華が母親に「あんたクリスマスは何か欲しいものあるの」と言われた時に、ふもふものイチゴミルク色のウサギでもなく、ふかふかのチョコレート色のテディ・ベアでもなく、すべすべしたサイダー色の「それ」を指名したのは、「それ」がある特定の人物を想起させるからではなく、単なる偶然、毎朝毎朝「それ」を横目に見ながら登校して、気持ち良さそうだなあ、抱っこしてみたいなあ、と刷り込みされたから、それだけなのだ。本当だ。

 家から高校へ向かう、バス停までの道、その途中にある布団屋さん(華が幼稚園に通っていた時にはお昼寝布団のセットを買ったし、小学校に上がった時には子供用ベッドと布団を買ったし、中学生になった時には大人用シングルのベッドと布団を買った、そんな布団屋さんだ)のショーウィンドウ、ずべーんと横たわった、抱き枕。詳しく言うなら、クジラの形の抱き枕。さらに詳しく言うなら、値札には「抱き枕(クジラ)」としか書いてなかったが、その特徴的な頭部の形状から見て、マッコウクジラの抱き枕、と言って間違いないだろう。華がクリスマスに親にねだったのは、そんなものだ。

 もう一度言うが、それがある特定の人物を想起させるから欲しいと言ったのではない。断じてない。ましてや、昨夜の電話、
「試験もあるし、サーカスのクリスマスイベントの準備もあって、しばらくそっちへ行けそうにないの」
 そんな台詞を寂しそうに言うような真似は絶対に嫌で、できるだけ平坦な声を出したつもりだった、その返事が、
「はいよ」
 のただ一言だったことが不満だったとか、拗ねているとか、そんなことがあろうはずもない。ないったらない。


 はあ、とため息をついて、華はちょきちょきとハサミを動かしていた手を止めた。ひたすら切り刻んでいた折り紙も、ばさばさと机の上に投げ出した。両手をあげて、ばたんと倒れこんだベッドには、母親に、学校と部活とバイトとで疲れているから癒しが必要なのね、と妙な気を遣われてしまい、クリスマスを前倒しにして華の部屋へやって来たマッコウクジラがずべーんと横たわっていて、華は八つ当たりのように、丸く小さな黒い目がついているだけのシンプルな顔をぐいぐいと引っ張って伸ばした。パウダービーズが入っている抱き枕は伸縮性のある生地でできていて、引っ張れば引っ張っただけよく伸びる。伸ばしても、マッコウクジラは不平も不満も憎まれ口を利くこともなく、ただそこにくったりと、気の抜けた顔で転がっているだけだ。夕食後から一時間以上、ハサミを動かし続けた手が痛んで、ほぐすようにわきわきと動かしてから、華はぎゅっと抱き枕を、マッコウクジラの形の抱き枕を、今度は胸に抱え込んだ。がし、と脚も使ってしがみつくようにした。それなのに何か足らない気持ちがして、そのままごろごろとベッドの上を転がった。転がって、
「ぎゃあっ」
 転がりすぎて、ベッドから落ちた。ごん、と大きな音がして、階段の下から二階の華の部屋に向かって、何騒いでるの、と母親の声が飛んだ。
「ごめん!なんでもない」
 あいたた、と腰をさすりながら起き上がる。やっぱりクジラは、華を馬鹿にすることもなく、ただ床に転がっているだけだ。華は抱き枕をぺいっとベッドに放り投げると、再び机に戻った。さっき切り刻んだ折り紙を、今度はわっかに糊付けして、くさりを作らなくてはならない。子供だましと言うなかれ、逢摩ヶ刻動物園のクリスマスの装飾にするのだった。


「寒っ」
 乾燥した空気は濃紺に染まっている。夕暮れの名残も消えた、夜の海沿いのレンガの遊歩道に、一際強い潮のにおいの北風が吹き付けて、華は首を縮こまらせてマフラーに顔を埋めた。制服にダッフルコート、スカートから伸びる脚は寒さに耐え切れず黒タイツとレッグウォーマーに覆われていて、手にはもこもこのミトンをはめていた。それでも寒い。

 遊歩道の脇の植え込みにはぐるぐると電飾が巻きつけられていて、水族館まで続くイルミネーションが白く立ち上る息でにじんだ。動物園でも折り紙のくさりや紙の飾りばかりで七夕みたいなクリスマスツリーではなくて、電飾コードを巻きつけた並木道で客を呼び込んでみたい、いつか、近いうち、少しずつでいいから、と、もうこの美しい景色を純粋な客目線では見られなくなってしまった華は、木の一本あたりの電飾はもう少し減らしても多分見られる、門の脇の数本の木だけでとりあえず始めるとして、すると必要なのは電飾コード何メートルか、などと計算しながら薄暗い道を歩いた。

 いつも通り通用口から入った。客の目の届かないところは空調も照明も節約しているから、薄暗い通路は酷く寒い。館長室を目指して足早に進む。すぐ脇の水路を高速で移動する影を、今のは大きいしサカマタさんだったような気がする、などと横目で見ながら考えた。業務用のエレベータに乗って、冷蔵庫のようにつめたい空気に二の腕をごしごしこすった。大型の海獣は北の海で暮らすものが多いし、食事の生魚を運ぶにしても、彼らにはかえって冬の方が都合がいいのかもしれないが、温度のない館内は純人間の華には辛かった。

 飛びつくように館長室の扉をノックした。返事はない。伊佐奈がもしかしたら館長室でデスクワークをしているのじゃないか、というわずかな希望がぺしゃんとつぶれて、急に重くなった扉をゆっくり開いた。無人の館長室は明かりもなかったが、空調が効かせてあって暖かかった。潮のにおいと、壁の書棚に並んだ本のにおい、いつもの空気がゆっくりとまとわりついて、寒さにぎゅっと固まっていた身体がゆっくりとほぐれて、ほう、と息をついた。コートを脱ぎながら、伊佐奈の私室へと続く扉を開けると、そちらも暖められていた。はずしたミトンはコートのポケットへ入れ、マフラーと一緒にハンガーに掛け、部屋を見回した。

「あれ?」
 ベッド以外何もない十畳間、そのベッドが大きくなっていた。以前は座ると音がするような古い真っ黒のパイプベッドだったのに、木製のフレームに厚いマットレスの乗ったセミダブルが昔からここにあったような顔で鎮座していた。布団には暖かそうな起毛素材のシーツがかけられて、中央に、伊佐奈の部屋にはまったく似合わない、ふわふわモコモコした、ピンクやパープルやオフホワイトのパステルカラーのかたまりが置いてあった。パーカーのすとんとしたワンピースとスパッツ、女性用の部屋着だ。広げるとひらひらと紙が落ちて、拾ってみれば、チラシの裏に走り書きで「はな これ 着ろ」と書いてあったのを、華は制服のポケットに押し込んだ。キッチンスペースのテーブルの上にはコードのつながった電気ポットが置かれ、「満水」「保温」の表示が光っていた。その横に、封の切ってない粉末飲料のパッケージが、抹茶ラテだとかはちみつレモンだとかココアだとか、数種類転がっていた。

 今日ここに来ても良いか訊ねたのは五日前、電話ではなくメールだった。返事はメールでも変わらず「はいよ」の一言で、年末も近くなって水族館も忙しいのか、本当に来てもいいのか、と少し怯む心があった。華は新品の部屋着を抱えると、ユニットバスに向かった。


「よし、ちゃんと着たな」
「……ありがと、」
 深夜、仕事を終えて部屋に戻ってきた伊佐奈は食事(と言ってもストックされていたレトルト食品を温めただけだが)もそこそこに酒を飲みだして、華は隣に座って酌をしてやった。伊佐奈は華のつま先から頭までさっと視線を走らせて、満足そうに頷いた。部屋着のタグには、華の小遣いではちょっと買えない価格帯の、人気のブランドのロゴが記されていて、実際着ていて暖かく着心地も良かった。

「こういうの、どこで調べてくるの?」
 いつものように膝に乗せられて、そこにちょこんと納まったまま、残り少なくなったグラスに酒を注ぎ足してやりながら訊ねた。そういう伊佐奈は風呂上り、下着の上にシャツを羽織っているだけだ。
「レジャー施設を運営すんのに若い女のはやりを知らねえのは問題だろ」
 いくら飲んでもちっとも普段と変わるところのない口調で、人間の方の頬を華の肩口に擦り付けてくる。何となく、鯨飲、という言葉が脳裏をよぎって、華はさりげなく酒瓶に蓋をして少し遠くへ置いた。
「伊佐奈は部屋着とか着ないの?寒くない?」
「……この身体になってから、寒さはあんまり感じねえんだよな、」
「…………、」
 マッコウクジラがよく潜水すると言われている、深海千から二千メートルのあたりの海水温は二、三℃だと図鑑で読んだ記憶があった。確かに、それに耐えられないようでは潜れないだろう。
「じゃあもしかして、暑い?」
 華は、暖房をしっかり効かせたのも、自分にモコモコの服を着せたのも、その状態で膝に乗せたのも、伊佐奈の意思であるということを忘れて、思わず腰を浮かせた。
「逃げんな、」
 ぐっと襟首を引っ張られて、どすんと膝の上に逆戻りする。さらに、腹の前で手を組まれて、身動きも取れない状態になった。
「逃げるっていうか、暑くないの」
「暑くねえ」
 本当なのか嘘なのかはわからなかったが、これ以上問えば、そんなにここにいんのが嫌なのかとかなんとか、怒られそうな気配がしたから、華は大人しく座りなおした。

「……さっき、ここに置いてあったココア、もらったよ」
「おう、どうせ俺は飲まねえから、好きなだけ飲め」
 この部屋が変わっていくのは、主に華の為なのだ。会いたいとか、めったに会えないのは寂しいとか、本当は思っていても間違っても口には出せずに、電話もメールもぶっきらぼうな自分の性格と、電話もメールも返事は一言で愛想がなくても、部屋には華の気を惹くものを色々とそろえて待ち構えている伊佐奈の性格について、考えた。
「んっ、あ、」
 いつの間にか、腹の前で組まれていたはずの手は、華の許可も得ずに好き勝手に動き回っている。
「モコモコして、ヒツジみてえ」
「じゃあ、っ、伊佐奈は、ゃっ、肉食獣、だね、」
「否定はしない、」
 舌なめずりした狼の手で、モコモコのワンピースはすぽんと脱げた。


 やっと静けさを取り戻した暗い部屋で、華は寝転がってうとうとしていた。新しいベッドは寝返りをうっても軋むこともなく、広々している。髪から、家のものとは違うシャンプーの香りがする。日付はもうとうに変わって、この部屋からは見えないが、遊歩道のイルミネーションも終了しているはずだった。遠くから、外洋に出る船の汽笛が聞こえてきた。
「布団かぶれ、」
 わしわしと頭を拭きながらユニットバスから伊佐奈が戻ってきた。ベッドの、掛け布団の上に転がっていた華を見て、眉を寄せたようだった。
「うん、」
 素直に、もそもそと布団に入った。伊佐奈は人間だけれど、長い間呪われていて、普通の人間とのまともな接点もずっとなかった。だから、とても臆病だ。華が怪我をしないか、病気をしないか、華の、純人間の感覚からしても、過剰に心配しているように思えた。ただ、それを指摘したことはなかった。そのうちに、そんなことも平気で言えるようになるんだろうか、とぼんやり考えた。

 布団に入って壁際に寄ると、伊佐奈ももそもそと布団に入ってくる。シングルベッドより広くなったけれど、華は以前と同じように、ぎゅうっと伊佐奈の頭を胸に抱え込んだ。腰に骨ばった腕が乗って、脚を脚で挟まれる。ゆっくりと眠りに引き込まれていきながら、ぼそぼそと喋った。
「あのね、だきまくら、かってもらったの、クリスマスで。マッコウクジラの、かたちでね、」
 褐色の、少しひんやりしたクジラの肌に頬を寄せ、唇をつける。
「すべすべして、むにむにして、やわらかくて、あったかいの、」
 タオルで拭いただけで乾かしていない伊佐奈の髪は冷たかったが、華は何度も指で梳いた。腰にあった伊佐奈の手が背中にまわって、ゆっくりと何度も撫でられた。
「なのに、ごつごつして、ちくちくして、かたくて、つめたい、いさなをだいてるほうが、きもちいいのは、どうしてなのかなあ、……」

 寝ぼけていても「さびしかった」とは言えなかった。まぶたがくっつく力に逆らえない。同様に唇も閉じようとするから、華の不明瞭な呟きを、伊佐奈がちゃんと聞き取ったのかはわからなかった。けれどお互い、相手の身体に回した腕は確かに強くなって、ゆっくりと深い眠りに落ちていった。






2011年10月23日のCOMIC CITY SPARK 6に参加した際
配布させていただいた
「最近寒いので伊佐華はいちゃいちゃしたらいいと思うペーパー」
からの再録です。
ネットショップでクジラの抱き枕を見たのと
ジェラートピケのネット通販ページ見てる館長は絶対かわいい
と思って書きました。
2012年11月27日