夕空にもくもくと立ち上る入道雲の下を熱風が吹きぬけて、水滴を弾いた草花がゆらゆらと揺れた。この逢魔ヶ刻動物園で唯一の、――まともな姿をした――人間、飼育員の蒼井華が、からからとホースリールを引っ張って、花壇に水をやっている。

「ありがとう、ゴリコン君!」

 ホースが絡まっていたのをそっと直すと、すぐに気づいてこちらを振り返った。とっさに声が出ず、ただ照れて頭をかくゴリラコングに合わせるように、華もただにっこり笑って手を大きく振った。ホースが揺れて、きらきらと飛沫が散った。綺麗だった。

 そのまま、なかなか言うことを聞かない長いホースを扱うのを手伝って、二人で夕刻の水まきを終えた。二人、と自分で思っておいて、自嘲の笑みが浮かんだ。ゴリラコングは、人ではない。

「助かっちゃった」

 えへへ、と笑う華の額、頬、首筋、鎖骨、と汗の玉が滑り落ちている。体毛の薄い、人間の皮膚だ。暑さで桃色に染まっていて、つう、と落ちた汗の一滴が、鎖骨の間のくぼみからタンクトップの中へ消えていって、何となく目をそらした。また草花が揺れている。

「花壇、作ったのは自分ですから」
「綺麗に咲いたよね!園長にはニンジン植えろなんて言われたけど、ゴリコン君と頑張ってよかった」

 園長、椎名の増え続けるコレクションは、園内に異様な雰囲気を醸し出していた。歯止めをかけるため、空いたスペースを何かもっと無難なもので埋めてしまおう、と提案したのは華だ。予算はない。早朝の園内で、伸びっぱなしの雑草の中、青い花が揺れていた。花壇はどうですか、気がついたら口に出していた。食べられない、面白くもない、乗り気でない仲間たちの中、華と二人で、山から岩を掘り出し、海岸で流木を拾って、花壇を組んだ。落ち葉で腐葉土を作り、華が自腹で購入した安価な種をまいた。夏が来て、花の盛りが来れば、もう面白くないという者もなく、咲き誇る夏の花を皆が口々に褒めた。複雑に組み上がった岩と、飾りのようでいながらきちんと土を区切っている流木を見て、ゴリコンは器用だ、と誰かが言った。ゴリラコングは答えた、自分は不器用だと。

「おしろいばな、クレオメ、サルビア、ひまわり、パンジー、コリウス」

 華の口から出てくる草花の名は、歌のようだ。人間がつけた草の名前はなかなか覚えられなかったけれど、忘れてしまったと言えば華が何度でも教えてくれた、その声を聞くのが好きだった。日に焼けた、ゴリラコングの目にはすぐに折れてしまいそうなほど儚く見える小さな手が、たっぷりと水滴を含んだ花弁を悪戯につつく。自分も真似ようとして、慌てて手を引っ込めた。力が違いすぎる。触れるのは、恐ろしい。

「これで慣れたら、秋まきはもうちょっと育てるの難しい花にも挑戦してみたいね。何がいいかな、大きな花壇だから、ルピナスとか、あ、あのね、うさぎのしっぽって名前の植物があるんだよ!園長に内緒で、種まいちゃおうか、」

 あの日の朝、視界の端で揺れていた青い花、――華によるとそれは露草というらしいが――それが脳裏をよぎった。

「あおいはなが、」
「はいっ!?」

 名を呼ばれたと思ったのか、華が驚いて振り返ったのにゴリラコングは笑う。

「自分は、青い花が咲くのが、いいと思います」

 さっと華の頬が赤く染まった。照れくさそうに笑うのを、ぎゅっと胸を押さえて見た。幸福と、寂しさと、多分これは「切ない」というのだ。

「ハナちゃん、ゴリコン、少し休憩したら?」

 閉園時間を過ぎても残暑の厳しい中の作業を心配して、ウワバミが自販機コーナーから声をかけてきた。華が手を上げて今行くと答えた。そちらに向かって歩きながら、頬を染めて、秋まきの青い花だったら、とまた唇から歌がこぼれ落ちてくる。

「ニゲラ、ネモフィラ、忘れな草、それからあ、ええと」

 名前を聞いただけではそれがどんな花なのかはわからない。けれど、きっと素朴でもはっとするような美しい花が咲くのだろうと思った。どんな構成にしましょうか、とそれぞれ草丈を聞いて、花壇の組み替えを考えた。

「ハナちゃん、すごい汗」
「髪が首にはりついて気持ち悪いよう」

 ウワバミが心配するのは主に人間の華で、ゴリコンは一緒にいたから呼ばれただけのおまけだ。そうあるべきだと思う。動物たちの中にいて、厚い皮膚も、たくさんの体毛も、立派な骨格も、頑丈な爪も、何も持たない華は見ていると恐ろしい気さえしてくる。

「髪、ちょっとまとめたら?私みたいに」
「私もそうしたいんだけど、この長さだとうまくまとめられないんだよね、夏までに伸ばすか切るかしたらよかった」

 自販機コーナーには簡単な机と椅子が置いてあって、木陰になっている。そこに腰掛けて、タオルで汗を拭いたり、氷の入った飲料を運んだり、ウワバミが華に何かと構っているのをぼんやりと見ていた。もう用もないのだから立ち去ればいいのだ。けれど、正直な脚は、もう少し一緒にいたいと動かない。

「さっき、ハナちゃんが見せてくれた雑誌に、すごくかわいい髪形載ってたじゃない。ハナちゃんと同じくらいの長さの髪じゃなかった?」
「えっ、そんなのあったっけ?どれどれ」

 すぐそばの、よく華とウワバミと大上が作戦会議をしている小屋から華が雑誌を取ってきた。小さな机の上で額を寄せ合って、人間の娘とヘビの雌が、夏のトレンドファッションをチェックしている。

「あ、これよ、これ」
「えっ、わあ、かわいいけど」

 これ、パーティードレスの広告だね、と呟きが落ちて、ちらり、とゴリラコングも視線をやった。見開きで、ベージュの透ける布を何枚も重ねたワンピースを着た、ウワバミの外見年齢と同じくらいの女性が、大きな建物の入り口らしい白い石造りの階段に佇み、まるで誰かに呼び止められているように少し振り向いている写真だった。華とは違う海岸の砂のような色合いの髪が、細かな房に分けて編み込まれ、髪自体がまるで装飾品のようだった。サーモンピンクの小さな薔薇がところどころ、髪と一緒に編まれていた。

「確かにすっきりしそうだけど、私こんなことできないよ〜」

 情けなさそうに笑う、黒い髪が揺れている。華ならば、薔薇ではなく、もっと花弁の少ない花が似合う気がした。髪もあまり細かく分けすぎずに柔らかくまとめた方がいい。

「自分、多分できると思うッス」

 そう思ったときには、もう口から言葉がこぼれ落ちていた。ぱっと振り向いた華とウワバミに凝視されて、おかしなことを言い出すのではなかった、と思ったが、もう後の祭りだ。こういうところが不器用なのだと思った。

「ほんと!?この編み込み、ゴリコン君できるの?」

 わくわくと目を輝かせた反応が悪いものではなくて、内心で安堵のため息をつき、同時に頷いた。

「ちょうど花もありますから、やりましょうか」
「おねがいします!」

 花壇の花もしおれれば摘み取るのだ。少しくらい早く切ったところで、咎める者もいない。ゴリラコングは花壇へ行って、パンジーの青みの強いものばかりを選んで何本か摘んだ。ウワバミもわくわくした顔を隠そうともせず、さっきジュースを飲んだ紙コップを洗って水を汲み、摘んできた花をそこへ入れた。

「これが櫛で、ゴムはこれね、あと、ピン」

 華がポーチから道具を出して机に並べた。椅子に座って背を向けられている。壊れ物を扱うように恐る恐る櫛で梳けば、日光を浴びて痛んだ髪は少しひっかかった。痛まないように、ゆっくりと梳いた。動物の被毛とは違う、人間の髪だった。

「髪が痛んでて、ぼさぼさで恥ずかしい」

 そんなことはない、とどうしたら白々しくならず上手く言えるのか、と黙り込んでいるうちに、ウワバミが、ハナちゃんが働き者の証拠じゃないの、恥ずかしがることなんてないわ、とフォローした。何も言えない自分こそ恥ずべきだと思った。

 髪を梳いていくとさらさらとすべるようになって、普段は隠されて、日焼けもしていない白いうなじがのぞいた。そしてゴリラコングは打たれたような衝撃を受けた。華とウワバミから見たら、ただ、ちょっと手を止めたようにしか見えなかったろうが。

 白いうなじに、歯型がついていた。動物のものではない。動物のものなら良かった。それなら、園の誰かが、ふざけて、あるいは何かのトラブルで、ちょっと甘咬みしたくらいのことだろうから。赤く点々と残っていたのは、人間の咬み痕だった。乱暴なものではない。一部だけ、甘えるように、少し。自分で噛める場所ではないから、もちろん華ではない誰かが、華の真っ白な肌に歯を当てたのだ。

「ゴリコン君?」

 機嫌のよい華がふにゃっと笑って、どうしたの?と首を捻って見上げてくる。それにただ、いえ、と曖昧に笑って答えて、櫛を置くと髪を小さな束にした。

 華がもう、人間の男とつがいになっているのを知っていた。無骨な指の間を、黒い髪がくすぐるように通り抜けた。細い首にぽつぽつとつけられた、赤く小さなくぼみ。ゴリラコングの手は、この首を簡単にへし折ってしまえるほどの力を持っているのだ。

「きつくないッスか?」
「ううん、全然!」

 細心の注意を払って、それでも不安で、編み込みを始めた毛束を持ってそっと訊ねた。花をさしたコップから水を少し指先につけて、ほつれた毛をまとめながら編んでいった。あらわになったうなじの歯形を、濃い紫の大きな花で隠した。

「あんた、本当に器用よねえ」

 冠のように編まれていく髪と花とを眺めて、いっそ呆れたようにウワバミが言うのに、緩く首を振った。

 華が人間とつがいになっているのは良いことなのだ。思いを伝えてどうする、ゴリラコングは人間ではない。華を見て胸をときめかせているのも魔力で変身しているからで、園長の呪いが解けて変身しないただのゴリラになれば、そんな思いも消えるかもしれない。

 一方で、言ってしまえという声がする。束の間でいい、ただ今を楽しみたいのだと、器用に感情を操って、

「……できました」
「首が涼しいよ!パンジーの匂いがする」

 柔らかく編みこんだ髪をゴムとピンでアップにして、留めた部分はひらひらと蝶が飛ぶようなパンジーの花で隠れている。普段は目にすることのできない華奢な首筋が涼しげに際立っている。

「すごく可愛いわよ、写真通りじゃなくてちょっとアレンジしたのがハナちゃんに似合ってる」

 ポーチから手鏡を出して、華が歓声を上げた。

「すごいすごい!このままパーティーでも出られそう!ゴリコン君、ありがとう」

 自分がこの髪を編んだのだから、可愛いと言うのは自画自賛のような、しかし可愛いのは華なのだから、自画自賛といえば驕りが過ぎるという気もした。結局しばらくの沈黙の後に、喜んでもらえて嬉しいッス、と一言返すのがやっとだった。

 きゃあきゃあと賑やかな華とウワバミの向こうで、夕日が傾き始めていた。満足に物も言えないゴリラコングの指の代わりに華の上にとどまったパンジーの花は、厳しい残暑の中で既にもうくったりと力を失っていた。華のうなじに歯形をつけた人間は、男は、この、蝶を纏いつかせたような、編み込みの冠をのせた可憐な彼女の姿を見ることはできないのだ、と、そんなことを思うしかできない自分の心を、しおれた花と一緒に華が摘み取ってくれたらいいのに、と考えた。

「ゴリコン君はほんとに器用だね」
「……いえ、自分、不器用ですから、」

 うつむいて華に答えたとき、最後に一輪余ったパンジーの花が、ゴリラコングの手のひらの中で握りつぶされた。






水族館編のゴリコン君はとても格好良いと思います。
華ちゃんのお相手はご想像にお任せ、
と言いたいけれど書いているのが私では一人しかいない
2011年7月15日