「着替え、あるか?」
「……部活の、ジャージ、持ってる」
椅子から立って、バッグを持って伊佐奈についていく。キッチンの脇、少し奥まったところにあるドアの向こうは、想像通り小さなユニットバスだった。ここもあまり使った形跡はなかったが、埃が溜まっているようなことはなかった。うっすらと潮の匂いがして、ここで海水を洗い流したりはしているらしかった。シャワーカーテンのレールにクリーニング店のハンガーがいくつか掛かっている。
「それ、好きに使っていい。湯も出るから使いたきゃ使え、そこに服かけて換気扇回しとけば朝までに乾く」
「あ、ありがと、……」
ぱたんとユニットの扉が閉まった。浮かれてる、とは何だろうか。華自身は、今日ここに来て、浮かれているというよりは浮ついている。
無事だったブレザーを脱いでハンガーに掛けて、シャツを脱いだ。洗面台に水を溜めて軽くすすげばまだ乾いてもいなかったお茶は簡単に落ちた。軽く絞って、皺を伸ばしてハンガーに掛けた。次はスカートを脱いで、これは雑巾タオルで濡れたところを挟んでぱんぱんと叩くだけにした。ハンガーに吊るした。スパッツは今日は着ていなかった。下着もお茶で濡れていたから、着替えに持ってきていた新しいものに換えて、やっぱり洗面台ですすぎ、干すことにどうにもためらいがあって、ぎゅっと絞ると畳んでバッグに入れた。コンビニで何か買ったときの買い物袋が入れっぱなしになっていたから助かった。それから、部活用のハーフパンツとTシャツ、ジャージの上着を羽織って、その間ずっと考えていたけれど、伊佐奈が何を言いたかったのかはよくわからなかった。
「着替えたよ、ありが、ぅわあっ」
ユニットバスを出て、食卓の方にいるだろうとばかり思っていた伊佐奈が扉のすぐ前の床にうずくまっていたから、驚いた華は思わず悲鳴じみた声を上げた。
「、どうしたの、」
腰を屈めて訊ねると、ちょいちょいと手招きされる。何の警戒心もなく近づいた獲物の腰に、海の肉食獣ががばりと抱きついた。
「ひゃ、」
膝の上にぎゅうっと抱き込まれる。コートの裾が尾鰭になってぐんと広がり、とぐろを巻くように二人を囲った。他には誰もいない部屋なのに、さらに何者かに盗み聞きされるのを恐れるように、鯨の皮膚に包まれた中でもそもそと伊佐奈が喋った。卵焼きのにおいのするあたたかい息が耳をくすぐった。
「前に、華が、溺れた時、ここに連れて来て、湯を使わせて休ませた方がいいと、ちらっと思ったんだ」
「うん?」
マキと泳いだ時のことだろう。今頃になってそんな話をする意図がわからずに、華はとりあえず相づちを打った。
「けど、この部屋に、入れたら、お前に、何してもいいような気になりそうで、何かしたら、もう来なくなるんじゃねえかって、」
伊佐奈の言葉は断片的過ぎて、理解するのには時間がかかった。結論に達するには伊佐奈の気持ちを想像して欠落した部分を補わねばならず、それは華にはとても難しいことだった。
「…………「何か」って、その、」
「まあ多分、お前が想像してることで概ね間違ってないな」
かあ、と赤くなった華の頬に、伊佐奈の人間の頬が触れた。
「今日は、「何か」しても、大丈夫だと、思ったから、ここに入れてくれた、の?」
「そうだ、」
ぞく、と背に鳥肌が立ったのを、目を閉じてやり過ごした。心臓はまるで走り込みの後のようにどんどんと速く打った。それは悪い気持ちではまったくなかった。
「それで、………………嬉しくなって、浮かれた」
つまり、浮ついていたのは華だけではなかったのだ。悪戯を告白する子供みたいなバツの悪そうな顔で、「あーん」の強要だとか、手のひらの落とした卵焼きを食べたりだとか、先ほどの無体に到った経緯を打ち明けられて、華はもうどんな顔をしていいのかわからずに、きっとおかしな顔になっているだろうと思ったから、顔が見えないように伊佐奈の首の後ろに両腕を回してぎゅっとしがみついた。口を開いて、羞恥と緊張で言葉が出てこなくて、一度引き攣った深呼吸をした。
「なっ、な、「何してもいい」、よっ」
心臓はもう強く打ちすぎて死んでしまうのではないかと思うほどで、ぎゅっと目を閉じて伊佐奈の反応を待つ10秒あまりが永遠にも感じられた。けれど無言のまま、とぐろを巻いていた尾鰭がずるずるとコートに戻って、伊佐奈は華を抱えて立ち上がった。大して広くもない室内を横切って、ぽすん、と下ろされたのは、簡素なベッドの上だった。
「後悔するなよ、」
聞き覚えのある台詞だった。それにちょっと笑って、華は少しだけ緊張がほぐれたのを感じた。
「二度目だね、」
以前言われた時は、返事をする前に唇を塞がれてしまったから、言えなかった。あの日、伊佐奈に会いたい、近くに行きたい、触れたい、触れられたい、と思った気持ちの、先日ウワバミから「恋をしている」と言われて初めて、理由がわかった。
「後悔しないよ、私伊佐奈が好きだよ、だから、「何か」してほしい」
真っ赤な顔で、震える手で、だらんと垂れた両腕の先の、全ての指に指輪のついた伊佐奈の手を、両の手のひらで包むようにして自分に引き寄せて、頬に当てた。片手を華に好きにさせたまま、伊佐奈が隣に座って、ぎ、とベッドがきしんだ。初めて伊佐奈に「後悔するなよ」と言われた時は嵐のようだったのに、今日は凪いだまま穏やかに距離が近くなった。
「……お前俺が好きなのか」
「うん」
伊佐奈の幸せそうに笑った顔を、もう忘れられそうにない、と思ったとき、なぜか胸が痛くなった。手が頭に乗せられて、さらさらと髪を梳く。現れた耳殻をつっと指がたどる。そこからあごに降りて、首を伝って、鎖骨の上を何度か往復した。華は華で、捕まえた手のひらに唇を押し当てたり、先ほど自分がされたように、骨ばった指を食んでみたり、自分に思いつく方法で伊佐奈に触れた。
「邪魔」
ずる、と伊佐奈が生きたコートを脱ぎ落とすと、それはベッドの下で勝手にもぞもぞしていた。
「えっ動いてる、気持ち悪い」
「気持ち悪いとか言うんじゃねえよ」
気持ち悪いと言いながら、床で蠢いているコートをベッドの上から覗き込んで観察し始めた華の、羽織っていたジャージの襟首がぐいとつかまれて、そのまま後ろに引っ張られてつるんと脱げた。ハンド部のクラブ名がプリントされた白いTシャツに、蒼井、と苗字が刺繍してある紺のハーフパンツ、ラルフローレンのワンポイントが入った白のソックス、色気も何もあったものではない部活スタイルで、男の部屋で、ベッドの上にいることが、とてもおかしなことのような気もしたし、この上なく自分たちらしいような気もした。
「よっ、と」
脇の下に手を入れられて、伊佐奈の膝の上に乗せられた。よくこの体勢になるな、と思った。
「こうするの好きなの、」
「これは俺のだ、て感じがする」
子供がぬいぐるみの所有権を主張するような言い分に怒ってもいいはずなのに、まず甘えた物言いをされることに喜んでしまった華は、自分はきっとこの先ずっと伊佐奈を甘やかすだろう、と未来に軽くため息をついた。彼に対しては優秀な飼育員にはなれそうにない。手を伸ばして、右手は鯨の頬に、左手は人間の頬に、そっと触れた。
「ん、」
Tシャツの裾から手のひらが滑り込んできた。お前あったかいな、と言う伊佐奈の手も、今はいつも冷たい手のひらと同じものとは思えないほど熱かった。するりと脇腹を撫でて、ゆっくりと上に上がってくる。Tシャツがずり上がって、へその辺りをひんやりした空気が撫でた。華も伊佐奈に触れたいと思っているのに、たったこれだけのことでもう、自分が触られていることだけにいっぱいいっぱいになってしまう。
「ふ、あっ、」
淡いブルーとグレーの縞の、コットンのブラジャーを、ホックを外しもせずにぐっと上にずらされて、ワイヤーが胸を強く擦る感覚に思わず声を上げた。間髪いれずに手のひらに膨らみを収められて、びく、と肩が震えた。どのくらい力を入れても大丈夫だろうか、と探るようにゆっくりと指を動かされて、くすぐったい、と似ているけれども微妙に違う、むずがゆくなるような感覚に身体が勝手に逃げようとした。それを許さないというように指に力がこもった。
「や、痛いよう、」
「逃げるからだ」
「に、げようと思って、逃げてるわけじゃ、っ」
いったん手が離れてほっとしたのも束の間、Tシャツと下着をまとめてすぽんと引き抜かれた。勢いで、ふるん、と自分の胸が揺れるのを見てしまっていたたまれなかった。おお、やっぱでけえ、とあけすけな感嘆の声を上げられて、思わず両腕で胸を覆った。
「わ、私だけ裸なの、やだっ」
「じゃお前も俺を脱がせばいいだろが」
ぐっと強引に引かれた手首から、黒いネクタイに導かれる。いつも綺麗に結び目を作ったそれを、華が解いて良いと言う。少しためらって、ちらりと伊佐奈の顔を見て、往生際悪く身体に寄せた二の腕でむりやり胸を隠しながら、指を掛けてきゅっと引っ張った。華がネクタイをしゅるしゅると襟から抜き取っている間に、伊佐奈は指から指輪を全て抜き取って、手首の金時計も外して、ぽいぽいとシーツの上に投げ出していた。ネクタイの下から第1ボタンまで留めたワイシャツが現れれば、もたもたしているのも余計に恥ずかしい気がして、指を伸ばして小さな白いボタンをボタンホールにくぐらせた。ぷつんぷつんとボタンを外していくと、アンダーシャツを着ない伊佐奈の裸体がシャツの袷からあらわになった。華は自分でそうしたいと言ったくせに、いざ服を脱いで向かい合えば目のやり場に困って、うろうろと視線をさまよわせた後、ふと伊佐奈の首を見た。普段はワイシャツときゅっと締まったネクタイ、ジャケットとコートの襟に隠されている。喉仏の脇、人間の皮膚と鯨の皮膚の境界が顔からずっと続いている。褐色と白と、ぎざぎざと波打つ線は人間と鯨がお互いに喰い合っているようで、いままでまじまじと見たことなどなかったが、なんだか痛々しいようにも見えた。思わず胸を隠すのも忘れて、そこへ顔を近づけた。ぐるっと首の後ろへ続いて、白と黒と、毛色の違う髪の中へ消えている。
「時々、夢、見る」
呟きながら伊佐奈が華の裸の背を抱き寄せた。華は逆らわずに肩の上に顎を乗せて痩せた身体にぴったりとくっついた。むにゅ、と二人の間で華の胸が形を変えた。手で揉まれていたときはどうにもいたたまれなかったが、こうするのは温かくて気持ちが良かった。
「夢?」
「呪いが解けないのがこの顔だけじゃなくて、俺に見えないだけで、背中やケツがまだ呪われてる、」
華は伊佐奈に抱きついたまま、ボタンを外したまま羽織っていたカッターシャツを背中側から引っ張って、ずるりと脱がせた。肩越しに、目の下に現れた背中は病的に白く、痩せてあばらが浮いていたが、ただそれだけの人間の背中だった。スラックスの中に消えている尾てい骨の上辺りにひたりと手のひらを当て、そこから脊椎の数を数えるようにゆっくりと撫で上げても、少し体温の低い皮膚はすべすべしていてしみもほくろもなく、いくつかにきびのある華の背中よりもよほど綺麗だろうと思った。両手で肩甲骨を包むように触れると、ぶる、と背が震えた。それから伊佐奈の手のひらも華の背で動き出した。骨の浮き出た指の関節と背骨がこつこつとぶつかった。
「どこも全部、人間だよ」
「お前と一緒の?」
「私の背中より肌綺麗だよ、何かむかつく」
「海水浴は皮膚の炎症に効くぞ」
顔は見えなかったけれど、しっかりと抱き合った身体が伝える振動で、伊佐奈がくっくっと笑っているのがわかった。そのままぐっと身体が倒されて、華はベッドの上に仰向けに横たわった。身体の上には伊佐奈がいて、華の腰の上を跨いで、頭を固定するように左右の耳の脇に両腕をついていた。
「これで逃げられない」
「悪役の台詞だ、」
笑い合って、顔が近づいた。目は閉じずに、額と額が合わされる。鼻の頭を擦りつけあって、唇が触れ合った。ぎゅっと押し付けてから、上唇を食まれる。華も薄い唇を捕まえてちゅうと吸った。鯨の口先にも触れたかったけれど、顔を背けられてしまう。どうも伊佐奈は鯨の尖った歯が華に傷をつけると頑なに信じているようで、仕方がない。そしてもったりと現れた伊佐奈の大きな舌を、口を開いて自分から咥内に招き入れた。ずる、と這う舌と舌を擦り合わせる。ぞくぞくと背を震わすのが快感なのだと華はもう知っていた。伊佐奈の首の後ろに両腕を回して、皮膚の境界線をゆっくりとなぞる。伊佐奈も片手は体重を支えて、もう片手は再び華の胸に柔らかく指を埋めた。
「んっ、ふ、」
胸の頂、薄紅色に染まった一際柔らかな部分でくるくると指が遊びはじめると、腹の奥のほうからむずむずする感覚が這い上がってきて身をよじった。シーツの上で身体をくねらせるのが精一杯で、逃げ場はない。口接けの途切れた合間にはふはふと苦しい呼吸を繰り返しても息は上がるばかりだ。感じやすい上あごをぞろりと舐め上げられるのと同時に、胸の先端をきゅっと指でつままれた。これは気持ち良いことなのだと教え込まれているようだった。充血して紅が濃くなった、きゅうと硬くなった乳首が上を向いた。自分の身体なのに、華には何もかもが未知のものだった。動物図鑑の性行動の項を見たってこんなことは書いていなかった。
「んぅ、ぅあ、っ」
咥内からゆっくりと伊佐奈が出て行って、はっはっと荒い息を繰り返した。泣いてもいないのに目が潤んでいた。唾液を溢れさせて口の周りはべたべたになっていた。
「いいな、もっとそういう顔しろ、泣け」
「いじめっこ、あ、や、ああ」
子供ではないけれど大人にもなりきれない夏の日焼けの名残を残した肌の上を、大きな白い蜘蛛のような男の手が這い回って、必死に空気を取り込もうとする唇が震えた。どうしたらいいのかもうわからずに、助けを求めるように、胸元に埋まった伊佐奈の頭を両手で抱えた。華の身の置き所をなくしている本人に縋り付くのもおかしなことだったが、他に縋りたいと思うものもなかった。
「っ、」
白い髪の混じった頭が次第に下がっていって、ハーフパンツのウエストに手が掛けられた。反射的に、やだ、と言いそうになって、ぐっと唇を噛んで言葉を飲み込んだ。総合的に言えば、嫌なのではない。ただ恥ずかしかったり怖かったりという渦巻く感情が、特に意味もない拒否の言葉を吐こうとする。
「へそ、」
ぐっとウエストゴムを引き下げられて、ぎゅっと目を閉じたところへ、思いもしないところをつんとつつかれて、ひん、と変な声を上げてしまった。
「へそくらい、あるよっ、ほ、哺乳類、だもん、」
「おう、俺にもある」
言ってから、鯨にもあるな、と頭の隅で思った。それからふと、かなり場違いな疑問が頭を掠めた。
「……マキもへそあるよね、」
「……魚類、」
「なんで?」
「俺が知るか、」
動物のことになると空気が読めなくなるのが華である。呪いとは、魔力とは何だ、どこから来た何の力がマグロのマキにへそを授けたのだ、と状況も忘れて考え始めて、伊佐奈がため息をついた。
「きゃああ」
ハーフパンツだけでなく、下着もまとめて一気にずり下ろされた。慌てて脚を閉じても、もう膝下を通り過ぎた後だ。脳裏を占めていたマキの顔が一瞬で消える。脚の間がすうすうする。身体を丸めて縮こまっていると、足首をぐいと取られた。
「裸靴下、エロい」
「ばっ、かじゃないの」
すぽんすぽんと白のハイソックスを引き抜かれれば、身につけたものはもう何もない。
「自分だけ脱ぐのは嫌なんだったな?」
意地悪そうないつもの笑い方で、伊佐奈がスラックスのベルトに手を掛ける。思わずばっと目をそらす。かちゃかちゃとかごそごそとか、そんな音の後に華の上に戻ってきて絡んだ伊佐奈の脚は素肌だった。膝の内側を筋張った太腿が擦っていって、びく、と震えた。
「し、心臓が、激しすぎて、しにそう、鼻血出そう」
唾液が乾いてごわごわする顔を両手で覆って、息も絶え絶えに、正直に告白すると、笑うと思っていた伊佐奈はただ黙って、華の手首を掴むと自分の胸に手のひらを触れさせた。同じように早い。伊佐奈に導かれなかった方の手も顔から外して、頚動脈に触れてみた。急所だから嫌がるかと思ったが、やめろとは言われなかった。とくとくとくとく、と1秒間に2回くらいのペースで打っている。血液を送り出している。
「……たぶん、猫の心拍数と同じくらい、」
「にゃあ」
「伊佐奈キモい」
「うるせえ」
膝に手が掛かって左右に開かされた。華はかなり頑張って、自分から脚を広げた。
「溶けてる、」
「言わっ、や、ん、ぁっあっ」
ぞろ、と、柔らかな陰毛をかき分けて、指がやって来た。触れられる前からもう自分でわかっていた。華の身体がとろとろになっている。往生際悪く、鼻血が出そう、などと言ってみたところで、そこはとうにいつでも来ていいと待っていた。下着を下ろされた時にすうすうしたのは、濡れていたからだ。
「ああぁ、やっ、や、」
顔が熱い。汗が全身から湧き出てきて、酸素を求めてあえいだ。はっ、はっ、と遠くで聞こえる引き攣った呼吸音は華自身のものだ。
「可愛いな、」
耳元でかすれた声がした。いつもそんなこと言わないくせに、こんなときだけ!という悪態は声にはならなかった。はあ、と震える熱い息が耳にかかる。も、やべえ、という呟きが小さく聞こえたその時、いっぱいいっぱいだったはずなのに、伊佐奈がどうなっているのか知りたい、という欲が華の中に生まれた。
「わ、わたし、もっ、いさなに、さわる、っ」
「おう、また今度な」
あっさり受け流されて、ぬるぬると、入り口を往復しながら襞を探っていた指がくっと曲がった。
「い、っ、くぁ、やあ」
くぷん、とあまり聞きたくない音がして、内蔵の温度に近い熱い胎内に、ごつごつした細い指が入ってくる。冷たく感じる。痛くはないが、異物感が酷い。ぎゅっと眉を寄せて身体に力が入ればきゅうと締め付けてしまって、はふはふと溺れたような浅い呼吸を繰り返した。
「待って、まってえ、」
対処しかねているうちに指が抜き差しされ、無体を働く腕に爪を立ててしがみついて、悲鳴混じりに静止の声を上げた。
「無理、」
答える声は短く、獣が唸っているように聞こえた。指が二本に増え、ずちゅ、ぬちゅ、と音を立てながら華の中を擦る。あぁっ、あぁっ、と高く、何度も上がる自分の声が、猫の声に聞こえた。
「熱いな、どろどろしてる、指が愉しい」
伊佐奈が口を開いて、何かを言ったのがわかったが、自分の声と、呼吸と、身体をくねらせるたびに起こるシーツの音、鼓動で、内容がまったくわからなかった。聞こえない、と首を横に振ったのに、伊佐奈は華をかき回しながら喋り続けた。
「自分以外の生き物はみんな嫌いだ、特にヒトは、女は、ぶよぶよして、べとべとして、生温くて、気持ち悪い、吐き気がした、いつも」
背を曲げて、顔を覗き込んでくる。華は必死に首に腕を回してしがみついた。いつの間にかぼろぼろと涙をこぼしていた目尻を、大きな舌が優しく拭っていく。大丈夫だと言うように。
「……なんでお前は、違うんだろな、華」
ずる、と指が出て行った。中にいた時には異物感があったのに、なくなってみれば喪失感があった。ひくついたところから、とろとろと体液が流れているのが自分でわかった。
「なに、いさな、なんていったの、」
「ぜってえ、教えねえ、」
荒い呼吸に胸を上下させて、それでも気になって無理矢理言葉を絞り出したのに、伊佐奈は目を細めるだけで答えてはくれなかった。どろどろになった指をシーツになすって(その白く泡立ったどろどろの正体が何であるか華はできるだけ考えないようにした)、黒いスーツのジャケットを引き寄せる。ポケットの中に手を突っ込んで、小さなビニールのパッケージを取り出した。四角くて、薄くて、丸い形が浮き上がっている。
「……持ってたんだ、」
「無きゃできねえだろが、高校中退したいのか」
ぴっと破ったビニールのかけらが、ひらりと華の胸の上に落ちた。くしゃくしゃと音がするのを、やはりそれを見ることはできずに、視線をそらしたまま胸の上のゴミを払った。
「外出ないのに、どうやって買ったの」
「企業秘密、……使用期限内だからな、言っとくが」
「ないと思って持ってきたけど、いらなかったね」
典子にもらった銀色の小さな缶は、ユニットバスを出てすぐのところに転がっているはずの、カバンに入ったままだ。何の気も無く華が言うと、伊佐奈の動きがぴたりととまった。
「持ってきたって、何を、」
改めて聞き返されると恥ずかしい。話の流れでわかってよ、と華は八つ当たり気味に考えて、もごもごと口ごもった。
「そ、それ、」
「あ?」
「だ、だからっ、コ、っそれ、いま無いとできないって言ったの伊佐奈じゃない、」
やけになって早口で、しかし全て言い終わらないうちに、ぐっと痛いほど太腿を掴まれて、それから何かがぱちんとはじけた。そうとしか表現できなかった。声も出せずに、熱い、とただ思ったときには、もう伊佐奈の性器がぐりぐりと華の肉を押し分けて入ってきていた。一拍遅れて、鋭い痛みがやって来た。
「いっ、いたいっ、いたいよっ」
「っ、がんばれ、がまんしろ、」
は、は、と息を詰めた伊佐奈は涙の浮かんだ華を押さえつけて、とんでもなく誠意のない言葉を吐きながらぐいぐいと腰を押し付けてきた。驚いてきゅうきゅうと締まる身体を、それでも男を受け入れようと必死に緩めた。侵入者は、とん、と恥骨をぶつけて止まった。なかなか入らなくて苦労したとか、あんまりにも痛くて途中でやめてもらったとか、ちゃんと入ったらなんだか感動したとか、クラスメイトたちにあれこれ聞かされた話とはあまりに違った交接だった。
「な、何?なに?」
「お前男の部屋に弁当と避妊具持って来るとかどんな鴨ネギだ、」
「わ、悪いっ!?」
「悪くねえからこんなんなってんだろが、」
身体を揺すられて、ひ、と声が出た。熱いと痛いが混ざってじんじんした。
「お望みどおりちゃんと喰ってやるから、喜べ」
ず、と腰を引きながら言われて、返事をする余裕はまったくなかった。ずん、と再び押し込まれる。熱い。痛い。苦しい。でも、伊佐奈が見たこともない顔をしている。何度も華に身体をぶつけながら、ぐっと眉を寄せて、噛み締めた歯の奥で動物のように唸っているのを、勢いに負けてベッドの上でずり上がりながら、揺れる視界に収めた。気持ちいいんだ、とそのことに思い当たったら、ぞくぞくと全身が震えた。ずぶ、と内側を擦られて、きゅうと身体が締まる。ひりひりと痛む入り口から、自分では触れることのできない奥まで、いっぱいに身体が噛み合っている。びくびくと脚が痙攣したようになって、魚のように跳ねた。
「あァっ、あっ、あっ、」
「………………く、ぅっ」
二人分の荒い息が室内に響いた。いつの間にか窓の外は夕陽の頃で、灯りをつけていない部屋は薄暗くなっていた。身体と、感覚と、思考と、視界と、ばらばらになっていた色々な事象が、ゆっくりと治まる呼吸とともに戻ってきて、正しく認識できるようになった。その間、二人ともただ胸を上下させるだけで動かずにいた。華が閉じていた目蓋をゆっくり開けると、じっと覗き込んでいた伊佐奈と目が合った。人間の目は細いから表情が良くわからないが、大きな鯨の目が、薄暗闇の中で金色に光りながらきょろきょろと動いて、華を心配しているのだとわかった。少し笑うと、伊佐奈の表情も和らいだ。
「んん、」
そっと身体が離される。粘着質の音がした。伊佐奈は何かごそごそと動いていて、それから、ぐちょぐちょになった華の脚の間をシーツの汚れていないところで拭ってくれた。多分出血しただろうと思ったが、華には見えないようにシーツはぐるぐると丸められた。
「……あ゛ー、」
おっさんのような声を出して、どさ、と伊佐奈が華の隣に仰向けに横になった。華の肩に手を掛けてぐいぐいと引き寄せるから、華は気だるい身体を励まして、誘導に従って伊佐奈の上にうつぶせに半身を乗り上げて、汗の匂いのする薄い胸に頬を付けた。猫から人に戻った心拍数が穏やかに響いた。
「やべえ、はまる、気持ち良過ぎる」
余韻が過ぎて、あまりと言えばあまりのコメントを残されて、頬を赤らめた華は顔を伏せた。
「い、痛いから、もう、やだ」
「がんばれ、がまんしろ、すぐ慣れる、痛いのは最初だけ」
「何その適当な、誠意のかけらもない、最低な、」
囁くような言い合いは、じゃれているだけだ。ゆっくりと華の髪を梳いている伊佐奈の手つきは優しいし、行為のさなかにも労わられていないとは思わなかった。ただどうしようもない破瓜の痛みが理不尽な気がして、甘えて文句を言いたかった。
「……っぷしっ」
弁当を食べる前、華が開け放した窓から、夕暮れの冷たい風が吹き込んだ。多分今までも風は吹いていたのだろうが、抱き合うことに夢中になって気づいていなかったのだと思った。部屋の空気はずいぶん冷えていた。
「あ、ありがと、」
ぱさ、と肩に掛けられたのは伊佐奈のワイシャツだ。もう少しだらだらとくっついていたい気もしたが、また風邪を引いて今度こそ外出禁止になってしまってはいけないから、ゆっくりと身体を起こしてシャツに袖を通した。当然のことながらぶかぶかで、立ち上がったら膝くらいまではありそうだった。
「すごい、袖余りすぎ、伊佐奈ってやっぱり大っきいんだね、ひょろいけど」
「一言余計だ、」
指先からだらんと袖が垂れるのを、おもしろがってゆらゆらさせていると、恥じもせず全裸のままの伊佐奈も起き上がって、むっとしながら袖口を折り返してくれた。三回折ってちょうど良かった。
「風呂使うか、」
「うん、」
立ち上がろうと不用意に身体を動かして、ぴりりとした痛みに一度固まって、どうした?と伊佐奈が訊くのに、訊かないで!察して!と心の中で悲鳴を上げてうつむく。それでも、伊佐奈の肩に手を置いて何とか立ち上がろうとしたとき、隣の館長室から物音と声がして、二人でびくりと肩を跳ねさせた。
『どこにいる、』
サカマタだ。考えてみれば、水族館は普通に営業中だ。30分くらい弁当を食べたところで休憩の範囲内だろうが、1時間以上も姿をくらませていれば探されるのも当然だった。誰かわかれば、探されている本人の伊佐奈は何故か、なんだよ、とまた暢気にしていたが、華は気が気ではない。どうしよう、と、どうしようもないのだけれどとにかく立ち上がろうとして、足をもつれさせて伊佐奈の胸に倒れこんだ。と同時に、背後の館長室と通じているドアが開いた。
「……何をしてる、」
ワイシャツを着せてもらった華は後ろから見たらかろうじて全て隠れていただろうが、伊佐奈はどこからどう見ても素っ裸だった。ベッドの上で、伊佐奈に抱きとめられたまま、恐ろしくてとても後ろは向けないが、額に皺の寄ったサカマタの顔が目に浮かぶようだった。
「交尾。もう終わった」
堂々と言い放った伊佐奈の腹に華は思わずパンチを繰り出した。ぱちんと手のひらで受け止められた。
「そういうことは閉館後にやってもらいたい、」
「うるせえな、休憩時間の内だこのくらい、」
「アオイハナは仔を産むには早いように見えるが。危険じゃないのか?」
「余計な世話だ、種は付けてねえ、くだらねえこと言ってっと潰すぞ」
何なのこの会話、もうやめてえ、館長と館長を探しに来たbQの淡々とした会話に、華の顔は青くなって赤くなって青くなった。背を向けているからサカマタからは見えないとわかってはいたが、それでもぎゅっとワイシャツの前を掻き合わせた。
「さっ、サ、サカマタさんっ、ごっ、ごめんなさい、伊佐奈はすぐ行かせるから、先に行ってくださいっ」
かなり遠まわしな「頼むから出てけ」は、トランジエントにも通じたようだった。小さくため息が聞こえて、できるだけ早く頼む、と返事があった。こくこくと頷いた。着替えたら行く、と伊佐奈も答えて、サカマタが部屋から出て行くようだったのでほっとしたその時だった。
「あ、おいサカマタ、」
ふと顔を上げた伊佐奈がbQを呼び止めて、うつむいていた華は、がば、と顔を上げてまじまじと伊佐奈の顔を見た。華の背後でも、ばっ、という衣擦れの音が聞こえたから、出て行こうとしていたサカマタも思い切り振り返ったようだった。
「あ?なんだよ、」
「何って、今、」
サカマタさんの名前、と華が呆然と呟くと、ようやく自分が何を言ったのか気づいた伊佐奈が、ざあっと全身赤くなった。
「…………っ、ち、違っげえ!!今のは!華に!つられただけでっ、俺は別にっ」
真っ赤な顔で、唾を飛ばして、必死になって弁解を始めた伊佐奈に、ぶは、と華がふきだした。
「あっ、てめえ、笑うな!サっ、っシャチも、見てんなよ!さっさと行け!」
伊佐奈が掴んで投げつけたスラックスは、一瞬前に閉まった扉にばしんとぶつかって床に落ちた。扉の向こうから、ハッハッハッハッ、という大きな笑い声が聞こえてきて、華はもう我慢ができずにベッドに転がって笑った。笑うなって言ってんだろうが、と伊佐奈が襲い掛かってきた。ちくちくとあちこち抓られたが、痛いというよりくすぐったい。
「伊佐奈っ、ふ、ホラ、早く行かないと、く、ふふっ、みんな、待ってるよ」
言いながら、華の手は伊佐奈を押し返すのではなく、脇腹辺りをむいむいと引っ張っている伊佐奈の頭をよしよしと撫でた。
「……何でそんな嬉しそうなんだお前、」
拗ねた顔で上目遣いの伊佐奈が恨めしそうに言う。別に華は失敗した伊佐奈をあざ笑っているのではない。
「だって、幸せだから」
わけわかんねえ、とまだ赤みの残る顔で、バツが悪そうに身体を起こした伊佐奈がパンツをはいている。シャツを返そうとすると、いい、新しいの出すからお前はそれ着てろ、と言われたから素直に前のボタンを留めた。予想通り膝まで隠れる。伊佐奈が壁に掛かった、クリーニング店のビニールをかけられたシャツを取っている間、ひょこひょことベッドを降りて、ドアの前にくしゃくしゃになったスラックスを拾い、動きを止めてくったりと床に貼り付いていたコートを拾った。長いシャツの裾がひらひらと揺れた。
たとえ、華につられたのだとしても、呼び間違えだと本人は思っているのだとしても、伊佐奈が、サカマタ、と口に出して呼んだことで、どんなに時間がかかっても伊佐奈は必ず人間の姿を取り戻すだろう、と華は確信を持った。だから幸せなのだ。伊佐奈には、言うつもりはない。
「お仕事頑張って。終わったら、お弁当食べよう、待ってるから」
すばやく身支度を終えて、まだ釈然としない顔で立っている伊佐奈に、華は笑った。
「……行ってくる。湯使って、また風邪引くなよ、」
「うん。行ってらっしゃい、」
華が背伸びをして、伊佐奈は腰を屈めた。触れ合った唇は、二人、同じ温度だった。
これで「蒼井華ちゃんと伊佐奈館長のマッコウ勝負」シリーズは終りです
逢魔ヶ刻動物園を読んで
「ラブラブな伊佐華が読みたい」
「彼シャツな華ちゃんが読みたい」
「ないなら自分で書くしかない」
と欲望のままに書き始めた文章が
まさかこんなに長いシリーズになるとは思いませんでした
ここまでお付き合いいただいてありがとうございました
2011年9月9日
|