授業が終わって部活もたけなわの夕方五時、夏至も過ぎたばかりなら、日没までは随分時間があって、暑いほどの日差しが降り注いでいる。窓を大きく開け放した応接室は、踊る白いカーテンと一緒に、紙が揺れて擦れる音、そして室内だというのになぜか葉ずれの音などがして、賑やかだ。
「雲雀さぁん、買出し行ってきましたぁ」
 扉の向こうから、綱吉が甘えた声を出す。書類に目を通してはいたが、あまり身の入っていなかった雲雀は、笑いながら席を立って戸を開けてやる。
「お疲れ、」
 エコバッグ代わりの、並中の校章を染め抜いた風呂敷を両手に提げて、だらだら汗をかいた綱吉が入ってくる。首にタオルをかけているが、両手がふさがっているので意味がない。
「これ、どこに置きましょう?」
「いいよ、とりあえず、床に置いちゃえば」
 買い物は重いものが多く、手のひらは真っ赤になっている。うんしょと荷物を下ろす綱吉の首のタオルを取って、顔や首を拭う。少々乱暴な手つきにまぶたと唇を閉じて、なされるがままむーむーと唸っている様子は、小さな子供のようだ。浮き上がった汗の珠を全て取って、それでもまだぎゅうっと目と口をつむっている可愛い子の額に、ふわ、と唇をつける。
「あ、あれ?」
 なんかいまタオルじゃないものが触ったような、とおでこを擦る綱吉に顔を寄せ、今度は唇と唇をつけた。開いたままの大きな瞳に、夕方になりかけた斜めの光線が刺し込んで、きらきらと光っている。「金銀砂子」だ、と思いながら唇を食みあう。瞬きをすると、お互いのまつ毛がぱさぱさとすれ違う。

 風が強く吹き込んで青い葉と色とりどりの紙細工をいっそう大きく揺らし、二人は笑いながら離れた。笹の葉と、短冊と、不器用な紙細工。今日は七月七日、新暦だが、七夕だ。応接室には、天井に少し擦るくらいの笹竹が三本立てかけられていて、そこには飾りが吊り下げられている。雲雀が「沢田は七夕に何をお願いするの」と訊き、綱吉が「特に何も……笹もないし。ランボたちは何かやってるみたいですけど」と答えたのが三日前の話である。翌日には沢田家と応接室に大量の笹が運び込まれ、綱吉は雲雀に色紙とハサミを渡された。が、何しろ、お互いがいれば他には何もいらないというバカのつくカップルの二人なので、願い事もそうそうない。見回りの報告などに訪れる風紀委員や、山本や獄寺、綱吉の友人達にも色々と書いてもらって、ようやく七夕らしい笹になった。やたら凝っているUFOの飾りは、七夕の夜こそ宇宙人と交信するチャンス!という獄寺の渾身の作である。

「そうめんと、めんつゆと、きゅうりと、トマトと、ツナ缶!それから、」
 重い風呂敷包みを一つずつ持って、綱吉と雲雀は並んで廊下を歩く。向かうは家庭科室だ。綱吉は買ってきた物を指折り数えている。どうせ家庭科室はすぐそこだし、着いたら風呂敷を解くのだから、わざわざ説明しなくたってすぐに中身は知れるのだけれど、ただわくわくして騒ぎたいだけなのだ。
「ツナ缶?共食いじゃないの、」
 からかうように雲雀がくくっと笑えば、綱吉はぷうっと頬を膨らませる。
「オレはっ、マグロじゃありません!!オレの「つな」は綱吉の「つな」!」
 そんなセリフについつい、下世話な俗語の「マグロ」を思い浮かべてしまうのは、鬼の風紀委員長と言えども少々夏の暑さにやられているのか。
「……うん、確かにマグロじゃないね、最近は。」
 にやにやと、何かを含むように言われた綱吉が、え?と一瞬考えて、それから思い当たることがあったのか、膨らませた頬をさらに真っ赤に染めて、ぷんすか怒る。
「なっ、違っ、誰がそーゆー話をしてるんですか!」
「「そーゆー」って、どういう話?」
 雲雀は、怒らせているのは自分の癖に、暑い中湯気を出してきゃんきゃんと喚いている綱吉を、可愛いなぁ、などと、やっぱり暑さにやられたようなことを考えている。

「こんにちはぁ」
 がらっと家庭科室の扉を開けると、ぴしりとアイロンのかかった純白の三角巾とエプロンの眩しい、家庭科部部長が、腰を直角に曲げるお辞儀で出迎えた。
「お、おま、お待ちしてましたっ」
 事前に草壁に声をかけてもらっていた。「群れている」と咬み殺されてはたまらない、とでも思ったのか、部長一人、うだるような暑さの中だというのに顔色は悪く、声は上擦ってかたかたと震えている。それには敢えて気づかない振りをして、綱吉以外の人間の前では途端に無愛想になってしまう雲雀をよそに、綱吉がにこにこと声をかける。
「部活の邪魔しちゃってごめんなさい。お鍋とか包丁とか、場所もちょっと貸してください」
「は、はいっ」
 話しかけているのは全校生徒からダメツナと言われている綱吉なのに、先輩のはずの家庭科部部長は動揺しているのか敬語だ。「とらのいをかるきつね(漢字はわからない)」ってやつ?と綱吉は内心で苦笑する。人見知りを発動して、うつむいて風呂敷を解く作業に専念している雲雀は無言だ。
「今日は部員の人はもう帰っちゃったんですか?」
 雲雀が喋らないことと、綱吉が雲雀に怯えている様子もなくにこにこしていることに、次第に緊張がほぐれてきたのか、家庭科部の部長もとりあえず震えは止まったようで、そうめんを茹でる大きな鍋を用意してくれる。
「ううん、被服室で、浴衣、作ってます」
 被服室の作業台いっぱいに浴衣の布を広げて、きゃいきゃいと縫っているところを想像してみた。そこから一人抜け出して風紀委員長の相手をするなんて、災難と言うよりほかない、と綱吉は申し訳なくなった。三角巾など持っていないので、首から下げていたタオルを頭に巻きつけて縛る。大鍋いっぱいの水を火にかけておいて、洗い桶にごろごろときゅうりを出した。部長がピーラーを出してくれたので、ありがたく拝借する。

 しゅうっと鮮やかな緑の皮を縞模様に剥いて、左手は猫の手に丸めて、とすん、とすん、と、決して早くはないけれど、丁寧に切る。
「……慣れてるね、」
 驚いたように部長が言うのに、綱吉は遠い目になる。
「皮むき一つにも命がけで挑まなきゃいけない恐怖の家庭教師がいるもので……」
 ははは、と乾いた笑いを交えた言葉に家庭科部部長は疑問符を浮かべながらも、トマトを手際よく洗ってくれる。
「おうちでやってるの?うちに欲しい人材だわ」
 怯えの消えた先輩の口調に熱がこもる。男子部員獲得は文化部では目の色の変わる話題である。並中の家庭科部は、当然と言えば当然、男子部員はいなかったはずだ。綱吉だって、家でポイズンと銃弾に怯えながら料理や掃除や裁縫を習うより、可愛らしい女子の先輩に指導してもらう方が、どれだけましか知れない。それに、部活をするようになれば、委員会に精を出す雲雀と時間をあわせて、一緒に帰る機会も今より増えるかもしれない。包丁を置いて、うーん、と家庭科部への入部を真剣に検討してみる。
「体験入部、あるのよ」
 綱吉の態度を見て望みがあると思ったのか、部長も嬉しそうに誘いをかけてくる。
「それって、」
「だめ。」
 今学期中でもできるんですか、と訊こうとした綱吉を遮って、さっきから口を閉ざして、綱吉が切ったきゅうりを端からすくって、ツナと一緒にドレッシングであえる作業をしていた雲雀が、後ろからぎゅっと抱き着いてきながら、きっぱりと言った。
「わ、雲雀さん、」
 瞬時に、かちーん、と固まってしまった家庭科部部長が哀れだ。
「女子ばっかの部活なんて、絶対だめ。」
 むっとして、ぎゅうぎゅうと腕を強めて、絶対に許さない、と首を振る。
「ただでさえ、沢田は女子に弱いんだから、」
 確かに、そんなことは絶対にない、と言い切れはしないが、ひどい言い草である。
「遊びに行こうって言ってんじゃないんですよ、部活を見学したいって話をしてんですよ、だいたい、オレと疑われたんじゃあ、家庭科部の人たちがかわいそうです」
 呆れてたしなめても、雲雀は、だめだめ、沢田は自分のことがわかってない、などと綱吉には寝言としか思えないようなことを言いながらまとわりついてくる。
「ひーばーりさんっ、暑いですっ、離してください」
「だめ、家庭科部には絶対入らないって約束しなきゃ離れない」
 危ないので包丁は遠ざけて、くっついてもぞもぞしていたら、怯えていた家庭科部部長は一転、弾けるように笑い出した。
「ごめん、笑っちゃって、仲良いんだね。残念だけど、沢田君の家庭科部入部はあきらめるわ」
 赤面するしかない綱吉をよそに、そう、僕ら仲良いんだよ、と雲雀はご機嫌である。汗ばんだ肌が触れ合ってもちっとも不快に思わない、そんな気持ちで、綱吉に何を弁解できただろう。
「……今日、これから、外で流しそうめんやるんですけど、良かったら来てください、他の部員さんも」
「群れないようにね。」
 赤い顔でうなだれて、貴重な部活動の時間と場所を借りたお礼に誘いをかければ、家庭科部の部長は、群れないようにって一人ずつ?流しそうめんを?微妙ね、という内心などおくびにも出さず、にっこり笑った。
「ありがとう、行かせてもらうわ」
「笹と短冊もありますよ」
「短冊、書いてもいいの?もともと七夕って、お裁縫が上達するようにお願いするものなのよね、嬉しいわ」
 大きな鍋を洗って拭いて、茹で上がったそうめんとツナとトマトときゅうりのサラダ、それに風呂敷包みを抱えると、家庭科室を後にした。部長にはもう最初の怯えはかけらも見えず、扉の前で笑いながら手を振って見送ってくれた。

「雲雀さんのせいで笑われましたっ」
 廊下を歩く綱吉は、ぷう、とほっぺたを膨らませては見せるが、本気で怒っているわけではない。
「君が女子にふらふらしてるからいけない」
 そんなことを言う雲雀も、本気で糾弾しているわけではない。単なるじゃれあいだ。
「あ、野球部走ってる」
 少しでも暑さを逃がそうと全て開け放たれた廊下の窓から、規則正しい野太い掛け声が響く。泥だらけの練習着の集団の中に山本もいるはずなのだが、残念ながらここからでは綱吉にはわからない。短冊を書いてもらうときに、山本にもそうめん食べに来てと声をかけたが、果たして野球部が群れずに来るなんてことが可能なのだろうか。水分補給にと麦茶は大量に沸かしたし、そうめんも、今ボウルを抱えている雲雀の手の、関節が真っ白に浮き上がっているほどには重い。
「山本、来られるかな」
「さあね。野球部で群れて来たら咬み殺すけど」
 ふと、野球部の集団の中から、走りながら手を振っているものがいることに気づいた。いったいどんな視力をしているのだか、どう考えても山本だ。ツナサラダの入ったボウルで両手のふさがっている綱吉は、手を振り返せない。
「がんばってー!」
 とりあえず、綱吉に出せるかぎり一番大きな声で窓に向かって怒鳴ると、グラウンドから「おおー!」と返事があった。何故か、山本一人分だけではないようだった。首を傾げる。
「……だから君は気が多いって言うんだ」
 今度は割合本気の声で、拗ねたように雲雀が呟くのには取り合わない。だってこれは男の友情なのだ。






2010年8月31日