もちろん、人前にほいほいと出られるような身の上ではないので、特別授業、講演会、パネリスト、そういった出張の依頼は全て断っている伊佐奈である。館長の顔を売ることで入場者数を伸ばしている施設もあると知ってはいるが、金を得ることよりも、自分の身の方が大事だ。化け物だと知られたら迫害される。実験動物にされる。見世物にされる。殺される。冗談じゃねえ。……伊佐奈には少々被害妄想の気があった。それはさておき。
丑三ッ刻水族館の館長は水族館から出てこない。知れ渡ってからは依頼そのものも随分と減った。が、皆無というわけでもない。珍しく、特別授業として話をして欲しい、という高校教師からのメールに目を通し、人当たりの良い断り文句を考えるのも面倒なんだよ、とばかりがりがりと頭をかきむしりため息をついて、ふと、メールの署名に書かれた高校の名前に聞き覚えがあって手を止めた。
「…………、」
華が通っている高校だ。
条件を見る。生物を選択している2年の生徒、3クラス合同の特別授業。話して欲しい内容は、海の生き物と海洋汚染について何か、水族館の展示を例に出して施設の宣伝をしてくださってもかまわない、水族館で働きたいという生徒も何人か居るので、来年の受験に向けて簡単なアドバイスをしていただけると嬉しい、等々、……。
ふむ、と顎に手をやって考える。薄謝、とあるが、高校教師の薄謝なんて本当に言葉通りだろう。金にはならない。それから、今は外している潜水服のヘルメット。百人ちょっとのガキどもが相手なら、こんな姿もかえって受けるだろうか、病気で人目には晒せない姿だという常套句も、おそらくは簡単に受け入れられるだろう。マイクが使えるなら声の通りは関係ない。期末試験が終わった後、年度終わり、カレンダーを見る。スポンサーの接待、その他来客の予定、水族館の春のイベント、ふっと息を吐いて、ぐっと大きく伸びをした後、熱意ある先生の言葉と子供達の未来を思う言葉に感銘を受けた、心にもない承諾のメールを書いて送信した。病気で人の目には晒せない容貌となり、それを隠しているので、普段はこういった依頼は全て断っている。今後、同様の依頼が舞い込むのを防ぐためどうか当日まで生徒にも内密に、という言葉を添えるのを忘れずに。
「やるからには、完璧にだな、」
海洋汚染なんて特に問題意識は持っておらず、呪われる前は、むしろ汚す側の人間だった。水族館に勤めたい人間へのアドバイスと言っても、真っ当な手順を踏んで水族館館長になったわけではない、ならずに済むのなら絶対になりたくなかった。子供に夢を見せつつ現実もチラ見せ、下準備にはかなりの時間を要しそうだった。まったく、割りに合わない仕事だ。
それなのに何故かうきうきと、幾百幾千の段取りを脳裏に描いている。
徹夜を幾度か繰り返して、常にない大きめの荷物を持ち、高校の門の前でタクシーを降りた。本当は荷物持ちなんてシャチにでもやらせたかったが、生憎と、逢魔ヶ刻動物園とは違って丑三ッ刻水族館にはおいそれと人前に出られるような動物がいないのだから仕方がない。
「……こんにちは、」
授業中の校内は静まり返っていたが、臆するような性格はしていない。守衛に名刺を見せ、用務員に出されたスリッパを履き、校舎内へ入る。自分が高校生だった時のことなんて、特に思い出もない、思い出せない。ただ、ここで恋人が毎日を過ごしているのか、と思うと多少の興味がわき、人目のないのを確かめてきょろきょろとした。ろくに通ってもいなかったが伊佐奈の母校は幼稚園から大学まで一貫の私立のお坊ちゃま学校である。ごく普通の公立高校の風景は物珍しい。嫌味だと言われるだろうから素直な感想は永遠に秘密だ。メールで指示されたとおり職員室へ向かえば、潜水服のヘルメットを被った姿に室内は一瞬ざわついたが、話はきちんと行き届いているらしく、茶や菓子を勧められることもなく、ご準備もおありでしょう、と控え室へ通された。
授業に使うのは3クラス分の生徒を収容することができ、スクリーンやマイクを使うことのできる、視聴覚室だということだった。控え室には防音の窓がついていて、そこから覗き込めば、なるほど、大きなスクリーンが下ろされ、窓は既に遮光カーテンが引かれていて、百人あまりが座れそうな階段教室が暗闇の中にあった。ここに座って、華は、喜ぶだろうか、怒るだろうか、どんな反応をするのだろうか、それだけが知りたくて、子供の他愛無い悪巧みのように、華には秘密に、今日まで多忙な合間を縫って準備してきた。
「今日はどうも、ご足労いただきまして、」
ノックとともに扉が開いて振り返った。自分よりは十は年上に見える、メガネの教師がやって来て、メールを出したのは自分だと、どうしても振り替えられない授業があったので、と頭を下げた。穏やかな、闘争心とは無縁そうな顔には、こんな得体の知れない若僧に頭を下げるということについての拘りは欠片も見出せず、普段は弱みを見つけようと鵜の目鷹の目のスポンサー連中ばかり相手にしている伊佐奈は毒気を抜かれた。
「こちらこそ、お役に立てればいいのですが、」
握手をする手の、指輪を見て少し驚いた様子を隠しきれずに顔に出している。生物の成績はいつも前から数えたほうが早いと偉そうに胸を張っていた、華はおそらく、この教師に懐いているのだろう。
生徒が入室し、がやがやとうるさい視聴覚教室へ足を踏み入れる。ざわめきのなかで、がたん、と激しく椅子か何かをひっくり返したような音と、もー華なにやってんの、ほんとドジなんだから、という声を微かに、けれど確実にとらえる。潜水服のヘルメットを被った異様な姿だからだろう、どよめきは高くなり、けれどあちこちから、知ってる!という声もちらほらと聞こえる。にっこり、と音がしそうな風に笑って見せた。ヘルメット越しの不自由な視界で教室をぐるりと見渡せば、興味しんしんでこちらを伺ってくる顔、顔、顔、「庶民の学校」だと心中で深く頷いた。その中に、ぽっかりと一人分空いた席と、その横に座ったセミロングにセルフレームメガネの少女が、心配そうに机の下を覗き込んでいる。ふ、と一瞬、作った顔ではない笑顔がこぼれて、すぐに戻した。
「はーい、静かに!」
ぱん、と件の教師が手を叩く。優しげな風情が嫌われてはいないが舐められているのだろう、口を閉じる生徒は少ない。赤くなったり青くなったり忙しそうな華が起き上がって椅子に座りなおすのを視界の端にとらえながら背を向けて、持ち込んだパソコンをプロジェクターに繋ぎ立ち上げる。教師が伊佐奈と丑三ッ刻水族館の紹介をするのに合わせて、振り向いて軽く会釈した。本当は事前に配って自主学習、予習などさせたかったのかもしれない、モノクロだがA3サイズに図や文章が綺麗にレイアウトされた大判のプリントを配っている。生徒達はますます騒いでいる。
「ご多忙のところを無理言って来て頂いたんだから、失礼のないように!」
いくつかの解説の後、そう締めくくって、それではお願いします、とまた深々と頭を下げられる。
伊佐奈は場を支配する術を知っている。ざわめきの中、スクリーンの前、中央に立って教室を見回せば、高校生達が静かになる。拍手が起こったのを笑みと手振りで静めて、皆さん、こんにちは、せいぜい善人ぶって挨拶すれば、こんにちはー、と合唱が返ってきた。自己紹介の中でヘルメットのことに触れれば、知ってまーす、という声もいくつか上がる。スライドショーに解説を加える形で話をするが、暗いから眠くなるかもしれない、眠っても良いが退屈でもうるさくしないこと、自分は教師ではないから点をつけたりしないが、私の隣で見ている先生は採点しているかもしれないですよ、などとおどけて言えば、小さな笑いが起こる。和やかな雰囲気の中で、教室の真ん中よりは少し下がったあたりから、とんでもないプレッシャーが発せられている。華が、なんとも形容のしがたい顔で、こちらを見て、いや、睨みつけている。隣のセルフレームが不審そうな顔で華と伊佐奈を見比べている。バレてんぞ、内心で笑いながら、ごく自然に視線を外した。教室の明りが消える。
特別授業は何事もなく終了した。興味のない者は騒ぐこともなく眠っていたし、興味のある者は面白そうに聞いていた。消極的な者は黙っていたし、積極的な者はメモを取りながら何度も質問した。まあ、順調な、ごく普通の授業だ。やりたかねえがやろうと思えば教師もできるんじゃねえか、俺様すげえ、万能、などという内心は露ほども表には現さず、みなさん聴いてくださってありがとうございました、とまた善人を装った笑顔で挨拶した。
「館長さん、どうもありがとうございました。……えーこのあと、質問があったら何でも聞いておくように!忙しい方だからこんな機会めったにないぞ!今日のレポートの提出は各クラス来週最初の生物の授業で回収するから忘れるな、掃除当番は少しくらい遅れてもいいが、さぼるなよー」
教室に明りが点いて教師が話し始めれば、またざわつきだした。ぞろぞろと出口に向かう群れの中から、さっそく何人かの生徒が教材を胸に抱えて近寄ってくる。まあ予想はしていたが、こういう場合、大概は女子生徒だ。伊佐奈は外見からして女子供に好かれるタイプではないから、質問にやって来たのはいかにも真面目そうな、本当に質問が目当ての生徒ばかりだった。態度だけは誠実に、その実、回答は通り一遍の、ネットで検索でもすればすぐに出てくるようなものばかりだ。伊佐奈自身は海洋汚染はどうでもいいし水族館で働くことには夢も希望もないから、下手なことを言うよりこの方がいい。顔は怖いけど優しかったよお、えー私も何か訊けばよかった、ときゃいきゃいと女子生徒のグループが退室するのに、聞こえてんだよ雌ガキども、作り笑いで中身のねえ一般論ぶつのが「優しい」のかよめでてえこって、内心はもちろん隠しておく。
「すみません館長さん、これで生徒の質問は最後、……ああ、いや、蒼井、一番に飛びつきそうな奴がどうしたのかと思ったら、長くなりそうだから最後まで待ってたのか?ほどほどにしておけよ。そうだ、蒼井ならいいか、すまんが、質問が終わったら館長さんを職員室までご案内して差し上げてくれ。館長さん、申し訳ないんですが、ちょっと職員の打ち合わせがありまして、」
ヘルメットの下で密かににやにやと笑っている伊佐奈と、もう生徒は誰も居ない教室で今にも噛み付きそうな顔ででも頬を染めて椅子に座ったままの華と、無言の二人の間で、微妙な空気に気づいていないのか、生物教師は一方的にまくし立てると小走りに出て行った。
「…………、」
「さて、質問は?……蒼井サン、」
階段教室の机の間をすり抜けて、ゆっくりと、もう隠しもせず頬を膨らませた華が、段を降りて伊佐奈に近づいてくる。ぺた、ぺた、と一歩一歩、怒って出て行ってしまいたいような、喜んで駆け寄りたいような、いかにも「反応に困っています」という顔で歩いてきて、二メートルほど距離をとって、止まった。
「………………誠意のかけらもない授業、」
何度も唇を閉じたり開いたりして、頬をますます赤くして、それからやっと、拗ねたように上目遣いでそんなことを言うものだから、伊佐奈は貼り付けていた作り笑いも壊れてしまって、くっくっと喉を鳴らして笑った。
「生憎と持ち合わせがなくてな、誠意ってのは」
「知ってるよ、そんなの、」
ぱこん、と持ち込んだノートパソコンを閉じる。乗せている教卓を挟んで、向かい合う。
「お前、驚きすぎ、」
椅子から落ちてんじゃねえよ、遠慮なく笑って言えば、赤くなった顔を歪めた華がぱっと背を向けようとしたから、教卓越しにぐっと腕を伸ばして少女の手首を捕まえた。結構な怪力の癖に、伊佐奈の指がぐるりと一周して、それでもかなり余っているような細い手首だ。
「せっかくこっちから会いに来たってのに、つれないな、」
学年末試験や、動物園の春のイベント、伊佐奈に負けずに多忙な華と直接会って言葉を交わしたのはもうひと月近くも前だ。揶揄するように言うと、身体をそむけたままの華の肩がびくんと震えた。
「……いじわる、」
声は湿っている。追い詰めすぎた、ということにやっと気づいた。
「…………悪かったよ、……泣くなよ、」
「っ、泣いてない、っ」
いくら他に誰もいないといっても、ここでヘルメットを外す気にはどうしてもなれなかったから、伊佐奈は逃げようとする華の手を強く引いて、指先を鋼鉄のヘルメットの下に引き入れて、唇に当てた。狼狽した華の指は慌てて、短く整えられた爪がかりりと鯨の肌を掻く。ヘルメットと伊佐奈の肌との間の、吐息で溢れた狭い空間で、宥めるように何度も、力の入って冷たくなった指先に唇を押し当てた。しばらくして、ふっと拘束した手首から力が抜けた。
「泣いてないよ、本当に、」
囁くような小さな声で、少し苦笑したように、華が言う。伊佐奈はやっと細い手首を離して、すたすたと教卓を回り込んだ。華の正面に立って、制服を着た身体をゆっくりと腕の中におさめる。いつもヘルメットを当てると「痛い」「冷たい」怒られるから、慎重に、人間の方の頬を髪のほつれたつむじに押し付けると、伊佐奈と華と、二人の口から同時に、ほう、と息が漏れた。伊佐奈の背におずおずと、小さな両手が触れた。
「いきなり伊佐奈が教室に入ってきて、すました顔で授業なんて始めるから、びっくりしただけで、」
ふるり、と確かに華が震えたので、急に、伊佐奈は、子供っぽい思いつきで華を死ぬほど驚かせた挙句にからかったりしたことに猛烈な罪悪感が湧き上がってきて、ぎゅっと強く抱きしめた。
「悪かった。」
「謝らなくていいってば、……私こそ、ごめん。ほんとは、会えて嬉しかったのに、」
キスしたい、と思ったが、やはりどうしてもヘルメットを外す気にはなれず、ため息をつきながら腕に力を込めれば抱き返してくる細い腕にも力がこもって、ぴったりと身体を合わせこれ以上ないほど密着した。ふふ、と華の唇からやっと、嬉しそうな笑い声がこぼれて、
「忘れ物だ!蒼井、すまんが教卓の下にある紙袋を、…………」
その瞬間を狙ったようにばたんと扉が開いて大きな声が響いた。
生物の教師だった。抱き合ったまま目をかっぴらいて出入り口に視線をやっている伊佐奈と華と、生徒に呼びかけて大口を開けたまま扉に手を掛けている教師と、奇妙な沈黙でもってしばし見つめ合う。
「……これは申し訳ない、」
驚いたことに、先に立ち直ったのは、伊佐奈が内心で善人だが毒にも薬にもならない、と評価していた生物教師の方だった。
「あー、蒼井、すまんがその教卓の下に紙袋があるはずなんだが、」
は、とフリーズ状態が解除された華は、驚きに緩んだ伊佐奈の腕をすり抜けて教卓の下を覗き込むと、ファイルやプリントの詰まった白い紙袋を提げて教師のもとに駆け寄る。
「これだ、すまんすまん、……講演の類はみんな断られてるって評判の館長さんが、我が校に来てくだすったのは、蒼井のおかげか。ダメもとのメールだったが、いやあありがたい、蒼井、ありがとうな、」
伊佐奈も華も、一言も口を利けないでいるうちに、またばたんと扉は閉まり、にこにこした生物教師は去っていった。扉の前でうなだれて、耳を赤くしている華に、やっと身体の機能を取り戻した伊佐奈が歩み寄る。
「なんつーか、……いいのか?お前、」
分別もなく校舎内でべたべたして、それを教師に目撃され、何らかの処分をされるのじゃないかと(ただ先ほどの反応を考えると想像しにくかったが、同時になぜそんな反応で済んだのかという疑問も残る)一応の心配をして見せると、くるっと振り向いた華は真っ赤に染まった顔を隠すように伊佐奈の胸に突っ伏した。
「おい、華、」
「あの先生、最初に勤めた学校で担任持ったクラスの女の子と内緒で付き合ってて卒業後に結婚したって言ってたから、怒ったり他の先生に言ったりはしないと思う、」
「……見た目に反して肉食系なんだな、」
まさか予想もしていなかった事実に動揺していると、言い方が何かいやらしい、と華にダメ出しされる。
「だから、心配はしなくていいけど、……はずかしい、」
思わず、ふ、と笑ってしまった伊佐奈は、もう一度華を抱きしめた。華もまた背に腕を回す。今日まで、通常業務に加えて、授業の準備、質疑応答の準備、結構な無理をしたが、その甲斐は充分あった、と思った。
「今日、動物園の仕事終わったら、水族館行くから、遅くなっても絶対に行くから、どうしてこんなことになったのか、詳しく説明してよね、」
職員室へ顔を出すにも、華も伊佐奈も少し心を落ち着けなくてはいけなくて、腕をほどいた後、華は閉めっぱなしだった教室の遮光カーテンを開け放しながら、照れ隠しのように怒った口調で言った。窓から、蛍光灯の明りとは違う、圧倒的な光量の日光が差し込む。半分のヘルメットから出ている人間の目の前に手をかざし、逆光に華を見た。
「まあ、二度とはしない、」
やろうと思えば教師でもできる、などと思ったことはおくびにも出さずに呟けば、ふと華が動きを止めた。
「……どうして?」
眉の寄ったその顔を見ると、誠意がないとか何とか、怒った割には、本当のところ華にも多少なりとも面白い授業だったようだ。やはり忙しい中依頼を受けた甲斐はあった、と思いながら、伊佐奈は両手を広げて肩をすくめて見せた。
「お前の顔を見に来ただけだ。めんどくせえ、二度とごめんだな、」
面白いくらい赤くなった華を、ついさっきの失敗を思い出してからかうことはせず、遮光カーテンの陰に隠れようとしたのを、大股で近寄ってただぎゅっと抱きしめた。職員室へ行けるまで、まだもう少し掛かりそうだ。
2012年3月18日のHARU COMIC CITY 17に参加した際
配布させていただいた
「春なので伊佐華はムラムラしたらいいと思うペーパー」
からの再録です。
お題出しったー(改訂版) http://shindanmaker.com/68894より
『二時間以内に2RTされたら、教卓で、べそをかく相手に指にキスをする
いさはなをかきましょう。』
というお題をいただきました。
館長は結構ソツなく何でもできると思います。
2014年1月10日
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