寒い、と思ったのは昨日のことだ。学校の帰り、いつものように動物園で働いて、食事を配ったり掃除をしたり、少し汗をかいた。秋は深まり、夜は冷える。けれど昼間の暖かさに油断して、華は上着の類を一枚も持ってはいなかった。震えるような寒さを隠して、一時間以上バスに揺られて帰宅した。
頭が痛い、と思ったのは今日の昼休みの少し前だった。弁当を食べたら薬を飲もうと思っていて、昼休み、部活の緊急ミーティングに呼ばれて忘れてしまった。
授業が終わって、補欠とはいえ部活をこなし、動物園へ行くバスに乗った。随分な距離があるはずなのに、一番後ろの座席に座ってうとうとすれば一瞬で着いてしまった。ぞくぞくする背筋を誤魔化すように両手で二の腕をこすって、今日はちゃんと持ってきた防寒用のウィンドブレーカーを羽織る。園に入れば頭が痛いなんて言っている暇はなくて、園長のにんじんを避けながら掃除して、サーカスのメンバーと連絡会をして、動物園で食事を配って、気温は下がっているはずで、動物の皆とは感覚が違うからあてにならないが、サーカスにいる人間の団員たち、菊池も、今夜はとても冷えると言うのに、華は頬が火照って仕方がない。リンゴのようだ、とロデオが言うのに、食べられませんよ、と曖昧に笑って(リンゴは大概の馬の好物である)テントを出る。は、と吐いた息は熱く、秋の夜空に白く溶けた。
何とか仕事を終えて、誰もいない手洗い場、冷たい水で手を洗う。指先がじんと冷えるまでしっかり洗って、その手を頬と額に当てた。冷え切った指に熱が伝わり、燃えるような熱さの頭が少し冷える。
(完全に、風邪ひいちゃったな)
全てを終えた、と思えば思考は途端にぼんやりしだした。今まで出ていなかった咳が、けほ、と喉をついた。今夜は帰宅は諦めた方が良いように思った。一時間以上バスに揺られる気力ももうなかった。幸いに、休日は頻繁に泊り込むから、着替えや簡単な食料の類は一通り揃えてある。秋になって敷き藁だけでは心もとなかった寝具も、先日寝袋を購入したばかりだ。風邪薬はないが、通学カバンの中のポーチに生理痛用の解熱鎮痛剤が入っているから、それを飲んで一晩眠ればきっと明日の朝には良くなっているはずだ。
動物に人間の病気を持ち込むこと、またはその逆も、飼育員として絶対にやってはいけないことだ。体調管理は飼育員として最低限の仕事、華はそれができなかった。落ち込むが、落ち込んでいたところで風邪が治るわけでもない。反省するのとくよくよするのは違う、とぷるぷると首を横に振れば眩暈がした。思っていたよりも熱が高いのかもしれなかった。今日は念のため、人間の病気が移りやすい動物たちには直接対応しないようにはした。幸いにも、華の部屋である器物倉庫は園の外れで動物たちの檻からは離れている。明日までに治す!と頷いて、華は変身したまま園内で遊んでいる夜行性の動物たちの目を避けるように、そそくさと部屋へ入った。
水を飲み薬を飲んで、まだ真新しい寝袋にもぐりこんで、寝袋ごと身体を丸めた。頬や額はかっかと熱いけれど、身体の中心はぞくぞくと寒い。500mlのペットボトルの底に2cmほど残った最後の水を飲む。もう少し飲みたいと思ったが、もう水場まで行くのも億劫だった。動物園もサーカスも、誰にも言えなかった。心配をかけたくなかったし、自己管理ができていないことを吹聴するのは恥ずかしかった。
(薬は飲んだんだから、寝てれば明日の朝には治る!)
何度も自分に言い聞かせるようにして、ぎゅっと目を閉じた。疲労と発熱と薬が重なれば、寒気や悪寒はあっても眠りはすぐに訪れた。
(……なんか、ざわざわしてる)
どのくらい寝ていたのかはわからないが、ふと、華の意識が浮上した。目は開かないが、耳からはざわめきが聞こえてくる。夜になって風が強くなったのだろうか、植栽が揺れてざわめく音、それから、潮騒。
(潮騒?)
は、とまぶたを上げた。真っ暗な部屋の中、テーブル代わりにしている木箱の上で、携帯電話がちかちかと光っている。潮騒とウミネコの鳴き声の着信音。慌てた華はぐっと手を伸ばして、寝袋の中で足をもつれさせてごろごろと転がった。天地が回転して頭はくらくらしたが、何とか呼び出し音が途切れる前に通話ボタンを押すことができた。
「ふぁいっ」
『……あ?』
電波に乗って横柄で訝しげな声が聞こえてくる。それがあまりにも伊佐奈らしくて、華は少し笑ってしまった。火照った頬に手のひらを当てる。手は熱くて余計に熱が高くなった気がした。
『なんだ、もう寝てたのか』
「ん、」
喉が渇いていて上手く声が出ない。けほ、と小さく咳き込んで、曖昧な答え方をする。
『おい、どうした、具合でも悪いのか?』
「ん、うん、」
口調は乱暴だけれど、心配そうな様子を隠しもしない伊佐奈の声に、華の心に甘えた考えが浮かんだ。熱が出て、自宅でもなく、誰にも言えず、少し心細かったのもある。伊佐奈ならきっと、仕事には厳しい人だから、華が風邪を引いたと言えば、バカだなと、不注意だと、叱ってくれるだろうと思ったのだ。そうしたらきっと自己嫌悪の心のもやもやも少しは軽くなるだろうと。
「かぜ、ひいちゃった」
思い切って出した声は大げさなほどかすれていて、華は自分で驚いてしまった。これでは重病人のようだ。慌てて弁解する。
『風邪?酷い声だな、熱は』
「こえは、のどかわいてるから、ねつはちょっとある、かな」
『測ってねえのかよ』
「たいおんけい、なくて」
『……おい、まさか動物園で寝てんのか、藁で』
「むりしていえにかえるよりは、いいかなって、」
数秒間があって、低くため息が響いた。ああ、叱られる、自分の至らなさを叱ってもらえる、と思ったその時、伊佐奈の攻撃はまったく予想もしていなかった方向からとんできて、まともに喰らった華は機能停止した。
『いいか、手元にあるありったけの服かき集めて全部かぶれ、寒くないようにしろ、じっとして寝てろ、そのまま動くなよ、今から行くから』
喉がこんなに乾いていなければ、ハア?、という甲高い声が伊佐奈の耳に突き刺さったはずだが、驚いて急に大きな声を出そうとした華は咳き込んだ。
『俺の言う通りにしろ』
言葉は喉に引っかかったまま、ものも言えないでいるうちに、偉そうな命令形で通話は切れた。とんとん、と華は手のひらで自分の胸を軽く叩く。やっと落ち着いた息を整え深呼吸をして、そして通話終了を示している携帯のディスプレイをまじまじと見つめた。
(今から行くって、今から行くって、ここに来るってこと?まさか、ほんとに来ないよね?)
かけ直したが、呼び出し音が20も鳴っても出ない。デジタル表示が22:47と浮かび上がって光っている。22時で閉館して定例会議を終えたところだろうか、「行く」と言っても、電車はともかく、ここまで来るバスはもうない。そもそも公共交通機関になんて乗らない人種だろう。伊佐奈のあの風貌でタクシーに乗ればきっと噂になる。本人もそれはわかっているだろうからタクシーを使うこともない。そして、もしも何らかの方法を使ってここに来たとして、誰にも気づかれず華の部屋まで来るのは無理だ。園長やシシドに見つかれば、何事も起こらずに済むとは思えない。華でさえ思い浮かぶトラブルを、伊佐奈が想定していないはずがない。は、と吐く息は熱く、部屋の中でも白くなった。どう考えても伊佐奈がここに来るはずはなかった。
(「言う通り」にはしよう)
ここへは来なくても、予想外にも伊佐奈が、体調管理の出来ない華をバカにするでなく、ただ心配してくれた気持ちは嬉しかった。思っていたように叱られはしなかったが、それでも、今回はダメだったけど明日からまた頑張ろう、という前向きな気持ちが自然に湧いてきた。華はもぞもぞと床を這って、ロッカーから夏に使っていたタオルケットを取り出した。寝袋に重ねて掛ければ相当に暖かい。
(伊佐奈の言った通り、ちゃんと寒くないようにして明日の朝までじっとしてるよ。おやすみなさい)
二度目の眠りもすぐに訪れた。華の敗因は、伊佐奈のことを完全に「人間」だと思っていたことであった。
(足音、)
先ほどとは違って、ぱち、と華は目を開けた。がばりと飛び起きようとして、発熱から来る眩暈のためにそれは叶わなかった。華の部屋、器物倉庫の床が振動している。大きな動物が歩いている。岐佐蔵かとも思ったが、彼だったらこんな風にびしゃびしゃと水音を立てることはないはずだ。
(まさか、)
まさか、と思いながら同時に、その足音の主が誰なのか、華にはもうわかっていた。藁の中にぐっと手をつく。寝袋のファスナーを引き下ろす。よろよろと立ち上がって、かかとを踏んで通学用のスニーカーをつっかける。そして扉を開けて、寒空の下、暗闇の中に、巨体を引き摺って立っているマッコウクジラの化け物を見た。丑三ッ刻水族館からここまで、泳いで来たのだ。
「……なにやってんの、ほんとにきちゃったの、なんできたの、」
あえぐように絞り出したかすれた言葉は、華が自分で聞いても酷かった。噴気孔から煙が漂い、褐色の巨体が滲む。もう次の瞬間、そこに立っているのは、黒いスーツを着たいつもの伊佐奈だった。
「何やってんの、はお前だ、そんな薄着で外出て来てんじゃねえよ、しかもノーブラじゃねえかふざけんな」
華ははっとして両腕を胸の前で交差した。汗のにおいのする作業服は脱いで、皺にならないように制服も脱いで、窮屈なワイヤーの下着は外して、タンクトップにスパッツで眠っていたのだ。ばさ、とジャケットを投げつけられる。
「ぬれてない、」
伊佐奈の登場に驚きすぎて、今は追求している場合ではないことが気になる。逃避だ。
「知るか、魔力の効果だろ」
うつむいた華の視界の中で、変なデザイン、と内心いつも思っている尖った靴が近づいてくる。身体がぶつかりそうなほどの距離で止まって、顎に手を掛けられる。素直に上を向けば、額と額がゆっくりとぶつかった。焦点が合わないほど近くに、酷薄そうな細い人間の目と、吸い込まれそうな金色の鯨の目が、一つずつあった。合わさった額は冷たくて気持ちが良かった。
「……割とあるな、早く戻れ部屋に、」
「ヘルメットは?」
「あ?あの格好で持って来られるか」
そう言いながら伊佐奈の手にはビニールの買い物袋が提げられている。クジラの姿の時には手首に結び付けられていた。中にはスポーツドリンクのペットボトルが見え隠れしていた。華の背中を押して、ほら早く入れって、しかしわかりやすいなお前の部屋、と扉にペンキで大書きされた「蒼井華の部屋」の文字を見ている伊佐奈を無視して、華はもう一度訊いた。
「なんできたの、」
「ああもう、うるせえな、心配しちゃ悪いかよ、いいからさっさと部屋に入って布団被って寝ろ、」
こんな格好で外に飛び出してしまったのは誰のせいだ、と華は発熱した頭で八つ当たり気味に思った。
「いさなはバカだ、よろこんでるわたしはもっとバカだ、」
白いシャツの腰にぎゅっと抱きつく。晩秋の真夜中の海を泳いできた伊佐奈の身体は冷たく、華の頬を燃え上がらせていた熱を静かに奪った。苦笑いした伊佐奈は華の髪を撫でた。
「バカ同士お似合いでめでたいこって」
ばたばたと走って近づいてくるいくつかの足音が聞こえてきた。来るべき時が来た、と華は熱に浮かされた頭でぼんやりと考えた。椎名と、道乃家と志久万だろうか、今日は菊地は泊まりだったか帰ったのだったか、鈴木ならまだいいが、菊地に、高校の同級生に、こんな風に男に甘えているところを見られるのは恥ずかしいな、と場違いなことを思った。伊佐奈が華の肩をぎゅっと強く抱いた。
「……かお、いいの?」
「しょうがねえ」
「かくしてあげようか、」
私が頭を抱えてれば見えないよ、と見上げれば、伊佐奈は、ふ、と笑って、今度是非やってくれ、と言った。振り返って誰が来たのか確認したかったが、肩を抱いた手が強くて身動きが取れなかった。
「静かに入ってきたつもりだったんだが、騒がせて悪いな?」
「魔力が動いた、」
皮肉げな伊佐奈の声に答えを返したのは志久万だ。おそらく、伊佐奈がマッコウクジラからこの姿に戻った時の魔力を感じ取ったのだろう。
「何なの次から次に、呪いってのはそんな身近なモンなワケ、てか兎ちゃんの知り合い?」
志久万が来たなら道乃家もいるだろう。そして、椎名、
「クジラマン、何しに来たんじゃ」
当然ながら、友好的な声はひとつもない。本当は華もそれを浴びなければいけないのに、伊佐奈が一人で受けている。相変わらずぎゅっと抱かれたままで身動きが取れない。
「さあ、何だろうな?」
華は黙って伊佐奈の足を踏んだ。煽ってどうするのだ。
「蒼井さんっ、」
息を切らした声は菊地だ。今日は泊まりだったのか、と華は内心で肩を落とした。
「蒼井華、放せ」
「断る」
これでは伊佐奈がまるっきり悪者である。何を考えているのか、と身じろぎしたが、ぎゅっと押さえつけられた。椎名たちから見れば、抵抗する人質を拘束しているように見えるだろう。案の定、気配が一気に剣呑になる。もともと、熱で自制心が薄くなっていた華は、一気にかっとなった。すう、と息を吸い込んで、抱き寄せられていた伊佐奈の腹にぐっと両手を突く。
「なにかんがえてんの、」
げほげほとむせた。喉の渇きは真夏の部活中にも感じたことのないほどになっていて、ひりつく喉は熱くて痛かったが、咳き込みながら構わずに大声を出した。
「なんでっ、そんな、っ」
おい、と焦ったように伊佐奈が背をさすった。そんなことができるくせに、どうしてわざと悪人ぶるのだ。
「いまいったじゃない、しんぱいしたからって、」
「わかった、わかったから、華、ちょっと落ち着け、」
わかってない、と華は伊佐奈の手を払った。小さな子供の時に癇癪を起こしたような気持ちが抑えられない。もともと発熱で潤んでいた目が、興奮でぼやける。
「わたしが!かぜひいて、ねつがでたって!あまえたこといったから、しんぱい、してっ」
それでペットボトルを持って、わざわざ夜の冷たい海を泳いでここまで来てくれたと今、そう言ったのに。全てをぶちまける前に、すうっと頭の芯が冷たくなった。顔は火照って異常に熱い。視界が一気に暗くなる。身体中の力が入らなくなって、ぐらりと傾いた。悪寒が酷い。
「あー、言わんこっちゃない、」
聴覚だけははっきりしているのに、他の感覚がおぼつかない。自分の足で立っていないのに倒れなかったということは、伊佐奈に抱き上げられているのだろうか、真っ暗になった視界は戻らない。
「これだけ熱があって、んな興奮したら、貧血になるに決まってるだろうが」
興奮させたのは誰だ、と恨みがましく思う。声は出なかったから伊佐奈には伝わらなかったはずなのに、小さな声で、お前の立場が悪くならないように気を遣ったんですう、と拗ねたように呟かれた。いらない気遣いだ、もともと善人じゃないくせに。
「おい、こいつは具合が悪いんだよ、話はいいが、とりあえず寝かせてからだ、熱が高い」
「……ワシがやる、こっちに貸せ」
「嫌だね、これは俺んだ、てめえには触らせねえよ」
いきり立つ椎名を、まあまあ、と菊地と鈴木が宥めている。最初からそう言えってんだバカ、と華は心の中で毒づいた。思うに、伊佐奈は生真面目な小悪党である。悪人の振りも善人の振りもまったくもって似合わない。
「部屋入るぞ」
どーぞ、と言ったつもりだったが声は掠れて出なかった。けれど唇は動いた。伊佐奈はそれを見たのか見ていないのか、華を抱えて扉に向かう。ほい、と道乃家の声がした。両手がふさがっている伊佐奈にドアを押さえてやっているらしい。サーカスの者たちは直接対決したことはないから、具合の悪い華を庇っている今の伊佐奈には友好的なようだ。ぞろぞろと足音が続くのがわかった。どう考えても、椎名、道乃家、志久万、菊地、鈴木、の分よりも多い。何人いるのか、誰がいるのか、声を出してもらわないと貧血に目をふさがれている華にはわからない。部屋に入りきるのか、目を開けても、ようやく光を取り戻しつつある視界には、華を抱きかかえている伊佐奈の顔が下から見えているだけだった。無精ヒゲがあった。
「ハナちゃん、」
すっと気配を感じさせずに近づいてきたのはウワバミだ。ウワバミがいるということは大上もいるだろうか、それとも恐がりの彼は伊佐奈を恐れて遠くから窺っているだろうか。
「下着、しまっておくわね」
小声で耳打ちされてはっとした。外したブラを、制服と一緒にハンガーにかけて壁に吊るしたのを忘れていたのだ。野郎ばかりのこの面々に見られるのは御免被りたい。
「、ぁりがと」
何とか声が出た。ぼんやりと黒くかすんだ向こうに、伊佐奈に抱えられた華を複雑そうに見ているウワバミがいた。いつでも華のことを気にかけてくれる、姉のような存在だ。伊佐奈を厳しい視線で見ながらも、華の声を聞いて微笑んでくれた。
「藁っつうか、それ以前に部屋というよりまんま倉庫だな、」
「すめばみやこ」
動物園の華の部屋は伊佐奈の想像を超えていたらしい。呆れたように室内を見回して、寝袋の上に下ろされる。もぞもぞともぐりこむとすばやくファスナーを上げられた。額を冷やすものもなく、冷たい伊佐奈の手に触れられているのは心地よかったから、離れてしまうのは残念だ、と思っていたら寝袋ごと脚の間に抱えられた。上半身を起こして、伊佐奈の胸に背中をもたれかからせる格好になった。椎名の額に皺が寄っているのが見えた。どう話せばいいのか、と思う。
「まず、飲め。すごい顔色だぞ」
ビニール袋の中からアクエリアスの500mlペットボトルが出てきて、封を切って口元に当てられた。よく冷えている。からからだった渇いた身体に染み渡る気がした。うくうくと飲んでいると水位が下がって口の中に入ってこなくなる。それに気づいた伊佐奈がぐっとペットボトルを傾けて、今度は量が多すぎてぼたぼたと口の端からこぼれた。
「んぐっ」
「あ、悪りい、」
伊佐奈が、華のあごから滴る半透明の飲料を、べろ、と舌で受けて、ちゅう、と音を立てて吸ったのは、純粋に拭ったというよりも、パフォーマンスの色が濃い気がした。華と伊佐奈の間に、こういったことを平気でする関係性があるということをこの場にいる者たちにわかりやすく示すための。志久万の表情は見てもよくわからないが、道乃家や鈴木、サーカスの人間たちは居心地の悪そうな顔をして目をそらしていた。ダメ押しのように唇で唇を掠めていったのを、悪趣味だと咎める気持ちで名を呼んだ。
「伊佐奈、」
ようやくはっきりとした声が出た。足りなかった水分が身体中に行き渡って、かっと頭に溜まっていた熱も少し下がったような気がした。もう咳き込まずに喋ることができる。はあ、と息を吐けば、ぺた、と頬にペットボトルを当てられ、冷たさに目を細めた。さっきの電話の、のどがかわいてる、という一言で、これを持って来てくれたのだった。ああもう、と泣きたいような気持ちで思った。
「……すごく喉渇いてたから、助かった、ありがと」
わしゃわしゃと髪を撫でられたのに首をすくめて、それから椎名を見た。部屋の外がざわめいているのは、動物たちが集まっているからだろう。
「園長、みんな、特にゴリコン君とか、サルの仲間の子達に、ここに近づかないように言ってもらえますか、うつるといけないんで」
「あ、俺、行ってくるよ」
緊迫した空気に耐えられなくなったように、菊地が慌しく部屋から出て行く。
「……だから私たちには何も言ってくれなかったの?インフルエンザでもなければ大丈夫よ」
「でも、もしもってことが、」
私はヘビだからうつらないわよ、と困ったような顔で笑ったウワバミは逆に近づいてきて、まだ濡れている華の顔をタオルで拭った。伊佐奈が不愉快そうに見やったのを視線で威嚇して、すぐ近くに座った。
「で?俺が何しにここに来たかって?」
最初に椎名が投げた問いを確認した伊佐奈に、横から道乃家が口を挟んだ。
「いやもう、そりゃよっくわかったっしょ」
「イガラシみたいに、蒼井華連れてこうと、」
「いやいやいや、どう見たってあのブスは合意の上で、むしろ能動的にあそこに納まってるでしょーが兎ちゃん」
「あいつ気に食わん奴じゃ、」
「ブスは絶対そう思ってないってーの、志久万さんが兎ちゃんじゃない奴が魔力使ったつーから様子見に来たけどー、ロデオに蹴られんのはごめんだね」
華が口を開こうとすると、ひた、と伊佐奈の指がそれを封じた。それから前髪を掻き分けてさらりと額を撫でて、目を覆うように目蓋を撫でた。こつこつと指輪が触れた。
「華は喋んな、寝てろ」
「できないよそんなの」
「自分の体調考えて物言え」
ほらあれ見なさいよ、介抱つうかいちゃついてるようにしか見えねえでしょ、と道乃家が大きな声を出すのに熱で上気した頬をさらに赤らめた。抱きしめられて、キスをして、それでも華と伊佐奈は最初に水族館を訪れた時から大して変わらない関係のように思っていたが、他に人間の居ない水族館という空間で二人で過ごすうちに、ずいぶんといろいろなことに鈍感になっていたらしい。
「蒼井華、」
「ひゃいっ」
急に椎名に名を呼ばれ、びくりと肩を跳ねさせた華を、伊佐奈がぎゅうと両腕で引き寄せた。腰が変な風に曲がって少し呼吸が苦しかったが、余計なことを言って椎名も伊佐奈も刺激したくなかった華は黙っていた。
「クジラマンがお前を連れて行こうとしたワケじゃない、ちゅうのは本当か」
「本当です!」
間髪入れずに答える。どちらにも欠片も疑いを残したくなかった。
「さっき、電話があって、その時に私が風邪引いて熱があるって言ったから、心配して見に来てくれた、だけです」
「おまえの具合が悪いのは、クジラマンの所為とは違うのか」
「違います、昨日から、私の不注意で、身体を冷やして」
過不足なく、誤解のない言い方、の、はずだ、と思う。椎名が華から伊佐奈に視線を移した。
「クジラマン、」
「その呼び方やめろ」
「蒼井華に手え出そうとしに来たわけじゃないんか」
華がちらりと伊佐奈を見上げると、伊佐奈も胸に抱え込んだ華を見下ろして、何かとても微妙な顔をした。
「ある意味、手を出しに来」
「はーいはいはい、鯨ちゃん空気読もうねー?」
道乃家がぱんぱんと手をたたいた。華は咳払いをした。
「こいつが風邪だって死にそうな声で言うから見に来ただけだ……何で俺が兎に言い訳しなきゃなんねえんだよ」
「前科があるからでしょ、」
腕を組んだウワバミがツッコミを入れた。むっとしてそちらを睨む伊佐奈を宥めて、華は首までファスナーを上げられていた寝袋から両腕を出した。伊佐奈は宥められたことよりも華が腕を出したことに、冷えるだろ、と言って、結果的に気がそれたようだった。
「そんなら構わん」
ふん、と鼻を鳴らした椎名は、伊佐奈に今、動物園の者に危害を加える気がないのなら、係わり合いにはならない、と立ち上がって背を向けた。ぎい、と部屋の扉を開けると、その向こうに大上と知多がシシドを羽交い絞めにしているのが見えた。もしかしたら他にもいたのかもしれない。騒動になってしまったのが申し訳ないと思う。
「……営業時間外に無断で侵入したことはいいのか?」
そう思うならなんで来た、と自分が言ってもいいものか、悩む華をウワバミが覗き込んだ。
「ハナちゃん、本当に、何か酷いことがあったわけじゃないのね?」
この言葉には聞き覚えがあった。夏の終り、ウワバミと大上に、似たようなことを訊かれた。あの時は逃げてしまった。
「ウワバミさん、私、」
抱えられていた伊佐奈の腕から身体を起こして、手を伸ばそうとして、ためらって引っ込める。その手を、ウワバミにぎゅっと握られた。ウワバミの手は人の手の形をしているけれど、爬虫類の肌のように乾いてひんやりしている。
「私も大上も、ハナちゃんの口から聞きたかっただけなのよ」
「ウワバミさん、大上さんも、ごめんなさい、」
華はウワバミと大上を信じなかったのだ。責めないと言ってくれたのに、それなのに、水族館へ行っていると、伊佐奈と会って、何事もない、むしろプラスの感情を持っていると、言ってはいけないと思ったのだ。
「シャチのサカマタさんに手紙をもらって、それから時々、水族館に行ってたの。伊佐奈に、水族館の動物たちにも、会って、話して……あのね、酷いことは、何もないよ、ごめんなさい、言えなくて、ごめんなさい、」
「水族館と仲良くしていると言ったら、私たちが嫌な思いをすると思ったのね」
ウワバミは少し淋しそうに笑った。握った手を優しく解くと、華の頬に触れた。
「ずいぶん熱いわ、よく休んで」
「うん、」
さらりと撫でて、そしてもう一度、じっと伊佐奈を見てから、ウワバミが部屋から出て行く。鈴木と道乃家も、やれやれといった様子で後に続く。志久万も一緒に出て行くかと思ったら、立ち止まった。
「あんたが噂の館長様か」
「俺も話は聞いてる、ヒグマ男」
呪われた男二人がじっと見合っている。間に挟まれた華は居心地が悪くじっと息を潜めた。
「……残りは、その顔だけか?」
「だったら何だ」
「別に」
本当に、それだけだった。道乃家の後を追うように部屋から出て行く。伊佐奈は、はあ?、と不愉快さを隠そうともせずにその背を見ていたが、華の頭には志久万が何度か思わせぶりに口にした「呪い主」という単語が浮かんでいた。
ぱたん、と扉が閉まった。薄暗く、埃っぽい部屋の中で、伊佐奈と二人になった。は、と息を吐くと華は、急に酷く疲れた気がして、へなへなと崩れた。髪を撫でられる。
「却って疲れさせた、来ねえ方がよかったな、俺としたことが判断を間違った」
ぽつりと呟いた伊佐奈をやっぱりバカだと心の中で罵って、華は黒いネクタイをぎゅっと掴んだ。
「……私、最初に言ったよ、伊佐奈が来て喜んでるって」
照れくさくて小声で早口になったが、こめかみから目尻、頬骨の上あたりに、人間の唇とマッコウクジラの上顎の先端が何度か触れたから、伊佐奈にはちゃんと聞こえたらしかった。がさがさとビニール袋をかき回す。
「もうちょっと飲むか、」
「うん、……自分で飲めるよ、さっき、みんなの前で、飲ませてくれたの、わざとでしょう」
寝袋を腰まで下ろして、ペットボトルを受け取るとごくごくと飲んだ。少し汗をかいていたから、美味しかった。
「それもあるが。胸、お前もう少しガードを堅くしろ、普段からそんな格好してんじゃねえだろうな」
ずっと蓑虫にされていたのは、下着をつけていなかった華の胸を隠すためだったらしい。スポーツドリンクを飲み干して、はあ、とため息をついた。
「そんなわけないじゃん」
だが、さっきまでのあの空気で、華がちょっと両腕を出したところで下着をつけていないことに気づくような者がいるようには思えなかった。
「俺しかいねえ時ならいくらでもゆるゆるでいいが」
ゆるゆるって何だ、と思っていると、タンクトップから出ているむき出しの肩に伊佐奈が触れた。深夜の海の水温そのままだったような手も、いつの間にかずいぶん温まっていた。肩からするりと二の腕に滑ってそのまま引き寄せられたから、華はついさっき皆の前でされたことを思い出して、少し拗ねた。
「今度はこぼしてない」
「知ってる」
普通の人間よりも長い舌が、ぺろりと華の唇をなぞる。押し返そうと胸に手を突けば、二の腕からさらに滑った手のひらが手首を掴んだ。
「いまさらだけど、風邪うつるよ」
「本当にいまさらだな、つうかお前、風邪じゃなくて疲労なんじゃねえの。肌荒れてんぞ、十代が」
頬を柔らかく食まれて、くすぐったさに首を竦めた。掴まれた手首をそっと解いて伊佐奈の頬に触れた。いつものことだがクマができていた。
「疲れてるのはそっちでしょ、」
「俺とお前じゃ体力が違うんだよ。ここで働いて、高校行って、部活は運動部だっけか、それで終わった後こっそり俺んとこ来てたんだろ、」
急に心臓がばくばくとうるさくなった。もしかして、もう水族館に来るなと言われるのではないかと思ったのだ。
「今度来たら、夜に無理して帰らねえで泊まっていけ。ウチから直接学校行けばいい、」
掛けられた言葉が予想と違っていたことに安心した華は、それがどういう意味を持つのか深く考えなかった。動物園で寝泊りするのと同じくらいの意識でそれを聞いた。
「うん、そうする。でも今日は伊佐奈が泊まって行きなよ、もう日付も変わってる」
伊佐奈は一瞬驚いた顔をして、それから、お前それってさ、いや、うん、わかってた、と華には意味不明なひとりごとを言って、苦笑するように顔を崩した。普段なら、何?と聞き返しただろうけれど、もう限界も近かった華は、藁の上にタオルケットを広げると、伊佐奈に寝るように言った。自分もその隣に横になって、ファスナーを全部下ろした寝袋を身体の上に広げて掛けた。一つだけの小さな枕を、伊佐奈が当然のことのように自分の頭にあてがったので、華は白いシャツの胸にぽこぽこと拳をぶつけて抗議した。
「枕、かえしてよ」
「お前にはこの俺が特別に腕枕をおごってやろう、ありがたく思え」
ふと、伊佐奈が椎名たちの前で、華に悪さをしに来たように振舞った時のことを考えた。あの時、華が癇癪を起こさなかったら、椎名にラビットピースの一発でも喰らって、そのまま帰るつもりだったのだろうか。
「……伊佐奈はいつでもそのくらい偉そうなのがいいよ、むかつくけど」
差し出された腕におそるおそる頭を乗せると、反対側の腕を腰に置かれた。重さが心地よく、腕枕って寝難いんだなあ、と思いながら、華はそれから3分もかからずに寝息を立てていた。
2011年7月12日
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