餌、動物園の面々の食事を、満載した木箱は重い。朝晩それを運ぶという自分の仕事について、華は不満を持ったことはない。むしろ、自分が皆のためにできることとして、喜んでやっている。ただ事実として、木箱は重い。
「よ、い、しょっ、と、」
腰をやれば一生付き合うことになる、気をつけろ、と部活で何度も指導されていたのが、部活にはほとんど顔を出すことができなくなった今、役に立っている。学校で教えられることには無駄はないと、大人が子供に言うことを聞かせるための方便だと冷ややかに思っていた言葉が、意外に真実なのではないかと最近、思い始めている。
動物園で働くうち、重いものを運ぶのにはこつがあって、一度それを身体が覚えてしまえば、運ぶことは苦ではないと分かった。若いうちはねえ、と言って苦笑のような表情を見せたのは、ヤツドキサーカスの中村だったかもしれない。十六歳の華はいま、重い木箱を危なげなく運んでいるが、これが、十七、二十、二十五歳となったら、どうだろうか。
「わ、……っ、」
考えながら運んでいた木箱の、荷重が急になくなって華はふらふらとよろけた。
「そこまで運べばいいんかよ、」
華がしっかりと抱えていた木箱を取り上げて、立っているのは、シシドのはずだ。小柄な身体に、力を誇示するように大きな木箱を高く上げて持っているものだから顔が見えない。華は少し笑って、それから顔から笑みを消した。
「シシド君、私の仕事なんだから、私がやるよ」
「言ってる間に運んだほうが早え」
ふらふらよろよろと、前が見えないままシシドが歩き出して、木箱の中の野菜や果物がどさどさと崩れた。華は慌ててシシドの肩に手を置き、前の見えないライオンに代わって方向を教えた。近くなった距離に若いオスライオンは頬を染めてそっぽを向いた。わかりやすい自分への好意を、好ましく思わないでいるのは、華には難しいことだった。
「シシド君、ほんとに、ひとつだけでもありがたいよ、後は私がやるからさ、お仕事とらないで欲しいんだ。ね?」
野菜、果物の後は、シシドも食べる肉の箱だ。それをも運ぼうとするシシドに、華はやんわりと声をかけたが、シシドはぱっと腕を振って華を振り払った。シシドの手は華の胸に当たって柔らかく跳ね返り、華は思わず赤面した。シシドは気づいていないようだった。
「うっせ、そんなに何か運びてえなら、これ持ってろ」
爪をしまった手を、苛立ったようにごそごそとたてがみの隙間にしのばせる。暴れん坊の毛並みはいつも乱れていて、ぼさぼさのその中から、ぽろぽろと紅と白のぼんぼりが転がり落ちた。華はしゃがんでかき集めた。千日紅の花だ。
「シシド君、これ、」
「人間のメスは、肉とかより、そゆのが好きなんだろ」
シシドはいつから華に渡そうと隠し持っていたのだろうか。園内で千日紅が植わっているのは、ヤツドキサーカスのテントが張ってある、広場の裏の花壇だ。殺風景だった園内に、種をまいて花を育てたのは華だから、よく知っている。いつの間に摘んだのか、緑だったはずの葉はしおれて黒ずんで、茎はよれて折れ曲がっていた。かさかさとした花弁だけが、鮮やかな色を保っていた。華はそっとそっと茎を寄せて、ひとつに束ねた。くたくたのちいさな花束を、胸の前で持った。その姿を見てシシドはようやく満足そうな顔を見せた。
「よし、飼育員はそれを持って、俺はこれを持つ、問題ねえ」
そんな必要はないのに、勢い良く頭の上まで木箱を持ち上げて、肉片がいくつか飛び出した。シシドはただ、華にいいところを見せようと必死だった。そんな姿を愛おしいと思わずにいることはできなかった。
今は無邪気な弟のようなシシドも、人間とは生きる時間が違う。華が、十七、二十、二十五歳となる頃は、どうだろうか。
朝から空はどんよりと暗く、冷たい秋雨が降り続いている。気温はぐっと下がって肌寒かったが、昨夜遅くまで読書に熱中し、いつもより十五分も遅く起きてしまった華は、バス停まで走ってきたから、頬を上気させて息を切らしていた。走るのに夢中でいくつも水溜りを踏み、白のソックスとスカートはじっとりと濡れ、点々と泥の染みがついている。
「すみません、」
畳んだ傘の先が斜め前に立っていた他校の女子生徒の脚に触れ、舌打ちされて慌てて頭を下げた。制服のウールのスカートは湿気で膨らみプリーツが取れかかりはじめ、湿った靴はじくじくと靴下を浸食している。バスが揺れるたび、触れる他人の肩はやっぱり湿っていて、透ける生ぬるい体温が気持ち悪かった。寒さを感じる外気とは裏腹に、詰められるだけ人間を詰め込んだバスは熱気がこもって湿気で窓は曇っていた。苛立ちとともにため息と舌打ちで満ちていた。
ぎゅうぎゅうと押され押し返ししながら、華はようやく落ち着ける立ち位置で吊革に掴まって、むっと人いきれの濃い車内できゅっと目を閉じた。十一月、ケニアのサバンナにも雨が降っている。草原いちめん、黄金色にそよぐはずの枯れ草はくったりと濡れて頭を垂れ、土の匂いがする。動物達はそれぞれ雨を避けてじっとしている。サバンナの王者、ライオンも、大きな木の陰の暗がりに身を寄せている。重なり合う葉も防ぎきらなかった雨の雫で風格のあるたてがみは濡れそぼり、それでも百獣の王らしく、うつむいたりせずくっと頭を上げて、銀の雨粒で紗の掛かったようなサバンナをじっと見据えている。周りには群のメスたちが集まって寄り添っている…………
湿った髪がひとすじ頬にはりついて、華はぴっと指で払った。ぱちりとひらいた目が一瞬、薄暗い車内で夜行性の動物のようにちかりと光ったけれど、周囲の誰も、華も、気づきはしなかった。
「めっずらしー、ハナが動物に関係ない本読んでる、」
雨は降り続き、暗い教室には蛍光灯が灯されている昼休み、昼食をなおざりに詰め込んで、読みかけの新書を開いた華に典子が声をかけた。華はもちろん自分が読んでいる本がどんな内容か知っていたが、友人の声につられたように何となく手に持った本の表紙を見た。
魔法、魔術、呪術、呪い、あの夏休みが過ぎて、華が図書館で反応する言葉は少し増えた。今読んでいるのは中世ヨーロッパの魔女などの文化に関する本で、中盤を過ぎ、華でも聞いたことのある、魔女狩りの歴史について多くのページを割いて語られていた。華は千日紅の押し花を貼ったしおりを挟んだ。
「魔女?……まさか、魔女になって動物と会話できるようになる、とか」
「あはは、できたらいいねえ、」
典子の軽口に華も乗って、笑って見せた。逢魔ヶ刻動物園で働き始めた日から、魔女ではなくても、ソロモン王の指輪もなくても、動物と話はできた。けれど口にしたら頭がおかしくなったと思われるだろう。動物に関係のない本を読んでいる、と訝しがられるのは予想済みで、魔女が儀式に使う動物のことが知りたかったの、と用意しておいた答えを披露すれば、典子は、やっぱり動物絡みか、とすぐに追及をやめた。誤魔化すことばかりが上手くなることに、内心でため息をついた。華の読書を邪魔しないようにと気を遣ってくれたのか、典子はもうそれ以上何も言わず、隣の席でかちかちと携帯を操作しだした。それを横目で見てから、再び本を開いた。しおりから千日紅の小さな花弁がはらりと落ちた。魔女の長い迫害の歴史、華は、魔女の呪いの儀式の部分だけを読んで図書館に返すつもりだったのだけれど、とある一文を目にしたら、すぐには返せなくなってしまった。何度もそこを読んだ。
授業が終わり動物園に着く頃になっても雨はまだ降り続いていて、このまま明日まで降るだろうと動物達は言った。日が落ちると震えるほど寒くなった。仕事を終え、会議も済ませ、夜になってライオンの檻に忍び込んだ華は、夕方自分が取り替えた、乾いた藁の中に座っていた。膝元には、今夜は姿を変えられなかったシシドが、湿気で少ししんなりとなったたてがみで人間の弱い身体を暖めるように、寝そべって華の膝にあごを乗せていた。園内の常夜灯に照らされた銀の雨粒が美しかった。
「『全て獣と寝る者は必ず死刑に処される』、」
男でも女でも、獣姦を行なった者を魔女とし、処刑した、その根拠になったという聖書の一文を、雨音に紛れて暗誦した。何度も読んだその文を口に出すのは初めてだったが、どこか恐ろしくて華はふるりと震えた。華自身の耳にも聞こえないほどのかすかな声だったけれど、人間の何倍もの聴力のあるライオンは物音を聞き取って、ゆっくりと頭を上げた。暗い檻の中で肉食獣の目が光った。
ぐぅ、と大きなな獣の喉が鳴った。変身後の動物達と頻繁に話しているせいか、最近の華は皆が何を言っているのか、変身前の喋ることのできない姿でも、およそわかるようになっていた。変身後に答え合わせをしてみても、大きく読み違うことは滅多になかった。
「ううん、何も言ってない。シシド君、離れたら寒いよ」
夕食に十分に満足できる量の生肉を食べ、自分の縄張りに華を引っ張り込み、満たされた顔でゆったりとくつろぎながら、何だって?、と鷹揚に尋ねたライオンのたてがみを柔らかく引っ張る。口を開けば吐く息は白く、被毛に覆われたしなやかな黄金の身体と距離ができれば肌に触れる空気は冷たかった。そっと接触をねだれば、シシドは額を華の胸にすり寄せた。頭をこすり付けるのは、ライオンの好意の表現であると知っていた。知識と経験の両方から。
「かゆいところ、ある?」
返礼として華は、人間で言えばうなじの部分から、頭にかけて、掻くように撫でた。自分では脚も舌も届かないところを掻いて毛づくろいしてやるのは、ライオンに限らず、ほぼ全ての動物への好意の示し方だ。「普通の」動物園の動物とは違ってしょっちゅうブラッシングもしているから、特に今かゆいところなどは無さそうだったが、嬉しそうに身をくねらせたシシドは華の手を更に要求し、鼻面で胸のふくらみの辺りをぐいぐいと押した。じゃれている程度のつもりなのだろうが、体重が二百キログラム近くもあり、シマウマでも咥えて引き摺ることのできるような獣にそんなことをされて華が受け止めきれるはずもなく、敷き藁の中へばさりと倒れた。シシドのつんつんとしたヒゲも乾いた藁の感触も、華にはくすぐったくてくすくすと笑った。シシドは前肢で華の胸の辺りを跨いで、不思議そうに覗き込んできた。暗闇の中で夜行性の獣の目がちかりと瞬いた。白いまつげに縁取られた琥珀の瞳は、生きること、死ぬこと、その孤独を知っている。吸い込まれそうだと華は思った。人間の男にこんな目はできない。
どんなに華が綺麗に掃除をして、清潔な藁を運び込んでも、雨の湿気を吸った藁は檻の中で埃のような泥のような匂いがした。シシドの身体からも濃い獣の匂いがした。鼻腔一杯に満ちれば、心臓は早鐘を打った。鋭い牙を持つ口が、白い作業服をそっと咥えて恐る恐る引っ張る。服が邪魔なのだけれど、破ってしまえば後で華から雷が落ちるとわかっているのだ。口元にそっと触れれば牙は離れた。変身していないシシドにボタンは外せない。華は微笑って見せて、それから自分の手で作業服のボタンを外し、ベルトを緩めた。
ライオンには発情期はない。適齢期のオスと、子供のいないメスがいれば、子供ができるまで発情するのだ。夏を過ぎて、華というメスを得たシシドは発情した。けれどライオンのシシドと、人間の華との間に、子供は生まれない。
下着まで、全ての服を脱ぎ捨てた華は、寒さに震えて、再び藁の中へばさりと戻った。へその辺りを、骨にこびりついた肉を掻き取ることもできるざりざりした舌が、柔らかな白い肌を傷つけないようにそっと撫でる。鳥肌が立ちうぶ毛がふくらんだ肌に、ねっとりと唾液が絡む感触に華は震えた。
シシドと身体を交わした回数は片手の指に余るほどで、それでも今まではいつもシシドは変身していて、本来の姿のままこうするのは初めてだった。変身後のシシドの男性器は人間のものと変わらず、性交も人間のものと変わらなかった(と言っても華には比較する対象がなかったから、知識と照らし合わせてそうだろうと予測しただけだったが)。けれど本当の姿のシシドは、ライオンは、人間とは身体の大きさが違うのはもちろんのこと、図鑑によれば他のネコ科の動物と同じように、男性器には突起がついていて、それでメスの体内を引っかくことで排卵を促す。さらに、挿入から射精までの時間は短いけれど、それを数十回繰り返すのだ。華に相当の苦痛があるだろうということは予想できた。それでも、拒絶するということは頭に浮かばなかった。
華は自分から、藁の中に両手と膝を着いて獣の姿勢をとった。シシドは後ろから覆いかぶさってきて、けれど、弱い人間の華を気遣うことを知っていて、決して体重はかけなかった。
「シシド君、好きだよ」
華の背中にシシドの湿った鼻面が押し付けられて、熱い息が掛かった。人間と獣が交わることが罪なら、続けていればいつか罰が下るだろうか。呪われるだろうか。華は本当は、何も残らない未来が華とシシドにやってくる前に、人間なんかやめてしまいたかった。
2011年11月12日
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