大晦日の1
真っ暗な部屋の明かりをつけた。雲雀の時間感覚では朝になっているはずだ。地下に暮らしていることを一番実感する時である。真夜中に一度取り替えたシーツは適当に広げたものだからくしゃくしゃで、その真ん中で獣のつがいが巣ごもりでもするように丸くなって眠っていたのだ。
「ん、」
まぶた越しにでも照明が眩しかったのか、沢田が少し眉を寄せて皺だらけのシーツに顔を押し付ける。顔にかかった髪をさらりと撫でてよけてやって、それからベッドを降りた。照明は再び消して、扉を少し開けておいた。
身支度を整えて、洗濯機を回し、キッチンでごそごそしていると、ぬぼん、と沢田が顔を出した。目が死んでいる。手洗いに消えた隙に、冷蔵庫から発掘した焼酎のお供らしいレモン果汁とどこかのホテルの朝食で出されたらしい小さなハチミツのパックで温かいハチミツレモンをつくる。
「熱いよ、」
ぼんやりした沢田に手渡すと、やはり喉が渇いていたのか、ふうふうと吹きながらこくこくと飲み干した。ん、とカップをつき返されたのを、笑いを堪えきれずに受け取る。
「まだ寝る?」
もう半分閉じたまぶたで、こっくりと頷くと、沢田は再びよろよろと寝室へ消えた。しかし雲雀がしたように扉は全て閉めずに少しだけ開いている。隙間から、間違って冬眠から覚めてしまった熊のような様子で、もそもそと布団へもぐりこむのを見守って、雲雀はくっくっと笑った。
沢田が「ちゃんと」起きてきたのは、午後三時も近くなってからのことである。昨夜聞いた予定では今日は部屋を片付けると言っていたが、雲雀が代わりに片付けるわけにもいかないので、暇に任せて昨日の土鍋を片付け水周りの汚れを落とし、部屋の隅に注連飾りや真空パックの鏡餅など迎春用品が詰まった段ボールを発見し、それらを配置していたところだった。
「おはよう。よく眠れたかい、」
「……ぁようざいまふ」
顔を洗って洗面所から戻ってきた沢田が、ぼんやりしながらも、何か綺麗になってる、と言うので、掃除したことを告げて恐縮されても面倒だと思った雲雀は、気の所為でしょ、と誤魔化した。今度は濃いミルクティを渡してやると、ソファに座ってこくこくと飲み始めた。カフェインが効いてきたのか、半開きだった目が次第にはっきりしてきた。
「……オレ、ちょっと前にはちみつれもん飲んだ気がするんですけど、夢?」
「夢じゃないよ、あんなに寝ぼけてたのに味覚があったんだね」
ぶ、と吹き出しながら雲雀が答えれば、沢田が照れて笑う。下がった目尻に唇で触れると、その唇に唇が返ってきた。
「目が覚めて、部屋に雲雀さんがいるなんて夢みたいだなー、なんて」
「調子のいいこと言ってんじゃないよ」
ぐずぐずに崩れた顔で言っても意味がないことは百も承知でツッコミをいれた。そんなことを言われると、もらったばかりの合鍵を来年はたくさん使おうと思ってしまう。
「変な時間だけど、何か食べる、」
「ちょっと摘みたいです。何かあったかなぁ、あ、雲雀さんはご飯は?」
「昨日の残りを頂いたよ。残念ながら、一人分で終り」
ミルクティのカップを洗う雲雀の横で、半ば頭を突っ込むように冷蔵庫を覗き込んだ沢田がごそごそしている。
「あ、この食パンそろそろやばい、牛乳も、……フレンチトーストにしよう」
食パン、牛乳、卵、マーガリン、ボウルをカウンターに並べて、ラム酒あったかなー、と今度は酒類の入っている戸棚に頭を突っ込む。
「香り付け?」
「うちのフレンチトースト、ラムレーズン入れるんです。ないからラム酒で気分だけでも、と思って、……あ、あった、つまみ用のレーズンもあるなぁ、どうせなら作っとこうかな」
沢田家と奈々を思い出す。確かに、手作りの保存食品の類があの家にはたくさんあって、しかもそれを活用したメニューがよく出されていた。学生の頃、二階の窓から沢田の部屋を訪ねたときに、ラムレーズンやアーモンドスライスがたっぷり入ったパウンドケーキや蒸しパンを何度か相伴した記憶もあった。味は申し分なかったが雲雀には少々酒の香りが強くて、飲んべの家系だ、と遠い目になったのでよく覚えていた。
ボウルに卵を割り入れ、牛乳を注いでラム酒を垂らし(雲雀の目には「垂らす」というレベルの量ではないように見えたが)、箸で適当にかき回したところへ四等分した食パンを浸す。2口のコンロで片方にフライパン、片方にやかんを置いて、フライパンにはマーガリンを落として火をつけ、やかんでは湯を沸かした。
「ヨーグルトに入れてもおいしいんですよね、」
ばり、と貰い物らしいつまみ用の高そうなレーズンの袋を開いて沢田が言うが、雲雀には火を通さないラムレーズンはハードルが高すぎる。よって同意はしない。わかっている彼はそれ以上言うこともなく、ざらざらと取り出したレーズンをざるに並べて、やかんの湯をざっとかけた。キッチンにレーズンの匂いが立ち上る。蓋をしたフライパンの中ではフレンチトーストが蒸し焼きにされていた。
「確かこのへんにジャムの空き瓶が、」
沢田がこういう男なので贈答品は圧倒的に食品が多いようだ。実家にも分けているようだが、子供たちもそれぞれ独立した今、消費量はそんなに多くもなく、独身男の部屋にイギリス王室御用達のジャムや紅茶や、有機農法の砂糖やしょうゆなどが溜まっているのだった。ごそごそと取り出した空き瓶はチップトリーのリトルスカーレットで、きっとその中身が入っていたときにはスコーンでも焼いていたのに違いない、と思った。
一度フライパンの蓋を開けてトーストをひっくり返してから、沢田はキッチンペーパーでレーズンの水気を軽く切っては瓶の中に入れた。元がつまみ用なので量も多くはなく、瓶の六分目あたりですぐに終わった。そこへラム酒をどばどばと注ぎ入れ、蓋をすると冷蔵庫へ入れた。
「……ラムレーズンって、それだけなの?」
「そうなんですよ、レーズンとラムだけです。漬かったら適当に使って、レーズンもラム酒も適当に補充すればずっと使えますよ」
雲雀にとっては何の役にもたたない知識がまた一つ増えた。おそらく一生使うこともないと思うが脳の中に書きとめておく。子供の頃は、生きることと戦うことに必要な知識以外は得るだけ無駄だと思っていた。けれど沢田と一緒に過ごすことは生きることにも戦うことにも不要なことの連続で、今の雲雀は無駄なことを楽しいと思っている。
濃厚なラム酒の香りをさせてフレンチトーストが焼きあがった。これもまたどこぞのカフェででも貰ってきたのか、女性に受けそうな横文字の洒落たロゴの入った小さな紙パックを破って、皿に盛ったトーストにぱらぱらとグラニュー糖を振った沢田が、一口大に切り分けたこんがりきつね色をフォークに刺して雲雀の鼻先に突きつけた。
「雲雀さん、はい、あーん」
火を通したとはいえじゃぼじゃぼとラム酒の入ったフレンチトーストなど食べられない、と思ったが、あーんと言われると反射的に口を開けてしまう。砂糖は振り掛けてあるもののみで甘さは控えめ、香りも良く、上手に焼きあがってはいるが、やはりもぐもぐと咀嚼するうちにすぐ頬が熱くなった。
「酒を入れすぎなんだよ、君のは」
「だって赤くなった雲雀さんって可愛いから」
頬骨の上にちゅっちゅっと音をさせて唇を落とされて、狙ってやったのか、とため息をついた。
「夕方には奈々さんのところに顔を出すんだろう、」
こんな赤い顔では行き辛い、と抗議しても沢田はどこ吹く風で、いくらなんでもこのくらいのアルコールすぐに醒めますよ、そうでなくても母さんはオレが無理に飲ませたんだろうって怒るくらいです、と笑っていたので、雲雀は腹を立てて、焼きたてのフレンチトーストがすっかり冷めてしまうくらいの時間をかけて沢田の唇を自分の唇で塞いでやった。
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