伊佐奈が華に晒して見せた心の内は、ちくちくと胸に棘を刺した。彼の求める最後のひとかけらがいつ与えられるのか、そんなことは華にはわからない。ただ、吐き出された声があまりにも弱いのが悲しくて、ただ今この時だけでも外界から守るように抱きしめた。そうして三分ほど経っただろうか、それとも十分もそうしていたのだろうか、時間の経過はよくわからなかった。
(……なんか、気まずい、どうしたらいいのコレ?いつやめたらいいの?)
悲しみの波がひとまず過ぎて冷静になってくると、次第に羞恥が襲ってきた。伊佐奈の呼吸で心臓の上が熱かった。しかも頬骨の上あたりか、胸の膨らみが思いっきり当たってしまっている、と思うと、今まで意識していなかったのに急に身動きが取れなくなって、自分でわかるほどかちこちと身体が固まった。
(ど、どうしよう、緊張しすぎて息が苦しいっていうか、伊佐奈は、その、場所、的に、息苦しくないのかな、)
穏やかだった心拍数がどんどんとテンポを上げる。この体勢では伊佐奈には筒抜けだということも今の華には気が回らない。かっと全身が熱くなって来た。
(いきなり突き放したら変に思うよね。傷つけちゃうかな、ど、どうしたら)
どうしようどうしようどうしたら、と混乱のあまり頭から煙を吹いて倒れそうになっている華の腕の中で、す、と伊佐奈が顔を上げた。上目遣いに見上げてくるのと目が合って、ごくりと息を飲む。多分今、耳まで赤い。それを見ているのかいないのか、静かに伊佐奈が口を開いた。何を言うのか、華は緊張の極致にありながらじっと耳を澄ませた。口の中は鯨に近いのか、人間にしては長めの舌が唇を湿らせて、彼は言葉を発した。
「――E70」
正解だった。
ショーが終了してスタジアムから出ようとする人々の流れに、逆らって華は走る。子供を避けてすれ違うカップルとぶつかりそうになって謝る。サラリーマンのカバンが引っかかる。舌打ちが追いかけてくる。荒海をくぐる鯨のように人波をくぐり抜けて、閑散としたスタジアムの客席へ飛び込む。日が落ちて辺りは暗く、目を焼く大型の照明に腕をかざす。
プールを挟んで向こう側のステージに、純白に金モールの制服を着たスタッフが二人、立っている。姿かたちは人間に見えるけれど、彼らも海洋動物だ。手を振った華に敬礼でこたえたのがイッカクの一角、ふんと背を向けたのがマダコのデビルフィッシュのはずである。水面に目を走らせれば、運動の後のクールダウンのように、ゆったりとプールの中を回っている巨大なシャチが見えた。華は、誰もいなくなったスタジアムの客席を水際まで駆け下りる。気づいたのか、一度深くまで潜ったシャチは、ざんぶりと華の目の前で浮上して、独特の高い声で何度か鳴いた。手を伸ばすと、鼻先で触れてくれる。嬉しくて笑うと、今度は脅すように、が、と口を開けて歯を見せられた。華はますます笑う。
「あのね、私、あの人、伊佐奈、殴っちゃった。拳で」
シャチは水から大きく半身を出して、また大きな声で鳴いた。笑っているように聞こえた。
「それ、ほんと!?」
「わっ」
その横に、にゅっと頭を突き出してきたのはマグロの鉄火マキだ。彼女は観客の前に姿を表わすことはないが、水中では調教師として待機している。スタジアムはもう無人だ。華とサカマタが話して(?)いるのに気づいて、水面までやって来たようだ。
「あんた、館長より速いの!あたしより速い!?」
鉄火マキは興奮してその場でぐるんぐるんと回転している。油断していたら水の中に引っ張り込まれるかもしれない。華は別に伊佐奈と闘ったわけではないので、慌てて顔の前で両手を振って否定と降参を示した。
「違うよ、不意打ちしたから当たっただけ!」
「不意打ち!えげつなくていい感じね!館長ボッコボコ?」
えげつないと評されたあげく喜ばれてしまい、華は困ったようにへへ、と笑う。鉄火マキの興奮っぷりを見ているサカマタが、人間には表情なんてわからないシャチの顔なのに迷惑そうに見えるのは、魔力で変化した姿を知っているからだろうか。
「ううん、一発だけ、右手で殴って鯨の顔に当たったから、私の力じゃ腫れてもないと思うよ」
むしろ華の右手の拳の山が赤くなっている。ぴらぴらと振ると、ククッ、とサカマタが喉を鳴らして笑うような声で鳴いた。
「それでそれで、どーしたの?館長のバッキバキ来た!?」
「あのね、私が拳を出すとは思ってなかったみたいで、びっくりしてたから、その間に走って逃げちゃった」
やっはー!と歓声を上げて、プールの縁から身を乗り出したマキが華の腕を取って引っ張ろうとする。
「やっぱりあんた館長より速いんじゃん!ね、あたしと勝負しよ!」
「わあっ!」
ぐらりとバランスを崩したのを、必死で手すりにつかまる。陸上で時速20kmだってあやしいし、水中なら溺れないようにするのがせいぜいである。
「ムリムリ、ムリだって!」
メス2匹できゃあきゃあと騒いでいたら、サカマタがまた水から半身を突き出し警報機のように鋭い声で鳴いた。いい加減にしろ、と言うことか。ステージの上のスタッフも片づけを終えて引き上げて行き、スタジアムの照明がすっと消えた。わずかな明りの中で、時折遠くの照明を反射して水面がちかちかと光る。
「マキさん、邪魔してごめんね、お仕事は大丈夫?」
「しょーがない、勝負はまたこんど!サカマタぁ、あんたも早く姿変えなよ」
あっという間に暗い水の中へ消えていった鉄火マキに手を振って、それから華は、サカマタを見た。彼も水中に姿を消そうとしているところだったが、物言いたげな華の顔を見て、水面にとどまってくれる。
「サカマタさんは、」
言い淀んで、唇を閉じて、また開く。忙しいサカマタの時間をあまり使わせてもいけない。
「サカマタさんは、私に手紙を出したこと、後悔、してませんか」
後悔と言うよりもっと適当な言葉がある気がしたが、今の華には思い浮かばなかった。さらわれたイガラシを取り戻しに来た争いの後、華がここへ来たのは今日も含めて三回、そのたびに水族館の動物たちの雰囲気は良くなっているように感じる。和気藹々というのとは違うが、動物たちは言いたい事を言って、伊佐奈は口も態度も悪くもそれを聞き、尾鰭を振り回すでもない。連帯と共感は確かに生まれている。人間だからと、動物園から華がやって来て伊佐奈と会う必要はないように思うのだ。サカマタは身を乗り出して、一声歌うように鳴いた。思わず伸ばした指に、黒い鼻先が押し付けられる。華には何を言っているのかわからない。
「サカマタさん、」
ふと、指とシャチの鼻先にもやがかかって視界が悪くなった。背筋が粟立つような感覚がある。魔力の煙だ。水中でサカマタの姿が変わり、白いスーツから伸びた黒い手が華の手首を掴んだ。引かれるまま身を乗り出すと、シャチの異形が呟くように言った。
「人間というのは、何をするにも理由が要るのか。でら面倒だな」
肯定なのか、否定なのか、考え込んだ一瞬のうちに水中へ消えてしまう。見送る華の背後から、客席通路の階段を下りてくる足音がかつかつと聞こえてくる。くるりと振り向く。暗いスタジアムの中でも、その特徴のある姿は影だけで誰なのかわかる。
「伊佐奈」
「カバン、」
華の通学用のリュックをぶら下げて、だるそうに伊佐奈が歩いてくる。リュックと一緒に握られているビニール袋にはご丁寧に、飲みかけのジュースのペットボトルと、サカマタに貰ったのに結局食べられなかった菓子が入っている。他人のカバンを勝手に開けてそこへ荷物を入れるなんて無作法は思いも付かない、育ちの良いお坊ちゃんなのだ、彼は。
「何かカジカの鳴き声してたぞ、中から。携帯か?」
ぐい、と突きつけながら首を傾げる伊佐奈の言葉に、華は思わず手を打って喜んだ。
「そう!カジカ!カジカガエルの着信音なの!すごいね、私の周りじゃわかる人いなかったよ」
「水族館の館長なめんな、」
『日本の水棲生物』という学習コーナーもあるのだったか、館内展示を思い出しながらリュックを受け取って、そして伊佐奈を見上げた。当然だけれどもう顔を隠していて、殴った頬が実際どうなったのかは華にはわからない。方法には難があったが、パニックになった華を助けようとしてあんな風にからかったのだろう、と何となく思っている。
(良い方に解釈しすぎ?)
謝る気はないけれど、セクハラの対価に拳をくらった男の方も特に怒っている様子はない。どころか、カバンをほっぽり出して館長室を飛び出した華を、わざわざまとめた荷物を持って追いかけてきてくれた。
「携帯持ってんなら番号教えろ」
伊佐奈の顔を見ながら考えをめぐらせていると、スーツの胸ポケットから何の変哲もない普通の携帯電話が出てきて驚いた。
「持ってたんだ、」
「持ってねえ方が珍しいだろ今時」
呪いなんて今時ありえないものにとらわれている男に常識を振りかざされても、園長だって持ってないし、という呟きは心の中だけにとどめて、リュックをかき回して自分の携帯電話を取り出す。着信を知らせるLEDが光っている。ぱかりと開くと暗さに慣れた目にディスプレイが眩しかった。表示されているのは電話の着信が1件、華はそれが誰からか確かめることは敢えてせず、赤外線通信の画面を開く。
「赤外線、やり方わかる?お、じ、さんっ」
「また言いやがったこの小娘、そんなにプールに落ちたいか、ああ?」
にやあ、と笑って見せれば、ちゃんと挑発に乗ってくれる。華の両肩を掴んで揺すって、手すりの向こうの暗い水の中へ落とすように力を込めて、けれど身体がぐらりと後ろへ傾けば引き戻す力の方が強くなる。だから華は開いたままの携帯を持って安心してきゃあきゃあと笑っていられる。
「伊佐奈様は若さあふれる素敵なお兄様ですって言えコラ」
「そんな、に、揺らし、たら、言え、ない、よっ」
腰のあたりの高さのプールの手すりに押し付けられて、のけぞった華が苦しそうに笑う。伊佐奈が覆いかぶさるようにして肩をぐいぐいと押して揺らしていて、照明の落ちたショースタジアムにはしゃいだ声が響いた。と、その間を縫って、ころころころ、と鈴を転がすような涼やかな音がして、急に二人の温度を下げた。清流のせせらぎ、カジカガエルの鳴き声、華の携帯が着信を告げ、開いたままのディスプレイは電波の先に居る人の名を示す。
(菊地くん、)
鳴り響く着信音に伊佐奈が肩から手を離した。半ば宙に浮いていた華の足の裏はまたコンクリートを踏みしめる。携帯電話を見つめている頭の上からぽつりと声が降った。
「出ねえの、」
無表情だ、声も、顔も。はっとして顔を上げた。かつん、と一歩下がって距離をとられる。たった一本の電話で、華から遠ざかろうとしている。
「動物園の奴じゃねえの、出なくていいのか」
手を伸ばして、後じさる伊佐奈のネクタイでもスーツでも、掴んで引き止めたかったけれど、それほど気安い関係ではないと思ったから出来なかった。その代わりに華は、離れようとする彼を捕まえようと言葉をぶつけた。
「出ないよ。今、伊佐奈と話してる途中なのに、それなのに、電話に出ないよ」
じっと、今見ることの出来る唯一の、人間の方の目を見る。伊佐奈は目をそらさない。しばらく見つめ合って、ふっと着信音が途切れて静寂になった。
「ねえ、伊佐奈、番号教えてくれないの」
「……俺の着信音はカエルじゃないやつにしろ、」
今、身体の距離は、そのまま心の距離だ。こつ、と遠ざかった一歩がまた縮まって、伊佐奈が再び携帯電話を取り出したことが、どうしてこんなに嬉しいのかと華は自分に問いかけてみる。
「じゃあ、バンドウイルカの鳴き声にする」
「微妙だな」
「シャチのほうがいい?」
「潰すぞその携帯」
数秒で電話番号とメールアドレスのみのシンプルなデータを受信する。登録数はあまり多くない華の電話帳は、家族、友達、バイト、の3つにグループ分けされていて、丑三ッ刻水族館はバイトのグループに入っていたが、少し迷って伊佐奈の個人情報を名前のない新しいグループに登録した。
「ううん、あっ、ウミネコ!」
「イルカやシャチよりはまあマシかもな、妥協してやろう」
「偉そう!」
「つうか、お前の携帯は動物の鳴き声でしか鳴らんのか?」
伊佐奈も携帯電話を操作している。華のデータがどのカテゴリに分類されたのか気になったが、もちろん訊けるはずもない。
「俺のは繋がらんことが多いかもしれんが、留守電かメール入れとけ。反応なければここへ直接かけろ」
「そんなに打ち合わせとかスポンサーに会ったりとか多いの?」
「それもあるが、しょっちゅう壊れんだよ。海水くらい耐えとけってんだよなあ」
たまらず、ぶはっ、と吹き出した。つまり、ポケットに携帯電話を入れたまま水槽に入ってしまうのか。伊佐奈はまったく自分に非があると思っていない。ポケットに携帯を入れっぱなしにしたまま水槽に入ってしまうのがしょっちゅうであることをまったく恥じていない。自分がうっかりしているのではなく携帯が海水で壊れる方がおかしいと本気で思っている。
「と、ときどき、すごく可愛いよね、伊佐奈」
「はあ?何言ってんだお前。バカにしてんのか」
「そっちこそ何言ってんの、可愛いって褒め言葉でしょ」
可愛い、と繰り返し言えば、てめえやっぱり落とす、とぐっと肩を押されショープールの水面へ上半身を反らせて、やめてよ、と笑い混じりの悲鳴を上げながら、それでも掴んだ肩は絶対に離されないだろうという安心感がある。なされるがままのけぞった華の目に、スタジアムの天井近くの薄暗がりにちらちらと踊る黒い影が入った。
「コウモリがいる、」
呟けば、華をプールの手すりに押し付けたまま伊佐奈も上を見上げる。
「あのへん虫が多いからな、狙ってんだろ」
ぱたぱたとわずかな羽ばたきの音しかしないコウモリを見上げキンキンうるせえと言われ、数秒考えてコウモリもエコーロケーションを使う動物だということを思い出した。
「コウモリの超音波も聞こえるの?」
「聞こえるつーか感じるつーか、うぜえ」
鯨の音波の受信器は下あごの骨だ。手を伸ばして伊佐奈のあごに触れてみたが、もちろん華には何も聞こえない。鯨の顔は今は隠されているが、人間の下あごでも音波を受信できるのだろうか、気になって何度か撫でてみる。ひげでじょりじょりする。
「……簡単に触るなって言ってんだろ、学習しねえ小娘だな」
視線を華に戻した伊佐奈が呟く。水の浄化装置の陰で触れた唇を思い出す。私は、と華は自問自答した。
(学習、してないんだろうか、)
違う、と思った。学習、している。華が伊佐奈に触れれば、伊佐奈が華に触れる。
(そうだ、私は、)
伊佐奈の目を見たまま、あごを撫でる手を頬に這わせた。クマのある目の下を、いたわるように撫でる。伊佐奈は一瞬目を見開いて、それからすぐに乱暴な手つきでヘルメットを外して床に落とした。コンクリートと鉄がぶつかる尖った音がした。許されて華は鯨の方の頬にも触れる。伊佐奈の顔が近づいてくる。
「お前、蒼井華、後悔するなよ、」
しない、と言うつもりで開いた唇の間から伊佐奈が入り込んだ。
「ん、ふっ、……っん、んん、」
未知の感覚に反射的に歯を食いしばりそうになって、館長室で普通の人間よりも大きいと思って見たあの長い舌に、ぞろ、と歯列を舐められ、慌ててあごを開く。すきま無く押し付けられた唇が弾力を持ってつぶれる。ゆっくりと咥内を探られ、ぬちゅ、という濡れた音が上あごから頭蓋に直接響いて身体が震えた。体温を逃がさないよう厚い脂肪に守られた鯨の皮膚は冷たかったが、舌は普通に哺乳類の温度を持っていて、華の熱と交じり合って熱かった。口の中が伊佐奈でいっぱいになって圧迫感に腰が引ければ本当に背後のプールへ落ちそうで、両腕を伸ばして伊佐奈の首にぎゅっとしがみつく。それに誘われたように、肩を掴んでいた手が背中を抱いて身体が密着した。どこもかしこも熱くて心臓がうるさい。
(海、みたいな味、が、する、)
当然こんなことは今までにしたことがなくて、どうしたらいいのか華にはわからない。何かを考える余裕もない。息が苦しくて気持ちが苦しくて、ただねっとりと動き回る舌と腕を甘受しながら、伊佐奈のすることを妨げないように、とだけ思う。
掬い上げるように舌を絡められて吸われて、鳥肌が立った。がくんと脚が萎える。ぐっと腰を支えられる。飲みきれない唾液が唇の端からこぼれて、けほ、とむせた。かふっ、と喉が詰まったような音を立てて、苦しさに華は眉を寄せる。それに気づいた伊佐奈がいたわるようにゆっくりと出て行った。華は背の高さの違いを補うように上を向いたまま、は、は、と荒い呼吸を繰り返す。身体は伊佐奈に押し付けたまま、脚に力が入らず自力で立つこともできない。濡れた唇とこぼれた唾液を拭うように舌で掬われ、それから、ぎゅう、と胸に抱きこまれて、すとんとコンクリートに腰を下ろした伊佐奈の膝の上に抱えられた。
「……俺んだ、」
はあ、と熱く濡れた息を吐いて震える声で伊佐奈が言った。黒いネクタイに頬を押し付けた華はその声を耳よりも頬骨で、スーツの向こうの肺の震動で聞いた。
「これは俺んだ。もう誰にもやらない、兎にも」
聞かせるためというより独り言に近い呟きに、華はただぎゅっとスーツを掴んでしがみつくことで答えた。答えようと思ったところで舌がじんじんとしびれて肩で息をしているような今、まともに喋ることはできないだろうが、それよりも答える言葉を持たなかった。
「華、」
消えそうな声で呼ばれた名に顔を上げる。暗闇の中で白目の多い鯨の目が光って見える。そっと手を伸ばして硬い頬を撫でると再び伊佐奈の顔が近づいてきたから、華は目を閉じて待った。
逢魔ヶ刻動物園の夕飯時の午後七時半、夏休みの間は山の向こうに沈む夕日の名残が見られる時間だったが、9月も終りになれば夜の闇ばかりだ。
「ごはんだよーっ」
食事が入った木箱を持って華が声をかければ皆が集まってくる。学校帰りの華は制服の上に作業服を羽織って、軍手をつけただけの軽装だ。野菜果物、肉、魚、というアバウトな分類は相変わらずだが、その中でカロリーの高いもの低いもの、動物によっては摂らなくてはいけないものと摂ってはいけないものもあり、配給の前に木箱の中で仕分けをしようと屈みこんでごそごそしていると、ハナちゃん、と袖を引かれて華は立ち上がって振り返った。
「あ、ウワバミさん!あのね、知多くんにはササミ多めにしようと思うんだけど、普通の肉と半々じゃさすがにかわいそうかなあ?」
「食事のことはいいから、ちょっと」
様子がおかしかった。ウワバミの後ろには大上もいて、勝手気ままに好きなものを取りはじめた動物たちを気にしながらも、もしや何か一大事でも、と二人の後について行った。
「何かあったの?」
食事の喧騒も聞こえてこない園のはずれの常夜灯の下まで連れて来られて、これは誰にも聞かせられない話かと勢い込んで訊ねた華に、大上とウワバミは顔を見合わせて少し困った顔をした。沈黙に気の早い虫の声が響く。しばらくそれを聞くともなしに聞いていると、やがて意を決したようにウワバミが口を開いた。
「ハナちゃん、最近、海へ行った?」
質問の意図がわからなかった。残暑はあるが海水浴の季節でもないし、園から遊びに行ったわけでもない。首を傾げる華に、大上が重ねて訊いた。
「このごろハナちゃんから、すっげ海水の匂いがすんだけど……」
海水、という単語にはっとして一気に心拍数が上がった。そんなつもりはなかったのにびくんと身体が揺れて、こんな反応をすれば二人が不審に思うに決まっている、と心の中で自分を罵った。案の定やっぱりと言う顔をされる。
「ねえそれって、この間、あの恐い水族館から変な手紙が来てたのと関係あるの?」
冷や汗がつうっと背筋を伝った。作業服の下に着ている制服、これを着て水族館に行ったばかりだ。伊佐奈に会って、その匂いが、
「ち、違うの、ちが、違う、」
大上の嗅覚でどのくらいのことがわかるのだろうかと血の気が引く。事を荒立ててはいけない、と思うのに、パニックになった華の挙動はますます不審になる。
「ハナちゃん、誤解しないで、責めてるんじゃない、俺たち心配なんだよ。もしかしてハナちゃんが酷い目にあってんじゃないかって、」
「違う!」
華は子供のようにぶんぶんと首を左右に振った。ウワバミと大上が驚いて黙った。けれど華にも言葉がない。
(伊佐奈は、鯨で暴君だけど、真面目で、お坊ちゃんでも、お仕事頑張ってて、セクハラするけど、ちょっと可愛くて、最近は水族館も変わり始めてるんだ、たぶん良い方に、シャチやマグロの人も、悪い人じゃ、)
言える訳がない。イガラシが攫われて、皆が戦って酷い怪我をした悪夢のような一夜があった。言える訳がない。
「違うの、何もないの、なにも、あの、みんなのごはん、途中、だから、」
「ハナちゃん、」
何も言えず二人に背を向けて逃げ出した華のポケットから潮騒とウミネコの鳴き声が響く。携帯の指定着信音、伊佐奈に呼ばれているが、出られない。走る華の頭上をコウモリが飛んでいる。水族館で獣臭いと言われ、動物園で海水臭いと言われ、華は、鳥の仲間にも獣の仲間にもなれなかった童話のコウモリのようだと自虐的に考えた。
2011年5月3日
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