「やあ、楽しそうだね」
「……、それはこっちのセリフです、」
ばたん、と元気良く扉を開け放って入ってきた雲雀さんは、顔に返り血を飛ばして、まぶしいほどにご機嫌麗しい。
「委員長、顔に汚れが」
「え、なに?どこ?」
「わー、ストップ!待って!雲雀さん、手ぇ!」
手にも血がついている。それで擦ったら意味がない、というかひどくなる。
「沢田さんに拭いてもらってください。自分はこれで失礼します。」
いつの間にか雲雀さんの分のお茶を淹れた草壁さんは、微笑みながら、お疲れ様でした、と言うとあっという間に帰ってしまった。気を遣ってもらったんだ。やっぱり草壁さんはおかーさん……
「沢田、タオル出して」
「あ、ちゃんとせっけんで洗ってくださいね、うがいも!」
草壁おかーさんから預かった大事な雲雀さん、という変な使命感に駆られて、風邪予防も兼ねてオレが釘を刺すと、雲雀さんは呆れたように、はいはい、と言いながら給湯器のお湯で手を洗う。その隣でオレは戸棚から備品の白いタオルを二枚出す。一枚は雲雀さんの手拭き用に。もう一枚は濡らしてしぼる。
「ちょっと顔こっち向けてください」
「ん、」
しぼってからたたみ直したタオルを持って手を伸ばすと、ちゃんとせっけんで手を洗ってから三回うがいをした雲雀さんは、オレの方に上体を少し傾けて、あごを突き出すように顔をこちらへ向けた。
「わぁ、結構いっぱいついてますよ」
左手をそっと添えて、右手のタオルであごのラインをなぞるように拭いていく。雲雀さんはオレの手のひらに頬を預けて、自然に目を閉じている。ぎゅってしたりとか、キスとか、もっと恋人らしい触れ方もいつもしているのに、こんな風になんでもないように無防備なところを見せられる方が、特別な感じがする。オレは調子に乗って、綺麗に拭き上げたのを確認した後、背伸びして真っ黒なまつげの先に、そーっと、唇で触れた。息は止めてたけど、気づいたかな?
「わ、」
ぱち、と、音がしそうな様子で目の前のまぶたが上がった。いや、気づくよな。雲雀さんだもんな。
「……あの、取れました。」
「…………うん、」
きろり、とツリ目の中から黒目がこっちを向く。ちょっと怖い。目が合った、と思ったら目の前が暗くなって、
「いでっ、いっ、なっ、なんで咬むんですか!」
「お礼。」
ほっぺたに咬み付かれた。意味がわからない!と思ってはみるものの、頬が赤くなるのは隠せない。咬まれてどきどきするなんて、オレって変態の人みたいじゃないか?雲雀さんと付き合いだしてから、トンファーでつつかれても赤くなってしまうことがあって、自分が変な趣味に目覚めているんじゃないか、という危機感をもって毎日過ごしている。と、以前、山本に相談したら、結局ノロケなのなー、と言って真剣に聞いてもらえなかった。理不尽だと思う。
「で、何か用があったんじゃないの」
デスクに座った雲雀さんは、草壁さんが淹れていった、もうぬるいお茶をすすって満足げに息をつく。改めて確認したことはないけど、この人絶対猫舌だと思う。
「調べたいことがあるんですけど、パソコン借りていいですか?」
埃よけに掛けてあった刺し子のふきんを取ってたたんで、酒饅頭と草加せんべいが盛られた菓子器(もちろんこれも草壁さんが用意したものだ)を持って、オレもデスクの前まで行くと、雲雀さんは湯のみを置いて両手を広げた。
「パソコンは使ってない。でもデスクは使ってる。」
パソコンは、雲雀さんがいつも仕事するデスクに乗っている。広げられた書類を見て、オレは、雲雀さんにかまってもらう、という目的だけでも達したのだし、「出直してきます」と言おうとしたのだが、
「さわだ。」
雲雀さんが、少し、声の色を変えた。キィ、とキャスターつきの椅子を後ろに引く。オレの目を見ると、とんとん、と人差し指で自分の膝を叩いた。
「………………しつれいします。」
雲雀さんは、お膝抱っこが好きだ。するのもされるのも好きだ。休み時間にふらりとやってきて、突然オレの膝に跨ったかと思うと、他愛もない話をして、予鈴がなる前に帰って行ったりする。今日は、オレを膝に乗せたいらしい。デスクを回り込んで、ちょこちょこと雲雀さんに近づく。雲雀さんはちょっと緊張しているオレを見て、にやにやしている。意地の悪い顔だ、と思うけれど、結局のところオレも雲雀さんにくっつくのが好きなので、ふらふらと近寄ってしまう。学ランの黒いスラックスの膝にもそもそと座ると、後ろから回った手がお腹の上で組まれて、肩にあごを乗せられた。雲雀さんのこめかみと、オレのほっぺたが触れ合う。オレ、変なにおいとかしないよな?耳の後ろもちゃんと毎日洗ってるし、さっき飲んだのは緑茶だし。
「調べ物って、宿題?」
……そうだった、パソコン借りに来たんだった。ちょっと忘れてた。
「いえ、そうじゃないんですけど……」
キーボードに手を伸ばす。
「えっと、なんだっけ……「主よ」……えーと、「喜び」、あれ?違うなぁ」
雲雀さんと密着していると変に緊張してしまって、ただでさえ遅い文字入力がさらに遅い。その上、獄寺くんが一度だけ呟いた長い題名を、やっぱり覚えきれていなくて、キーボードの上で指がさまよう。えーと、えーと、と繰り返していると、雲雀さんの手が割り込んできて、かたかた、と手もとも見ずに入力した。『主よ、人の望みの喜びよ』。
「……これかい?」
「すごい!どうしてわかったんですか!?」
ちょっと興奮して言うオレをよそに、たん、と長い指がEnterキーを押した。
菓子器は雲雀さんが自宅の納戸から勝手に持ってきた小原和紙の一閑張です。
2009年1月10日
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