新学期が始まっていた。マナーモードにしていた携帯がポケットの中で震えて、海に沈むように図鑑の向こうの世界へ没頭していた華ははっとして本を閉じた。周囲のざわめきが戻ってくる。小学校の図書室ならばともかく、高校の図書室で動物図鑑を手に取る者も少ないのだろう、重いハードカバーの装丁は新品同様だ。傷もない表紙が華の手のひらの形に汗で濡れているのを、少し眉を寄せてハンカチで拭い、書架の隙間にぐっと押し込むように戻す。カラー写真の多い、大きくて重い海洋動物図鑑を長い間立ったまま見ていたため、手はじんと痺れている。
震え続けている携帯電話は着信ではなくアラームだ。動物図鑑を手に取れば時間の経過を忘れてしまうのはいつものことで、油断していれば昼休みなどすぐに終わってしまう。用心のために午後の授業開始5分前にセットした目覚ましを止めて、ぱちんと携帯を閉じて、それからもう一度開いた。何度かためらったあと、電話帳を呼び出した。あ行、丑三ッ刻水族館。表示された名前と数字を10秒ほど睨む。うー、と唸って、結局何もせず、今度こそぱちんと閉じてポケットに入れた。はあ、と小さくため息を落として、華は教室に向かった。
ふと、自分の汗の匂いが気になるようで鼻を動かした。学校は終わって夕方、華は牛三市へ向かう電車に乗っている。左手は吊革につかまって、右手には大きなバスタオルの入った紙袋を持っている。華は夏休みの終り、丑三ッ時水族館へ行って水びたしになった。館長の手によって水びたしにされた、と言うべきか。それがイガラシ奪還の際の意趣返しだというならその程度ですんでありがたいと思うべきかもしれないし、しかも館長のあの鯨男はタオルを貸してくれたのだった。しかし貸されたのなら返しに行かなければならない。いつ行こうか、どうしようかと考えながら、夏休みは終り、2学期が始まり、課題の提出があり、休み明けの実力テストがあって、もちろん動物園では良く働き、それで随分と時間がたって、いくらなんでももうすぐにでも行かなければ、と言うほど間が空いてしまった。
学校から直接向かえば早かったが、自分の性質を考えると洗濯したての真っ白なバスタオルを汚さずに一日持っていられる自信がなかったから、授業の後一度帰宅し、タオルを持ってもう一度出かけたのだ。
残暑は厳しく、一日の汗を吸った制服はどこか重たいようだった。家に戻ったのだから着替えればよかった、と思っても後の祭りだ。車窓の風景は随分と暗くなり、窓には明るい車内の様子がうっすらと映っていたが、華には自分の姿がこの車両に乗っている女性の中では一番みすぼらしく見えた。隣に立っている、帰宅途中らしいスーツ姿の女性は、アップにした髪はほつれもなく、化粧で整えられた肌は美しく、空気が動くたびにふわり、ふわりとよい香りがした。華と同じように紙袋を提げていたが、駅前デパートのよれた紙袋の華とは違って、いかにも大人の女性らしいハイブランドのロゴが入ったシックなものだった。小娘とか、獣の匂いがするとか、
(別に、気にしてるわけじゃない、けど、)
けど、と思考はそこで止まってしまう。ちょうど目的の駅について、華は逃げるように車両から飛び出した。駅のトイレでせめてと顔を洗った。そんな自分をバカだと思った。多忙なあの男と会うのかどうかもわからなかったし、会ったところで、華がもしもさっきの女性のような香りを漂わせていたとしたって、だからどうだと言うのだ。
久しぶりに訪れた水族館は、先日よりもまた、客足が戻っているように見えた。平日の夕方だから大人のカップルが多いが、子供もそれなりの数、ゲートへ吸い込まれてゆく。門の前にある広場でまた携帯電話を開いて、「蒼井と申します」?「お忙しいところ申し訳ありませんが、館長さんをお願いします」?……連絡して、それで、何と言うのか、何を言えるのかと頭の中で会話をシミュレートして、やっぱり華は首を横に振ってそれを閉じ、かばんから以前サカマタにもらった年間フリーパスチケットを出して入館した。もぎりは知らない顔だったので、ほっとした。
入り口、入ってすぐのインフォメーションセンターで、よくよく見ればやっぱり人間ではないスタッフに、以前来館した時にイルカショーで濡れてしまって、居合わせた館長さんに借りたから返しておいて欲しい、と本当と嘘と感謝とを混ぜた言葉で伝えて紙袋を押し付けた。「かんちょう?」人間ではないとわかっているから余計にそう思うのか、微妙におかしなイントネーション、帽子の奥ではどんな形状の口で喋っているのか不思議な声で復唱され、「しょうしょうおまちください」と言われながらも背を向けて薄暗い館内の奥へ駆け込んだ。伊佐奈を呼ばれてはたまらない。「おきゃくさま、」呼び止める声に聞こえないふりをした。前は誰もいなかったショースタジアム下の水槽の前を横目でちらりと見ると、今日は人だかりができて何組ものカップルが写真を撮っていた。
細いスロープを足早に通り抜けて、マイワシの大群がきらきら光る水槽の前に立って初めて、タオルを預けてそのまま外に出ればよかったのに、どうして中に入ってきてしまったのか、と気づいてがっくりと肩を落とした。展示されている普通の魚の中にも華の顔を知っているものがたくさんいるのだ。これだけ来館者がいれば、サカマタやドーラクなどは出てこられないだろうが、出来るなら見つからないで帰ってしまいたい。
きらきらと光るイワシのうろこがさざなみのようにうねっているのをぼんやりと見つめていると、目の前を横切った影にぎょっとした。マグロに見えたのだ。鉄火マキが元の姿になっているのだろうか、前回は彼女が助けてくれたが、今顔を合わせれば華の来訪が館内に知れ渡るのは一瞬のことだろう。どきどきと脈打つ心臓を押さえて、ぐるっと首をめぐらせて見れば、マイワシの水槽の案内板が目に入った。マイワシ、ホオジロザメ、マンボウ、カツオ。カツオの姿をマグロと間違えたのだ。よく見れば、マグロよりもずいぶん小さい。ほっとして、それから自分のことを本当にバカだと思った。何を自意識過剰になっているのか、華を気に止める魚なんていない。結局のところ、華は水族館にとって部外者、ただの「お客様」の一人なのだ。そうだ、せっかく水族館に入ったのだから、ぐるっと一周して帰ろう。ショースタジアムに近寄らなければ、気づかれることなんてない。気持ちを切り替えると、どこか重かった心もすっと軽くなって、華は館内見学を楽しむことに決めた。思えば、純粋に水族館を楽しむのなんて、幼稚園以来だ。
タカアシガニの水槽が空になっている深海魚コーナーを、暗い照明にどきどきしながら覗き込む。サンゴ礁の海は一転、青い空と白い雲、色とりどりの熱帯魚たちの世界だ。ゆったりと漂うナポレオンフィッシュを見れば、その特徴的な額を触ってみたいなぁと羨望のまなざしを送り、アカウミガメには手を振る。南極のペンギンの展示室では寒さに震えながらも、水を潜る愛らしい仕草にはしゃいだ。館内は、フロアにはもちろんゴミひとつ落ちてはいないし、展示も、ガラスが汚れていたりだとか、食べ残しのエサが放置してあるだとか、そういったところはどこにもない。動物園が是非とも参考にすべきところだ。最後に特別企画展示のクリオネを見て、楽しげな人々に混ざって華は満足のため息をつき、有意義な夕方だったと一人頷いた。あれこれと考えていたのがくだらなく思える。
出口に向かう途中、人の気配はないが、展示がもう一つあることに気づき、華は吸い寄せられるようにそちらへ足を向けた。『水族館の舞台裏をお見せします!当館の生命線、海水浄化装置』目に付かない場所だったが、壁の一部をガラス張りにしてあって、水族館の機関部が覗けるようになっている。海洋生物を見に来た人間からすれば、見て何だという話だろうが、『舞台裏をお見せします』というのは企画として面白いのではないか、動物園でもやれるのでは、と下心もあって、飛びついてしまったのだ。
用意されていた踏み台に乗って、ガラスの向こうを覗き込む。華が入れそうな太さのパイプが天井を何本も走り、巨大なポンプが水を送っている。機械から大量の水が吐き出されて、金属製の大きな水槽に溜まっていた。タイルの床は綺麗に磨かれ、ホースはきちんと巻いて壁に掛けられているし、掃除道具も片付けられていて、舞台裏まで動物園とは大違いだ。華が立っている空調の効いたフロアとは違い、壁を隔てて、浄化装置のある部屋は暑いのだろう。ガラスが結露していて、中がよく見渡せなかった。水滴の隙間からじっと中を見て、そして自分でも滑稽に思うほど肩を揺らした。
太いパイプと、金属の水槽と、落ちる水、その隙間に、スラックスのポケットに手を突っ込んだ男が立っている。男はこの暑いのに、黒いスーツに何か良くわからない素材で出来た灰色のコートを羽織っている。頭の半分を鉄のヘルメットのようなもので隠している。白に金モールの制服を着込み、帽子で顔を隠したスタッフに何か指示を出している。
帰らなければ、と思った。彼らが華に気づく前に。話は終わったのかスタッフが小走りに去る。行かなければ、
「――――――、」
ガラスの向こうで、黒いスーツの男がこちらを向き、片目で華の目を見て、頬が動いた。口元は隠れているが、何か言ったのだとわかった。もちろん、それが何かはわからなかったが。華は無意識に後ろへ下がった。晒している人間の眉を跳ね上げて、パイプをくぐるように男はこちらへ近づいてくる。不愉快そうに、伊佐奈が、
「きゃ、」
一歩、二歩、と下がって、小さな踏み台はそこで終りだった。がくんと踏み外して後ろへ倒れる華の前で、ガラスを突き破って指輪だらけの手が伸び、空を掴む手を捕まえて、強く引いた。そのまま腕だけで吊り上げるように引っ張られる。肩がぎしぎしときしんで痛んだ。小さく割れたガラスの隙間をかすり傷も無く引き込まれ、とん、とタイルの床の上に下ろされた時にはもう、ガラスの壁は修復を始めていた。水槽ではないガラスにも魔力が働いているらしい。どくどくと、急展開についていけていない心臓がうるさく痛む。
「――――――、」
伊佐奈がまた何かを言ったようだったが、ばしゃばしゃという水音と、巨大なポンプが水をくみ上げるごうんごうんという音と震動に阻まれて、鉄のマスクの向こうのくぐもった声は聞こえない。華の想像通り空調のない部屋は暑く、すぐに汗が吹き出てくる。額に浮かんだ冷や汗も混じっているかもしれないそれを手の甲でぬぐって、無意識にまた、後ろへ下がった。伊佐奈が一歩近づく。また華が下がる。
「――――――、」
「わ、わっ、」
苛立ったようにぐっと距離を詰められて、驚いた華は濡れたタイルを踏んで尻餅をついた。金属の大きな水槽と水槽の谷間に、すっぽりと隠れてしまう。目線を合わせるように伊佐奈もしゃがんだ。
「――――――、」
「き、聞こえない、の!水の音とか、」
耳を指差しながら、できるだけわかりやすく唇を動かして訴えかけると、伊佐奈は半分だけでもわかる酷い渋面を作って、そして重そうな被り物を外した。もしもガラスから華のような酔狂な客が覗き込んだとしても、今の体勢なら水槽の影に隠れて見えない。とはいえ、あれほど鯨の顔を嫌っていて、前回来た時もこれを外すことを嫌がったのに、今日はあっさりしている。驚いている間にずいと顔を寄せられて、耳元に息がかかるほどの位置で囁かれた。
「毛糸のパンツか?それ。マジでありえねえ、お前本当に女子高生か」
「ぎゃああ!」
そうだった。制服で尻餅をついたのだから、スカートの中身は大盤振る舞いである。大股開きでぼんやりとして色気も何もあったものではない。常に一分丈のスパッツをはいているため、気にしなくなっているのだ。だからと言って見せて平気でいられるものでもない。慌てて脚を閉じようとして、間でしゃがんでいる伊佐奈を思い切り挟んでしまった。スーツのざらついたサマーウールの感触と、コートのつるりとしながら皺のある鯨の肌の感触が、むき出しの脚に触れた。まるで火に触れたように引っ込める。
「ご、ごめんなさ、いや違うっ、何で私があやまってんの!?」
膝を抱えるように引き寄せて、やっと脚を閉じた。短い丈のスカートをぐいぐいと引っ張って出来るだけ隠す。顔から火が出そうだ。獣臭い小娘、しかも毛糸のパンツ。恥ずかしさはそのまま、伊佐奈への怒りへと変換された。
「こ、これはっ、スパッツ!パンツじゃないっ」
「色気の無え……ブルマはいてる小学生かよ」
「うるさい!あなたこの間から女子高生女子高生って、ブルマとか、毛糸のパンツとか、言うことがいちいちおじさんぽい!」
水音とポンプの稼動音にかき消されないように声を張り上げると、今度は伊佐奈がぐっとつまったのに、華は溜飲の下がる思いがした。
「なっ、だ、誰がおじさんだ!俺はまだ27だ!」
「にじゅうしちー!?じゅーぶんおじさんじゃないっ」
「このやろ、これだから小娘は嫌だってんだ、27なんてなあ、世間じゃじゅうぶん若い部類に入んだよ!」
「世間ってどこの!」
水族館から出ないくせに!と言い返せば、ぎり、と睨まれる。それは今「おじさん」と言われたのが腹立たしいとかそんなレベルのことではなく、もっと長い間に溜め込んだ鬱屈した苛立ちを感じさせた。
「金ヅルには若僧言われて女子高生はおじさん呼ばわり、ふざけんじゃねえぞ、」
怒らせたかと警戒したけれど、厳しい目つきをしたのはほんの一時で、すぐに、はあ、とため息を吐いて消沈してしまった。別に華は伊佐奈を凹ませようと思ってここへ来ているわけではないのだ。けれどなんだかいつもこんな風になってしまう。
「……スポンサーの人に、若僧、とかって、言われるの」
「うるせえな、言われるだろ、それくらい。館長が病気だつって顔半分隠して27歳で、そんなのに金出させてんだ、言われまくるに決まってんだろが」
華も動物園の運営に関わって、人を呼ぶことがどのくらい大変か、ということはわかっているつもりだった。手段に問題はあっても、伊佐奈がここまで人の姿を取り戻したということを、軽く考えているつもりはなかった。それでも今、疲れきったようなその声を聞いて驚いているのは、やはりどこかに、ここまでの伊佐奈の道のりが、海洋生物たちの力を搾取するだけで、彼はただふんぞり返っているだけだった、と思う心があったのだ、と思った。
「お疲れさま、」
考えずにぽろりと口からそんな言葉がこぼれ落ちて、はっと口元を押さえた。何を偉そうに、また「知った口を利くな」と言われる、と身構える華の前で、伊佐奈は苦笑に似た形に淡く笑った。はっきりとした笑みではなかったが、愛想笑いだとか、口の端を吊り上げただけの得体の知れない笑みだとか、そんなものではなくて、本当に頬と目元を緩めて笑った顔だった。ぎょろりとした鯨の目も、柔らかく細められている。
「なんだお前、俺の偉さがやっとわかったのか」
初めて見た顔に一瞬目を奪われたのを誤魔化すように、華は唇を尖らせてまた憎まれ口を利く。
「そういうこと、自分で言わなきゃいいのに。あと、偉いとは思ってない」
「生意気しか言わねえのは、この口か、ああ?」
唇を上下合わせてぎゅっと抓まれて引っ張られる。伊佐奈は笑っている。いつもそんな顔をしていればいいのに、とか、何だか仲が良いみたいでおかしな感じだ、とか、考えていたら、さらにほっぺたを左右にぎゅうと引っ張られて「すげえブス顔」と笑われたから、華も反撃しようと手を伸ばす。
「いひゃいっ、はらひひぇおっ」
「何言ってんのかわかんねえよ」
華が何をするつもりなのかはわかっただろうが、避けられなかったから、指先が、ぷに、と伊佐奈の唇に触れた。酷薄そうな顔をするから、唇なんて薄くて硬くて冷たいだろうと思っていたのに、そこはびっくりするほど柔らかくて、薄い皮膚に包まれている。すっと横に滑らせると指先に熱が残る。人間の体温、そこから先は、鯨だ。またつうっと指を滑らせて、人間の唇へ戻ってみる。
「……あんだよ、」
熱心に、不思議そうに、頬を抓り返すわけでもなく伊佐奈の唇へただ触れる華に、喋りにくそうに問いかけが落ちる。
「唇のある動物って、あんまりいないね」
「俺は、お前みたいに詳しかねえが、少なくとも鯨にはねえな。おい、あんま触んな」
観察でもしているような華の様子に呆れて、しかし律儀に返事をしながら、伊佐奈は何度も唇を撫でる華の指を、手首を掴むことで止めさせた。
「何でよ、そっちが先に触ってきたくせに」
「……お前、蒼井、男いねえだろ」
自分はよくて華はダメだと言うのはおかしい、と不満を訴え、唇って何のためにあるんだろう、と首を傾げると、華にしてみればまったくあさっての方向から返答があって、しかもそれは図星だったからうろたえた。
「なっ、な、何、関係な、セ、セクハラ!」
「どっちが、」
動揺して苦し紛れの糾弾をすれば、さらに呆れたようなため息をつかれ、その吐息が華の前髪を揺らして、びくりとした。いつの間にか、華と伊佐奈の顔の距離は30cmほどしかない。いや、20cm、10cm、5――
「ん、っ」
引き結んだ華の唇に、やっぱり引き結んだ伊佐奈の唇がぶつかって、ふにゃ、と一度弾力を確かめるように強く押し付けられ、それから少しこすり付けるようにして、そしてまた離れた。華はそれを、大きく目を見開いたまま見ていた。目が合って、伊佐奈は、ぷ、と意地悪そうに吹き出した。
「すげえ、寄り目。」
「〜〜〜〜っ!」
今度こそ頬を抓ってやろうと手を伸ばしたが、右手がたどりついたのは伊佐奈の鯨の左頬で、硬いそこをつまんで引っ張ることはできなかった。右頬へ伸ばす前に、こちらの手首も捕まえられてしまう。
「つまらねえだろ、唇がないと」
とんでもないことをしでかしておいて、その唇に息がかかるほどの距離で、伊佐奈が言い放ったのはそんなことだ。つまり今キスをしたのは、先ほどの華の疑問に対する答えだったと言うわけだ。
「信じられない!は、初めてだったのに!!」
「だろうと思ったから、触るだけにしてやったんじゃねえか」
「さ、触るだけって、触るだけって、」
それ以上何があるというのか、考えたくもない。
「口は災いの元、だ。よく覚えとけ、小娘」
「よーっくわかりました!!もう、帰りますから離してくださいっ!」
華は今まで伊佐奈に対して、残酷なことをいくつも言ってしまったが、今ので全部帳消しにしても許されるだろうと思う。手を振りほどこうと少々乱暴に引っ張ると、抵抗もなく開放された。全身汗だくだ。海水の匂いのする、暑い、うるさい部屋で、タイルの床の上に座り込んで、一体何をやっているのだろう。立ち上がってスカートをぱんぱんと払うと、扉に向かって駆け出して、
――結局華は、スタッフ用の通路を伊佐奈に手を引かれて歩いている。
「『水族館の舞台裏』見たかったからあんなとこに立ってたんだろ、もっと喜べよ」
「…………、」
勢い良く扉を開けたまでは良いものの、来館者の順路からは壁を隔ててしまっていたのを忘れていたのだ。そこにあったのは先の見えない暗い通路と、伊佐奈や幹部が高速で移動するための柵もない流れの早い水路である。出口はわからない。水路に落ちずに一人で探し当てる自信はもちろんない。
てこてこてこ、と無言で歩く道すがら、華はやっとここへ来た当初の目的を思い出した。
「あの、タオル、入り口のインフォメーションに預けましたから。あ、ありがとう、ございました。」
ファーストキスを奪われた直後であれば、礼は取ってつけたような口調になった。返答はなく、てこてこてこ、かつかつかつ、と足音が響く。
「洗濯は、ちゃんとし」
「なんで、」
居心地悪く続けた言葉を、伊佐奈が遮って華は黙った。
「なんで連絡しなかった、しろっつったろ。しかも、遅え」
むっとしたように言われ、借りたものをなかなか返せなかったのは事実なので、心中は複雑だが素直に謝る。借りパク、と言われても仕方のないくらいの日数が経っている。
「お、遅かったのは、謝ります。けど、別に、普通に入館したのは、いいでしょ」
「よくねえ。さっき顔合せなかったら、黙って帰るつもりだったのか」
「タオルのことは、ちゃんと、感謝してます。ありがとうございます。」
「違う。おい、わざと言ってんのか」
なぜ伊佐奈に連絡をしなかったのか、そのことを答えたくなくて、問題を摩り替えた答えをしたが、見逃してはもらえなかった。かつん、と伊佐奈が立ち止まって、手を繋がれている華も仕方なく立ち止まった。節約のためか必要が無いからか通路は暗く、水路を水が流れる音と、空調やら冷蔵・冷凍庫やらのモーター音が響いていた。深海のように静かな展示の裏側で、こんなにもざわざわと脈動している。水族館も館長と同じだ。
「連絡、しなかったら、いけないですか」
「お前、そんなに俺に会いたくねえのかよ、」
答えは、肯定もできるし否定もできた。言いあぐねてうつむいた華に、嫌われたもんだな、まあ当然か、と言う声が降って手が離されようとしたから、ぎゅっと力を込めてそれを引き止めた。
「あなたが、動物たちにしたことは、酷いし、許されないことだと思う、けど、それで、嫌い、顔も見たくない、って思ってるわけじゃ、ない」
華はそこで、はあ、と息を吐いて、すう、と吸った。考えをまとめるために必要だった。
「私がここに来て、来たよって、あなたに言って、いいの、」
「どうしてそれをしねえって、訊いてんのはこっちだ」
もともと気が長くない風である伊佐奈が、苛立った様子で言う。ぎゅっと力を込めて握りしめられた手は、血が流れなくなって冷たい。
「だって、来たよって言って、通用口から入れてもらって、そんなの、身内みたい……嫌とかじゃなくて、私、この前来た時に思ったの、当然だけど、水族館のこと、あなたのことも、何も知らない、部外者、なのに、」
「…………つまらねえ理由だな、バカらしい」
「知った口を」「何も知らない小娘が講釈を垂れて」あの時の伊佐奈の言葉は、本当にその通りなのだ。華には伊佐奈を傷つけることしか出来ない。きっと、関わらないでいる方が良い。あの日からずっと考えていたことを言ったのに、華の言葉を聞いた伊佐奈はいかにも馬鹿にしたように鼻で笑うと、くるりと背を向けて再び歩き出した。握った手はぐいぐいと引っ張られている。
「何にも知らねえくせに妙に核心突いた酷えことばっか言って、俺を殺すなってぴいぴい泣いて」
「き、聞いてたの!?あの時、」
「……それでどこが部外者なんだ、もう関わってんだよ。この顔見といて逃げんのか。潰すぞ。知らねえなら知れ。呪い解けるまで協力しろ、こっちにも」
「何かできると、思うの、私に、」
「まあ、小娘なりに。兎だって呪いが解け始めてんだろ、ショボイ動物園の癖に」
「ひっどい、」
「おたがいさまだ、」
たどりついた扉を、ぎい、と伊佐奈が外に向かって開いた。海風が吹く。ライトアップされた水族館を静かな水面が映し出して、きらきらと美しい。
「もっとしょっちゅう来い。1ヶ月も間開けてんじゃねえ。俺の愚痴を聞きに来い。そして敬い讃えろ。呪い解け。命削れ。」
「おじさんの愚痴なんて聞きたくない」
「おいコラ、またその口塞ぐぞ、」
繋いでいた手をぱっと振りほどいて、華は夜の中へ駆け出した。そして振り返った。
「またね!」
大きく手を振れば、伊佐奈も軽く片手を上げる。しばらく走って、もう一度振り返れば、まだ立っている伊佐奈の姿が見えたから、華は両手を振って、その姿が扉の向こうへ消えるのを見送った。
(ラブラブに)ならぬなら させてみせよう マッコウクジラ
打ち切りになったけど「私達は楽しくいさはな妄想してきましょうね」!!
わああああああああああん
水族館の館内は名古屋港水族館をモデルにしています。
2011年4月19日
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