段は冷たいのに夜になると急に温度を上げる、骨ばった指輪だらけの手だったかもしれない。とにかく、華はものも言わずにかあっと赤くなった。青年も何も言わずにリードを引いて立ち去った。飼い主にとっては世界で一番可愛い自慢の犬だろう。せっかくの申し出を断って、気を悪くさせたかもしれない。


「……ブスはフラグ立てんのもへし折んのも上手いよねー!」
「うわっ、いつからそこにいたんですか道乃家さん」

 おっきなわんわんは名残惜しいけれどさてお仕事、と振り返れば、門の前にはメイクも髪も弄ってない道乃家が、ジャージに首タオルで立っていた。朝のランニングをしていたらしい。口は悪く、いつでも人を煙に巻くような態度だが、目指すものに対して妥協はしないところは尊敬している。むしろ、煙に巻くような態度は、真面目な自分への照れ隠しのように思えた。

「いつだっていいっしょ!ていうかクサッ、犬クサッ、近寄んないでくれる!?ウチはトイトイだけで手一杯なのよねー」
「はいはいすみません、すぐ作業服に着替えますから、わっ、もうこんな時間!?」

 時計は普段華が出勤する時間より十五分ほど進んでいた。

「気づくのがおーそーいーのーっいい加減にしろっつうのよ」

 ふと、道乃家のランニングは疾うに終わっているのではないかと思った。この時間ならもういつもはテントの方にいるはずだ。もしかして、と華は考える。華が遅いから、人間で外に出られる道乃家が、バス停まで見に来たのではないか。

「はい、すみません……ありがとうございます」

 嬉しくて笑ってしまう。華がお礼を言ったらぷいと横を向いたのが、推測が当たっている証拠だと思った。


 朝から全開で遊んでいる椎名は華がいつもより遅いことに気づいてもいなかった。それでもこそこそと華の部屋へ入ってさっと作業服に着替える。ロッカーの内側に貼られている歪んだ鏡を覗けば髪はボサボサでところどころアイリッシュ・セターのヨダレや毛がついていた。さかさかと軽く整えて首にかけたタオルでヨダレをぬぐえば、それだけで身支度は完了だ。

「おはようございまーすっ」

 ブラシを持って声をかければ、開園前の時間、変化している動物たちが集まってくる。椎名からはもちろん朝食は与えられず、腹を減らして待っていた動物たちに、今日はちょっと遅かったね、と声をかけられ、おっきなわんわんをモフってた、などと言えるはずもなく、ごめんね、ちょっとね、と言葉を濁して朝の配給の支度をする。ふと、じとっとした視線を感じた。シシドだ。

「おはようシシド君、お肉あげるからちょっと待って、っわ、何?」

 ぐいっと二の腕を引かれてよろけて立ち止まる。

「……おい飼育員、お前ヨソモノの匂いがすっぞ」

 よろけたままシシドに抱えられるようになって、すんすん、とこめかみ辺りで鼻を動かされたのがわかった。ぺたぺたと身体を触られる。他意はないのはわかるが、人に近い姿をしているものだから少々抵抗がある。

「ちょ、ちょっと、」

 大上がやって来たから助けてくれるのかと思いきや、同じようにふんふんと匂いを嗅がれた後、腕を組んでジト目で言い放たれた。

「ハナちゃん、浮気者だ」
「ええ、何それ、」

 なんだなんだと知多やゴリコンも集まってくる。

「ハナちゃんから、うちの奴らじゃない匂いがする」
「飼育員さんは逢魔ヶ刻動物園の飼育員さんなのに、」

 特に嗅覚の鋭い動物たちを中心に、すっかり囲まれてしまった。ジト目に負けて華は白状する。

「ごめんなさいっ、門の前でお散歩中の大型犬に行き会って、思う存分モフってました!それで遅れたの、許して!」

 両手を合わせて拝む形で謝ったが、いいや許さない、と言う動物たちは笑いを堪えている。華も笑っている。

「野郎ども、かかれ!」

 誰がかけた掛け声だか、いまどき仁侠映画でも聞かないような声と共にモフモフと動物たちが押し寄せてきた。

「ぎゃああっ、あっはははは、くすぐったい!くすぐったいよ、ごめん、みんなごめんって、」
「俺たちだけじゃ不満かっ」
「目の前に動物がいたらモフるのが礼儀だよう、あっ、ウワバミさんっ、ウワバミさん、たすけてっ、うわははははっ、ちょ、脇は反則、誰っ、うひゃははっ」
「いいわ大上、ハナちゃんが二度と浮気する気が起きないくらい、モッフモフにしちゃって」
「そんなあっ、ひゃははは、ひいっひひひ」

 華を中心にしたおしくらまんじゅうは騒ぎを嗅ぎつけた園長が「なんじゃ面白そうなことやっとるな!」と乱入するまでモフモフモフモフと続いた。さらに開園時間だからと園長が元の姿に戻した後も、華がそれぞれの檻の様子を見に行くと、皆が動物の姿でスリスリモフモフと身体を押し付けてきた。


「そんな感じで、今日は一日モフモフ天国だったあ」

 どこかよれよれしている華は、それでもぽやんと幸せそうに言って、じゅるり、と涎をぬぐった。丑三ッ刻水族館の午後八時、ショーとショーの合間の時間のスタジアムは照明が落とされ、客の姿はない。

 バイトを終えてバスに揺られて来た華は、あるじ不在の館長室に荷物を置くと既に慣れ親しんだ館内をうろうろしていた。明日の月曜日は、行事の代休で高校は休み、ここ丑三ッ刻水族館も珍しく休館日で、二人の休日が重なるという一年に数日あるかないかの日で、バイトで疲れていても足取りは軽い。見知った顔にいくつか手を振れば華の訪れが知らされたのか、シロイルカの親子を飽きずに見ていた華の後ろから館長様が現れたのだった。

「あー、ヘルメットしてても獣くせえぞ、お前」

 嫌そうに伊佐奈が言う。服は着替えても風呂に入ったわけではないから、肌や髪から匂うのだろう。でへへ、とだらしない笑い方をした華はボサボサの髪を手ぐしできゅっとかき上げた。

「動物に愛されて困っちゃうー、幸せ」

 華は身をくねらせながら、ドールの尻尾はフカフカしているが被毛自体は割りと硬いだとか、チーターはネコ科らしく猫っ毛でスリスリされるととても気持ちがいいだとか、ライオンのたてがみはゴワゴワしているけどとても暖かくて冬は羨ましいだとか、早口で次々とまくし立てた。別に伊佐奈がちゃんと聞いていなくてもいいのだ。華は今とても幸せなので、好きな人にもそれを知っていて欲しい、というだけのことだ。

「……人間様が動物如きにマーキングされて喜んでんじゃねえ、」

 怒涛のように喋りまくる華を呆れたように見ていた伊佐奈が、ぽつりと何かを言った。

「え、ごめん、何?」

 語りに夢中で聞こえなかった華は首をかしげる。

「、あのな、」
「わっ、きゃ、」

 ハア、とわざとらしくため息をついた伊佐奈は、突然、華を抱え上げた。腕に座らせるようにする、子供抱っこというやつだ。いつもながら、まったく栄養が足りていなさそうな細い腕のどこにそんな力があるのか、不思議な気がする。

「えっ、な、何、」
「そんなに匂いをつけられるのが好きなら、俺がつけてやろう。喜べ、」
「は?そういうわけじゃ、って、」

 華を抱き上げたまま、伊佐奈の足がスタジアムのプールの柵にかかる。まさか、と思った時には、ぐん、と伊佐奈ごと身体が持ち上がっていた。

「ちょ、やめ、ぎゃああああっごばっ、ぶっ」

 信じられない。抱きかかえられてショープールにダイブし、両手で口を押さえた華は、自由な足でがすがすと伊佐奈を蹴った。水の抵抗で威力はなく、まったく効いていないようだ。目を開けられないが、周囲でせわしない水音とクルクルという鳴き声が聞こえているので、シロイルカ達もなんだなんだと様子をうかがっているらしい。

「ぷはっ」

 水面に顔を出す。抱きかかえられたままで、華が自力で泳がなくても浮いていられる。鼻に少し水が入った所為で何度かむせた。

「あ、ありえない……っ」

 シロイルカのこぶのある丸い頭が華と伊佐奈を囲むようにぽこぽこと周りに浮かび、ケケケケ、と楽しそうに笑っている。

「よし、とりあえず潮の匂いになったな、」
「いっこもよくない!」

 ざば、とショーステージの上に上げられた。伊佐奈も上がってくる。ステージ後ろのスタッフ出入り口は開いていて、その向こうには館長室にも続いている通路と水路がある。

「縄張りと所有の権利について、獣共にもしっかり知らせておかねえとな?」

 さっさと立ち上がって扉の向こうへ行こうとする伊佐奈に手を引かれ、華も水を吸ってすっかり重くなった服を身体に絡みつかせて、よろよろと立ち上がる。この格好ではもう館内の一般客がいる通路には戻れない。

「意味がわからないんだけど、」
「華にマーキングするべきなのは俺だろっつう話だ」

 は、と目を見開いた華はようやく理解して、わずかに頬を赤く染めた。

「やきもちやき、」
「誰がだ、当然の権利だ」

 抵抗なんて思いつきもせず引かれた手を握り返して暗い通路を歩く華は、残念だけどこれからは「よその子」をモフるのは自重する、といつまで守れるかわからない誓いを心の中で密かにたてた。

「心配しなくても、伊佐奈をモフるのが一番好きだよ」
「俺は地球上の動物でモフりたいと思ったことあるのがお前しかいねえ」

 返す言葉もなく、ぽたぽたと雫の垂れる、びしょ濡れの服を見る。少なくともこれを全て洗濯して乾くまでは伊佐奈とモフモフしていよう、と華は一人頷いた。モフモフ天国だった一日にふさわしい締め括りであると思った。幸せだった。






2011年6月26日のCOMIC CITY 東京127に参加した際
配布させていただいた
「華ちゃんからはきっと干したての布団みたいないい匂いがすると思うペーパー」
からの再録です。
今読み返すと私って道乃家さん好きだよなあと思います。
2012年6月5日