「ハナちゃんならわかるでしょ!?」
穏やかな晩秋の夕日が降り注ぐ中、変身した動物たちの手を借りて園内の掃除を進めていた華は、勢い込んだウワバミに同意を求められて驚いて頭を上げた。下を向いて集めた落ち葉を運搬車に載せていたところだったから、揺れる髪が顔にかかっていたのを手の甲でさっと払った。低い位置から斜めに差し込む光線が逆光になって、ウワバミの、華とは違う淡い色の髪はきらきらと輝いていてとても美しいけれど、表情は憤懣やるかたないといった様子で、神秘的な美しさを裏切っている。
華が風邪を引いて、この動物園に伊佐奈がやって来てちょっとした騒ぎになった翌日から、華は自宅に帰って三日間も寝込んでしまった。バイトどころか学校もとても出席できる状態ではなく、動物好きもいいが学生の本分を疎かにするようなことになるなんて、と両親にはこってりと絞られた。泊り込みは当分の間禁止、今まではなかった門限までできてしまい、破ったらバイトは辞めること、と保護者に言われれば、残念ながら子供の華には不服でも頷くより他にはない。今日も掃除をしたらすぐにバスに乗らねばならず、サーカスとの連絡会は菊地が伝令役を引き受けてくれたから学校で情報をやり取りできるとはいえ、動物園のことだけでも時間は足らない。頭の中は作業の段取りで一杯で、正直なところ、さきほどからウワバミとシシドがなにやら言い合いをしているのは気づいていたが、いつものことと聞き流して内容まで把握していなかった。へへ、と華は決まり悪そうに笑って、おそるおそる、ごめん、何の話?と言った。ウワバミはシシドへの怒りで気が回っていないのか、華の態度には特に腹を立てた様子もなく、今日の昼間のことだ、と話し始めた。
うん、うん、と今度はちゃんと相槌をうちながら、どるん、と運搬車のエンジンをかけた。重量物を乗せて運ぶことのできる、軽油で動く運搬車はヤツドキサーカスが備品を貸してくれたもので、荷車のように手押しで進むこともできるし、1人までなら立って乗ることもできる。自動車の運転経験のない華はギアの操作を覚えるのに少々戸惑ったが、鈴木の根気の良い指導で何とか習得してからは、力仕事の多い動物園では百人力の味方になった。毎日の食事の運搬、残暑の厳しい季節には山のように引っこ抜いた雑草を載せて運んだし、秋になってからは今のように落ち葉を運んだ。聴覚と嗅覚の鋭い動物たちには人間の耳にもうるさいエンジン音と排気の匂いが不評だけれど、今ではなくてはならない華の相棒だ。
エンジンの音に負けないようにウワバミの声が大きくなった。いつものこと、という華の認識は特に間違ってもおらず、今日の昼間、サーカスにやって来た子供が手放してしまった風船を、兎の脚力で取り戻した園長がいかにかっこいいか、という熱烈な訴えと、とにかく園長が褒められるのが気に入らないシシドがそれにケチをつけてくるのがムカついて仕方ない、という話だった。左からはウワバミ、フン、とそっぽを向きながら、それでも時折反論せずにはいられないシシドが右から、わあわあと賑やかなことこの上ない。
「ハナちゃんなら恋をしている者同士、私の気持ち、わかるでしょっ!」
雑草や落ち葉をまとめて腐葉土を作っているゴミ捨て場へ向かいながら、握り拳で半ば叫ぶように訴えかけられたのが、いやに大きく華の耳に響いた。え!?とすっとんきょうな声を上げてしまった華は、運搬車の操作を誤ってエンストさせてしまった。ぶすん、とエンジンが止まり、束の間の静寂が広がった。
「こ、恋っ?」
ひっくり返った声が響き渡って、華は自分の言葉に自分で赤くなった。同意が得られるものだとばかり思っていたらしいウワバミが、華のおかしな反応に、不審そうに首をかしげた。
「私、こっ、恋、とか、よくわかんないし、」
「あら、でも、あの水族館のクジラ男とハナちゃん、お付き合いしてるんでしょう?」
「おつきあ、……うえぇっ!?」
まるで思ってもみなかったことを言われて、思わず脳裏に「水族館のクジラ男」の不健康そうな顔が頭に浮かんだ。冷たい指先だとか、人間の温かくて意外と柔らかい頬や、つるりとした鯨の頬に触れたときの感触、そして、華の咥内を我が物顔で動き回る、普通の人間よりもずっと長くて質量のありそうな舌の、海水の、
「なっ、あ、お付き合い、こ、恋っ?えええ、」
余計なことまで思い出して、ぼん、と茹で上がってしまった華は、運搬車を必死に再始動させて、もう目の前のゴミ捨て場によろよろと近づいた。
「おい飼育員、危ねえ!」
「ギャッ」
慌てたシシドの声も間に合わず、うずたかく積み上げた落ち葉の山に近づきすぎて、ずん、と運搬車を衝突させた。衝撃でびたんと転んで、転んだこともよくわからずにふらふらと立ち上がった。
「ハナちゃん!大丈夫!?」
「だ、大丈夫、だい、だいじょうぶ……」
自分に言い聞かせるようにぶつぶつと、大丈夫大丈夫と唱えながら、荷台から落ち葉を掻き下ろした。異様な華の様子をちらちらと見ながら、ウワバミと、珍しくシシドまでが手伝ってくれる。
「ごめんね、変なこと言って、」
「う、ううん!違うよ、ウワバミさんは全っ然、悪くない、」
すまなさそうなウワバミにぶんぶんと首を振った。どう考えても変なのは華の方だった。恋、お付き合い、考えてみれば「まるで思ってもみなかった」ことがおかしいのだ。いろいろ例外があるのは何となく華も知っているが、まあ一般的に言って、恋もしていない、付き合ってもいない男女が、抱き合ったりキスしたり、さらに一緒に寝たりしない。
ウワバミ(とシシド)から聞かされた話は、すっかりどこかへ飛んでいってしまった。
(こ、恋?私が、伊佐奈に?)
水族館へ行きたい、伊佐奈に会いたい、と思う気持ちが、「恋」なのだろうか。漫画やドラマや、クラスメイトの噂話から想像していたのとは、随分と違う。しかし、だから「恋」なんて今まで考えもしなかった、なんて、間抜けな話だ。
昼休みの賑やかな教室は寒さのために締め切っていて、窓際の光の中をきらきらと埃が舞っている。傷だらけの机にくてんと頬をつけて、菊地がわざわざルーズリーフにまとめてくれたサーカスとの連絡会の要点を読んでいた華は、最後まで目を通すとそれを丁寧に折りたたんで制服のポケットに入れた。ちらり、と視線だけで上目遣いに、暖かな窓にもたれて携帯をいじっている友人を見た。
「……典子ちゃん、やっかいな頼みごと、してもいい?」
小さな声だったけれど、なんだかんだと頼れる友人はちゃんと聞きつけて、ぱちん、と携帯を閉じると華に視線をくれた。
「報酬による」
「購買のチョココルネにイチゴミルク、カレーパンもつける」
「おー太っ腹!何の頼み?」
「……悪事の片棒を、ちょっと」
「悪事?酒とタバコとクスリ関係はお断りよ」
くい、とメガネのフレームを押し上げて、漫画のようにきらりと光ったのをじっと見た。
「ん、外泊のアリバイ、」
「なに、泊り込みバイトの禁止、まだお許し出ないの?」
「それはそうなんだけど」
今まで通りならきっと、華は家には「動物園に泊まり込む」と言って出かけたのだろう。けれど今はその言い訳は使えない。典子には、どうしてもバイト先でやりたいことがあるから、とでも言おうかとも思っていたけれど、メガネをきらりと光らせた頼もしい姿を見ていたら、協力してもらうのなら華も本当の事を言わなくては、と考えを改めた。はりついていた机から身体を起こす。
「泊まりたいのは、動物園じゃなくって、」
「男だな!?」
食いつくように身を乗り出してきた友人のメガネがまた光った。男、という単語がなんだか生々しい気がして、華は頬を赤く染めた。この間から、伊佐奈のことを意識しすぎだ、と思った。否定もせず頬を染めた華の反応を見て、典子が色めき立った。
「そっかそっか、遅咲きの春、」
「遅咲きは余計」
「高校の奴?あ、まさか菊地!?」
がつん、と机に額をぶつけて、それからゆらり、と顔を上げた。
「ほんとにまさかだよ!菊地君に悪いよ!」
「なんだ違うんだ、じゃあ他校?」
「……高校生じゃない」
「年上?大学生?」
「…………………………27歳の社会人」
目をそらして小さな声でぼそぼそと答えると、さすがの典子も驚いたようだった。
「意外、」
「そうでしょうとも」
華自身が「どうしてこうなった」と思っているのだ。
「格好良い?」
「どちらかといえばかっこわるい。」
「良い人?」
「どちらかといえばわるいひと。」
「金持ち?」
「どちらかといわなくてもおかねもち。」
答えながら、こういう言い方するとまるで金目当てみたいだなあ、と他人事のように考えた。華と伊佐奈の実際の関係からあまりにもかけはなれていて、現実感がない。
「ますます意外、」
「そうでしょうとも」
ため息をついて、それから笑った。伊佐奈が、華のリュックをぶら下げて、中からカジカの鳴き声がした、と言ったことや、ショープールで鯨の頭にぺんと跳ね飛ばされて水の中に落ちたこと、傘のクローバーの絵の中から四つ葉を見つけて笑った顔、ついこの間、鯨の姿で動物園まで泳いでやって来た時のことなどが頭に浮かんだのだ。
「動物は、嫌いなの。でもすごく詳しいんだ。それで、ときどき可愛い」
すっと典子の手が伸びてきて、華の頭をよしよしと撫でた。
「その顔見たら安心した、ハナにとっては「良い人」なんだ」
照れくさくなって、へへ、と笑った。
「いままで、誰にも言えなかったから、聞いてもらって嬉しい、ありがと、典子ちゃん」
「相手のこと聞いたら秘密にしたいのも無理ないって思うけどさ、あんまり溜め込まないで話しなよ?聞くから」
「うん、」
聞いてもらって初めて、誰かに聞いてもらいたかったのだと気づいた。クラスメイトたちが賑やかに恋の話に興じているのを、冷めた、というほどでもないけれど、いつもどこか他人事として聞き流していた華は、ただ誰かに頷いてもらうだけで、不安な気持ちがこんなにも減るものだと知らなかった。次からはもうちょっと真剣に聞こう、と少しだけ反省した。
「よろしい、良くわかった!この私がよきにはからってしんぜよう」
「ははーっ典子様ーっ」
胸を張り、どんと拳で叩いた友人の前で、机の上にひれ伏して見せれば、神妙な顔ができたのは数秒で、すぐにはじけるような笑い声をあげてしまった。次の日曜日、典子の家に泊まって華の苦手な文系科目を教えてもらい、月曜の朝はそこから直接登校する、というストーリーがすぐに決まり、どうせなら、とお勧めの英語の参考書を実際に借りることにもなった。
「あ、そだ、これ、まあ心配ないと思うけどお守りと思って持って行きなよ」
典子がごそごそとポーチの中から何かを取り出し、華にほいと投げて寄越したところで5限の教師が入ってきたから、それが何なのか訊くことは出来なかった。始業の礼をして、着席して、ノートの影でこっそりと確かめた。ヘアピンが入っていそうな、スライド式の蓋のついているフリスクくらいの大きさの小さな缶だ。ずず、と蓋を滑らせて、1cmほど開いたところで中身が何なのかわかってしまった華は、滑りの悪い蓋を力任せにぎゅっと閉じると、机の脇にかけてあるカバンの中へ電光石火、放り込んだ。顔が赤くなっているのか青くなっているのか自分でもわからない。
(こ、これって、)
ちらり、と典子の席を見ると、華の反応を見ていたらしく、目が合ってから、にやー、と笑われた。缶の中に入っていたビニールの小さなパッケージは、保健体育で配られたこともあって知っていた。避妊具だ。
(やっぱり、泊まる=そういうこと、なのかな)
華にはわからない。午後の教室にはこつこつとチョークで黒板を叩く音が響いて、それを聞いていると隣の席の子に聞こえるんじゃないかと思うほどだった心臓の音もだんだんと落ち着いてきた。そして、ふと、避妊具というものの意味について考えた。
(……伊佐奈の精子って人間のなんだろうか)
華が排卵していたとして、避妊をせずに性交をしたら正常に受精するのだろうか。もし、受精できると仮定して。生物の時間に習った卵割の図が頭に浮かぶ。哺乳類は、等黄卵、形式は全割で、等割。反響定位を使えて何十分も水中ですごすことができる人間の遺伝子を持った胚が分割して胎児になって、その子供は呪われているのだろうか。身ごもった母体は呪われないのだろうか。生まれてくる子供は人間だろうか。呪いとは何なのだろうか。
そこまで考えてもやはり日曜日には水族館へ行って、泊まって、多分伊佐奈と性交をするだろう、と思っている華は、やはり伊佐奈に「恋」をしているのだろうか。華にはわからないことばかり、動物図鑑をいくら読んでも載っていないことばかりだ。
薄暗いフロアにゆらゆらと水紋が揺れる。両親に連れられた小さな男女のきょうだいが、明るい出口へと向かってゆく。女の子が、ついさっき見たショーのイルカがどんなにすごかったか、話に夢中になるあまり足元が疎かになってびたんと転んだ。男の子が、すぐに泣きべそをかき始めた妹を引っ張って起こした。このくらいで泣くな、兄が言えば、慌てて顔を擦った妹は勝気そうに、泣いてない!と言い返した。人波に紛れてすぐに姿が見えなくなった。
日曜の午後、丑三ッ刻水族館はたくさんの来館者で賑わっていた。小さな子供たちの声は床に張られたカーペットに吸収されながらもあちこちから、仲睦まじい老夫婦、デート中のカップル、めいっぱいのおしゃれをしている中学生くらいのグループ、どの顔も楽しそうに笑っていた。着替えを減らすために着て来た制服姿は目立つかとも思ったが、人が多すぎてかえって誰の目にも留まらない。
華の目の前の巨大水槽はショースタジアムを下から見上げる形になるもので、12mの水深を抜けて冬も近くなった柔らかな太陽の光が蒼く降り注いだ。連続して行なわれるショーは開演まであと少し、イルカたちもわずかな休憩時間を楽しむように、光線の加減で少し白っぽく見える水の中をくるりくるりと回っている。
「あ、おーい、」
たくさんのギャラリーの中の見知った顔、華に気づいたのか、何頭かがくるりと身を翻してガラスに近寄ってきた。手を差し出すとそこへ鼻先を寄せる。さっさっと動かすとそれにあわせて頭を振った。笑えば、ガラスの向こうでもギザギザの歯を出してイルカも笑う。となりの、社会人らしいカップルの女性が、いいなー、と華の方を見たから、照れて笑った。
チャイムが鳴って、イルカショーの開演を知らせる館内放送がかかった。華が今いるのは1階、ショーの間は閉鎖されるから、あっという間に人波が引いてゆく。それを避けながら、さりげなくイルカ水槽の前に残る。フロアを封鎖するポールを立てに来た従業員に挨拶すれば、ゆっくりと頭を下げられた。帽子を深く被っているから顔は見えないが、動きから言ってナマコだとかヒトデだとかそのあたりだろうか。
陽気な音楽とナレーション、喝采。調教師の鉄火マキが水槽の中にすいと出てきて、華に気づくとガラスに張り付いたから、華も水槽に手をついた。
『ハナ!ひさしぶりー!』
「マキ!元気だった?」
『元気元気!今日はハナがそこで見ててくれんの?じゃあはりきっていっくよー!!』
びゅん、とイルカの群れに頭をつっこんで、なにやら打ち合わせてからマキは悪戯っぽく笑った。何を企んでくれているのか、気持ちは嬉しいけれど大丈夫だろうかと若干不安になったところでマキはぱっと華を振り返って、それから、やっべー、という顔になった。
「……ヒマなの?館長さん。ショーの監督しなくていいの、」
正確には華ではなく、華の背後に立った人物を見て、マキはぺろりと舌を出すと、何事もなかったように水中にイルカを整列させた。華には言葉のわからないイルカたちも心なしかわくわくしているように見えた。
「ウチの従業員は優秀だからな、」
かつん、と革靴と床がぶつかる音が、高い天井に柔らかく反響する。振り向かず、マキの振る腕、そして指の動きひとつひとつに反応して、水面に向かって垂直に急上昇するイルカたちの後姿をじっと見ている華は、ガラスに向かって喋った。背後の闇に溶け込むように、頭を半分隠し、素材不明の生きたコートを着た伊佐奈の姿が、ぼんやりとガラスに映っている。
「都合のいいこと言って、」
「イヤイヤ本心デスヨ?…………使えると思ってなけりゃ、ショーの段取り任せねえっての」
かつ、かつ、かつ、ガラスに手をついて水面を見上げている華の、背中に足音が近づいてくる。ぬっと伸ばされた両腕が華の脇を通って、胸の下で緩く指が組まれた。引き寄せられるのに逆らわず、ぽす、とネクタイがきっちり結ばれた胸に背を預けた。頭の上に伊佐奈のあごが乗せられて、ヘルメットが当たって痛い、と抗議をすれば、悪かったな、と人間の頬をこめかみの辺りに擦り付けられた。お前あったけえ、呟きと一緒に耳や頬に息がかかって、くすぐったくて華は笑った。
「しかしはりきってんなマグロ、おい、余計なことすんじゃねえぞ、プログラム通りやれよ、……あの魚類、調子に乗らせるとロクなことになりゃしねえ」
「伊佐奈がここで見てたらやらないんじゃない?」
指輪だらけの手に華の手を重ねる。ひんやりした手が、時間はかかっても華と同じ体温になることをもう知っていた。スタジアムの天井から吊るされたボールに鼻先でタッチしたイルカが白い泡をたてて水中に戻ってくる。華が拍手をすればくるりくるりと回転して応えた。
「イルカまではしゃぎやがって」
怒っていると言うよりは呆れている感の方が強い伊佐奈は、あーあ、とため息をついて下を向いた。それから何かに気づいたようにまた顔を上げた。
「食い物の匂いがする、」
華の足元にはトートバッグが二つある。大きい方は、明日学校へ行くための用意、小さい方は、
「お弁当、……食べる?」
もごもごと訊ねる。当然だが何も知らない伊佐奈は華の葛藤など気づきもせず、んあ?お前のメシじゃねえの、とショーの出来を見ながら半分上の空で答えた。
「伊佐奈の分、あるよ………………つ、作ってきた、から」
「ヒトの食い物が喰いてえなあ」その言葉を聞いてからずっと、伊佐奈に、普通の、人間の食べ物を食べさせたい、一緒に食事をしたい、と思っていた。華の自己満足で構わなかった。幸いにも、今日は良い口実があった。
「この間、風邪引いたときに来てくれた、お礼、こっ、こんなので、悪いけど、」
ショーから目を離して、後ろからぐっと覗き込まれたから、華はかっと頬を染めてうつむいた。
「あの、別に、食べたくなかったら、」
「お前が作ったのか?」
急に恥ずかしくなって慌てて撤回しようとした華の言葉に被せて、伊佐奈が耳元で訊いた。ふ、と吐息が鼓膜に届いて、止められずにふるりと震えた。
「つ、作ったって言っても、おにぎりとか、卵焼きとか、そのくらい、」
「食う」
驚くくらいの即答だった。伊佐奈の声にからかう色はなかったから、それでやっと華は落ち着いて、うん、と頷くことができた。ほとんど見ていなかったショーはもう終盤に近づいていて、心の中でマキに謝りながら水槽に背を向けた。どちらにしろ、終わってしまう前にはどこかへ隠れなければならない。
「あ、」
さっと、何も言わずに伊佐奈が、床にあった華のバッグを二つとも持った。弁当と、学校へ行く用意と、着替えと、歯ブラシと、避妊具が入っているバッグを。
「何だ、」
「ううん、……ありがと」
「別に」
STAFF ONLYの扉が開き、華も伊佐奈に続いた。いつの間にか通い慣れた薄暗い通路と、足元のごうごうと流れる水路。伊佐奈は右手に二つのカバンを持っている。後ろから華が右手を伸ばして伊佐奈の左手に触れれば、振り向きもしなかったがきゅっと手は繋がれた。何度も通った通路は、いくら華がドジだといっても、もう手を引かれなくても迷ったり水路に落っこちたりはしない、多分。手を繋ぐことが目的で手を繋いでいることに嬉しくなって、華は声を出さずに笑った。
最上階直通の業務用エレベータに乗って、そのままいつものように館長室へ入ろうとした華は、繋いだ手を伊佐奈に引っ張られてよろけた。
「え、な、何?」
「今日はあっちだ、まあ館長室からも入れるが」
視線で示されたのは、エレベータを降りて右手にあるのが木製の重厚な館長室の扉、階段を挟んでその反対、左手奥の、何の飾りもないスチールの扉だ。華は今まで物置か何かだろうか、と大して気にもせず見過ごしてきた。手を引かれるままその扉の前に立った。
「この、部屋?」
「……俺んち」
「えっ!?」
びっくりして隣の横顔を見上げて、少し驚きすぎかと恥ずかしくなった。考えてみれば、館長室にはデスクと書棚以外何もないし、どこかからこの水族館へ通勤している姿も想像できない。となれば、館内にプライベートルームがあったところで驚くようなことは何もないのだが、ただ、伊佐奈本人から人間らしい生活の匂いが何もしないものだから、華が勝手に、館長室と水の中が伊佐奈の生活の全てだと思い込んでいたのだ。
ドアノブには鍵穴があったが施錠はしていないらしく(必要もなさそうだが)、伊佐奈が手を掛ければ、ぎい、と音を立ててゆっくりと開いた。
「お、おじゃま、します。」
「おう」
その部屋に入って、華が最初に感じたことは、灰色、だった。部屋には窓があって、位置的に館長室の裏側にあたるから海は見えなかったが、館長室のような嵌め殺しのものではなく普通の引き違いの窓が大きく作られていてそれなりに明るく、病院のようなくすんだベージュのリノリウムの床に鈍く光を反射していた。けれど、砂埃のべったりはりついたガラスは磨りガラスのようで、開けた形跡のないそれが示すとおり室内は埃の匂いがした。目が慣れれば実際にあちこち埃が積もっているのが見えた。何年も使われていない部屋だと言われても信じてしまいそうだった。
扉を入って、正面に窓、左側に簡単な、小さなキッチンスペースがあって、さらにその奥にユニットバスらしき扉があった。窓の前にはおそらく食卓にするべき小さなテーブルと会議室のような積み重ねられる椅子が二脚置かれていて、そのどちらにも埃が積もって字が書けそうなほどだった。窓の右側は十畳ほどの部屋で、文字通り何も無く、床の隅には綿埃がもそもそとわだかまっていた。壁に寄せて、シンプルな黒いパイプベッドが置いてあり、そこだけにはなんとか使った形跡を見出すことができたけれど、そのベッドの上も晩秋とは思えぬような薄い肌掛け布団が一枚、真っ白なシーツに包まれてぺろんと広げてあるだけで、生活感とは無縁だ。
この部屋が、呪われてからの伊佐奈の、「人間」としての全てだ。
華は眩暈がした。伊佐奈がここで色々なものを、世界を、呪って過ごした月日を思った。イガラシを取り戻しに初めて動物園の皆でやって来たとき、椎名に「会えて嬉しいよ」と言い、何度も「話そう」と言った伊佐奈を思い出した。ぎゅっと拳を握って力を入れた。
「館長室だと机しかねえからな、床で食うのもなんだし、」
「……ちょっと、何この埃だらけのテーブル、これじゃ床だって変わんないよ!雑巾ないの!?」
声は震えなかったはずだ。ぞうきんー?掃除用のが下にはあるが、と階下を指差す伊佐奈に、まったくもう、と頬を膨らませて見せて、華はキッチンの流しへ向かった。シンク下の収納の取っ手に、いつから掛けてあるのかわからない、灰色にくすんだ「白い」タオルが掛けてあった。雑巾に使っちゃうからね!、とことさらに怒ったように声を張り上げて、カランを捻ろうとして、ぐ、と唇を噛んだ。白くうろこのような水滴の跡のついた流しもまた埃が積もっている。その隣、一段低くなって、にょっきりと生えたガスの元栓とそこにつながった青いホースと小さな一口コンロにもやはり埃が積もっている。
「んっ、」
カランは固く、華は水を出すのに両手で掴んで回さなければいけなかった。すぐに伊佐奈が来て代わりに捻ってくれたが、出てきた水は赤く濁って鉄の臭いがした。全開にして濁りが消えるのを待った。シンクに溜まった埃が錆びた水に流され、排水溝のゴミ受けに引っかかってずごずごと奇妙な音を立てるのを黙って見つめながら、もう怒った振りを続けることはできなかった。
「……伊佐奈が、自炊するなんて思わないけど。お水とか、飲まないの?」
決まりの悪そうな顔をした伊佐奈が黙ったままあごで示したのを見れば、コンロの隣に小さな冷蔵庫があった。そっと開けてみると、中には500mlのペットボトル、ほとんどが水だが中にはお茶やコーヒーも混ざっていた。それと、高級そうな洋酒のビンがいくつか入っていた。それだけしか入っていなかった。食材はおろか、調味料さえ入っていなかった。有機物を入れた形跡はなくきれいなもので、ホテルの備え付けの冷蔵庫のようだった。500mlのペットボトルは見覚えのあるものばかりで、それが館内の自動販売機のものだとわかった。洋酒はおそらく、どこかからのもらい物だろう。華はため息をついてそっと扉を閉めた。
蛇口から溢れる水は透明にはなったが、手のひらに掬ってみればまだ少し鉄の臭いがした。もう少し出しておいたほうがいいだろうかと、タオルを濡らして絞った後もそのままにしておいた。
「熱いお茶、とか、……ポットとかやかんとか、電子レンジとか、ないよね?」
「ねえな」
お茶くらいはここで淹れられるだろうと思っていたが、この様子では無理なようだ。飲みかけだが、華が自分用に持っていた小さな水筒の中に熱いお茶がまだ残っているから、それを分けるしかない。
「湯飲みとか、カップとか、」
「それもねえ……あ、いや、ちょっと待ってろ」
伊佐奈がぱっと部屋から出て行って、華は思いついて窓を開けた。窓の鍵もカランと同じく固く、サッシと窓枠も砂埃で張り付いていたが、ぐっと力を入れると何とか開けることができた。海の匂いのする冷たい風が吹き込んで、埃っぽい空気と混じって渦を巻いた。窓を開けただけで真っ黒になってしまった手を洗って、それから埃だらけのテーブルと椅子を拭いた。一度では拭ききれなくて何度もタオルをすすいだ。埃が固まって排水溝に詰まる。指でつまみあげてきょろきょろしたが、予想通りゴミ箱もなくて、華は水を含んだ埃の固まりをぎゅっと絞って、自分のカバンから出したポケットティッシュに包んだ。多分、と、華は今は主のいない灰色の部屋を改めてぐるりと見渡した。伊佐奈がこの部屋にいることはほとんどないのだろう。館長室と水槽の中にいることの方が多いのだ。
バッグの中から密閉容器と水筒を取り出した。可愛らしいお弁当箱などというものは持ち合わせがなく、そっけないタッパーウェアだ。そもそも、容器以前に中身が質素だった。きちんと三角になっていないおにぎり、少し崩れて焼き色も濃すぎる卵焼き、焼いただけのウィンナー、塩でまぶしただけのきゅうり。鳥のから揚げとフライドポテトは冷凍食品を解凍しただけだ。台所に立ったとき、学校に行って、部活に参加して、バイトに行って、暇があれば動物図鑑を読んで、家の手伝いなどロクにしてこなかったことを華は初めて後悔した。小中学生の時、女子の間で何度か流行ったお菓子作りも一度もやらなかった。やっていれば少しは違ったのではないだろうかとため息混じりに考えた。それでも温めれば何とか食べられるだろうと思ったのに、電子レンジがないのではそれも叶わない。
「食い物の匂いがする、」
先ほどと同じことを言いながら伊佐奈が戻ってきた。手に、館内の土産物屋のカラフルなショッピングバッグを提げていた。悪いが、似合わない。片手をつっこんでがさがさとかき回すと、一辺が10cmほどの白い箱が2つ出てきた。
「ほれ、カップ」
華が箱を開けてみれば、それぞれ赤と黒の陶器のマグカップが入っていた。丑三ッ刻水族館のロゴと、黒の方はシャチのイラスト、赤の方はイルカのイラストが白でプリントされている。
「それから、タオル」
「あ、これ、」
ビニールのパッケージに入ったタオルに驚いて、思わず声を出した。デザインと色に見覚えがあった。夏の終り、伊佐奈に、秋冬の新商品のデザインだ、とデザイナーから送られてきたメールの添付画像を見せられ、二色展開の予定だがお前ならどれを選ぶ、と言われて、緑とオレンジと答えたら、華の感覚は普通の若い女性からはかけ離れているから緑とオレンジを外せば売れるな、と意地悪く笑われたのだ。
「緑だ、なんで?」
ぱちぱちと目を瞬かせた華に、あの時のように意地悪く笑った伊佐奈がもう一枚タオルを出した。そちらはオレンジ……ではなくて、赤だった。
「……クリスマス!」
「いいだろ?」
自画自賛する伊佐奈は癪に障ったが、確かに並べて置くと可愛く見える組み合わせだった。もしも華が何も知らずにここの売店に入ったとして、見かけたらとりあえず気になって手には取ってみるだろう。
「悔しい、可愛い、」
「それはお前にやるから、俺様のセンスをかみしめながら使え」
「やっぱりむっかつく!」
「まあ、華が緑って言い出さなきゃ俺も思いつかなかったからな、報酬だ」
きゃんきゃんと大げさに怒って見せても、さっきまで意地悪そうに笑っていたくせに、急にそんなことを言って華の髪を撫でるから、頬を染めてふてくされたようにうつむくしかない。
「なあ、早く食いたい、」
あまり見栄えが良いとは言えないテーブルの上を見てなお、わくわくした様子を隠さない伊佐奈に急かされて、新品のマグカップをざっと洗うとタオルで拭って、飲みかけの水筒からお茶を注いだ。幸いなことに箸は割り箸を二膳持ってきていた。容器の蓋を取り皿代わりにして、できるだけ見た目の良いおにぎりや卵焼きを選んで取り分けた。
「あ、あんまり美味しくないと思うけどっ、温められないしっ、」
伊佐奈の前に食べ物とカップを置いて、恥ずかしさのあまり怒ったような口調になったが、いそいそとヘルメットを外している肝心の伊佐奈はあまり聞いていないようだった。華がまだ向かいの椅子に座りもしないうちから、指輪だらけの手がぱっとおにぎりに伸ばされて口に運んでいった。あまりじっと見ているのもどうかと思いながらも、固唾を呑んで様子を見守った。
「米とか食ったの、めちゃめちゃ久しぶり」
巨大な口が、華の手で握った小さくもないおにぎりを、一口で半分以上齧って、もそもそと咀嚼してごくんと飲み込んだ後、そんなことを言った。それからはっと「言うつもりのなかったことを言ってしまった」という顔をして、別に美味くなくねえじゃん、普通に美味え、と言った。華は、「伊佐奈がお世辞とか気持ち悪い!」とも「本当?ありがとう!」とも言えずに、一度開いた口をぐっと閉じて、おにぎりを入れて来た容器の蓋に自分の分を取り分けて、それから手を合わせて、いただきます、と言った。それを見た伊佐奈は軽く目を瞠った。
「ああ、悪いな、『いただきます』。」
きっと伊佐奈が「いただきます」と言ったのも「めちゃめちゃ久しぶり」なのだろうと華は思った。ぼそぼそと小声で、どうぞ召し上がれ、と返して、華も半分にした卵焼きを自分の口に入れた。味付けはしょうゆが少し多すぎたし、出汁は足らなくて、火が通り過ぎていた。端的に言って、美味しくはなかった。ちらりともう一度伊佐奈の方を見ると、最初に華が取り分けてやったおかずはもうほとんど消えていた。
様子を見る限り、伊佐奈は華に気をつかって無理をしているのではなかった。どう考えても、何年もまともな食生活から遠ざかりすぎて、人間の食べ物の味がわからないでいるのだった。ただそれを、華が持ってきた食べ物だからと何の疑いもなく、美味しい物だ、こういう味だった、と思い込んでいるのだ。そのことに、伊佐奈本人が気づいていない。
「あのねっ、……わ、私、もっとごはん作る練習するから!そしたら、おにぎりももっとちゃんと三角になるし、卵焼きもちゃんと黄色の、ふわふわの、」
泣いたらいけない、とテーブルの下でぎりぎりと拳を作って華は大きな声で言った。
「また持ってきてくれんのか?」
取り分けたものをたいらげて、次はどれにしようかと容器を覗き込んでいた伊佐奈が顔を上げて面白そうに笑った。
「だ、だって、この台所!どうせ、サカマタさんやマキたちのごはんとりあげて食べてるんでしょ」
「弱肉強食だ。」
「それ何か意味が違う、」
下手な言い訳に気づかれなかっただろうか。これは華のわがままだ。伊佐奈に人間の生活をしてほしい。人間に戻りたいと言いながら、自分から「化け物」に甘んじる生活をしないでほしい。そんなことを正面切っては言えなかったから、華ができるだけでもそうするのだ。とりあえず、これが正しい卵焼きの味だと認識されるのだけでも、阻止するべきだ。
密かに決意して、それからふと、容器の中できゅうりだけが手付かずのままになっているのに気づいた。
「……野菜も食べなよ、」
「やだ」
「子供か!」
きゅうりは縞に皮を剥いて一口大に切ったのに塩をまぶしただけだから、味はおかしくないはずなのだ。自分にとりわけたものを一切れ食べてみても、やっぱり味は普通だ。
「いい大人が好き嫌いとか、」
「好き嫌いに大人も子供も関係ねえ!」
最初に伊佐奈に取り分けた分にはきゅうりを入れていなかった。追加で取り分けてやろうとテーブルを挟んで身を乗り出せば、取り皿代わりの容器の蓋を持って、伊佐奈はさっと身をよじった。ますます子供っぽかった。
「必死すぎ」
「兎じゃあるまいし、生の野菜なんぞ食わねえ」
「人間は雑食なんですよ、伊佐奈君。おわかりかね?」
箸に挟んだきゅうりの下に左手を添えてぐっと突き出す。伊佐奈は自分の取り皿をガードして完全に横を向いてしまった。
「この卵焼きよりはおいしいのに、」
あまり箸を振り回すのも行儀が悪い。仕方なく自分の口に入れてぽりぽりと食べると、ぎょろり、と鯨の目が華を見た。
「……華が口に入れてくれたら食べる」
ぼそりと呟かれた一言に驚いて、まだあまり咀嚼していなかったきゅうりをごっくんと飲み込んでしまった。慌てて、とんとんと胸を叩いた。
「キャラ違くない?」
「違くない。俺はもとからこういう男だ」
「どうしてそこでいばるの」
笑って済ませようとして、期待に満ちた視線に負けてうつむいた。華の視線はうろうろと、箸を握った自分の手元とタッパーの中のきゅうりとを往復している。ちら、と顔を上げて伊佐奈を見れば、ぱか、と口を開けられた。鯨の方の顔が大きく裂けた。これを、恐ろしいと思わなくなったのはいつからだったろうか。初めて見たときには、異様だ、恐ろしい、気味が悪い、と思ったはずなのだ。けれど今は、口を開けるひな鳥のように見えた。
「………………ど、どーぞ」
真っ赤な顔で、緊張で震えそうになる手を、いくらなんでも恥ずかしすぎる、と必死で押さえつけて箸を差し出せば、不満そうに「そこは『あーん』だろ」とダメ出しされた。
「む、無理っ!」
ぽい、と放り込むように伊佐奈の口にきゅうりを突っ込むと、ぱっと手を引っ込めた。きゅうりが嫌いな27歳児は華の態度が不満なのかきゅうりが不味いのか、とんでもなく渋い顔でぼりぼりと噛んで飲み込むと、やり直し、と言った。
「やり直しって、」
恥ずかしい、勘弁してほしい、けれど、間違いなく華に甘えている伊佐奈を要望どおり甘やかしてみたい、という欲求もあった。天秤が揺れる華の胸のうちを見透かすように、にや、と伊佐奈が笑った。
「はーな、『あーん』って、してみ?ちゃんと食うから」
今まで聞いたこともない甘い声でねだられて頭に血が上った。悪魔の囁き、というのはこういうのを言うに違いない、と思った。椅子に座っているのに、精神的にふらふらになって、きゅうりを挟んだ箸をよろよろと持ち上げた。
「あーん、」
声は小さかったが、営業中の水族館の喧騒も遠い最上階の部屋は静まり返って、よく聞こえた。嬉しそうな伊佐奈の口元に、ぱく、と箸先が消えて、そして、はっと我に返った華は、先ほどまでの羞恥心が再び襲ってきて慌てて腕を引っ込めた。ぼんやりしていたのがいけなかった。
「あっ、」
引っ込めた肘が何かに当たった、と思うと同時に、ごとん、と重い音が響いて、ばしゃ、とへその辺りからスカートの膝まで、熱い、ぬるいものがかかった。お茶を淹れたマグカップをひっくり返したのだ。
「おい、大丈夫か、」
「あっ、あっ、わっ、」
声をかけられても返事もできず、テーブルから滑り落ちそうになったカップを慌てて捕まえて、今度は取り分けていた卵焼きが膝の上にべしゃりと落下した。ぽたぽたとリノリウムの床に雫が垂れる音がする。火傷するような熱いお茶ではなかったから怪我こそないが、一瞬で大した惨状だ。
「……んな動揺されると、俺が悪いことしたみたいじゃねえか、」
きゅうりをほとんど噛まずに飲み込んだ伊佐奈が苦笑いして、赤いタオルを投げて寄越した。えっ、えっ、と取り乱したまま水溜りのできた床を見れば、違げえ、と止められた。
「床と机は気にしなくていいから、まず自分を拭け」
「あ、でも、これで拭いたらお茶が染みになっちゃう、せっかくもらったのに」
動転したまま、タオルにこぼしたお茶を付けないようテーブルの上に戻すと、伊佐奈がため息をつきながら立ち上がって、流しから雑巾の代わりにした灰色のタオルを持ってきて、華にでこぴんした。
「いっ」
「ドジめ」
「うう、」
返す言葉もない。タオルで拭く前にまず、膝の上に鎮座した卵焼きを手で掬った。どうしようか、と視線をさまよわせていると、水溜りの脇にしゃがみこんだ伊佐奈に手首を掴まれた。そのまま引き寄せられた先は、伊佐奈の口元だ。
「なっ、あっ、だ、やめて、」
華の手のひらを傷つけないためなのか、人間の方の唇が、崩れてお茶のかかった卵焼きをぱくりと飲み込んだ。
「き、きたないよ、膝の上に、お茶もかかってるし、どうして食べちゃうの」
「口の中がきゅうりの味なんだよ」
「だったら、そっちの、まともなのとって食べたらいいじゃない、」
「もったいねえだろ、別に汚くねえし」
「っ、あ、やめ、」
舌が伸びてきて、手のひらや指に残った小さな欠片まで、隅々まで這って華の手を拭った。熱くて、柔らかくて、ねっとりした唾液に覆われた感触が、皮膚の薄い指の股をもったりとなぞって、背中がぞくぞくした。手を取り返したくてもしっかり掴まれた手首はびくともせず、自分の指が薄い唇からぬるりと取り出される一部始終をしっかり見てしまい、頭に血が上るあまりに目が潤んできた。そして、華はこの展開にもういっぱいいっぱいなのに、伊佐奈は戯れにこんなことをしてしまえるというのは、人間との接点が無いようでもやっぱり伊佐奈は華よりも大人で、こういったことにも慣れているのだ、と考えた。逆ギレなのは承知で、何だか腹が立ってきた。
「もう、なんなの、さっきから、伊佐奈、意地が悪い、」
真っ赤に上気した頬に、潤んだ目をして、濡れたスカートとシャツを肌に貼り付かせた華を、しゃがんだ姿勢の伊佐奈がじっと見上げている。何故か目をそらしたらいけないように思って、華もじっと見返した。
「……お前それ、制服、明日着んじゃねえの」
確かにその通りで、お茶の染みができてしまってどうしよう、とは頭の隅で思っていたが、今言うことか、とからかわれたように感じて、憤然と椅子から立ち上がろうとした。
「悪ィ、その、なんつうか、」
急にうつむいた伊佐奈が、スカートから出ている華の膝頭に額をつけたから、腰を浮かしかけてまた座った。
「何、」
「ちょっと、浮かれてて、」
「え?」
ぼそぼそと言って、それから華の手をとって立ち上がった伊佐奈は、風呂貸してやるから着替えろ、とそっぽを向いて言った。華には伊佐奈の人間の方の横顔と耳が見えたが、わずかに赤く染まっていた。つい1分前まで華を翻弄していたくせに、わけがわからない。
後編に続く
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