蒼く揺らめくアクリルガラスに網のように亀裂が広がってゆく。華の手に重ねられた伊佐奈の手がそれを為しているのだろうが、ガラスとごつごつした手のひらに挟まれた華の小さな手はちっとも傷まない。力ではなくて何か魔力で割っているのだろうか。ひび割れた隙間から水が溢れ始めた。綺麗に掃除された、塵一つないフロアに水滴が散る。また魚たちに後始末をさせるのか、そんなことの繰り返しでは、彼の欲しがっている最後の一つはいつまでも与えられないだろうに。

「鉄火マキ、さん、」

 みしみしとぱしゃぱしゃの音の間に女の子の悲鳴のような声がくぐもって聞こえた。いつの間にか目の前の崩壊寸前のガラスの向こうに、マグロの女の子がいる。イルカたちが呼んだらしく、後ろに数頭が固まって、おろおろするようにこちらを伺っている。

『館長!館長!!その子人間なんでしょ?水の中に入れたら死んじゃうよ!ねえってば!』

 多分以前の彼女なら、伊佐奈のすることにこんな風に口を挟んだりしなかったのだろう。これはきっと良い変化なのだ。

「マキさん、人が少なくても、まだ開館中だよ、見つかっちゃう」

 心配されているのは自分だというのに、華はどこか他人事のような気持ちで自分と同じ年頃に見える魚類の少女に声をかけた。きっと聞こえていない。ばしゃ、と水の塊が華の身体にぶつかった。水面までは10mほど、マキも、イルカもいる。ドジを発揮して足を攣らせたりしても、死ぬようなことはないだろう……伊佐奈が、手を離してくれたら、だが。

「なあ、泣けよ。怯えて、叫んでみろよ」

 スーツを着て、ネクタイを締めて、見た目は大人の「館長」なのに、彼の言い分は子供そのものだ。人間の肌ではなく鉄のマスクが華の頬に触れる。ひんやりする。鯨の皮膚を纏った腕が華の腕に重なって、けれども乱暴なところはどこにもない。ガラスに押し付けられた手のひらさえちっとも痛みを感じない。ふ、と顔が微笑んでしまう。どこに、何に、怖がれと言うの、重なった手のひらは、華の熱が移って次第にぬくもり始めている。

「何笑ってんだ、潰すぞ、笑うな」

 海水が溢れて冷たく濡れると、背後にいる伊佐奈の体温をはっきり感じる。駄々っ子みたいと言ったら、尾鰭でぶたれるだろうか。

「海の匂い、」

 顔を上げた華の上に、ガラスと海水が降り注ごうとした。

「他にも客がいるんだ。騒ぎを起こすな、でら面倒だ、」

 鉤爪のある黒い手が伊佐奈の腕をぐっと掴んでいる。華の手の上から指輪だらけの手のひらは離れて、海の匂いを濃く残したままぱしゃぱしゃと溢れる水は止まった。あっという間にガラスの亀裂が消えてゆく。帽子を目深に被った従業員がどこからかわらわらと現れて飛び散った飛沫をふき取り始めた。

「……シャチ、離せ」

 不機嫌に言う伊佐奈に、水路を使わず人間の通路を走ってきたのか息を切らしたサカマタが目を細めた。伊佐奈の拘束されていない方の手はまだ華の手を捕まえているが、捕まれているのが片手だけなら身体の向きを変えることができる。華は片手を特に振りほどこうともせず、そのまま巨大な二足歩行のシャチに向き直った。

「サカマタさん、お手紙ありがとうございます」
「こちらこそ、すまない。……本当は兎を呼ぶべきかと思ったが、暴れられたらでらやっかいなんでな」

 緊張した空気を意図的に崩そうとしたのがわかったのだろう、サカマタは小さく息を吐いて、伊佐奈の腕から手を放した。二人(?)のやり取りを、伊佐奈が訝しげに見る。どういうことだと言葉で訊かれたら華はちゃんと答えるつもりだったが、視線ばかりが雄弁で唇は何も言葉を発しなかったから、何も言わずにおいた。

「お客さん、館内にいるんでしょう?」

 ここにこうしているのは不味いんじゃ、と言外に問えば、サカマタは緩く頷いた。ガラスの向こうの鉄火マキはもう、笑顔と共に手を振った後、とっくに見えなくなっている。

「館長、とりあえず館長室へ、」
「俺に指図するな、」
「……っぷしっ」

 再び険悪になりそうになった水族館の館長とbQの間を割って、今度は意図せずに、また華が硬い空気を叩き割った。チッ、と伊佐奈が舌打ちする。くしゃみのまま目を閉じて鼻を擦っていた華は、ぐいと手を引かれてつんのめった。それを見たサカマタはあっさりと背を向けて去る。一言も言葉は交わさないまま、伊佐奈が華をつれて館長室へ行き、サカマタはここの片づけをして通常業務に戻る、ということにまとまったのだ。なんだか、

(仲が悪いのか、熟年夫婦なのか、わかんないなあ)

 ぎゅうぎゅうと強く握られた手は少し痛い。手のひらの温度は今、華と同じだ。きつい拘束の中でもぞもぞと指を動かして、関節が出て骨ばった指を握り返してみた。伊佐奈は振り返りはしなかったけれど、びく、と肩から揺らして、手の力を少し緩めた。怯えているのは、伊佐奈の方なのだ。

「うわあっ」

 ぽい、と放り出すように扉の奥へ突き飛ばされた館長室で、華は歓声を上げて目を見開いた。イガラシ奪還のためにここに来たあの時は、夜中だったしもちろん何よりそれどころではなかった。だから気づかなかった。大きな窓、というより、ガラスでできた壁の向こうに、きらきらと輝く海が広がっている。今は夕日を映して暖かなオレンジ。

「すっごい景色、ぶっ」

 自分が濡れ鼠であることも忘れて一面に広がる絶景に駆け寄ろうとした華の後頭部に、叩きつけるように、ではなく、正しく叩きつけて、タオルが寄越された。

「拭け。そんな格好でうろつかれたら、うちの評判に響く」

 一言嫌味を言わなければタオルを渡すこともできない伊佐奈の精神年齢はともかく、もともと彼の為に用意されたものだからか普通より大きなバスタオルは重量も結構あって、それを頭に投げつけられた華は前につんのめってびたんと倒れた。

「うぜぇ小娘……」

 呆れたような声とため息、かつんかつんと床を鳴らす革靴とそこから覗く病的に白く細い足首が、這いつくばった華の視界の中で近づいてくる。目の前ですとんとしゃがまれて、わっしわっしと頭から背中からかき回された。あまりに乱暴で華は何度も床にあごをぶつけた。痛かったけれどタオルの下でこっそりと笑う。うざいと思うなら構わなければいいのに。

「お前、臭ぇよ。生臭え」
「そりゃ、」

 水槽の水、しかも海水を浴びたのだから当然である。もともと動物好きで、このごろは飼育員のバイトも板についてきた華にとってはこういう有機的な臭さはあまり苦にならないが、確かに、電車に乗ったら嫌な顔をされそうな程度には臭い自覚はあった。

「さっきはもっと違う匂いがした、さっきお前の後ろに立ったとき」

 もみくちゃにする手の動きが止まったから、華は頭にタオルを乗せたままゆっくりと起き上がった。床にぺたりと座った華を、しゃがんで首をかしげた伊佐奈が見下ろしている。

「何か、枯れた草みたいな、藁?あと獣っぽい、どっちにしろ女子高生にはありえねえ匂い」
「ああ、私、動物園に泊まりこむときは、敷き藁の上で寝てるから、匂いが染み付いてるのかも」

 女子高生云々はスルーしてふんふんと腕の辺りを自分で嗅いでみたが、今は海水の匂いしかしない。

「はあ!?敷き藁って、動物のか?ありえねえだろ、汚ねえ、信じらんねえ」
「汚くないよ未使用だし!失礼な!確かにちょっと埃っぽいかもしれないけど、お日さまのいい匂いがするんだから!誰だって憧れたことあるでしょ、ハイジの干草ベッド!」
「ねえよ。」

 心底バカにした顔で見下ろされ一刀両断にされ、華はそっぽを向くとむっと頬を膨らませた。何が出来ると思って来たわけではなかったが、それでも何だかむなしくなってきた。身体を拭いたらもう帰ろうか、と目をそらしたまま黙って手を動かしていると、随分と間をおいて伊佐奈がぽつりと口を開いた。

「……太陽に匂いなんてあるのか」

 「お日さまのいい匂い」について言っているのだろうか。予想外の問いに華は驚いて手を止めた。この男は干した布団に顔を埋めたことはないのだろうか、うっとりするあの匂いを吸い込んだことは。

「太陽の匂いって、」

 言いかけてはっとした。鯨は布団なんか使わない。水の中に干草なんてない。伊佐奈は一体何年前から干したての布団に横たわったことがないのだろうか。そもそも、呪いを受ける前にも、そんなことあったのだろうか。

「……太陽の匂いって、太陽そのものの匂いなんて私だって知らないけど、お日さまに当たったものって、何だかみんな同じ匂いがするよ。お布団とか、敷き藁とか、後はええと、そうだ、シシド君のたてがみとか、知多君のお腹とか」

 床に座ったままの華の前で、やっぱりしゃがんだままの伊佐奈が、あごに手をやってさっきとは逆方向へ首を傾ける。それから、両手を伸ばして華の肩をぐっと掴んだ。細い指が喰い込んで少し痛いのを何とか顔に出さずにいると、そのまま引き寄せられてあの尾鰭へとつながるコートの襟の部分にぽすんと顔が着地した。

「イタっ」

 肩を掴まれた時も、拭かれて床にあごをぶつけた時も、つんのめってびたんと倒れた時も、口に出さずに我慢していた悲鳴がついに出た。伊佐奈の顔が華の頭に近寄って、顔を隠している金属のマスクの角がこめかみに思い切りぶちあたったのだ。

「ちょっとそれ、その、ヘルメット?外してよ、痛い」
「ぜってーやだ」
「じゃあ離して、帰る」
「………………駄目だ」
「別に隠さなくてももう知ってるし、いまさら悲鳴上げたりしないよ」

 伊佐奈の顔を見て言いたかったが、「離して」と言ってしまったためか肩を掴む力はますます強くなるばかりで、仕方なく鯨の皮膚に頬を押し付けたまま言った。そのままじっとしていると肩から右手だけが離れて、かちん、と何かを外す音の後、床の上をマスクが転がるのが肩越しに見えた。

「ん、」

 ひんやりした鼻先がうなじに触って思わず声が出た。襟首に顔を突っ込むようにして、ふんふん、と匂いを嗅がれているのがわかって、いまさらな気もするが少し恥ずかしい。

「太陽の匂いって、これか。あとさっきの匂い」
「自分じゃわかんないけど、たぶん」

 肩にあった手がゆっくりと動いて、濡れた服が張り付いた背中を這った。華はされるがままに無抵抗でいた。

「熱いな、お前」
「陸上の、哺乳類、恒温動物、だもの」

 だから、海洋生物のように水の中に行くことはできないが、海洋生物が持っていないものを持っている。

「あなたもそうだよ。人間なんだって、忘れてるでしょう」

 静かな、けれどきっぱりとした華の声に伊佐奈がびくりと身を硬くした。背中を動き回っていた両手が離れて、それから身体も離れた。半分鯨の頭の中にはあの時の「人間と思えない」という華の言葉があったのかもしれないし、単に「バカにしてんのか」と思っていたのかもしれない。ぎりぎりと眦が吊り上がっていくのを無視して喋り続ける。

「私が熱いんじゃなくて、あなたが冷たいの」

 冷たい水から身を守るための厚い脂肪も皮膚も人間にはない。突けば簡単に敗れる薄い皮膚と柔らかな脂肪、そこから透ける体温。太陽の下を仲間と一緒に歩くこと、乾いて膨らんだ布団で身体を休めること、そういうものを、

「忘れているでしょう」

 今度は華のほうから手を伸ばす。払い除けられるだろうかと思ったが、伊佐奈は動かない。50cmもない距離が何mもあるように感じられて、ゆっくり、ゆっくり、やっと肌に触れる。右手が鯨の頬、左手が人間の頬、右の手のひらはつるりと滑らかで少し冷たいし、左の手のひらはヒゲが伸び始めているのかいくらかざらざらして、やっぱり少し冷たい。自分は化け物でないと言いながら、すっかり化け物としての自分に順応している男に、掴めない冷たく流れる水ではなくて、手で触れることのできる動物の熱を思い知らせたいと思った。伊佐奈は動かない。次第に、華の左手とその下にある人間の頬は同じ温度にぬくもり始めた。さっき手を繋いだ時のように。

「……お前やっぱり、酷いやつだ」

 こぼれ落ちた小さな呟きに、華は痛むような顔をした。伊佐奈は人間だけれど、いまだ呪いは消えない。水の中からは出られない。人の熱なんて忘れていた方が辛くない。けれど、忘れたままではいつまでも最後のひとかけらにはたどり着けないように思うのだ。

 うつむいて立ち上がった。いつの間にか館長室の外は暗闇が落ちてライトアップが始まっている。もう帰るべきだと思ったし、時間的にも帰らなければならなかった。ぐしゃぐしゃになった髪を適当に撫で付けて、重く湿ったバスタオルを畳んで脇に抱える。返す前に洗濯しなければならない。またここに来て良いものかは、わからなかったが。

「さよなら、」

 背を向けかけたところで、ふっと伊佐奈も立ち上がった。

「それ、」
「え?」
「タオル。返しに来る時は連絡しろ。表からじゃなくてスタッフの出入り口から入って来い。お前なんざ客じゃねえ」

 はっと顔を上げる。伊佐奈はもう鯨の顔を隠していた。来ていいのかと訊こうとして、やめた。

「今度来る時は敷き藁持ってくる。寝たら絶対ハマるよ」
「ハマらねえよ、雑魚が。早く帰れ」

 どんと肩を押した手は、乾いていて温かかった。華は、サカマタからの手紙のことを考えた。






前回のがあまりにも尻切れだったので
ちゃんと切れるところまで書きました
この後どのくらい話を書いたらラブラブになるものか
自分でも見当がつきません。
なぜ
2011年4月9日