薄暗いフロアにゆらゆらと水紋が揺れる。先生に連れられた幼稚園児が列を成して、明るい出口へと向かってゆく。黄色い帽子の群れ、最後尾の女の子が名残惜しそうに振り返り、偶然目が合った華に人懐っこく微笑んだ。おねえちゃん、バイバイ。作り物ではなく浮かんだ笑みに、顔の横で小さく手を振ってみせる。気をつけて帰ってね、先生とはぐれちゃダメよ?

 それを最後に人気(ひとけ)のない館内はしんと静まり返った。小さな子供連れや、お年寄りといった昼間の来館者はそろそろ帰る時間、仕事が終わった後つかの間の癒しを求めて大人達がやって来るにはまだまだ早い時間。学校の終わった中高生が気軽に来るには水族館の入館料は少々高価だ。

 華の目の前の巨大水槽はショースタジアムを下から見上げる形になるもので、12mの水深を抜けて午後4時の柔らかな太陽の名残が蒼く降り注いだ。連続して行なわれるショーもこの時間は間隔が長く、イルカたちもわずかな休憩時間を楽しむように、光線の加減で少し白っぽく見える水の中をくるりくるりと回っている。

「あ、おーい、」

 イルカはもともと遊ぶのが好きな動物だ。ぽつんと一人たたずむ華に気づいたのか、何頭かがくるりと身を翻してガラスに近寄ってきた。手を差し出すとそこへ鼻先を寄せる。さっさっと動かすとそれにあわせて頭を振った。笑えば、ガラスの向こうでもギザギザの歯を出してイルカも笑う。

 しばらくそんなことをして遊んでいたのに、イルカたちは突然、華に怯えたように遠くへ行ってしまった。

「……ヒマなの?館長さん。閉館時間にはまだ随分あるみたいだけれど」

 否、華の背後に立った人物を見て、怯えたのだ。

「その言葉、そっくりそのまま返すわ」

 カツン、と革靴と床がぶつかる音。何もかもを周囲にぶつけてばかりの男。振り向かず、イルカたちの後姿を飽きずに見送る、ふりをしている華は、ガラスに向かって喋った。背後の闇に溶け込むように、頭を半分隠し、素材不明の生きたマントを羽織る男、伊佐奈の姿が、ぼんやりとガラスに映っている。

「残念でした!動物園(うち)は今日は閉園日ですっ」
「開園してる日はヒマじゃねえのか?お客でいっぱいってか?」
「…………ぐっ、」

 かつ、かつ、かつ、ガラスに手をついてうつむいた華の、背中に硬い足音がぶつかる。映った姿を見るまでもない、かつん、男が立ち止まったのは、ほんとうに、すぐ後ろ、揺れるネクタイが背中に触れるほどの位置だ。

「……人間の匂いがする、」

 うなじに息がかかった。華は嫌悪感だけでない鳥肌を立てた。

 しばらくの休業の後、営業時間の短縮と、それまではなかった定期休園日などを設けて、丑三ッ時水族館は何事もなかったかのように再開した。ショーの最中に起こった事故、夏休みという掻き入れ時の長期休業について、口さがない人々による悪意の混じった噂もあったが、いったん再開すればこれほどのクオリティを持ったショーの出来る水族館が他にそうそうあるわけもなく、入館者数は以前の数字を取り戻しつつあった。

 差出人はサカマタの名で、動物園に華宛の封書が来たのは営業再開後すぐのことだ。丑三ッ時水族館オリジナルのピンク地にシロイルカが散らされたやたらファンシーなレターセットで、動物園の面々を恐怖に震え上がらせた。同封されていたのは水族館のフリーパスチケット、『人間のことは人間同士でなければわからないこともあるようだ』達者とはとても言えない字だったが、そもそもサカマタに字が書けたことが驚きである。

 華は随分長い時間考えて、そして結局水族館を訪ねた。

「何を見てる」

 見ただけではちっともわからないがぶ厚いらしいアクリルガラスに両手を当てたまま振り向かない華の耳元に、修復したのか新しいものを手に入れたのか、以前のままの鋼鉄のマスクがこつこつと当たる。そのひんやりした感触にわずかに身を竦めて水面を見上げた。夕日にはまだ早い時間だ。

「空の青と海の青って似てると思ってたけど全然違うのね、ここは寒いわ」

 伊佐奈の問いに答えたのだか答えていないのだか、独り言のように曖昧な華の呟きに、鯨の皮膚を纏った腕が上がって、ガラスの上の小さな手に指輪だらけの手のひらが重なった。深海の水のように冷たい手だった。

「……寒いとか言うんじゃねえよ」

 みしみしと目の前のガラスにヒビが入り始めるのをまるで危機感も無くぼんやりと見つめながら、華は寒くて冷たいとわかっていてどうして自分はわざわざここへ来たのだろう、と考えていた。






ジャンプ買う→このウサギの漫画おもしろい→コミックス買う→頭ぱーん

華ちゃんに彼シャツをやってほしかったのに
全然そんな関係?雰囲気?になりませんでした
伊佐華っていうかただの伊佐奈館長と華ちゃん
なぜ
2011年4月6日