その話を雲雀さんが聞いてしまったのは、まったく偶然と言うよりほかにありません。
ずいぶんと風が冷たくなって、秋も終りに近づいた日のことです。見回り中の雲雀さんは、2年A組の教室の前を通り掛りました。他の教室よりも、ほんのちょっとだけ、ゆっくりと歩いてしまうのは、誰にも言えない秘密です。帰る生徒、部活へ向かう生徒、出入りの多い扉は開け放たれて、教室の中が見えました。雲雀さんは、「風紀を取り締まるために」教室の中をのぞきます。ちらり――
「明日は『いいツナ』の日なのなー」
日直でしょうか、沢田綱吉が小さな背をいっぱいに伸ばして、黒板を消しています。ぴょんぴょんと飛び跳ねている手から、さりげなく黒板消しを取り上げて、長身の山本武が手の届かないところを拭いてやりながら、そんなことを言っているのが聞こえました。
「なにそれ、」
呆れたように笑いながら、でも沢田も嫌な風ではなさそうです。獄寺隼人も胡散臭げにしながら、『いいツナ』の日というのがなんなのか、山本の言葉を待っています。山本は、黒板の、今日の日付を指差しました。
「今日11月26日だろー。明日は27日でツナの日じゃね?11月だから、『いいツナ』の日!」
なぜか自慢するように、黒板消しを手にはめたままの山本は、にっと笑いました。いつもなら彼の言葉にはぎゃんぎゃんと噛み付く獄寺は、沢田に関することだからでしょうか、表情はむっとしているものの、内心では「いい思い付きだ」とでも思っていそうな様子です。沢田本人はと言えば、山本の言葉の途中で言わんとすることがわかったのでしょう、あはは、と笑っています。
「ダメだよ、オレ、『いい』ツナじゃないから」
困ったように眉を下げて、薄く笑いながら、沢田がそんな風に言います。
「何言ってんだー」
山本の声と、雲雀さんの心の声がかぶりました。
そもそも、『いい』って、何でしょうか。
雲雀さんは海岸を歩いていました。
冬の海は見渡す限り、白波も見えず凪いでいて、ずっと続く砂浜には人っ子一人いやしません。秩序の守られた、いい海岸です。上機嫌で歩いていると、突然、大きな段ボール箱が打ち捨てられているのが目に入りました。
「何てこと!」
こんな秩序正しい、美しい海岸に、ゴミの不法投棄だなんて、まったくけしからぬことです。だかだかと、足を速めてダンボールに近づきます。海水に濡れて、ずいぶんみすぼらしい様子の段ボールには、なにやら文字が印刷されていました。「浅蜊水産」。
どかっ……とにかくこの廃棄物をどこかへ片付けようと、畳んでしまうために蹴りつけると、中から哀れっぽい悲鳴が聞こえました。
「ふぎゃん!」
「……中に誰かいるの、」
不審に思った雲雀さんがトンファーで段ボールをつっつくと、海水にふやけてぐずぐずになっていたところから、白い手首が慌てたように突き破って出てきました。もぞもぞ、大きな箱を揺らして、不器用に手が動いています。見かねて、雲雀さんは箱を破くのを手伝ってやりました。
「あ、ありがとうございます!」
箱を蹴飛ばされたというのに、そんな人の良いことを言って、中から転がり出てきたのは沢田綱吉でした。
「何やってんの?」
沢田は上半身は裸で、下半身には大きな魚のハリボテ(としか思えないもの)をくっつけていました。びたんびたんと波打ち際を叩く尾びれは、まるで生きているように動いていて、ちょっと不気味です。
「オレ、『いいツナ』じゃないから、捨てられちゃったんです」
すん、と鼻をすすり上げて、沢田は悲しそうに段ボール箱の「浅蜊水産」の文字を見ます。
「『いいツナ』じゃないなら、君は『悪いツナ』なの?『ツナ』が他にもいっぱいいるってこと?意味わかんない」
沢田綱吉は、この世に一人です。沢田みたいな人間がこの世に何人もいたら、雲雀さんは色々と困ってしまいます。意味がわからなくて苛々とそう口にすると、沢田が嬉しそうに「雲雀さんがオレのこと『ツナ』って言ってくれたの初めてですね!」とてんで見当違いなことを言うので、雲雀さんは手に持っていたままのトンファーで沢田をぽかりとぶちました。
「いたっ」
「『いいツナ』じゃないってどういうことなの。答えなよ、」
ぶたれたのが痛かったのか、捨てられた時のことを思い出したのか、目を潤ませてぐすぐすと鼻を鳴らしながら、しどろもどろに説明が始まりました。
「ツナって普通、缶詰に入っているでしょう」
なんと、沢田の「ツナ」という呼び名は「つなよし」の「ツナ」かと思っていたのですが、どうやらマグロの「ツナ」だったようです。沢田は、今しがた自分が飛び出してきた、段ボールの割れ目に手を突っ込むと、中から何か小さくて丸いものを取り出しました。
「これ、オレが入るはずの缶なんです」
どこからどう見ても、ごく普通のツナ缶でした。普通じゃないと言えば、中身が入っていないところくらいでしょうか。マグロのリアルなイラストが印刷されていて、「ボンゴレ印のツナ缶」と書いてあります。
「でもオレ、恐くって入れないんです」
「恐い?この小さな缶が?」
滑稽に思ったのが伝わってしまったのでしょうか、沢田がまばたきすると、ぽろりと涙の粒が落ちました。
「だって、その缶、――真っ暗で、窮屈で、冷たくって、硬いんです。そんなところに、油まみれになって入るなんて、オレには無理です」
怯えるように砂の上に投げ出した缶を、雲雀さんが手に取りました。確かに、ひんやりして、硬くって、雲雀さんの手のひらに納まる小さな缶ですから中は窮屈でしょうし、封をしたら真っ暗でしょう。油漬けになるのも、ねとねとして不快そうです。
「缶詰めが怖いツナなんて、いいツナのわけがないんです。それに、缶に入らないと日持ちしなくて、もう傷んで、あ、オレ、臭くないですか?腐った匂いとかしませんか?」
びくびくと、段ボールの中へ逆戻りしようとした沢田の腕を、雲雀さんはぎゅっと掴みました。肌は白く柔らかく、弾力があって、とても傷んでいるようには思えません。くぼんだ鎖骨に溜まった水は、弾かれて珠のようになっていますし、ちょっと痩せ過ぎの感はありますが、薄い胸の真ん中は左右ともきれいなピンク色で、裸で寒いのか、小さな粒がぷるんと立ち上がっています。
「見た目にはそんな風には見えないけれど、」
ぐっと顔を近付けて、匂いをかいでみます。つんつんの髪も、真っ白い首筋も、あばらの浮いた脇腹も、嫌な匂いなんてちっともしません。むしろ、
「おいしそうな匂い、だと思う」
「本当ですか!?」
雲雀さんの言葉に、まだ潤んでいた目を輝かせて、沢田が身を乗り出してきます。なので、胸の中心のピンク色のところを、ぺろりと舐めてみました。
「ひゃう、」
「うん、おいしいと思う」
一瞬、喜びに輝いた沢田の目は、またすぐに曇ってしまいました。どっちみち、缶に入ることができなければ、『いいツナ』ではないのです。雲雀さんは思い切って、考えていたことを口にすることにしました。
「……恐いんなら、一緒に入ろうか、缶」
恥ずかしくて、胸がどきどきします。けれど、今言わなくては、缶に入れない沢田がこのまま腐ってしまうかもしれないのです。
「い、いいんですか?」
真っ赤な顔の雲雀さんに負けないくらい、なぜか沢田も赤くなって、上目遣いに窺ってきます。雲雀さんはどきどきする胸を押さえて、こっくりと頷きました。
「二人なら、ちょっとは暖かいかもしれないし、僕もあんまり柔らかくもないけれど、缶よりは硬くないだろうし、それに、もしどうしても、君が我慢できないんだったら、中から缶を開けるのを手伝ってあげる。君一人じゃ無理でも、僕ら二人でやったらきっと缶も破れるだろ、」
嬉しい、と沢田がはにかんで笑ったので、雲雀さんもとても嬉しくなりました。
ただでさえ窮屈なボンゴレ印のツナ缶に二人で入るためには、ぎゅうっとくっつかなければいけませんでした。開けたらすぐ食べられるのがツナ缶の強みですから、雲雀さんも缶に入る前に服を脱いで、しっかり抱き合います。
「じゃ、油かけますね」
身体を寄せ合うと、沢田は段ボールの中からサラダ油の大きなびんを取り出して、自分と雲雀さんと、頭からまんべんなくかけました。腕に力をこめると、ぴったり合わせた胸がぬるぬると滑ります。
「くすぐったい、」
「思ってたより、気持ち悪くないです、油」
確かに、覚悟していた割には、そう悪くはありません。冷たかった油は二人の体温にすぐになじんで、肌を隙間なく触れ合わせる手助けをしてくれます。
「じゃあ、缶に入ろう」
「はい、」
お互いの肩の上にあごをのせて、胸をぴったりと合わせ、雲雀さんの脚で、沢田の魚の下半身を挟みます。足首の辺りに、尾びれがきゅっと巻きついています。そのまま、小さな缶の中へぎゅっと頭を突っ込むと、身体のあちこちがぬるぬると擦り合わされました。雲雀さんは、背筋がぞくぞくするのを感じました。
「あ、あ、んゃ、っ」
くすぐったがりの沢田の声が、狭いツナ缶の中で反響します。
「っあ、あ、何か、変な感じがします、」
「ん、僕、も、」
全身を缶の中におさめるために、さらにもっとぎゅっと身体を寄せると、沢田のほうも、ぎゅうっとしがみつく力を強くしました。けれど、着ているものもなく、油まみれですから、うまく雲雀さんの背中につかまることができずに、肌が何度も滑ります。びくびくと、腹筋が震えています。
「あ、あと、ちょっと、」
ぐ、と力を込めると、ずる、と全身がぬめって、二人の胸の中心が擦れ合いました。脚も滑って、腰がぎゅっとくっつきます。
「ふぁ、あ、あ、」
まぶたの裏に白い火花が散りました。
ちゅんちゅん、雀の鳴く声が聞こえてきます。爽やかな晩秋の朝です。雲雀さんは、畳の上にどっしりと敷いた自分の布団の上で目を覚ましました。真っ白な朝の光の中で、とんでもない仏頂面でした。自覚はありました。雲雀さんは何よりもまず先に、下着を替えました。
今日、11月27日は土曜日で、学校は休みでしたが、並盛の秩序を守る雲雀さんには休日なんて関係ありません。いつも通り制服を着ると、風紀を守るために出かけます。歩きながら、今朝見た夢について考えていました。結局、『いいツナ』って、何なのでしょうか。
ううん、と眉間にシワを寄せて歩いていた雲雀さんは、角を曲がってやってくる足音に気づくのが遅れました。どかっ……ばたばたと走ってきた誰かが、雲雀さんにぶつかって、雲雀さんはよろけただけでしたが、ぶつかってきた粗忽者はすっ転んで、哀れっぽい悲鳴が聞こえました。
「ふぎゃん!」
受身も取らずにべったりと倒れていたのは、雲雀さんの頭の中を昨日から、いいえそれよりもずっと以前から、占領している沢田その人でした。並中の、学校指定の体操着を着て、首からタオルをさげています。
「何やってんの?」
雲雀さんはしゃがんで、沢田と目線を合せました。あんな夢を見た雲雀さんならともかく、なぜか沢田のほうが、かあ、と顔を赤くします。
「あ、あの、オレ、朝……いやその、リボーンに、ランニングでもして来いって、放り出されて、」
冷たいアスファルトの上に座り込んだまま、要領を得ない返事が返ってきます。何か最初に言いかけたように思うのですが、何を言おうとしてやめたのでしょうか。とにかくも、道の真ん中で座り込んでいていいわけはありません。雲雀さんは、沢田の二の腕をぐっと掴みました。肌は白く柔らかく、弾力があって、もちろん服は着ていますが、夢で見たのと同じでした。
「とにかく、立ちなよ。どこか傷んでて立ち上がれないってわけじゃあ、ないだろう……変な匂いもしないし」
雲雀さんは、沢田には通じないとわかっていても、ただ夢を思い出して、冗談めかしてそんな風に言いました。ところが、その言葉を聞いた沢田は、弾かれたようにぱっと顔を上げたのです。ぱちん、と音がしそうなくらい、しっかりと視線が合いました。
「……もしかして、」
顔に熱が集まってきます。雲雀さんは、墓穴を掘っていると思いながらも、不思議な直感があって、訊かずにはいられませんでした。
「もしかして、同じ夢、見た?」
沢田は耳と首まで赤くなりましたが、雲雀さんにそれを笑う余裕はありませんでした。雲雀さんも同じくらい真っ赤でした。
「あ、あ、あの、」
休日の朝早く、真っ赤な雲雀さんと沢田は、真っ白な朝の光が降り注ぐ道の真ん中で、座り込んで見つめ合います。
「ひ、雲雀さん、一緒に入ってくれるって、」
「うん、」
「中から、一緒に壊してくれるって」
「うん、」
「それで、それでオレ、うれしいって、………………」
呆然と呟いて、それから黙ってしまった沢田の腕をもう一度つかんで、そっと立たせました。向こうから、車がやって来ます。くしっ、と沢田がくしゃみをしたので、学ランを薄い肩に羽織らせてやって、雲雀さんが歩き出すと、沢田も半ば無意識に、ふらふらとついてきました。
「……君が嬉しいって言うと、僕も嬉しいと思う」
雲雀さんも混乱していましたが、頭の中を必死にかき回して、言いたいことが伝わりそうな言葉を何とか探しました。沢田がじっと雲雀さんを見ます。だから、昨日『いいツナ』という言葉を聞いてからずっと、考えていたことを口に出すなら今だ、と思いました。
「臆病でも、どんくさくても、それが『君』なんだったら、『いいツナ』だ」
沢田は、確かに、誰にでも認められる美点がある人間というわけではありません。けれど、雲雀さんは、沢田がどんな人なのか、もう、よく知っています。臆病も、どんくささも、それが沢田を構成する一部分であるなら、必要不可欠なもので、それがあるからと言って、沢田が『悪いツナ』になるわけではないのです。
沢田は始め、よく意味がわからない様子で、ぱちぱちと何度もまばたきをして、それから何回か首をひねりました。受け取った言葉を咀嚼して、反芻してやっと、胸の中にすとんと落ちたのです。今は赤く染まった、全体的に色素の薄い顔が泣きそうに歪んで、でもふにゃっと笑って、朝の太陽に照らされて、泣き笑いの顔がぴかぴか光ります。
「……オレ、恐がりで、勉強も運動もできないけど、雲雀さんが『いいツナ』って思ってくれるんなら、これからもずっとそう思ってもらえるように、がんばり、ます、」
雲雀さんも照れくさく思いながら、笑います。思い切って手をつなぐと、沢田もきゅっと握り返してくれました。ちっちゃくて、発展途上の手。これから良いことも悪いこともいっぱいする、でも、『いい』手です。
くしゅん!沢田がまたくしゃみをしました。雲雀さんは、熱いお茶を飲むために、手をつないだまま並中の応接室へと歩き出しました。
間に合わなかったけど27日ということにさせてください。
いいツナの日!
2010年11月28日
夕凪さまがとても詩的なマグロ沢田さんと雲雀さんの絵をくださったので
図々しくも本文中に挿入させていただきました。わーいわーい!
シュールなひばつなが詩情あふれるひばつなになりました。
本当にありがとうございました。
2011年1月18日
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