今年のバレンタインは、日曜日であった。

 ダメツナとして、嫉妬などと大それたことは言わないが、きゃあきゃあと女の子に囲まれる親友二人を見るのはやはり、同じ男の子として「もやっ」としないわけにはいかないので、精神衛生上、綱吉には大変ありがたいことである。年中行事に想いを託す女の子たちにはかわいそうなことだと思うけれど、所詮は他人事だ。

 さて、ビアンキのポイズンチョコレートを何とか回避して、奈々からのチョコレート(今年はブラウニーだった)と濃い目の緑茶を手に、命からがら自室へ避難した綱吉は、マグカップになみなみと入った熱い茶を驚きのあまり取り落とした。

「……ぅあっちいい!!ちょ、な、あっつ、ええ!?っひ、」

 散らかった部屋の、朝起きたままの形に乱されているベッドの上、ひっくり返って漫画雑誌をめくっていたのは、並盛中学風紀委員長、雲雀恭弥である。珍しく、というか初めて見たが、私服だ。

「ちょっと君、何やってるの、」

 それはこっちの台詞です、と雲雀に向かって言えるのならば、綱吉はダメツナなどとは呼ばれていない。雑誌を放り投げて、細身のブラックジーンズに白いシャツ(いつもと違ってダンガリーだ)、インナーに黒のタートルを着た雲雀が、戸口に立ちすくんだ綱吉に、大股で近づいてくる。彼の焦った様子というのも、初めて見た。

「どこにかかったの?痛みは?」

 膝を突いて、湯気を立てるカーペットとその上の足と、もともと大きな目をさらにまん丸に見開いた顔を見比べながら、カーゴパンツの裾を膝まで捲り上げる。情報過多により、脳がビジー状態になってしまったせいで、返事も出来ない綱吉に眉を寄せて、お茶の染み込んだカーペットに触れた。

「ああ、このくらいの温度なら、怪我はないね」

 呆れたように、もしかしたら、ほっとしたように。そのへんに落ちていたタオルを拾うと、これ、拭くのに使っていいの、と訊かれて、そこでやっと、じこじこじこじこ、とCPUが情報の処理を始めて、綱吉はとりあえず口を開いた。

「は、はい、いえ、自分でやりま、す、」
「そう、できるの?」

 はい、とタオルを渡されて、かわりに、傾斜30度、落ちる寸前だったブラウニーの皿をそっと取り上げられる。びしゃびしゃになったカーペットにタオルを押し付けて吸い取って、靴下をはき替えて、

「リボーンならビアンキとバレンタインデートに行きましたけど、」

 洗濯物と空になったマグカップを持って一度階下へ降り、二人分のカフェオレ(電子レンジで作ったホットミルクにインスタントコーヒーを入れただけだが)と追加のブラウニーを盆に乗せて再び戻ってきた綱吉は、ドアを開け、自室に私服でくつろぐ雲雀恭弥、という事象が、幻や気のせいではないことを確認してから、開口一番、そう言った。

「うん、知ってる。外で会った。奈々さんや子供らも」

 雲雀の答えは明快だった。しかしそうして、綱吉は困ってしまった。綱吉には、雲雀が沢田家……綱吉の部屋を訪ねて来る理由など、リボーン以外に思いつかない。「困った」と顔に書いて、散らかったテーブルの上を片付ける。本屋の紙袋や、スナック菓子のカス、期限の切れたプリントなどを、がさがさとゴミ箱に流し込んで、ごとんと盆を置いた。カフェオレは少しこぼれてしまった。

「これ、奈々さんの?」

 機嫌よく、茶色の四角が載った皿を覗き込む雲雀は、いつの間に綱吉の母の名など知ったのだろうか。

「はい。バレンタインなので……よかったら、どうぞ」

 所在無くマグカップを手に持ち、しかし風紀委員長と差し向かいでおやつを食べる神経の太さなど綱吉にあるはずもなく、ちらりちらりと雲雀を伺いながら、熱いカフェオレを舐めるようにする。嬉々とした雲雀はあっという間に奈々のブラウニーを平らげた。私服で、軽い微笑さえ浮かべて、おやつに集中している様子は、雲雀ではなく、普通の中学生のようだ。

「君は、しないの、バレンタインデー」

 ぬるくなったカフェオレを傾けながらそんなことを訊く雲雀に、本当に、珍しいこともあったものだ、と思う。

「母さんには、いつも、ホワイトデーに返してるんで、今日は、別に」

 もらうだけです、と言って、はは、と乾いた笑いを見せると、雲雀は、む、と眉間に皺を寄せた。

「緑中の女子とか」
「ハルですか?昨日、京子ちゃんとクロームとうちに来て、オレ達にチョコチップクッキー、作ってくれましたけど」

 まだ残りありますけど、雲雀さんも食べますか?――まさかとは思いつつ一応訊けば、白い額の縦筋はますます深くなる。綱吉、山本、獄寺に、ハル、京子、クローム、昨日の沢田家が巨大な群れであったことをわざわざ申告して、雲雀の機嫌を損ねてどうする、と失言に慌てた綱吉だったが、しかし雲雀はトンファーを振り回したりはせず、ぶつぶつと呟いた。

「一対一でなかったなら、とりあえず危険度は低い、か……でも油断は出来ないし」

 意味がわからない。

「君は誰かにあげないの、」

 その一言で、綱吉は驚いてまたカップを取り落とした。幸いなことに中身はもう空っぽだったが、胡坐をかいていた脚のくるぶしに陶器の角が当たって、ご、と鈍い音が響いた。

「いっ…………」
「何やってるの?さっきから。君、握力そんなに弱かったっけ?」

 じーんと痛い感覚をやり過ごしながら、足首を抱えて唸って、それでもやっぱり綱吉には、あんたのせいだろ!とは、言えるわけがない。孤高の風紀委員長が、何故か綱吉のバレンタイン事情を根掘り葉掘り聞きたがる。突然恋バナに目覚めたとでも言うのか。どうしちゃったんだ。考えてもわかるわけがない。綱吉は、答えの出ない問いを追求することに喜びを味わうような感性を持ち合わせていない。よって早々に思考を放棄する。……とにかく、問われたことに答えればいいのだ。

「あげませんよ。逆チョコとかって、言いますけど、やっぱりバレンタインチョコ男が買うのは恥ずかしいし」

 答えてから、これではまるで、恥ずかしくなければあげたい人がいるような言い方だ、と思い、訂正しようと顔を上げると、いつのまにかテーブルを回り込んでいた雲雀がすぐ真横に座っていたので、それはもう驚いた。

「ヒバリ、さん、」
「うん。」

 痛む足をさするのを、覗き込むように見る雲雀の顔は、まつげの数さえ数えられそうなほど、近い。まさか、心配されている、とか。

「……あの、今日は、どういった、ご用件で、」

 ついに訊いた綱吉の、びくびくと定まらない視線を捕らえようとするように、真っ黒な瞳が綱吉のわずかな動きをも追う。

「わからない?」

 頬にかかる雲雀の吐息は、ブラウニーとカフェオレの、あまいにおいがする。

「わ、わかり、ません、」
「本当に?」

 雲雀はちらりと、空になったブラウニーの皿を見た。聖バレンタイン、

「わからないの?本当に、そう、思ってる?」

 かさり、と、小さな音がして、白いシャツの胸ポケットから覗いている、小さな黒い箱と、赤いリボンが、先ほど、逃避の方向へ思考を放棄した綱吉を、責める。

「ほ、ほんとうに、……ヒ、ヒバリさん、近いっ、で、す!」

 ぐ、と身を乗り出して、鼻先がくっつきそうなほど顔を寄せてきた雲雀に悲鳴を上げる。仕草は野良猫のあいさつのようだが、綱吉は人間だ。

「嫌なら、逃げればいいじゃない」
「っ、……!」

 言いながら雲雀は、綱吉の硬直した肩をつかんで、薄汚れたカーペットに押し付けた。乱暴にする事のほうがずっと簡単なのに、変に力の入った手は、何かを無理やりに押し殺しているようだ。

「そんなに力、いれてないよ」

 薄く笑った言葉通り、身体を力で拘束されたのは、押し倒される一瞬だけで、くしゃっと崩れた綱吉の下半身をまたぐ脚は、自分の力で体重を支えていて綱吉に何の荷重もかかっていないし、左手はぼさぼさの頭の横に突いていて、右手は、そっと広げた手のひらを、胸の、心臓の上に、のせているだけだ。けれど、雲雀のその右の手のひらが、振動してしまっているんじゃないかと思うくらい、鼓動が暴れている。身体が震える。体温が上がる。

「ねえ、逃げないの?」

 脳から繋がる神経が、焼き切れてしまったようだ。綱吉は指の一本も、1mmだって動かすことは出来ない。視線も繋がったまま、黒く光る瞳から、目がそらせない。見つめ合ったまま、雲雀は胸のポケットから黒い箱を出すと、赤いリボンをゆっくりほどいた。はらりと落ちたサテンが、綱吉の鎖骨にかかる。

「本当に、わからない?……僕が今日、ここに来た理由も、いつも君を呼び止める、理由も」

 廊下で、屋上で、姿を見れば必ず声をかけられる。それなのに、そういえばもう随分と、トンファーで殴られたことはない。

「……っ、わ、」

 からない、と続けようとしたのか、かる、と続けようとしたのか、綱吉は自分でもわからなかった。ただ、雲雀には、その1秒で充分だった。

「んっ……んん!っふ、ぐ、んむ」

 ころん、と箱から転がり出た、丸いかたまり、小さく開いた唇からそれを押し込まれて、反射的に吐き出そうとすれば、そのままふさがれた。ふさいでいるのは、雲雀の唇だ。熱い、柔らかい、うすい皮膚。口の中の丸いものは、かたくて冷たい、表面はつるりとしている、甘い香り、チョコレートの香り。怯えた舌が、異物の侵入を防ごうと頑張っている。異物とは、まんまるのチョコレート、そして雲雀の舌だ。考えただけで、か、と赤面する。呼吸が出来なくて、ますます紅潮する。それ以上入ってこないで、と突っぱねれば、熱くてざらついた、敏感な粘膜を、ただ擦り合わせただけの結果になって、綱吉はびくびくと震えた。

「は、ん、ぅん」

 鼻にかかった甘い声は、今本当に、綱吉自身から発せられたものなのだろうか。聞かれたのだろう、唇を合わせたままの雲雀が、く、と少し笑ったのがわかった。溶け出したチョコと、二人分混ざった茶色の唾液がかき回されて、ぴちゃ、くちゅ、と音を立てる。距離が近すぎて、逃げ場がない。隠せない。全て伝わってしまう。追い詰められる。

 かたくて冷たくてつるんとしていたはずの、丸いかたまりは、熱いあつい二人の咥内を往復して、とろとろと形を歪めた。かふ、と雲雀が歯を立てると二つに割れて、中からあふれ出したどろりとした液体が、綱吉の喉に流れ込んだ。雲雀の舌がそれを追う。迎える綱吉の舌はもう、抵抗しているのかおもねっているのかわからない。二人の舌の間で液体がぴちゃりと鳴ると、きつい、強い、花のような香りが鼻腔へ抜けた。喉を焼く感触に、酒かと思ったけれど、少し違う気がする。指先まで熱くなる。昔、防火訓練で見た、カーテンに引火した火があっという間に天井へ燃え移る映像、何故かそんなものを思い出した。足元から炎が立つようだった。

「…………っは、」

 ようやく放された唇に、言いたい事はたくさんあれども、びりびりとしびれたような舌は、まともに動かない。はあはあと息を荒げて、しかしそれは雲雀も同じだった。白い肌が薄桃に染まって、赤く濡れた唇からちらりと覗く舌が、冷める熱を惜しむようにちろちろと動く。飢えたように舌なめずりして、茶色の唾液が口の端から垂れる。足りない顔。自分もいま、ああなっているのか。綱吉は顔を覆った。

 鼓動が、胸の内側から、誰かがどんどんと叩いているみたいにうるさい。激しい。雲雀の唾液と一緒に飲み下したはずなのに、あの液体の香りは一秒ごとに強くなる。それを感じるたびに、端から理性が食い荒らされていくようだった。触れられたい。侵蝕されたい。まって、まって、自分に懇願するようにして、綱吉はようよう口を開いた。

「……ひ、ばり、さ、……オ、レのこと、……すき、なんです、か」
「どうして、そう思う、?」

 苦しげに息を吐いて雲雀は、静かに訊き返してくる。

「くち、……つば、が、まざって、こんなの、……っきなひとと、じゃないと、できな、」

 いままで、獣のようなこの人が、綱吉にちょっかいをかけてくるのは、ただの気まぐれだと、綱吉は自分に言い聞かせていた。けれど、こんなふうに触れられたらもう、気まぐれだなんて逃げることはできない。袖口で口元をぐいぐいと拭いながら言うと、雲雀はとても微妙な顔になった。

「唾…………」

 はあ、とため息をつかれ、むっとする間もなく、かかった吐息が熱くて、背筋をぞくぞくと駆け抜けるものがある。目を閉じてやり過ごすと、べろんとまぶたを舐められた。チョコレートと、あの液体の匂いがした。派手にびくついて慌てて目を開ければ、焦点が合わないほど近くに、雲雀の顔がある。黒い、瞳がある。綱吉の大きな目から、湖岸から水中を覗うように、なかまで、覗き込まれている。

「そう、僕は、君のよだれをべちゃべちゃなめて喜んでた。君も僕のをなめて、飲み込んだ。それは嫌だった?汚い?」

 少し呆れたような、どこか面白がるような、問いかけに、綱吉は首を振る……横に。

「ひばりさん、のくち、嫌じゃない、です」

 つまりはそういうことだ。

 その後訪れた雲雀の抱擁は、ついさっきまでの、やたらと熱を煽るような唾液の交歓とは一転、酷く純粋なものだった。しかし、隙間なく距離が詰めば、お互いの身体が、どうしようもなく猛っているのがわかる。脚の間が熱い。

「……もしかして、必要なかったかな」

 二人の間にある黒い箱が、ごつごつして痛い。雲雀は少し身体を起こすと、つかんで放り出した。中には丸いチョコレートが、まだ3つ入っていて、投げ出されてころころと転がってゆく。

「な、んだったんですか、これ、」

 紡いだ言葉は震えている。興奮、している。一言ごとに、あの液体が吐息から強く香る。

「……赤ん坊が、」

 雲雀が綱吉に体重を乗せて、さらに身体を寄せて覆い被さってくる。合わせた胸が声で振動する。すり寄せられた頬は熱いはずなのに肌になじんで、綱吉は自分の熱を知った。

「昔はチョコレートは媚薬だったって、」

 耳に吹き込むように言葉を紡がれて、身体が勝手に跳ねた。押さえつけられて抱きしめられて、しがみつくように抱き返す。燃えてなくなりそうな理性と思考を、あとちょっとだけと必死に繋ぎとめる。

「なら、媚薬を、チョコレートの代わりにしても、いいよね」
「よ、よくない、」
「もう遅い」

 ぴったりしたジーンズに包まれた膝が、ざり、と綱吉の脚の間を擦る。

「んゃ、ぁ」

 びくんと跳ね上げた脚が、膝頭が、雲雀の脚の間に触れる。綱吉の上で雲雀の身体が揺れる。

「な、んで、こんなもの、」
「君は、たくさん、狙われてるから。誰かに獲られる前に、既成事実、」
「っはんざい、ですよ」
「君が、許してくれなかったら、そうなるね」

 …………どうする?

 視線で問われて、綱吉は、ずるい、と思った。目の前の肩に顔を押し付けて隠す。

「これ、の、効果がきれてから、ひばりさんのきもち、言ってください」

 もごもごとした言葉を、それでも聞き逃したりはしないだろう。案の定、雲雀は軽く笑って、手をパーカーの裾から素肌の脇腹へ、忍び込ませてくる。じんと染みるほど熱い。

「そしたら、許してくれる?」

 ぐりぐり、と首を左右に振って、額を擦り付けた。そんな接触にすら、興奮する。もうだめだった。何も考えられなくなる、

「そのとき、オレのきもちも、言うから、」

 もう、たすけて、触って。嫌がらないから。

 手を伸ばして、雲雀の首にしがみついて、綱吉は自分から唇を寄せた。

「じゃあ、もらうね」

 ――既成事実、

 そうしてバレンタインデイは、二人の「恋の記念日」になったのだった。





「バレンタイン・キッス」国生さゆりwithおニャン子クラブ

♪わーたしちょっと最後の手段で決・め・ちゃ・うー
雲雀さん的最後の手段=薬物

2010年2月15日