3月13日は、金曜日だった。雲雀は別にキリスト教徒ではないし、縁起を気にするタイプでもない。今日が、13日の金曜日だろうと仏滅だろうと、だから何、というくらいの感想がせいぜいである。だが、いま、週末を前にすこし浮ついた雰囲気の校内を見回り、一日早いホワイトデーのあれこれを没収し、また咬み殺し、薄暗い応接室に戻って、机の上に放置された職業殺し屋である赤ん坊の伝言を記した一筆箋(薔薇の模様の透かしが入った高級なものだった)を見つけると、その彼でも、なるほど、今日は、13日の金曜日にふさわしい日になるだろう、と思った。雲雀は、一筆箋に書かれた内容を一度だけ声に出さずに読むと、くしゃくしゃに丸めて、没収した菓子を入れたゴミ袋に投げ入れた。

 すっかり日が落ちれば、春は間近と言えど風は冷たい。弱くなったり強くなったり、定まらない風が、肩にかけた学ランをはためかす。風向きによって時折、沈丁花の香りがした。居残りの練習をしていた運動部の連中も皆帰宅し、グラウンドの照明は落とされて、常夜の水銀灯が校舎の白い壁に反射するぼんやりとした明りだけが、ふわふわと校庭に落ちている。

「――赤ん坊、いるんだろう、」

 走り書きで指定された時刻になった。直接顔も見せずに、紙切れ一枚で雲雀の予定を縛れるなんて、彼くらいのものだ。体育倉庫や、植え込みの作る影、ふわふわした薄明かりの届かないそこに、あの黒ずくめの赤ん坊がいるのではないかと、問いかけを投げれば、校門の方から動く気配がした。

「え、ひ、ヒバリさん……?」

 期待は、苛立ちにとって変わった。その、変声期前の、たかい声。雲雀の意識をひっかく音だ。ただの草食動物の鳴き声に過ぎないのに、聞けば意識を持っていかれる。どうして、と呆然と呟いているが、独り言に返事をしてやる義理はなかった。他のたくさんの草食動物が鳴いていても、意味を成すものとしては聞こえないのに、この声だけは、脳につきささる。不愉快なことこの上ない。

「リボーン、どーいうことだよ!」

 きゃんきゃんと吠える。それでようやく、草食動物が、足もとに赤ん坊を伴っていることに気づいた。

「どーもこーもねーよ。修行だつったろ。ヒバリと戦え。」
「なんだよそれ!できるわけないだろ!?」

 悲鳴のような声。苛々する。

「絶対、やだからな!」

 苛々する。

「赤ん坊、」

 雲雀が呼びかけると、彼を呼んだわけではないというのに、沢田がびくりと肩を揺らした。チッという音がしてから、自分が舌打ちをしたことに気づいて、雲雀は少し驚いた。

「……君が相手をしてくれるんじゃないの。」

 するりとトンファーを出して、確かめるように握る。黒いスーツの赤ん坊に突きつけると、ひっと息を呑む音がして、沢田が見る間に蒼くなった。背を丸めて、小さな赤ん坊に縋らんばかりだ。

「俺と戦うのと、俺の弟子と戦うのと、まぁ、ほぼ同義だ。」

 雲雀が、どこが、と言うより先に、草食動物がまた吠え立てた。

「勝手なこと言うなよ!」
「うるせぇ、バカツナ。お前の意見なんぞ誰も聞いちゃいねぇ。」
「なん……ぎゃぶっ」

 赤ん坊に蹴り倒されて、あっさり地に沈む。

「これ、と、戦えって?」

 呆れて言えば、帽子のつばを下げた赤ん坊は笑ったようだった。

「ヒバリが嫌なら、仕方ない。」

 その言葉に、沢田はがばりと起き上がると、必死で言葉を継いだ。

「そ、そーだよ!ヒバリさんだって、そんなの、嫌に決まってる!」

 座り込んだまま赤ん坊に詰め寄る、沢田は一度も雲雀を見ない。肩が震えているのは、怯えているからか。色素の薄い、細い髪を、沈丁花の匂いの風が揺らす。白い耳が見え隠れする。そこも震えている。

「す、すみませんでした、ヒバリさん、すぐに、帰りますからっ」
「……ってない。」
「え?」

 ぶん、とトンファーを振る。本当に、苛々する。暴れたい。この衝動を、ぶつけたい。

「戦わないなんて、言ってない。」

 ひく、と息を止めて、ようやく雲雀の方に顔を向けた沢田は、しかしおどおどきょろきょろと視点が定まらず、構えたトンファーを見て、はためく学ランを見て、雲雀の後ろにある校舎を見た。そしてうつむいた。

「オ、オレ、いやです。ヒバリさんのこと、す、好き、なのに、拳を向けるなんて、」

 瞬間、トンファーが紫に燃え上がった。何もかも、我慢ならなくて、めまいがした。

「君、僕に、当てるつもりでいるの、」

 激昂が過ぎて、静かな口調になった。

「草食動物の、分際で、」

 どうしてこうも雲雀の心を乱すのか。

「咬み殺すよ!」

 雲雀がトンファーを振り上げたその前で、赤ん坊は銃を構えた。雲雀に向かって放たれると思った銃弾は、何故か、沢田の額に吸い込まれる。あっけにとられた一瞬で、橙の炎が大きく燃え上がった。振り下ろしたトンファーが、炎を纏った手の甲で払われる。

「ダメツナが。殺る気、見せろ。」

 映画の中のガンマンのようなわざとらしい仕草で、銃口に息を吹きかけた赤ん坊が、唇を歪めた。沢田はもう、先ほどまでとは全く違った様子で、その言葉に軽く目を細めただけで返事はせず、額と両手の炎を揺らめかせると、飛び退って間合いを取った。

 結局やるんじゃないか、とは雲雀は言わなかった。ただ、自身の炎を強くして、沢田を睨みつけた。ようやく、視線が合う。額に炎を灯した沢田は、臆することなく雲雀の視線を受ける。炎と同じ色に光る瞳は、しかし冷たそうだった。その中に、ためらっていた時のような怯えは見えない。けれど、他の感情も綺麗に隠されて、炎と言うより鉱物のような、無機質な光に見える。ぎり、と奥歯を噛み締めて、雲雀は沢田に向かって行った。

 紫の炎は闇に混じって溶け合う。橙の炎は闇を照らして浮かび上がる。

 沢田は、普段の鈍臭さを、炎の機動力で補って、夜の中にうつくしい線を引いて、躍動した。ただ、積極的な攻撃はしてこない。それに苛立って雲雀は追う。沢田がかわす。かがり火のような光を追って跳ぶ自分が、まるで惨めな羽虫のようだと雲雀は思った。

「いつまで逃げてるつもり、」

 何度打ち込んでも、沢田は向かってはこない。トンファーは何度か当てている。腹には一発、まともに入っているはずだし、がら空きなのを狙った左肩はさっきから庇っている。掠めて切り裂いたこめかみは、ちらちらと揺れる炎の明りでも、かなりの出血があるのがわかる。動作のたびに肩が大きく上下する。そろそろスタミナ切れのはずだ。それでも、炎を灯した沢田は表情ではそれを悟らせない。硬質の瞳は全く無感情で、何を思っているのか、伺う視線さえはね返す。やればやるほど、雲雀の苛立ちばかりが募る。

 それでも、身体の方は確実に反応速度が鈍くなっている。体育倉庫の屋根に上がろうか、後ろへ下がろうか、迷ったらしい沢田の一瞬の隙をついて、雲雀が何度目か肉薄する。ためらわず、急所、喉仏(それが彼にあるかどうかは怪しかったが)を狙って突き込む。正真正銘、殺す気だった。

 目が合う。見つめ合う。

 スローモーションのようだった。沢田の、冷たく光る橙色の瞳が、水面のように、ふ、と揺らぐと、見る間に透明なしずくが盛り上がって、目尻から零れるのが見えた。頬を伝い、あごから落ちるその先へ、ほぼ惰性でトンファーが振り抜かれる、その瞬間、どう、と火柱が上がって、雲雀の視界は橙から白へ焼き付いた。そのせいで、熱い、と錯誤したが、強烈な冷気だ。ひばりさん、という痛みをこらえるような声が、ひどく遠くに聞こえた。

「――……、」

 視力が戻ってくる。身動きはとれない。腕の先とトンファー、そして腰から下が、凍っている。

「……っ、ひ、ヒバリ、さん、」

 炎を消して、いつもの、丸くて深い色の瞳に厚く水の膜を張った沢田が、ひくひくと泣いている。やはり目線はあわず、凍らせた腕や、その先のトンファーばかり見ている。血と汗と、おそらく鼻水と、そして涙にまみれた泣き顔は、きたない。まるで小さな子供だ。

「……とどめを、ささないの、」

 雲雀が声をかけると、沢田がぶんぶんと首を横に振った。血と涙が飛び散る。雲雀の頬にもひとしずく、匂いでわかる。血だ。もう少し深ければ命に関わる場所に、雲雀がつけた傷から流れる血だ。

「で、できません、そんなこと、しないっ!もう終わり、終わりですっ」

 沢田にもわかったろう。雲雀が本当に殺すつもりでいたことが。それでも、終わり、と言いながら沢田が手を触れると、魔法のように氷は砕けた。自由になった手で、冷え切ったトンファーを握りなおす。勝負はついたように思えるが、赤ん坊は黙って見ている。

「ヒバリさんはっ、強くて、かっこよくてっ、オレのあこがれで……」
「……なんだって?」

 しゃくりあげる沢田のたわごとを聞いて、雲雀は握っていたトンファーを地面に叩きつけた。沢田が、びくん、と肩を跳ねさせて息を止めたが、そんなことはどうでもよかった。

 それじゃあ、殺す気で向かっていって、まるでやる気のない沢田に、これだけの傷しかつけられない、今の雲雀はなんだというのだ。

「ひ、ヒバリさんが、オレのこと、き、嫌いでもっ、オレはヒバリさんがす、」

 頭に血が上る、というのは、こういうことを言うのだと思った。雲雀は、拳で沢田を殴った。雲雀の全力を受けて、軽い身体はたやすく吹っ飛んだ。そのまま飛びついて馬乗りになると、胸倉を掴みあげる。

「嫌いだって!?ああそうだ、どうしていつも君の声ばかり聞こえるの!どうして君が僕を見ないとこんなに苛々するの!まったく忌々しいったらないよ!君なんか、大嫌いだ!君なんか……、」

 汗が。ぽたぽたと、雲雀のあごから、沢田の頬へ、伝って落ちる。暑くなどないのに、後から後から湧いてくる汗は、頬にだけ触れる。こめかみの、目尻のあたりから、熱くて透明なしずくが、ぼろぼろとこぼれ落ちる。

「君なんか、死んでしまえばいい!」

 吠えた雲雀の目の前で、沢田の唇が動く。もう聞きたくないと、首を横に振っているのに、沢田は泣きながらも、続きをやめない。

「それでもオレは、ヒバリさんが好きです、」
「黙れ……!」

 それ以上何も言えないように、雲雀は沢田を押さえつけて、唇に噛み付いた。やわらかな皮膚を食い破ってあふれ出た、鉄と塩の味のする液体を舐めると、もう我慢できずに、声をあげて泣いた。こんなに酷い奴は見たことがない、と思った。

「……勝負あったな。」

 リボーンはそう言ったが、雲雀も沢田も、聞いていたかどうかはわからなかった。









バレンタインからの三連作、読んでくださってありがとうございました。
2009年3月16日

「サロメ」よりサロメの台詞
「わたくしの望みの品とは、いますぐにここへ銀の大皿にのせて……」
「ああ!おまえの口にくちづけしたよ、ヨカナーン、おまえの口にくちづけしたよ。おまえの唇は苦い味がした。あれは血の味だったのか?……いいえ、ことによると恋の味かもしれぬ……恋は苦い味がするとか……でも、それがなんだというの?それがなんだというの?あたしはおまえの口にくちづけしたのだよ、ヨカナーン。」
(ワイルド/新潮文庫/西村孝次)