昇降口で靴に履き替えて、校庭へ出る。一階の、職員室のちょうど前辺り、水飲みや潅水につかう水道と、排水のU字溝がある。そこに、この暑い中、学ランを着込んだリーゼントが何人か、ごそごそしている。
「草壁さあん!」
 ひときわ長身の影に向かって、綱吉が声をかける。
「委員長、沢田さん、」
 首にかけたタオルで汗を拭いながら、目に眩しい青さをたたえた立派な竹を抱えた草壁と数人の風紀委員とが振り返る。
「お疲れ様です!ぬるくなっちゃったかもしれないけど、これ」
 風呂敷包みから出てきたスポーツドリンクの500mlペットボトルに学ランたちがわらわらと群がった。炎天下の中、そうめんを流すために、半分に割った竹を斜めに据える土台を作ってくれていたのだ。ちゃんと、そうめんを流す高いところを水道に近く、終点の低いところは、排水溝の上にくるように作ってある。気が利く草壁らしい作りだ。
「オレたちは一度これ、そこの日影において、笹持ってきます……あっ先生」
 綱吉が開け放された職員室の窓へ駆け寄った。ちょうど窓の近くにいる担任の姿を見つけたからである。綱吉にとって職員室は校内の近づきたくない場所ナンバーワンで、怒られたりいびられたりしたことしかない担任も苦手だが、これから始める楽しいことにばかり気を取られていて、今日はちっとも気にならない。
「そこの植え込みの木に、七夕の笹、2mくらいなんですけど、ちょっと立てかけてもいいですか?木は折ったりしませんから」
 何かまた、一言二言、嫌味くらいは言われるかと覚悟していた綱吉が拍子抜けすることに、どこか顔色の悪い担任は黙ったままこくこくと頷いた。暑い日が続いているし、具合でも悪いのだろうか、と首を傾げる。
「なにさぼってるの」
「ぅわっ」
 首を傾げたまま職員室の窓の前にたたずんでいると、背後から、首にかけたタオルで頭を包み込まれて、ぐしゃぐしゃとかき回された。もちろん雲雀だ。
「さぼってないですよ、職員室の前で騒ぐんだから、先生にも言っとかないと」
「僕がいいって言ってる、」
「またそんなこと言って、」
 言葉だけ聞けば言い争っているようだが、綱吉の頭をかき回している雲雀の手つきはトンファーを握っている姿を思い出せないほど優しいし、綱吉はされるがままになって、そのまま額や首の汗を拭ってもらっている。愛玩犬の手入れのようで、空気はどこか甘ったるい。雲雀の唇がタオル越しに綱吉の頭のてっぺんに触れて、頭ぼさぼさになるからやめてくださいよ、とちっとも不満そうではない声がくすくすと笑いながら抗議したところで、
「ああ、わかったから、好きにしなさい、もう行きなさい!」
 顔色が青を通り越して土気色になった2-Aの担任は悲鳴のように言って手を振った。教え子は、ちょっと早い気がするけれど夏バテだろうか、などと的外れなことを考えた。
「先生もよかったら、流しそうめん食べにきてください」
 なにしろ上機嫌の綱吉は、普段なら積極的に遠ざけたい担任にだってこんな言葉もかけられる。自分の頭の上で雲雀が、邪魔するな、とにらみを利かせているなど、思いつきもしない。愛想良く笑って背を向けた。

「薬味は?」
 まぶしい西日の差す廊下を2人で並んで歩きながら、雲雀は綱吉を伺うように訪ねてくる。
「チューブのわさびと、白すりゴマです。青じそは、黒くなっちゃうと思って買いませんでした」
「沢田、わさび平気なの?」
 お子様味覚そうなのに意外、と驚く雲雀にむくれて見せる。
「どーせお子様味覚ですよ!苦手です!雲雀さんは好きそうだと思って、買ったんじゃないですか」
 そんなに僕のこと好きなの、とかなんとか、きっとからかわれるだろうと身構えていたのに、えへへ、とくすぐったそうに笑った雲雀ははにかんでいるだけだったので、綱吉も照れてしまった。窓から聞こえてくる運動部の掛け声だとか、遠くの教室から聞こえてくる群れているらしい女生徒の笑い声だとか、そういった物音以外には静かな廊下を、夕日のようにまっかになって歩く。

 3m近い笹を、2人がかりで横にして運ぶ。3本をまとめて、何も言わなかったが重いからだろう、雲雀が根元の方を担当してくれた。しかし、先端の方は確かに軽いが、わさわさと枝分かれしているものだから、つまようじほどの枝の先や青々と茂った葉がこしょこしょと腕やら脇やら胸やら、歩みを進めるたびに綱吉をくすぐって、どうしても笑い出してしまう。
「もしゃもしゃするっ、う、っひゃひゃ」
「何ひとりで大騒ぎしてるの、さっきから」
 きゃあきゃあと1人楽しそうな綱吉に呆れているようで、実は雲雀も笑っている。2人が歩いている廊下の、ほんの数メートル前方の扉から、ぴーちくとさえずる女子生徒が数人、群れながら出てきた。綱吉には見覚えのある、同学年の女子だ。雲雀に気づきぎょっとして足を止めたが、風紀委員長のすぐ後ろに、A組の沢田綱吉も一緒にいることに気づくと、ほっとしたようにおしゃべりを再開してすれ違って行った。先ほど綱吉の担任が顔が土気色になるほどうろたえたように、教師の中でそのことを知っている者はまだほとんどいないのだが、生徒の間では、この2人が仲が良く、またそれが友情ではなく恋愛感情である、ということが、2年の生徒を中心に知られ始めていて、綱吉といる時の雲雀は安全だ(綱吉しか見ていないから)、と特に女子生徒が、密かに噂しているのである。
「あの、これ、落ちてたけど」
 今すれ違って行った女生徒のうちの1人が戻ってきて、綱吉におずおずと紙細工を差し出した。
「あ、ありがとう!」
 紐が解けて笹から落ちてしまった折り紙のちょうちんを受け取って、にっこり笑う。テンションが高くなっている綱吉は、学校では滅多に見せない満面の笑みを見せる。桃色に染まったすべすべの頬がふにゃんと崩れて、至近距離でばっちり見てしまった女生徒が顔を赤らめる。またたらしてる!と雲雀は無言のままいちいち腹を立てる。もやもやと黒いものが立ち上って、女生徒が慌てて逃げてゆく。苦労が多いのは果たして雲雀か綱吉か。

 首タオルをねじりはちまきにしてやたらと嬉しそうな綱吉が、そうめんを入れたボウルと菜ばしを構えて、そんな遠い距離でもないのに元気に声を張り上げる。
「じゃ、いきますよ!」
 少し離れて、めんつゆの入った応接室の備品のカップと割り箸をもった雲雀が、こくこくと頷く。半分に割って節を取った青竹に、水のみ場からひっぱったホースでちょろちょろと水を流して、そこへ綱吉がそうめんを一掬い、投下した。
「おー、結構流れが速いですね」
 白いにょろにょろがほぐれながら流れていくのをわくわくしながら見守る綱吉の前で、雲雀が無駄に華麗な箸さばきで、一本も残さず掬い上げる。自分が箸を使うのが下手な綱吉は歓声を上げたが、後ろで見ていた草壁は内心、普通に取ればいいじゃあないですか、と思っている。
「草壁さんはどうですか?」
 そうめんを流すのが思いのほか楽しく、ボウルを持ったままうきうきと振り返った綱吉に、草壁が笑う。
「せっかくですから、頂きます」
「じゃ、めんつゆはそこの、そう、それです。紙コップと割り箸で……じゃあ、はい、行きますよー」
 すぱんと割られた青竹(割ったのは山本とそのバットである)の上を、さも涼しげにそうめんが滑ってゆく。草壁は、ごつい手に似合わず繊細な箸使いでそうめんを取った。
「君も食べなよ。のびるよ、そうめんが」
 居合わせた数人の風紀委員がびしっと整列してもくもくとそうめんを食べているのに、小さな子供のようにきらきらした顔で飽きずにそうめんを流し続けていた綱吉のところへ、雲雀が近寄ってきた。綱吉が今流したそうめんを、すぐ近くでさっと掬い上げて、つゆを絡めて差し出してくる。「あーん」というやつだ。水とめんつゆがぽたぽたとしたたるこんな食べ物を箸で差し出すような無作法は、普段なら雲雀自身が許さないが、今日は屋外で年中行事のお祭り気分、無礼講で良いらしい。
「えへへ、いただきます」
 ずず、と雲雀の箸から直接、そうめんをすすり上げて、また歓声を上げるのだろうと微笑ましく見守っていた草壁の前で、綱吉は盛大にむせた。
「ひっ、ひばりさんっ、これ、」
 綱吉の舌にはわさびが効きすぎていた。好きな人の前で口に入れたものを吹き出すなんて絶対に嫌だ!と必死に飲み込んでいるが、大きな目が潤んで夕日を反射して光っている。
「このくらいでそんなにむせるなんて、本当に弱いんだね」
「ひばりさん、い、いじわる、」
「鼻水でてるよ」
「みないでくださいっ」
 そうめんの供給は止まってしまった。草壁を筆頭に風紀委員達は慣れたもので、無言でめんつゆを飲み干し、そこへきゅうりとトマトとツナのサラダを取り分けて、静かに相伴する。市販のドレッシングだが、みじん切りのたまねぎが入った甘みの強いもので、トマトのほのかな酸味とマッチしている。わさびの攻撃にあえいでいる綱吉に食べさせればいいのじゃないかと思うが、もちろん、いちゃつく2人に割って入る無粋な人間など風紀委員にはいない。がさごそと割り箸と紙コップを片付け、無言のままそそくさと校庭を後にした。綱吉も雲雀も気づかない。

 傾いた太陽が次第に赤みを帯びてくる。暑さは相変わらずだが、日陰に入れば吹き抜ける風は少しは涼しい。夕暮れの校庭を抜けて、ぱらぱらとひとりずつ、家庭科部の女の子がやってくる。5人目、1年生の女の子が、小さな身体に見合った小さな小さなピンク色の唇を開けて、ちゅるる、とそうめんをすすっている。入学して3ヶ月、それでも既に風紀委員長の恐怖は身にしみているのか、最初は真っ青な顔だったけれど、そんなに緊張して食べていたら消化不良を起こすのではないか、と心配した綱吉がそうめんを流しながら子守で培ったスキルであれこれと話しかけていたら、ようやく夏の暑さが戻ったのだろう、紅潮した頬で、汗をかいている。
「もう、じゅうぶんです。ごちそうさまです。」
 サラダも食べて、家庭科部らしく、このドレッシング○○社のですね、おいしいです、なんて雑談もしていたが、ふう、と小さく満足そうなため息をついて、1年生は手を合わせた。
「おそまつさま。雲雀さんにも、言ってあげてね。この流しそうめん、企画したのは雲雀さんなんだ」
 綱吉が笑えば、ぎこちなくはあったが、女生徒は振り向いて「風紀委員長、ごちそうさまでした」と言った。綱吉がじっと見ていたので、雲雀も無視したりはせず、小さく頷いた。
「短冊、あるけど。お願い事、する?オレさっき部長さんに聞くまで知らなかったんだけど、七夕って、裁縫が上達するように願うのがもともとなんだってね。」
「織姫様は、機織りの名人だから」
 短冊ください!と嬉しそうに頷いた女生徒が、端的な説明を口にする。そういうこと!言われてみればそうだね、と綱吉が納得して短冊とペンを手渡すと、願い事を書こうとして一度手を止め、綱吉を振り返った。
「沢田先輩は、何をお願いしたんですか?」
「『さわだせんぱい』……!!雲雀さん雲雀さん、聞きました?今の!オレ先輩って言われたの初めてです!」
 部活には所属しておらず、また後輩から尊敬される人間でもない綱吉は、そんな風に呼びかけられたことがない。じーん、と感動しているつんつん頭を、ぼす、と雲雀の手がチョップする。
「すぐそうやってでれでれするんだから」
「痛いです。誤解です。……オレはね、願い事は、『世界平和』だよ」
 コントのようなやり取りを、ぽかんとして見ていた1年生は、急に話を戻されて、混乱したようにぱちぱちと瞬いた。
「えっと、世界平和、ですか、」
「うん。あのね、世界が平和だと、オレと好きな人が、ゆっくり一緒にいられるから。」
 えへへ、と笑う綱吉の後ろから雲雀がにゅっと顔を出して、ずしんと肩にあごを乗せた。
「その場合、僕が暴れたくなったら、君が相手をしてくれるの」
「……雲雀さん、短冊に、死ぬ気のオレと闘いたいって書いたでしょう」
「書いたよ。今日は持ってないの、手袋と薬」
「わ、ちょ、やめ、どこさわってるんですか、そんなとこに入ってないです!入ってないです!!」
 もぞもぞしている2人の前できょとんとしていた1年生の女生徒は、短冊にさらさらと何かを書き付けて、それを綱吉に差し出しながら、首をかしげた。
「沢田先輩の好きな人って、風紀委員長ですか?」
「そう。」
「なに勝手に答えてるんですか雲雀さん。……それはね、ご想像におまかせします」
 赤く染まった頬で、後ろから雲雀に抱きつかれながら、人差し指を唇に当ててはにかむように言った綱吉に、女生徒もふふふ、と笑った。薄桃色の短冊には『夏祭りまでにゆかたが完成しますように。あと、世界平和』と書いてある。くしゃっと顔を笑みにゆがめた綱吉が、紐で笹に結わえる。
「わたしが、最後です。先輩方、ありがとうございました」
「あ、そうなの?意外と少ないんだね、家庭科部って」
 本当は、この3倍はいるのだが、皆恐れをなして来なかったのだ。とくに1年生は、ここへ来たのはこの女生徒だけだ。しかしそんなことは言えず、曖昧に笑う。沢田先輩はとても優しいし、風紀委員長も思ったほど恐くはない。そうめんもとてもおいしかった、と帰ったら他の部員に自慢しよう、と心の中で決意した女生徒は、ぺこりと頭を下げると、橙の光が差し始めた校庭を駆けて行った。綱吉が手を振った。






2010年9月2日