雨が降っている。華は駅から水族館へ続く海沿いの遊歩道を歩いている。10月に入り、天候が悪ければ寒さを感じるほどの気温だが、レンガの凹凸に溜まった水をリズムをつけてぱしゃぱしゃと踏む足取りは軽い。新品の傘をくるっと回す。逢摩市の駅前デパートで一目惚れして買った傘は、白地にクローバー、ところどころにシロツメクサも描かれていて、首に赤のリボンを巻いた白い兎と黄色のちょうちょのイラストがポイントになっている。今まで紺地に小花柄だとか黒地にリボン柄だとかいった傘ばかり使っていたが、明るい色の傘は暗い雨の日にも手元が明るくて良い、と何だか思わぬところから宝物を発見した気分で上機嫌になっている。

 この傘には一つ秘密があって、わさわさと元気良く茂った三つ葉のクローバー、その中に一つだけ、四つ葉が描かれているらしい。華には少し高価だった傘を思い切って購入する一番の理由になったが、華はまだその幸福を目にしてはいない。きっと部屋の中ででも広げてじっと探せばすぐにみつかるのだろう。けれどもう少し「この中のどこかに四つ葉のクローバーが隠れている」というわくわくを楽しんでいたい。

 今日は水族館の閉館日でさらに雨ともなれば遊歩道には人影は皆無と言ってよかった。ライトアップのされていない水族館は秋雨のカーテンの向こうにけぶって静かにたたずんでいた。ゲート前に着いてさて電話をしようとカバンに手を突っ込んだところで、ぎいと通用口が開いて館長が姿を現したので華は目をぱちくりさせた。驚いている華の前でしてやったりと笑う。

「伊佐奈、」
「上から見えた。そんな傘、若い女しか差さねえ」

 確かに、ここまで来るのにすれ違ったのは雨合羽を着た大型犬を連れた黒い傘の初老の男性だけだったが、遊歩道沿いには水族館の他に施設がまったくないわけではないし、華以外の若い女性が通らないとも限らない。もしも人違いだったら、無関係の若い女性の前にぬっと姿を現した伊佐奈は警察に通報されかねないレベルで不審なのではないだろうか、と少し意地悪な思考が頭をよぎったが、傘だけで見当をつけて1階まで迎えに来てくれたことは純粋に嬉しかったので華は黙っておくことにした。伊佐奈は傘の柄を覚えたろうから、これから雨の日は必ずこれで来たらいい話だ。

 通用口から滑り込んで、水路と並列したスタッフ用の暗い通路を今日も手を繋いで歩く。以前のような居心地の悪さはもう感じない。華は時折、高速の黒い影が水路を走っていくのを見つけては覗き込み、落ちるぞ、と伊佐奈に呆れられている。休館日でも仕事は山のようにあるがショーがなければ時間の流れは案外ゆったりしていて、避けるべき人目もないので魚たちはどこかくつろいだ雰囲気のように見えた。疲れが溜まっているらしい魚は水槽の底で休んでいる。

「服、珍しいな」

 華は自分を見下ろす。今日は制服ではなく、もちろん動物園の作業服でもない。パープルのギンガムチェック、丸襟に半袖パフスリーブのフリルシャツに、厚手のグレーのパーカーを羽織って、下はデニムのショートパンツにレギンスを重ねている。カバンも服に合わせて変えた。制服に水族館の匂いがつかないようにするためだ。今はまとめて駅のコインロッカーに入っている。本当の理由はおくびにも出さずに、華はいかにも「たまにはおしゃれしたかった」という風を装って首をかしげた。

「変?」
「まあ、悪くはねえが」
「……こういうときは、嘘でも何でもとりあえず褒めるもんじゃないの、」
「いや悪くねえけど、短パンなのに何で脚隠してんだよ、それだけで減点50だろ、」
「そういうとこしか見てないのー?」

 悪くねえって言ってるだろと伊佐奈が繰り返すのに、それは褒めてないと唇を尖らせる。こうして水族館へ来て伊佐奈たちと親しくしていることを、続けていればどうしたってそう遠くないうち動物園の皆にもわかってしまうだろう。その時自分は何と言うつもりなのか、どうしたいのか、いずれ腹を決めなくてはならない。ただもう少し、もう少しだけと姑息な工作で発覚を遅らせている。今の華に言えることは多くない。

「シャチが何か言ってたぞ、マグロと勝負とか何とか」

 財布や携帯を入れたカバンの他にビニールのトートを持っているのを見て伊佐奈が言う。鉄火マキに勝負勝負とまとわりつかれてうんざりしているサカマタの姿が目に浮かぶようで、華は笑った。

「うん、水着持ってきたよ。けど、私、陸上でも水中でもトロいから、今日でマキさんに嫌われちゃうんじゃないかなあ」
「死なない程度にしとけ。直接ショースタジアム行くか、その方が早い」

 通路の分岐で伊佐奈は水路をまたいで分かれ道へ入る。水路の幅は1m以上はあったが飛び越せないほどではない。華もその後に続こうとして、待て、と止められた。

「やめろ、お前は落ちる、ぜって落ちる」
「失礼な、わ、わあっ」

 じゃあどうやってついて行けばいいのか、と唇を尖らせたところで、一度こちら側へ戻ってきた伊佐奈に脇の下に手を入れられて子供のようにひょいと持ち上げられた。くすぐったくてもぞもぞするが、身じろぎすればそれこそ水路へ落ちてしまいそうでじっとこらえた。
「結構重いよな、お前」
「しっ、失礼な!重ね重ね!」

 心臓に近い位置に強く残った大きな手の感触にどきどきしていたのも束の間、女子に言ってはならぬセリフbPをあっさり口にされ、また背を向けて歩き出した伊佐奈の背中をぼかぼかと叩いても鯨の皮膚のコートにはたいしたダメージにもなっていない。蹴飛ばしてやろうかと思ったが、今日履いているのは足首丈の長靴なので、蹴った拍子にすっぽぬけて水路へ落としてしまってもつまらないと思い直してやめた。

「私が重いんじゃなくて、あなたが痩せすぎなんだと思う!」

 何度か触れた伊佐奈の身体を思い出す。骨の感触ばかりでいつも顔色は悪いし、華を簡単に持ち上げることができるのが不思議なくらいだ。いつ見てもにんじんを食べている椎名のことを考えて、それからふと、マッコウクジラの食べ物のことを考えた。ダイオウイカなどのイカ類、一部の魚類、ほとんど人の姿を取り戻した伊佐奈がそれらを生で食べている光景は想像だけでもシュールだ。じゃあ人間の食べ物か、と思うが、食べるにはヘルメットを取らなければならない。自炊するタイプには見えないが、外食も不可能、このあたりに出前に来てくれそうな店はあまりなさそうだし、じゃあ何を食べて生きているのか、と不安になった。

「……伊佐奈って普段、何食べてるの?」
「あ?ああ、イカ」

 ええ、やっぱりそうなんだ、でも食事風景は見たくないかも、などと華がぐるぐる考えていると、伊佐奈が振り返ってにやあと笑ったから、かっと頬が赤くなった。からかわれたのだ。もう!と拳を振り上げる。

「人間が喰うもんも、鯨が喰うもんも、両方喰えるが、ヒトの食い物が喰いてえなあ、」

 結局、普段何を食べているのかという問いの答えにはなっていない。伊佐奈以外のスタッフもおいそれと人間の前には出られない姿をしていれば、普通に人間が食べるものを調達するのも難しいだろう。華は次回ここを訪れる時は弁当を持って来ようと決めた。ただの自己満足であっても、伊佐奈が食べなかったとしても、彼に「ヒトの食い物」をどうぞと勧めたかった。

「好き嫌い多そうだよね」
「お前俺のことを何だと思ってんだよ。ガキじゃあるまいしそんなに多くねえぞ、くせえ野菜は苦手だけどな」
「くさい?」
「セロリとかパセリとかクレソンとかあるだろ。なんで肉の付け合せにすんだよなあ、肉だけでいいじゃねえか、甘いにんじんとかまじでいらねえし」

 ガキじゃあるまいしと言いながら、言っていることは五歳児と変わらない。華は笑いを噛み殺す。

「あ、あと牛乳。あんなもん飲む奴の気が知れねえ。柑橘類もないな、すっぱいし」
「やっぱり多いんじゃん!しかもお子様味覚!」

 我慢しきれずに笑い出した華に、俺は不味いもんが嫌いなだけだ、と悪びれもせずに言い放つ。

「お前は牛乳好きそうだよな、ガキにしちゃでけえ乳、」

 華はもう一度伊佐奈の背中を殴った。


 さすがに10月ともなると室内でも水着になるのは寒い。ショー用の小道具が入っている倉庫を更衣室に借りて水着に着替えた華は、屋根があるだけで屋外とそう変わらない作りのショースタジアムの気温を思ってぶるりと身を震わせた。おそらく水温はかなり高くしてあるだろうから、早く水に入ってしまうしかない。動物園の裏の海へみんなで遊びに行った時にはショートパンツを穿いたままにしていたが、プールに入って泳ぐにはさすがに邪魔だろうと上下ともビキニにしたのが余計に寒く心もとない気がした。持ってきたタオルを肩に羽織ってショースタジアムまで廊下を一気に駆け抜けた。

「ハナ!トロいわよ、あたし待ちくたびれちゃった」

 普段は立ち入り出来ないステージ側に立つのはわくわくする。視点が低いからか、客席側から見るよりもプールが大きく見えた。水から上がる海獣たちの身体を傷つけないためか水色に塗られた床はつるつるでしかもプールに向かって緩く傾斜がつけてあり、油断したら簡単に水の中へ転落してしまいそうだった。

「鉄火マキさん!」

 足元を確認してからプールの中を縦横無尽にすいすいと泳ぐピンクの影に手を振ると、イルカのようにばしゃんと大きくジャンプしてから一瞬でステージに乗り上げてくる。

「マキでいいわよ!5文字分速くなるわ」

 名を呼ぶのもトロくてはいけないらしい。独特の哲学に笑って、じゃあマキ、と華は呼びかけ、持参したフィンとゴーグルを着けながら、私本当に速くないの、と言うだけは言った。傍らでは伊佐奈が腕組みをして立ち、メス二匹のじゃれあいを面白そうに見ている。スーツをしっかり着込んだ人間の前に水着で立つのは何だか恥ずかしく、華は視線を遮るように準備体操もせずぬるい水の中へ身体を滑り込ませた。やはり外気よりかなり温かい。

 水中には大きなプールを窮屈そうにぐるぐると回っているマキ、それから何頭かのバンドウイルカは、以前伊佐奈が水槽を割ろうとした時にマキを呼んで来てくれた子らだろう、他にはシャチの姿のサカマタもいた。休日の水族館が想像以上にのんびりしているのを感じて、華も他人事なのに嬉しくなる。一度息継ぎをして、フィンで水を蹴って深く潜ってみた。こぽこぽと耳の横で泡が鳴る。マキとイルカが何かを喋っている。水中は空気中よりも音が良く伝わるから、かなり離れたところにいる彼女たちの会話が耳元で聞こえておかしな感じがする。サカマタが何か鳴き声を出してマキが答えているが、人の言葉ではないから会話の内容は華にはわからない。

(伊佐奈の出す音波はどんな風に聞こえるんだろう)

 聞いてみたい。理解できるサカマタやマキが羨ましいと少し思った。

「ぷはっ」

 水に入ること自体が久々なこともあってなかなか息が続かない。耳抜きはできたが、調子に乗ってあまり潜りすぎると水面へ顔を出すまでもたないかもしれなかった。立ち泳ぎであたりを見渡せば、大きなプールのほぼ中央辺りまで来ている。華が顔を出したのに気づいた伊佐奈が片手を上げたから、ゴーグルを上げて手を振って返す。

「溺れるなよ、」

 いちいち嫌味な、と怒ろうかと思ったけれど、実のところマキと勝負だなどと溺れるかもしれない、とかなり本気で考えていたのは事実だったので「気をつける」と返すにとどめた。

「ハナ!」

 上陸するペンギンのようにプールの底からぴょんと飛び出したマキはもう待ちきれない様子で、華の周りをぐるぐる回っている。小さな子供のような様子に笑って、再びゴーグルを着ける。

「館長のトコまで競争!」

 頷けば、マキの姿は一瞬で小さくなった。鰭をくねらせる、というほど動いてもいないように見えるのに水の中を一直線に進んでいる。華は1mほど潜ってフィンでバタ足をして追いかけた。10mもない距離はマキには3秒だが華には10秒かかる。それでも全力で蹴ってステージに手をつけば、「トロいわよう」不満そうに頬を膨らませたマキに伊佐奈が「無茶言ってんじゃねえよ魚類」とツッコミを入れていた。

「さっきも言ったけど、本当に速くないの。ごめんね」

 困って謝れば、つまんない、とヘソを曲げたマキはばしゃんと飛沫を上げてイルカたちのところへ行ってしまった。無邪気さはトイトイに似ているかもしれないと微笑ましい気持ちで見送る。ゴーグルを外し濡れた髪が顔にはりついたのを立ち泳ぎでぎゅっとかき上げていると、水面から顔だけ出した華に目線を合わせるように伊佐奈がしゃがんだ。

「魚にいいように言われてんのに、なんか嬉しそうだな、お前」
「嬉しいよ、水族館の水槽の中、一度入ってみたかったもの!お魚にイルカにシャチまでいるなんて、嬉しいに決まってる」

 その水槽から出たくて仕方のない男は華の言葉に珍妙な顔をしたから、華はまた困って笑った。

「あの子たち、とても綺麗に泳ぐね。水槽のガラス越しにも見られるけど一緒に泳ぐと全然違う。人間は陸上でもあんなに美しく身体を使えてるのかな?」

 波打つ水面の下をいくつもの影がすいすいと動いている。遊び好きのイルカがお愛想でジャンプを見せてくれるのに歓声を上げる。海洋生物たちの動きをじっと見守る華の視線を追って、伊佐奈も水面を見た。

「同じもの見ても、俺に見えてるものとお前に見えてるものは、全然違うんだな」

 ぽつりと落ちた呟きに、華はやっぱり笑った。海洋生物がエコーロケーションを使うのは海中で視界が悪いのを補うためだ。ロデオが以前言っていたように草食動物はとんでもなく広い視野を持っている。人間の目はたくさんの色を識別できる。生きる世界の違う動物は見えているものが違う。まったく違う環境で生きてきた人間同士だって、目に見えるものは違う。不思議なことは何もない。

「違いすぎて、どんな風に見えてんのかもっと知りたくなる」
「それは、私も、」

 伊佐奈の手が伸びてきて手の甲ですっと頬を撫でられた。その手を取ろうと華も指を伸ばしかけたところで目の前でばしゃんと水飛沫が上がってマキが顔を出したから、華はそんなつもりはなかったのに伊佐奈の手を払ってしまった。

「いいこと思いついたの!あたしハナを引っ張ってあげる!そうしたらハナも速くなるでしょ!?」
「え、えっ?」

 思いついた、と言うだけあってまさに「思いつき」だ。急展開過ぎて着いて行けず、まくしたてられて戸惑っているうちに伊佐奈の手を払ったまま空中で静止していた手をぎゅっと握られる。

「ちょっと待って、マキ、」
「さっそく行っくよー!!」

 外したゴーグルを手に取る暇もなく、ごぼ、と水中に引き込まれた。流線型の海洋生物と違い人間の身体は凹凸が多いというのを暴力的な勢いで全身を撫でる水流で思い知る。目はもちろん開けられない。片手だけで引っ張られているのが肩が抜けてしまいそうで、必死でもう片方の腕も伸ばしてマキの細い手首につかまる。ごうごうと流れる水の音に混じって上機嫌の歌声が聞こえるのが、脳裏に浮かぶマキの姿とあいまってローレライのようだ。ときどき何か話しかけられるが、華には聞くことは出来ても水中で言葉を発することが出来ない。華というお荷物を連れているのだからマキの全速力には遠く及ばないのだろうが、それでも人間の泳力ではありえない速さで水中を進んでいるのは確かだ。ゴーグルをしていれば周囲を見ることも出来ただろうに、

(息、が、)

 あまりの勢いにフィンが脱げ、ゴーグルもしていても外れてしまったかもしれないと考えた。不意打ちで水の中へ連れてこられたのもあってそろそろ息が続かない。けれどマキは気がつく様子はなく、華には伝えるすべがない。そもそもマキは人間の肺活量を把握しているのか、以前に華を心配してくれたように人間が水中で呼吸が出来ないことは知っているだろうが、マキの一番身近にいる人間、伊佐奈はマッコウクジラの能力を持つ。マッコウクジラは約20分潜っていられるのだ。

(やばい、かも、)

 ごぼごぼと口から息が漏れる。水が入ってくる。苦しくてぎゅっと閉じたまぶたの裏がちかちかと点滅して、必死にマキの手をもぎ離そうとしたがしっかりと掴まれていて外せそうにない。気が遠くなりかけたところで、何か、音のような、そうでないような、きんと尖った振動のような波に襲われて、全てが真っ暗になった。

 気がつくと、ステージの上であぐらをかいた伊佐奈の膝の上に抱えられていた。身体の上には黒いジャケットが掛けられている。

「お、目さめたか、声聞こえてるか?」

 聞こえる、と答えようとして激しくむせた。ひゅう、と音が鳴るほどの勢いで肺に空気が入ってくる。華の全身が酸素に飢えていて、血液に取り込まれて全身を巡りだすのがわかる気がするほどだった。咳き込んで背を丸め、口元を押さえるとバケツを差し出されたからありがたく拝借した。人前で嘔吐することに対して羞恥心はあったがどうしようもない。出てきたのはほとんど水中で飲んでしまった水だ。量は少ない。続いて渡されたタオルで顔を拭う。ぜえぜえと喉が鳴っている。

「息吸ってみろ、ゆっくり」

 言われるままゆっくりと、すう、と吸い込む。

「吐け、」

 はあ、と細く長く息を吐くと、よくできたと言うように伊佐奈が髪を撫でてくれる。それから目の前に指を突き出される。

「これ何本に見える」
「さんぼん、」
「気分は?自分でわかる異常はあるか?」
「気分は、良くはないけど、だいじょぶ」
「ならよし、」

 ほっとしたように息を吐いて、溺れるなつったろ、とぼやくように言われたから、華はとりあえず素直に謝った。喉がいがらっぽく、声は嗄れている。

「真水で口ゆすぎたい、」
「おう」

 水道の蛇口の場所を教えて欲しかっただけだったのだが、掃除用のホースが丸めてあるところまで横抱きで運ばれたから、自分で歩けると言おうとして華は伊佐奈の顔を見て黙った。ホースの水で口をゆすいでバケツの中へ数回吐き出すと、片付けてくる、と伊佐奈はいったんどこかへ消えた。恥ずかしいから自分で片付ける、と言えるほどの気力が今の華にはない。はあ、とため息をついて少し水を飲んでいると、戻ってきた伊佐奈にまた抱えられてステージへ戻った。誰が回収してくれたのかフィンがゴーグルの横にちゃんと揃えて置いてあるのを見るともなしに見る。

「私どうなったの?長い間気絶してた?」
「気絶してたのは三分もねえよ」

 華が「やばい」と思っていた頃、水面に急に大量の泡が浮かんできたから伊佐奈も異常に気づいたと言う。

「水飲むとまずいと思って、音波でマグロと一緒に失神させた」

 そういえばさっき身体に掛けられていたジャケットはじっとりと濡れていた。濡れた華の身体に掛けたからその水を吸ったのだと思っていたが、伊佐奈が水に入ったから濡れていたのだ。助けてくれたのに気まずそうなのは方法が少々手荒だったのを悪いと思っているからだろうか、華は謝っても礼はまだ言っていない。

「ありがとう、本当に。もうちょっとで本格的に溺れるところだった」

 助かりました、と言えば、お前もムリならムリって最初からマグロに言え、と窘められる。返す言葉もない。

「そういえば、マキは?」

 長い間気絶していたのかと思ったのは、ショースタジアムにはもう、マキも、イルカも、サカマタも、誰の姿も見えなかったからだ。ああ、と伊佐奈が呆れた半眼になって水面を見る。

「シャチとカニが連れてった。今頃あっちも目が覚めてこってり絞られてるとこだろ」
「私も悪かったのに、」

 伊佐奈の言った通り、魚のマキと一緒に泳ぐなんてムリなのだと最初からきちんと伝えられなかった華にも非がある。マキばかり叱られては申し訳ないと訴えれば、伊佐奈はますます呆れた顔になった。

「あいつアホだから言い過ぎぐらいがちょうどいいんだよ、でないとまたやらかすぞ。ていうかお前も叱ってねえわけじゃねえよ。反省しろ、反省」
「ごめんあひゃい、いひゃいいひゃひ、いひゃいお」
「痛くしてんだよ」

 ぐいぐいとほっぺたを引っ張られて間抜けな声で謝りながら、意識が暗転する直前に感じたあの尖った波の正体がわかった華は反省とは程遠い表情になってしまう。エコーロケーションを聞いてみたいと思った直後に、自分の身体で震動として感じたのだ。

「クリック音浴びるなんて貴重な体験」
「お前、殺されかけたってのにつくづく呑気だな」

 思わず声に出して洩らした華に伊佐奈が返した言葉は声にも内容にも棘があった。

「殺すって、マキはそんなこと」
「結果としてはそうだろ」

 伊佐奈がヘルメットを外してごとんと床に置くと、間髪いれずに噴気孔から魔力の煙が上がった。何をするつもりか、と身体を強ばらせた華を膝から下ろして、伊佐奈の姿がゆっくりと変わってゆく。人の皮膚が皺の寄った褐色の鯨の肌に飲み込まれ、頭が大きくせり出し、コートの袖と一体になった腕がぐんと伸びて、身体そのものがむくむくと大きくなった。人間ではありえないが純粋なマッコウクジラとも言えない、化け物じみた異形の姿は、イガラシが攫われた夜に館長室を壊した時ほどには大きくなかったが、それでも腕の一本が華の腰よりも太かった。

「……恐いんだろ、」

 反射的に否定しようとして、ぐっと口をつぐんだ。口先だけの嘘を言うことに何の意味もない。華の身体は震えている。立ち上がろうと思うのに立てない。手のひらに座ってしまえそうな巨大な手が伸びてきて華に触れる寸前で止まった。止まった時、華は確かに、小さく安堵のため息をついたのだ。

 マキに言葉は通じなかった。意志を伝えるすべはなかった。苦しくて苦しくてあのまま死んでしまうのかと思った。

 この姿になった伊佐奈は表情がわからない。大きすぎて、下から見上げているだけでは目さえ見えない。あの大きな頭で頭突きを、殺意を向けられた夜を忘れることはできない。

「こわいよ、」

 小さな声で呟いて、それでも華は震える脚でふらつく身体を支えて、生まれたての草食動物の子供がすぐに立とうとするような熱心さで、何とか立ち上がった。華がよろけるたび、すぐ近くに所在無く投げ出された巨大な手がぴくりぴくりと動いた。気遣われているとわかる。

「こわいけど、こわくないところもある、もう知ってる」

 今、一分にも満たない間に、表情のわからない鯨の伊佐奈の感情を見つけるすべを一つ知った。ふらふらする華を支えようとして戸惑う姿は異形でも恐くない。それでもまだ震えは止まらず、伊佐奈にそれを知られることは承知で、華は思い切って自分から大きな指に触れた。巨大な身体がびくりと動く。まるで伊佐奈の方も華を恐れているようだ。

「……すべすべしてる」

 五本の指と平らな爪を持った人間と同じ作りの手指だが、表面は褐色で皺のある鯨の皮膚に覆われている。動かずにじっとしている。震えは少しずつ収まってきた。マキに水中に引っ張り込まれる直前の伊佐奈との会話を思い出す。

「伊佐奈のこともっと知りたいよ、この姿も、知ったらその分だけ、恐くないところが増えるもの」

 殺されかけた、という過去自体がなかったことにはならない。華だって椎名に上顎を狙えと言った。あの一撃が致命傷になっていたっておかしくなかった。けれどこれから、恐いことより恐くないことの方が多くなればいい。手首にぎゅっと抱きつくと、反対の手がそっと伸びてきて、人差し指がつうっと華の身体を滑るように撫でた。くすぐったい。

「ねえ、頭、触ってもいい?ここからじゃ顔も見えないし」
「……お前、メロンに触りたいだけなんじゃねえの」

 言いながらも伊佐奈は巨体を屈めて目線を下げてくれる。立ち泳ぎしていた華の目線にあわせてしゃがんでくれた人間の姿の時と同じように。

「わあっ」

 華が手を伸ばして、伊佐奈は頭を低くして、そして迫ってきた巨大な頭に、ぺん、と跳ね飛ばされて、華はどぼんとプールに落っこちた。ぷは、と水面から顔を出すと、珍しく伊佐奈がおろおろしている。表情なんかわからない、醜い、恐ろしい、異形の姿なのに、おろおろしている、と華にはわかったのだ。後を追って伊佐奈も水に入って、巨体が進水したせいで大波が立って華は三回ほど沈んだ。緊張の反動もあっておかしくって仕方がない。水中で口元を押さえていると正面から大きな頭で掬い上げられて、鯨の鼻先にうつぶせに上半身を乗せたまま、我慢できずに大きな声で笑った。

「いま、距離がわかんなかったの?力加減がわかんなかったの?伊佐奈、尾鰭は器用だったのに、鯨になると不器用になるんだね」
「………………、」

 反論がないということは両方か。鼻先にぶらんとぶら下がって笑いながら、メロンだー、とマッコウクジラ独特のあの頭の形状、手が届く範囲を好き放題に撫で回す。くすぐったかったのか、くしゃみのように噴気孔から、ぶわ、と普通のマッコウクジラのように呼気が吹き出して、生臭い肉食動物の匂いが辺りに漂った。食べているものが違うから多少は違うが、大上も、知多も、シシドも、ウワバミも、そしてサカマタも、近寄るとこの肉食動物の匂いがする。一般には悪臭と言われるべきこの匂いが華は嫌いではない。生き物が健やかな証だからだ。くさい、と言いながらやっぱり笑って頭に頬擦りしているうちに、にゅっと伸びてきた手に捕まえられ、最初は恐る恐るといった風だった指が華がじっとしているうちに次第に力加減を覚えて、悪戯ができないようにやんわりと握りこまれてしまった。

「そろそろ上がらねえと、お前だいぶ冷えてるな」
「伊佐奈の手は大きくなっても冷たいね」
「じゃあ口の中に入れてやろうか、舐めてやる」

 多分今伊佐奈はにやにや笑ってるんだろう、と何となく感じた。

「……それってあったかいかもしれないけど、何かやらしい」
「何かじゃなくて明確にいやらしいな」
「否定してよねセクハラおやじ!」
「下着と変わんねえ格好で人の顔の上にむにむに乗っかりやがってどっちがセクハラだ、痛って!」

 柔らかく拘束する指に噛み付いて、華は手のひらの上からプールに飛び込んだ。ゴーグルをしていないのを忘れて目を開けてしまったが思っていたより平気だった。ただ視界は悪い。伊佐奈が潜って追いかけてくるのを、逆に近づいて顎の下へと入り込み、見事に割れている腹筋を撫でて人間の伊佐奈はひょろりとしているのにどういう理屈かと考えてみる。それからもう少し上へ行って、頭の大きさの割には小さく感じる尖った下顎の先端に唇を押し付けた。二度、三度と繰り返すうちにまた大きな両手に捕まって、ステージに乗せられた。

「……伊佐奈の言った通りだ」

 息が上がってなかなか喋ることも出来なかったが、何とか声を絞り出した。

「何が、」

 ざばあ、と大きな身体が水から上がって、ステージの上に波が押し寄せる。

「唇がないとつまらない」

 見上げた巨体が煙に包まれて異形の影は縮み、人の姿を取り戻す。華は抱擁が待っていることを疑わずに近寄る。ぎゅうと抱きしめられれば触れた身体は暖かかった。唇が合わせられる。


「溺れてんだからな、気をつけて帰れよ」
「うん、」
「いっそタクシー呼ぶか?乗って寝てりゃ帰れる」
「いいよそんなの、頑丈なのが数少ない取り柄なんだから」

 華ももう道順を覚えてきた通路を抜けて通用口を開けた伊佐奈は、立てかけておいた傘に伸ばした華の手を掴んで引き止めた。高校生の華には交通手段にタクシーを選ぶ発想がそもそもなく、やっぱり伊佐奈は大人なんだ、とかなりいまさらな感慨を心の中だけで呟く。頑丈はいいが今日は帰ったらすぐ寝ろよ、とまだ乾ききらない頭を撫でられてくすぐったい。指の感触だけでなく、気持ちが。

「あ、」

 降り止まない夜の雨の中へ出て行こうとした瞬間、伊佐奈がそんな風に小さく声を上げたから華は開いた傘の中から長身を見上げた。辺りは暗いが、遊歩道の水銀灯に照らされた銀の糸のような雨がきれいだ。

「なに?」
「いや、その傘、普通のクローバーばっかかと思ったら、四つ葉も混じってんのな」
「えっ」
「ここ、これ、四つ葉だろ?」

 言われて反射的に指差された部分を見てしまう。薄明かりの中でもわかる、確かに四つ葉のクローバーだった。上から見下ろす視線になる伊佐奈が、華が取っておいた幸福を先に見つけてしまったようだ。

「お店の人に1個だけ四つ葉があるって言われて買ったの!偶然見つけるまで楽しみにしてたのにいっ」

 半分悲鳴のような声で華が訴えれば、伊佐奈は声を上げて笑った。いつもの皮肉っぽい笑いではなくて、少年のような屈託のない笑い方だったことにはっとした。

「お前の幸せ、俺がもらっちまった」

 無防備に思えるほどの幼い笑顔は華の胸を温めた。野原の中で四つ葉のクローバーを見つけた時の気持ちと似ているそれが幸福感だとちゃんとわかった。伊佐奈にとられてしまったはずなのに華のところにも幸せが降ってきた。彼がくれたのだ。

「……しょうがないから、伊佐奈にあげる。きっと良いことがあるよ、」

 おう、と笑った伊佐奈に笑い返した。華にもきっと良いことが起こる。幸福を分けても華の取り分は減らずただ増えるだけだとわかって、華は動物園の仲間たちに水族館へ来ていることを知られてしまったとしても、答える言葉が自分の中に生まれたように思った。






2011年5月13日