閉園時間を過ぎ、最後の客を見送って、掃除と点検がすめば、逢魔ヶ刻動物園は闇に包まれる。もう、夜中に姿を変える動物たちはいない。食事が配給制になることもない。園長と動物たちの鬼ごっこも。だから、節約のために常夜灯の類はほとんど消しているのだ。そういう習慣ができて、もう結構な月日が経つ。
「これもお役御免だねー」
入り口のチケットブースから入ってすぐの、屋根つきの休憩所、その柱にくくりつけた笹(むしろサイズ的に竹)を揺らせばかさかさと、葉っぱと紙が触れあう音がした。ひと月近く飾られていた笹は葉の多くが黄色に変色してかさついていたが、重そうなほどたくさんつけられた短冊が華やかで、くたびれた笹本体の様子を目立たなくしている。
今日は七夕だった。そろそろ午後九時をまわる。あと数時間で終わる。
ふっと昼間の熱を冷ますような風が吹いてきて、華の前髪とたくさんの短冊を揺らした。商店街で同じような笹を見た華の思いつきではじめた企画だったが、竹は山に入れば生えているし、短冊は100均の折り紙でいくらでも増産できるし、元手が掛からないわりに賑やかで盛り上がった良い試みだった。おもしろい噂も耳にしたことだし、ぜひ来年もやろうと思う。
「んで、どーすんのよ、コレ」
汗でメイクも歪んだ道乃家が嫌そうに笹を見上げる。実力主義の彼はこういう他力本願は嫌いなのだと公言してはばからない。そこが可愛らしいと、華は思う。ただの年中行事、お祭り騒ぎなのだから気軽に楽しめばいいのに、星に願を掛けることに深い意義を見出しているのだ。人生の酸いも甘いもここまでたくさんあったはずなのに、純粋な人だ。
考えながら、ふと華の脳裏にもうひとり、酷く純粋な大人の男の顔が浮かんで、密かに苦笑した。
「そりゃあ、天にみんなの願いを届けるためには、燃やさないと」
「面倒クサッ」
「私がやりますよ、下の砂浜でやれば火事の心配もないし」
手伝う、という菊地と鈴木の申し出をていねいに断った。椎名はもう疾うに、閉園作業の途中辺りから姿が見えない。華は笹を引き摺って一人で海岸へ下りた。腰に下げた園芸用ののこぎりがかたかたと鳴る音が、どこか楽しげに思えた。
「、わぁ、」
短冊に使った折り紙を買ったのと同じ100均の懐中電灯のかぼそい明りを頼りに、崖の上の動物園から海岸へ抜ける急な山道を下って空を覆う木々の間を抜けると、海の上には暗い空が広がっていた。漆黒の海と、濃紺の空の境界線がうっすらとわかる。
見上げた空には、きらきらと星が散らばっていた。夜は消灯する動物園、おいそれと人の近寄れない崖下の海岸、人工の明かりは沖合いを行く船の明りのみで、夜空を白く汚す光は何もなかった。
作業を終えたら、しばらく砂浜に寝転がってこの星空を堪能しようか。そんなエサを自分の鼻先にぶら下げて、華はのこぎりで竹を切断しに掛かった。経費節減、動物園の設備をあれこれ、しょっちゅう修理してまわっている華の手つきは慣れていて、のこぎりの動きも危なげがない。竹の一本、10分ほどでわさわさと茂った枝と共に、焚き木になって積み上がった。
全て燃え尽きてしまわなくても、枯葉や枝と一緒に短冊が燃えればそれでいい。燃え残りは火が消えた後で山に放り込んでおけば自然と朽ちるだろう。一人、うんうんと声もなく頷いて、お尻のポケットに丸めてつっこんできた古新聞とマッチで火をつける。しゅ、と燐の匂いが鼻をついて、オレンジ色の炎が、暗闇に慣れた華の目をつかのま、焼いた。硬くねじった新聞紙に火は燃え移り、枯葉の中へ押し込むと、白い煙がゆっくりと空へ向かい始めた。枯葉と短冊の多い部分は勢いよく燃えたが、まだ青い竹の幹の部分や未だ水分を含んだ葉に炎が触れると、ぶすぶすとくすぶって、のろしのように大量の煙を吐き出した。
首にかけたタオルでにじむ汗を拭い、ふう、と一息ついて、華は砂浜に腰を下ろした。マッチの炎が焼きついた目はちらちらとして、焚き火はそれなりに明るく、先ほどまでのようには星は見えなかったが、暗闇の中で燃える火のそばに座るのはそれはそれで原始的な楽しさがあった。
どさりと仰向けに砂の上に転がる。汗ばんだ肌に砂が絡む不快感はすぐに慣れて気にならなくなった。視界いっぱいに夜空が広がり、その中をひとすじ、白い煙がずっと昇ってゆく。
天まで届くだろうか。華はちらりと燃え盛る炎に目をやった。紙の短冊は次々と黒く白く灰になり、煙が空へ向かう。お客に書いてくれと頼んだところで、一枚も短冊のない笹に願い事も吊るしにくいだろうと、笹を設置し短冊とカラーペンを休憩所に用意して、それからまず華と椎名とサーカスの面々で何枚か短冊を書いた。『お客さんがもっと増えますように』と何よりもまず先に書き上げた華の短冊は、ナマナマし過ぎる、と渋面の道乃家に取り上げられ、志久万の手によって普通の人間には見えないような高さに結わえ付けられてしまった。
その時は拗ねたふりをして、もう書きません、と通常業務に戻った華だったけれど、それからこっそりともう一枚短冊を書いたのだった。
「出るかな、」
ぽそりと呟いて、胸のポケットから携帯電話を出す。それから、家族、友人、バイト、どのグループにも属さない電話番号をひとつ、呼び出した。華はめったにそこへ自分から電話を掛けない。多忙な相手のこと、出てくれることの方が少ない。わかっていて繋がらなければがっかりしてしまうのが嫌なのだ。けれど何故か今夜は繋がらない電話を恐れる気持ちを感じずに、ぴ、と全く気負わずに寝そべったまま発信ボタンを押した。
「伊佐奈、」
『……なんだ、お前が電話かけてくるなんて、珍しいな』
こうなると、予想していたわけではなかった。しかし伊佐奈はたった数回の呼び出し音の後に通話を繋げてそんなことを言った。
「伊佐奈も、電話に出るの、珍しいよ」
『るせえ、暇じゃねえんだ』
「知ってる」
ふ、と思わず笑みをこぼすと、電波の向こうで伊佐奈は黙った。
『……別に、暇だからお前に構ってるってわけじゃねえけど、』
数秒の後、気まずげに言い訳めいたことを言うから、華はますます笑った。
「それも、知ってる。」
しばらくは、ふっふっと吐息だけで小さく笑う華の声だけが電波に乗った。それから静かになった。
「今ね、お客さんに願い事書いてもらった笹片付けてる。水族館もやってたよね、笹、どうするの?」
『もう業者に片付けさせた』
「……業者って、ごみ回収の?」
『他に何がある』
「らしい」なあ、という呟きは胸の中にとどめて、はあ、とわざとらしく溜息を吐いた。
「ロマンがない」
『んな金にならねえもんはいらねえ』
「こっちは今、海岸で燃やしてるよ」
『お前がか?ご苦労なこって』
「煙がすごく高く上がって、願い事も叶いそうだよ」
華が何となく口をつぐむと、伊佐奈も黙って、沈黙が続いた。嫌な雰囲気ではなかった。取り留めのない通話を嫌って二言目には「で、用件は」が電話での口癖の伊佐奈には珍しく、華の甘えた戯言に付き合ってくれるつもりのようだった。ふと、沈黙の後ろにノイズのように聞こえる音があるのに気づいた。
「ねえ、波の音が聞こえるってことは、もしかして外にいる?星がきれいだよ」
「『知ってる、」』
華を真似たらしいその声は、華の耳元と、少しはなれた背後と、二ヶ所から同時に聞こえた。ぱっと上半身を起こして振り向くと、がさがさと茂みが揺れて、黒い人影が海岸に現れるところだった。通話が途切れて、ツーツーと機械音が携帯電話から流れてくる。
「えっ、なに、うそ、」
混乱している華の目の前まで、革靴で砂を踏んで、つい今しがたまで電波の向こうにいた伊佐奈が近づいてくる。
「なんで、」
「七夕だろ」
仕事を休んで女に会いに行ってもいい日だ、とにこりともせず言う。砂の上に座り込んだままの華の前にしゃがんで、覗き込むようにする。
「……ロマンはお金にならないからいらないんじゃなかったの、」
「ビジネスならいらねえな」
プライベートならいるのだろうか。手が伸びてきて、華の頬にかかった。親指が唇を撫でて、無意識に背を震わせた華を見て、真面目くさった顔をしていた伊佐奈が、にやりと唇の端を吊り上げた。
「どうやって来たの、泳いで来たんじゃないよね?」
呪いは解けて久しい。伊佐奈の身体が鯨であったときには幾度か、牛三市から泳いでこの海岸に「上陸」したこともあったが、すっかり人間の姿を取り戻した今では無理な話だ。
「カササギの背に乗ってきた」
真面目に訊いたのに、伊佐奈は七夕の伝説になぞらえてそんなことを言う。
「伊佐奈は彦星ってガラじゃないよ」
「うっせ、お前も間違っても姫じゃあねえよ」
ぷく、と頬を膨らませてにらみ合うように見つめあって、それから華は、もうほとんど燃え尽きた短冊のことを考えた。意地を張るのも馬鹿馬鹿しくなった。直接会うのはずいぶんと久しぶりだ。
「カササギでもタクシーでも、来てくれて嬉しい。会いたかったの。笹を燃やして星を見たら、我慢できなくなって、」
急に素直にこぼれ落ちた言葉に伊佐奈は目を丸くした。けれどからかったりはせずに、ふっと目元を和ませた。
「それで電話なんて掛けてきたのか、」
こっちに向かってんのがばれたのかと思って驚いた、と言いながら、華にキスをした。抱き寄せられると華に負けないくらい汗の匂いがして、こんな風に涼しげな顔の裏で仕事には真剣な伊佐奈を垣間見るのが華は好きだった。
身体中に砂がついている。華は仰向けに寝そべったまま、満天の星空を見上げて、軽く溜息を吐いた。裸になっているわけではないが、すぐに立ち上がれないくらいには着衣は乱れている。キスをして、じゃれあっていたら、いつのまにかこういうことになっていた。いつもながらこの手際のよさは何なのだ、と思いもする。
「ほれ、」
さくさくと砂を踏む音が近づいてきて、こちらは大して乱れてもいない伊佐奈が、白い布を放ってきた。海水で濡らしたハンカチだ。冷たくて気持ちがいい。ありがたく拝借して、寝そべったまま顔や首筋に貼り付いた砂を落とす。
「星が、きれいだよ」
時間は経ってしまったが、電話でも言ったことをもう一度言うと、伊佐奈も華の隣にどさりと仰向けに転がった。夜空を天の川が横切っている。顔を横に向ければ、もう黒く白く、炭と灰になった短冊と笹の葉が積み上がり、その下で竹の幹の太いところが赤く熾き火になって静かに燃えていた。
「……伊佐奈は、……短冊、何か書いた?」
白い指が伸びてきて、華の額にかかった髪をさらりとよけた。伊佐奈は呪いが解けてから、指輪をしないことも増えてきた。理由は分からないが、華に会うときは外していることが多いように思う。
「ああ、企画した奴らに従業員も一人一枚以上がノルマとか言われてな。商売繁盛。」
端的な四字熟語に、ふっと笑いが唇から漏れた。呪いが解けてからは水族館も当たり前ながら人間の従業員をたくさん使っているが、それなりに上手くいっているということがこういう時に知れる。いつ聞いても華は嬉しくなる。
「私たち、おんなじこと書いたんだ。やだなあ、夢がなくて」
やだなあと言いながら、声は笑っている。華が動物園に笹を飾ったのは、気が早くも6月はじめのことだった。いくつかの商店に置かせてもらっているチラシを、少しだけ書き換えたものに取り替えたのが宣伝と言えば宣伝だった。
山の中の小さな動物園と大きなサーカスは、見るものが充実している割には人が少なく、割引チケットもあちこちで配っているので入りやすく、最近では学生のデートスポットして口コミで評判が広まりつつあった。学生服姿のカップルやピンクの空気をまきちらす女子学生のグループが、放課後に駆け足で訪れ短冊に願い事を書く姿が目立つようになって、少し疑問には思ったが、七夕はどちらかというとカップルのイベントだから、とあまり気にもしていなかった。
「山の上にある動物園で、短冊に願い事を書くと、恋がかなう。」
「は?なんだそりゃ」
「通学バスの中で、中学生の女の子達が言ってたの。都市伝説?みたいな感じで、そもそもそんなところに動物園あったっけ、行ってみようよ、って。先月から、やたら中高生のお客さんが増えたなあとは思ってたけど、夏が近くなって日が長くなったからかなって思ってて、短冊を書くのが目当てなんだって気づいたのは今月に入ってからだった」
「その噂で客が増えるのを狙ってやったんなら、すげえな」
そんなわけはないよな、という反語を言外に含ませて、伊佐奈はくっくっと低く笑う。
「どうしてかな、何年もやってるんなら、たまたまここで短冊書いた子の恋が実ったとか、そんな話が広まることもありそうだけど、今年が初めてだったのに。お客さんが増えるのはすごく嬉しいんだけど、不思議で、」
「……不思議か?実際、かなってるだろ、お前の願いは。恋じゃねえけど」
伊佐奈の言葉を、華は自分がこっそり書いたもう一枚の短冊のことかと思って一瞬、慌てかけたが、「商売繁盛」の方だと気づいて口をもぐもぐさせた。伊佐奈はふと華から目をそらして、夜空を見た。
「おお、マジで星きれいだな、」
「なにそれ、だからさっきからそう言ってるじゃない」
ぷく、と頬をふくらませて見せたが、伊佐奈はあからさまに聞き流した。
「なんで「恋」限定になったのかはわかんねえけど、ここの笹に短冊吊るすと願いが叶うって子供の噂になったのは、なんとなく分かる気がするが、」
「……どういうこと?」
訝しげな華に伊佐奈が苦笑する。
「人間てのは割と単純にできてる。さっきお前も言ったように、たとえば、日暮れの早い冬や春に、山の上に動物園があるって聞いたって、うさんくさいと近づかない。それなのに、暖かくなって日が長くなれば、面白そうだから行ってみようか、となる。」
「うん?」
伊佐奈の話は(特にビジネスが絡むと)華には小難しいこともあるが、レジャー施設の運営に関して逢摩ヶ刻動物園には足らないものを丑三ッ刻水族館がたくさん持っていることには間違いないので、わかる限りは相槌をうつ。今回も必死に耳をかたむけた。
「来たら、……まあどうせあのクソ兎はなんもしてねえんだろうが、お前とか、ピエロとかが必死になって手入れしてんだろ、貧乏っちいが、ちゃんと手入れしてある施設だ。これだけの人手不足で、いつ来ても便所が汚かったためしがねえのはすげえと割と本気で感心してるぞ、これでも。んでお前も、動物の世話が忙しくても、必死で愛想振りまいて、短冊あるからどうぞーとか言ってんだろ。」
「う、うん。」
「そうしたらもう、叶いそうな気がするんだよ。特に女子供は」
「……ごめん、全然わからない」
伊佐奈が華の仕事を、動物園を褒めるなど、天変地異の前触れかと思うほど珍しい。しかしそこまでは理解できたはずなのだけれど、そこからなぜ結論へ飛ぶのか、全く理解できなかった。
「あのな、俺も自分がこんなこと言うはめになるなんて、つい最近まで思いもしなかったが。……まごころ、ってのは、間違いなく客に伝わる。女子供は特に敏感だ」
華は驚いて黙った。本人が自己申告したとおり、まさか伊佐奈がそんなことを言うとは思わなかったのだ。
「動物園として洗練されてなくても、お前は、客に楽しんでもらいたい、自分が好きな動物を客にも好きになってもらいたいって、損得勘定は抜きにやってるだろ。そういうのは、即効性はなくても、客には絶対にわかる。結果的には馬鹿にできねえ。俺にはどうやっても真似できんな」
仕事のことで、伊佐奈が華を認めるようなことを言うなんて、これはやっぱり天変地異の前触れなんじゃないか、槍が降るのか、とひねくれた思考の一方で、いつも子ども扱いしてくる恋人に認められているということが飛び上がりたいほど嬉しい、そんな感情もむくむくと膨れ上がってくる。にやけて紅潮するのを隠したくて、華は手のひらでぎゅっと頬を押さえた。
「実際、こんなお遊びのもんでも、ちゃんと「願い事を天に届ける」ために、華はここで馬鹿くせえ時間外労働してたわけだろ。それが客にはなんとなくでも伝わってんだよ」
「……そうかな」
「んだよ、俺様の分析を信じねえとは」
「ううん、私には嬉しい内容だから、信じる」
「素直じゃねえ」
「今に始まったことじゃないもん」
わざと可愛くない言い方をすると、手が伸びてきてくしゃくしゃと髪をかき回された。ぎゅっと首を縮めて、その手から逃れるように、起き上がって乱れた衣服を着なおした。
「砂だらけ!シャワー浴びたい」
「俺も、」
「一緒には入らないよ」
「わざわざ言うってことは、一緒に入りたいってことだよな」
軽口を叩いて、それでも寄り添って動物園へ向かい山道をのぼる。
華は数週間前の真夜中、誰にも見られないように二枚目の短冊を書いた。『早く会いたい』、本当に叶ったその願いのことを考えて、いくら道乃家や椎名に馬鹿にされようとも、来年も必ずこの企画をやろう、と心に決めた。
七夕に間に合いませんでした
時間をかけてお互いに影響しあう伊佐華みたいのを表現したかったけどうまくいかなかった
2012年7月12日
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