きらきらと夕日を跳ね返す海面の光に眩しそうに目を細め、華は読んでいた本を閉じて傍らに置いた。ぐっと伸びをして「背もたれ」に身体を預ける。脚を投げ出して座った床は冷たく固いが、背を包むものは冷たくなく熱くなく、どこか柔らかくてなかなか居心地が良い。ガラスの向こう、眼下に広がる凪いだ海を見て、今置いた本の中から印象に残った活字を口に出してみる。
「打ちむれて あそぶを見れば あら海に すむ鯨すら 心ありけり」
「……嫌味か、そりゃ」
うにょん、と「背もたれ」が波打った。「森鴎外。文学に親しんでただけよ」しれっと言い捨てて、汗をかいているペットボトルの清涼飲料水で喉を潤す。キンキンに冷えているというわけではないが、まだ十分に冷たい。しゅわしゅわとはじける炭酸の感触を楽しんでいると、ごんごんごん、と重いノックの音が響いて、扉が開いた。
「アオイハナ、」
「はいっ、ここにいますっ、サカマタさん」
華が今座っているのは丑三ッ時水族館の館長室の床であり、背もたれにしているのはこの部屋の主、館長の鯨の尾鰭だ。ガラス張りの館長室は夕日を映して輝く海の素晴らしい景色が広がっているというのに、そちらには背を向けてデスクがあるから、椅子に座った伊佐奈と背中合わせで床に座っている華の姿は、入り口からは見えないだろう。元気良く返事をすれば、かつかつと足音がして、白と黒のツートンカラーが華の前に膝を着いた。
「腹が減っているんじゃないか?人間のメスがどのくらい物を喰うのかよく知らないが」
目の前にこぶしを突き出され、ぎょっとして思わず両手を顔の前にかざすと、手のひらの向きが違う、と苛立たしげに言われる。意味がわからず目を白黒させる華を待たずに、膝の上にばらばらと何かが落ちた。
イルカまんじゅう、シャチクッキー、ペンギンチョコレート。ここの土産物だ。一日に40〜50kgほどの餌を食べるというシャチと比べれば少食かもしれないが、十代で、高校生で、運動部で、肉体労働のアルバイトもしている華は、同世代の「人間のメス」と比べたら良く食べる方なので、それはもう諸手を挙げて喜んだ。
「いいんですか?ありがとうございますっ」
うにょんうにょん、と背もたれが波打ったが、無視した。
「試食用に開封した残りだ、むしろ食べてもらえれば助かる。……俺はショーがある、しばらく留守にするが、頼む」
立ち上がったサカマタは、二人に背を向けたままの館長に、ちらりと目線をやった。
「子守か?子守と言いたいんだな?喧嘩なら買うぞこのシャチ、」
PCに向かい、かたかたとなにやら文書を作成しながら悪態をついているのを、やっぱり無視する。
「ショーって、シャチのショー?サカマタさんの?見たい!行きたいっ」
きゃあ、と歓声を上げて、立ち上がろうとした華の身体を、ぶわ、と膨らんだ巨大な鯨の尾鰭がぐるりと巻き取った。伊佐奈はやっぱり顔を上げもしないが、
「却下。」
低い声で一言告げて、サカマタを見ると、さっさと行け、とあごで扉を示した。
「……すまんな」
最初から本気で行くつもりはなかった華をわかっていて、あっさりと引き下がるサカマタに、ふふ、と笑って手を振る。
「今度サカマタさんのメロン触らせて」
「でら断る。メロンならマッコウクジラにもあるぞ」
がん、と伊佐奈がデスクの脚を蹴飛ばしたのを鼻で笑って、多忙な人気者は館長室から出て行った。
「わわ、わっ」
身体を緩く拘束する尾鰭がうごめいて、立っていられずに皺だらけの灰色の皮膚にすがりつく。サカマタが出て行けば開放されるものかと思ったが、そうしてはもらえないらしい。叩き潰したり、跳ね飛ばしたり、そんなことしか出来ないのかと思っていたが、華はいま特に息苦しくもなく、痛いところもなく、けれど抜け出すことは出来ずに捕まえられている。存外器用だ。ぺちぺち、と手のひらで叩くと、答えるようにうにょんうにょんと波打った。
タオルを返しに来てから一週間である。部活と動物園の休みが重なることなどそうそうないかと思っていたが、時間は探してみれば意外とあった。この水族館も、以前のように「丑三ッ時」まで営業することはなくなったが、それでもかなり遅くまで開いているので学校の帰りでも来ることができる。放課後に予定のない平日、軍手と長靴を選んでほしいという菊池の誘いを申し訳なくも断って(実際のところ、華よりも店員に選んでもらった方が実用的であると思うのだ)、華は牛三市行きの電車に乗り込んでいた。
駅について、電話をしてみた。少し緊張したが、名乗れば簡単に館長室に繋がり、水族館に着けば館長その人が待っていたものだから、驚いた。開催中のイルカショーの音楽が聞こえてくるのにそわそわしながら、しかしそれを見ることは叶わず、有無を言わさず館長室まで連行された。
「俺ぁ書類仕事でずっとカンヅメになってんだ、お前も付き合え、愚痴聞け、慰めろ、励ませ、褒めろ」
いつも目つきが悪く顔色も悪いから会ってすぐには気づかなかったが、よくよく見れば目の下のクマの濃さは普段の倍だ。うっすらと目に見えるほどの無精ひげまで生えているようである。指輪や腕時計も外されていて、珍しいと言えばむくんでいて痛いと答えが帰ってきた。
それから華は、壁に並んだ書棚から今までに見たことのない海洋生物関連の本を何冊か拝借し、伊佐奈に命令されたサカマタが買ってきてくれたペットボトル飲料をお供に、読書をしつつ、時折あがる伊佐奈の呪詛めいた呟きにツッコミをいれたり誠意のない励ましをしたりして過ごしていたのだ。伊佐奈は口が悪いし根性も曲がっているが、お互いに気を遣うこともないので、一緒に過ごすのは意外なほど楽だった。
華が、貴重な予定のない放課後、仲間になってようやく息も合ってきた菊池の誘いを断ってまで伊佐奈の愚痴を聞きに来たのは、「来い」と言われたからだった。それは別に、伊佐奈を恐れているから命令に逆らえなかった、などということではない。
(お前が要る、って言われるの、弱いんだ、私)
自覚はあった。園長に面接された時もそうだ。16年の記憶の中で「要らない子」であったことが多すぎて、必要だと言われると相手が何であろうとふらふらと尻尾を振って付いていってしまう。
伊佐奈の書類仕事というのは多岐に渡った。新しい館内パンフレットの校正、展示動物の融通や飼育方法の研究で協力し合っている全国の水族館から届く業務や新顔紹介などについてのメールの返信、遠足で来た市内の児童生徒から送られたお礼の手紙の返事、新しい浄化装置を格安で提供する代わりにデータを取らせてくれという企業からの書類に目を通す。
「お手紙やメールの返事も館長の仕事なんだね。びっくりした」
「他はどうだか知らねえが、ウチでは広報は俺の仕事だな」
「サカマタさんとかイッカクさんがやってるのかと思ってたよ」
「そりゃあシャチは少しは使えるが、トランジエントだぞ。社会性ゼロだ。時候の挨拶こねくりまわしたり、卒論に協力しろとか職業体験させろとかそんな奴らを当たり障りなく断るとか、無理に決まってんだろが」
「あなたに社会性ゼロとか言われてもねえ」
華はサカマタから送られてきた、暗号と紙一重の、味も素っ気もない手紙を思い出して内心頷きながらも、口ではツッコミをいれた。伊佐奈は怒るかと思ったが、俺だって好きでやってんじゃねえ、とわめいて人間の姿の頭をがりがりとかきむしるだけだ。どうも、愚痴を聞け、というのは本当に、彼の本心らしかった。こんな他愛もないことも、言う相手もいなかったのだ、今まで。周囲とそんな関係しか築くことの出来なかった彼の自業自得と言えばそれまでだが、華だって、動物園でバイトを初めてすぐの頃は、ウワバミたちが戸惑う新参者の華の話を聞いてくれたから続けられていたのだ。
だから華は、必要だと言ってくれた伊佐奈の話を聞こうと思った。欲しい言葉をくれるから、自分を肯定してくれるから、その代わりに。
(私って、いやしいんだろうか)
伊佐奈の愚痴を聞きに水族館へ来ることに決めた華の心の動きを、1から10まで他人に説明したら、誰からもいやしいと眉をひそめられるような気がした。
「おい、ちょっとこれ見ろ」
ぐんにゃりと巻かれたままぼんやり思考に沈んでいた華を、引っ張り上げるように尾鰭がうねった。尾鰭の先の本体から手招きされ、柔らかな拘束が解かれたから、華は考えるのをやめてひょこひょこと近づく。PCのディスプレイには、何点か、キーホルダーだとかタオルだとかの画像が展開されていた。
「秋冬の新商品だ。このタオル、4色あるが、実際には2色に絞ろうと思ってる。お前なら何色選ぶ?」
デザイナーからのメールらしい。顔を近付けてみたり、また離れたり、ためつすがめつして見せたが、華は結局直感で自分が一番いいと思う色を答えた。
「緑!緑が可愛いよ。あと、オレンジ、かな」
「よし、緑とオレンジはなし、と」
「何よそれ、」
「これはなあ、若い女がターゲットなんだよ。お前、一般の若い女の感覚からかなりずれてるから、その逆いけば売れるだろ」
「むっかつく!」
くっくっく、と意地の悪い顔で笑う伊佐奈の髪をぴんぴんと引っ張ったが、何も感じていない様子でさらにマウスを操作する。
「じゃ、これは?」
透明な樹脂製のイルカのキーホルダーがやはりいくつか並んでいる。画像の隅に印面の見本もあるということは、お土産物で定番の、名前のはんこになっているのだろう。また、華が選んだものは採用しない、と言われるだろうと思ったが、嘘を言っても仕方ないので素直に答える。
「……この青みの強い紫の、色がきれい。無色もシンプルでいいけど、目立たないかな」
このデザインなら通学カバンにつけても可愛いように思う。発売されたら「はな」を探して買おうかと思ってしまったことは悟られないように、少々そっけなく答えると、ふん、と少し考えた伊佐奈が今度は、青紫、いいかもな、と言ったので華はまた髪を引っ張った。
「何なのよ、さっきから」
「こっちは子供向けだからな」
「いちいち腹立つ!子供向けならあなたも使ったらいいじゃない、いさなくんってはんこ、書類に」
わあわあとまくし立てたら、伊佐奈がふと黙ってしまうから、決まりが悪くなって華も黙った。
「お前、俺の名前知ってたのか」
華が口に出して伊佐奈の名を呼んだのはこれが初めてだった。意識して言わないようにしていたのに、今うっかりして口にしてしまったのだ。
「……知ってたよ、当たり前でしょ」
「呼ばれねえから、知らねんだと思ってた」
一番最初、イガラシを取り戻しにここへやって来て、屋上で初めて、顔を合わせた時。伊佐奈が名乗ったのは覚えていたが、ただ、館長、とだけ記憶されて、名前は残らなかった。あの時の華には必要のない情報だったからだ。けれど別に、その後だって彼の名を知るのは簡単だった。パンフレット、館内展示、あちこちに館長の名が記されている。そして華は呪われた彼の姿を見てしまったから、もう二度と間違えることも忘れることもない強烈さで、脳裏に刻み込まれた。
「その、名前って。…………、ほんとの、名前、なの、」
鯨に呪われた男の名が、いさな、などと、出来すぎではないか。いさなというのは、鯨魚、伊佐魚、などと書く、鯨の古い名である。皮肉が過ぎる、偽名なのではないか、色々な思いがあって、素直に呼べなかったのだ。
「さあなあ、」
一瞬だけ目を見開いて、それから気だるげな半眼に戻って、ふん、と鼻を鳴らして遠くを見た伊佐奈を見て、華はまた自分が失敗したことを知った。伊佐奈というのは、おそらく、本当に彼の名なのだ。華はまた、酷いことを言ってしまったのだ。
「……伊佐奈、」
「様をつけろ、様を」
言いながら、伊佐奈はかぽんとヘルメットを取ってデスクに置いた。人ではない、一見鯨にも見えない、異形の半分が現れる。きい、とかすかな音と共にデスクチェアが華の方を向いて、細い腕が腰に回り、ぐっと引き寄せられた。
「蒼井華、答えろ。俺は人間か?」
椅子に座った伊佐奈が、膝の間に立っている華を、じっと見上げている。華もじっと伊佐奈を見た。華は正直で嘘を吐くのには向いていなかった。今まで美徳だと思っていたそんな性質が、本当はとても残酷なのだと気づき始めていながら、伊佐奈の質問に答えることは出来なかった。
沈黙で答えた華に、痛そうに顔をゆがめて、伊佐奈がうつむく。胸に顔が押し付けられる。そこからは今、匂いと、薄い皮膚に包まれた柔らかさと体温、肋骨の奥の心臓の鼓動、人間の身体が持つものが伝わっているはずだ。そして華にも、静かに温かい息をする人間の鼻と口、少し冷たい鯨の肌、鎖骨をくすぐる黒と銀の髪の感触が伝わってきている。そっと手を伸ばして、人間の黒い髪を左手の指で梳いた。右手は、魔力を持つ煙を出す、鯨の噴気孔のふちをゆっくりとなぞる。
「伊佐奈、」
それから、両腕で伊佐奈の頭を抱えるようにして、つむじのあたりに頬を預けた。腰に回された腕に力がこもった。
「戻んのかなあ、俺は、人間に」
胸から直接震動になって伝わったくぐもった声は、今までの愚痴とは違っていた。華が初めて聞いた、彼の弱音だった。
「わかんない、そんなの」
華はやっぱり正直に答えることしかできず、ただぎゅっと強く、伊佐奈を抱きしめた。静まり返った館長室で、遠くから、シャチのショーの陽気な音楽と、夜のスタジアムを埋めた来館者の歓声が聞こえていた。
どうしたらラブラブいちゃいちゃになるんだお前ら
2011年4月25日
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