随分と日は長くなったが、18時を過ぎればもう暗い。

 塀の外から見上げる沢田の部屋は明りが消えている。食事時にかぶってしまったようだ。気にせず雲雀は塀を足がかりに2階まで上がった。窓の鍵は開いている。沢田が、いつ雲雀が来てもいいように、開けておいてくれている。だからいつも、沢田の部屋へ入る時には、唇の端が上がるのをとめられない。中に入ると、靴を脱いで窓のさんに置いた。窓は靴の幅だけ開けっ放しになる。風が気持ちよい夕方だ。窓の下に、土産として持ってきた伊藤製菓舗の紙袋を置いた。

 ぼふん、とベッドに転がると、沢田の匂いがした。枕に頭を乗せる。いつものシャンプーと、アメやジュースの香料の、甘い匂い。人工的な強い香りは、ただの匂いとしてはまったく雲雀の好みではないけれど、それに関わる沢田の記憶があると、いいにおい、と思うのが不思議だった。もそもそと枕に頭を乗せると、気が緩んであくびが出る。沢田が戻ってくるまで寝ていよう、と思った。目を閉じれば、眠りは簡単にやってくる。

 ぺらり、と紙がめくれる音で、雲雀の意識は覚醒した。ん、と鼻から息を抜くと、目が覚めましたか?と優しい声で聞かれた……ものすごく近くで。仰向けに寝そべった身体の、右側が暖かい。首をねじって見ると、沢田が、ぴったり寄り添ってうつぶせに寝転がり、絵本を開いていた。

「ちょっと寒かったから、何か掛けようと思ったんですけど、パーカーくらいしかなくて。身体の下の掛け布団取ったら、雲雀さん起きちゃうだろうし……」

 言って、沢田は照れたように笑う。

「そう。暖かかったよ、ありがとう……起こしてくれても良かったのに」

 枕もとの目覚ましは20時を過ぎているから、二時間近く寝ていたことになる。夕食がそう長引くとも思えないし、少なく見積もっても丸一時間はこうしていたはずだ。

「雲雀さん、毎日風紀の仕事で疲れてるし、それに、あの、雲雀さんに、くっついてるの、嬉しいし……」

 雲雀は寝返りを打つと、がば、と沢田に抱きついた。ふわふわ揺れる髪の中に顔をつっこんで、頭のてっぺんにぐりぐりとあごを擦り付けると、沢田がきゃあきゃあと笑う。くっついて嬉しいと笑う。自分が好きな人が、自分を好きだというのは、こんなに、幸せなことだ。

 ベッドの上でじゃれ付くうちに、硬いものが指に触れた。手にとって確かめる。雲雀が目覚めたとき、沢田が開いていた本だった。

「絵本なんて、珍しいね。」

 装丁は古く、傷だらけの本で、沢田がちいさな頃の本だとしてもあんまりな気がしたが、裏表紙に「なな」と書いてあるのを見て納得した。沢田の母親がちいさな頃の本。

「ゆうべ、イーピンとランボにせがまれて読んだんですけど、二人とも途中で寝ちゃって、でもオレ、何か続きが気になって、持って来ちゃったんです。」

 ぱらぱらとめくる手つきもまなざしも優しい。そうやって、子供たちに絵本を読んで寝かしつけている沢田を想像したら、雲雀は何だか居ても立ってもいられないような気持ちになった。

「僕にも読んで。」

 口にしてから、雲雀は、自分にこんな甘えた声が出せたのかと驚いた。沢田も、もともと大きな目をさらに大きくして雲雀を見たので、少し恥ずかしくなったが、沢田は別にからかったりはせず、くすぐったそうに笑って、でもオレ読むの下手なんです、と言った。

「あの子らには読んでるんでしょ」

 どうせならと開き直って、さらにねだると、変でも笑わないでくださいね?と少し不安そうに言ってから、沢田は最初のページを開いた。雲雀はわくわくして、沢田にぴったりくっついて同じようにうつぶせになると、必要以上に頭を近づけて本を覗き込んだ。茶色の髪がもさもさと頬をくすぐるのが気持ちいい。

シャムの王さまには、はじめ、ふたりのお姫さまがありました。

 イギリスの文豪、サマセット・モームが、唯一書き残したその童話は、絵本と言うにはいささか長く、確かに、沢田家のあの二人の子供には、最後まで起きているのは難しいだろう、と思わせた。沢田も自分で言うように、朗読はあまり上手くなく、つっかえつっかえ、ゆっくり読むものだから、よけいに時間がかかる。ただ、雲雀は、眠る前のひと時を過ごす小さな子供ではなく、沢田とお付き合いしている恋人なので、どちらかといえば、こういう時間は長引くほど嬉しい。

 沢田は、沢田自身のことを、策略のような頭脳労働はできないし、肉体労働のほうも、死ぬ気にならなければなにもできない、いざというときに雲雀を守る自信もない、だめな恋人だと時々言うけれど、雲雀は、こういう時にこそ、沢田に守られていると感じる。穏やかな声を聞いていると、ちいさな子供のように甘えたくなるし、それが自分には許されているのだと思える。暴力沙汰は、雲雀が得意なのだから、別に沢田が得意でなくたっていいのだ。

 雲雀は、沢田の隣で、腹を出して寝る飼い猫のようにくつろいでいたが、階下の廊下から階段を駆け上がってくる足音と泣き声を聞くと、常態に戻った。それに気づいた沢田も、絵本の朗読を中断する。

「ぶわあああああああああ!!づなああああああああああ!!」

 鼻水をたらしてびゃあびゃあと泣く、もじゃ毛の仔牛が乱入してくる。短い両手を振り回して、雲雀には全く意味のわからないわめき声をあげているのだけれど、驚いたことに、ベッドから立ち上がった沢田には何を言っているのかわかったようで、はいはい、イーピンがどうしたって?と言いながら、もじゃ毛の仔牛を抱き上げた。仔牛の手のひらが、沢田の服の胸の辺りを、ぎゅうっと掴む。

 沢田に甘えることが許されているのは、何も雲雀ばかりではないのだった。

「雲雀さん、すみません、ちょっとこいつ、なだめてきますから」

 のっそりと起き上がった雲雀を振り返って、沢田は、胸に顔を押し付けて泣いている仔牛を抱えたまま、部屋を出て行ってしまう。雲雀は、ため息をついた。ベッドの上の絵本は、小さなお姫様が、仲良くなった小鳥を自分だけのものにしておきたくて、鳥かごに閉じ込めてしまう場面で、止まっている。

……九月姫はいいました。「かごにいれたのは、おまえが大すきだからじゃないの。おまえのためになることは、わたしのほうが、よくわかっているのよ。……

 雲雀だって、別に、365日24時間、片時も離れずに沢田のそばにいたいだなんて、思っているわけではないのだけれど。好きだから、独占したいと思うことだって、あるのだ。雲雀は窓際に置いたままのパウンドケーキを手に取ると、その白い紙袋に、勉強机の上に放り出してあった油性マジックで書き置きを残して、窓から出て行った。

『5/5は 一日 空けておいて』






2009年5月29日