「……あと、三時間くらい」

 だらん、と仰向けに、自由な左腕を投げ出して転がっている雲雀が、腹の上に掛けていた沢田のパーカーのポケットから腕時計を取り出して、ぽつん、と言う。シャワーを浴びて、タオルで適当に拭っただけの黒い髪が、小さなかたまりになっていくつも額に張り付いている。天井近くの小窓は塗りつぶされたように黒く、どこかのネオンが点滅しているのか、右下の隅が、時々思い出したように黄色に光る。

「もうそんな時間ですか、」

 雲雀の脚を枕にして、ベッドの足もとの方で、仔犬のように丸くなってまどろんでいた沢田が、それを聞いてずりずりと枕元まで這って来る。手錠で繋がれているのにも慣れてきたのか、繋がれた手首を基点に、かなり自由に動き回っている。

 ここへ来てすぐの時のような激しさはないが、くすくすと笑いあってじゃれるような、穏やかな情交は、寝たり起きたり、べたべたと何時間でも抱き合っていることができた。心地の良い満足感と、しっとりと沈むような気だるさだけが残って、シャワーを浴びた後、二人は何となく黙ったまま、だらだらごろごろとしていたのだった。雲雀は、仰向けの自分の顔を、肘をついて覗き込むようにしてきた沢田の、半乾きでぼさぼさに爆発した髪を指で梳きながら、頭を撫でた。大きな明るい色の目がうっとりと細くなる。お返しのつもりか、沢田は手錠で繋がれた雲雀の右手をひょいと取ると、輪っかを少し上へずらして、手首の赤くなってしまったところを、れろ、と舐めた。いちごのように赤い舌だった。

「……シャワー染みた?」

 苦笑のように、雲雀が訊くと、沢田も眉を下げて笑いながら、少し、と言って頷いた。そんなに、乱暴なことをしたつもりは、二人ともないのだが、角のあるプラスチックが長時間当たっていた肌は、少し皮がめくれて、お湯がかかればひりひりとし、石鹸の泡がつけばちりちりと染みた。それでも、かなり長い間、シャワールームでもじゃれていたのだが。

「何日かは、痕が残るかもね。」

 心なしか済まなさそうに雲雀が言うと、しかし沢田は、嬉しそうな顔で頷いた。手首に赤く残った輪っかの痕は、5月5日、間違いなく、自分の24時間をプレゼントした、その証拠だと思ったからだった。今度は雲雀も苦笑いではなく笑って、沢田の手首の痕を、舐めようとした。が。

 かしゃん、と、明らかに人為的な何か、ものが壊れるような音が階下から響いた。

「……っ、!」

 その途端、まるで砂糖の粉でも漂っていたような、甘ったるく爛れていた室内の空気が一変した。雲雀も、沢田も、何も言わなかった。ただ、顔を上げて、視線を交わした、それだけで、同時に立ち上がって、下着とズボンを身につけると、裸足の足を靴にねじ込んで、足音どころか、衣擦れの音すらほとんど立てずに、部屋の戸を開けてその裏にはりついた。照明を消す。そうしてしまうと、沢田の目にはほとんど何も見えないが、雲雀の目は肉食獣の目だ。廊下の遠くの非常口の明かり、事務所の窓の外から入り込む向かいのビルのネオンサイン、そういったわずかな明かりで、室内を見渡してしまう。沢田は足手まといにならないように、手錠の手を雲雀とぎゅっと繋いだ。階段を上る足音は複数、身体を使うことに関しては素人に近いようで、ばたばたと鳴り響いている。階段を上りきった店の入り口で少し、伺うようにしてから、暗い中でも迷わずに事務所へ入っていく。雲雀の索敵は速く、正確である。ここにいるのは五人。それから、ビルの外に二人。

「経営者と従業員、だろうね」

 吐息に近い声で雲雀が囁くと、沢田がはっと顔を上げた。

「金目のものは全て回収したと思ってたけど。……隠してたのか、それとも、大事な顧客名簿でもあるのか、」

 繋いだ手が少し汗ばんでいる。見上げる目はまっすぐで、緊張しているのか、深くて甘い色をきらきら光らせて、雲雀を見ている。

「何が目当てにしろ、僕の敵じゃないけど」

 つまらない、と軽くため息をついて、それでも、金目のものの隠し場所があるなら、見届けてから咬み殺して横取り、顧客名簿なら不穏分子のチェックにも使えるし、と段取りをつける。それにしても、侵入までに、しばらくは、外から様子を伺っていたはずである。

「侵入された挙句に、物音がするまで気づかないなんて、色ボケしたかな」

 まだ乾かない髪をかき上げながら、誰に聞かせるでもなくぼやくように言うと、暗闇に視力を慣らすようにぱっちりと目を見開いて、光の少ない空気を透かすように見ていた沢田が、小さな、かすれた声で、何かを言った。

「………………っとで…………った……に、」

 え?と雲雀が訊き返す。沢田はそれには答えず、ぼっ、と、額と両手にいきなり炎を灯した。死ぬ気丸も小言弾もなしに、である。辺りが皓々と照らされて、雲雀は面食らった。気づかれる。

「あとちょっとで、雲雀さんと二人きりの一日だったのに!」

 事務所に居た全員が、びくりとしてこちらを見るほどの大音声で叫んだ沢田は、そのまま、握った手で雲雀を引っ張るようにして、侵入者の前に躍り出た。

「さわだ?」

 あっけにとられて、手を引かれるまま、つんのめるように飛び出した雲雀は、揺らめく橙色の炎に照らされた、沢田の顔を伺い見た。

「人の恋路を邪魔するやつは……」

 普段より心もち低い、静かでも通る声が、静まり返った事務所に響く。目がイッてしまっている。さっき雲雀を見上げてきたとき、やけに目が光っているように見え、緊張のせいかと思ったのだが、どうやら、怒りと興奮のためだったようである。

「馬に蹴られて死ね!!」

 ご、と沢田の右手から、炎が打ち出される。本気であれば、このビルを消失させることもできるはずであるが、目の前のスチールの事務机を、上に乗ったデスクトップPCごと5mほど吹き飛ばしただけだったので、あ、まだ理性は残ってるな、と雲雀は思った。それとも、繋いだままの左手を、逆噴射のために離すのが嫌だったからなのかもしれないが。

「ぐ……っ」

 どっちみち、いまどき珍しいブラウン管モニタを鳩尾に食らった挙句、事務机の下敷きになって、おそらく、今日食べたものを全部戻していると思われる、レスラー風の男には、今のが相当な手心を加えた攻撃であるということは、関係の無いことだろう。

「何だお前ら、どこから入った!?」

 部屋のあちこちに散らばっていた男たちが、二人を取り囲むように集まってくる。雲雀は身体を反転させて、沢田と背中合わせになった。もちろん、繋いだ手は離さない。

「沢田の言い分には、概ね同意するけど……」

 スラックスに仕込んだ、予備のトンファーを1つだけ、しゃきん、と取り出して左手に構え、紫の炎を灯す。沢田に先にキレられて機会を逸したが、雲雀だってこの無粋な邪魔者には充分、腹を立てているのだ。

「ガキじゃねぇか!」

 個性のかけらも無い、侵入者たちの怒声にうんざりする。はあ、とため息をつく。

「けど、馬はいただけない。」

 つかみ掛かってきた禿げたデブを一人、倒した沢田(一瞬だったが、雲雀の耳は確かに、三発分の打撃音を聞いた。拳→膝→肘、だ。)が、なぜ?と言う。背中を向けているので見えないが、首をかしげているのだろう。

「跳ね馬を思い出す。」

 言いながら、残った三人のうち、二人の後ろに隠れるようにしながら、懐から銃を取り出した経営者を見て、雲雀はにたり、と地獄の門番のような顔で笑う。

「セクハラ……」

 ああ、と言う沢田は若干疲れた声である。キャバッローネの跳ね馬、綱吉と恭弥の兄貴分(自称)、ディーノは、雲雀の誕生日に先がけて、誕生日プレゼントを送ってきた。わざわざ沢田家へ電話を掛けてきて、二人で誕生日に使えよ、使うときは写真を撮ってオレに送ってくれ、と言うので(この時点で雲雀は少し、嫌な予感がしたが)沢田の部屋へ持ってきて開封したところ、おそろいのデザインの、黒とピンクのすけすけベビードールが一着ずつ、薔薇のポプリと一緒に入っていた。二人はすぐさま中身を庭で燃やし、空き箱には隙間無くカメムシを詰めて(沢田の発案で雲雀が風紀の下っ端にやらせた)イタリアへ送り返した。今、沢田家の電話も、雲雀の携帯も、ディーノから電話がかかってくると、自動的に般若心経のCDを流すように細工がしてある。それを思い出すと、雲雀は言うのである。じゃあ何て言えばいいんだ?、超死ぬ気モードの沢田は、さっきとは逆の方へ首をかしげた。






2009年8月8日