「主よ、人の望みの喜びよ」、忘れないように頭の中で何度か読みあげる。パソコンの画面には検索結果がずらっと表示されている。オレの手はマウスに置かれたまま、どこをクリックするでもなく、止まってしまった。
「雲雀さん、」
「ん、うん?」
 オレの肩にあごをのせて、デスクの書類を流し見していた雲雀さんが、呼びかけを聞いて顔を上げてくれる。オレの記憶のかけらだけで答えを導き出した、さっきの澱みない手の動きを思う。
「この、曲って有名なんですか?」
「……まあ、そうなんじゃない」
 オレの腰と、雲雀さんのお腹が、ぴったりくっついているので、喋ると、空気の中に出てきた声よりも、直接、身体の振動で伝わる。雲雀さんは持っていた書類をデスクに戻した。ここに来たときには、調べさせてもらうだけで、話すつもりはなかったけれど、仕事はやめて話を聞いてくれるらしい様子とか、身体に直接伝わる声とかを感じたら、オレは口を開いていた。雲雀さんにいつも甘えてしまって本当にオレはダメだなぁとは思うけれど、足りない頭でぐずぐず考えているよりは、聞いてもらったほうがまだましな気もするのだ。
「昼休みに、獄寺くんと、山本と、音楽室に行ったんです。」
 うん、と雲雀さんが、あごをつけたまま頷いて、肩にかくんと響く。
「ごはん食べ終わって、獄寺くんがピアノ弾いてくれるって言うから、何かクリスマスっぽい曲がいいってリクエストしたら、これ、『主よ、人の望みの喜びよ』、弾いてくれたんです。」
 また、うん、と頷きながら、雲雀さんはあごをぐりぐりと擦り付けてきた。仕草は可愛いけど地味に痛い。
「学校の備品を勝手に使って、いけない子だね」
「う、ごめんなさい。でもちょっとだけだし、獄寺くんは弾き終わったあと、ちゃんと拭いてから蓋してましたよ?」
「二度目はないよ」
「はぁい……」
 しょぼんとしながら返事をすると、雲雀さんはあごぐりぐりをやめてくれた。そして、マウスに乗ったままのオレの手に手のひらを重ねた。いま、オレの身体で、雲雀さんに触れている面積は半分を超えているんじゃないだろうか。見回りをしてきたせいか、少し汗と混じった、雲雀さんのにおいがいつもよりはっきりする。いやだと思うよりもむしろ、悪い意味じゃなくどきどきするにおいだ。
 雲雀さんは手を重ねたままマウスを操作すると、検索結果の中からひとつを選んでクリックした。少し読み込みに時間がかかって、画面が表示されると同時に、大きな音が流れ出す。
「ぅわっ」
 不意打ちにびくついたオレの身体を、後ろから雲雀さんがぎゅっとおさえて、くく、と低く笑う。その吐息が耳にかかって、もう一度びくっとする。
「沢田、びっくりしすぎ」
 笑われて、む、とオレがふくれると、つんつんとほっぺたをつつかれた。音量が調節される。流れている音は、ピアノじゃなくて、オルガンみたいだった。パイプオルガンてやつだろうか。楽器が変わると、また印象が違う気がする。画面には横文字(見たことない文字が混ざっていたから、英語じゃないということだけはわかった)と、その訳らしい日本語が、並んで表示されている。雲雀さんの長い指が横文字をつっとなぞる。
「……うぉーる みぁ だーす いっひ いーずむ はーべー」
 流れる音に乗って、耳元に低く、流し込むように、雲雀さんが歌いだしたので、オレはまたびくつくはめになった。
「おー びー ふぇーっせ はーると いっひ いーん」
 雲雀さんと賛美歌。ものすごい組み合わせなのだけれど、それに驚きながら、日本語訳のほうにも目を奪われる。

 あなたと共にいる私は幸である、
 おお私は何と固くあなたを守るか、
 あなたは私の心を慰めてくださる、
 病める時も悲しい時も。
 私はあなたと共にいて、あなたは私を愛し、
 私に身をゆだねてくださる。
 ああ、だから私はあなたをはなさない、
 たとえ私の心が張り裂けそうな時にも。

 あなたは常に私の喜び、
 私の心の慰め、活力、
 あなたは全ての悲しみを防いでくださる、
 あなたこそ私の生命の力、
 私の目の喜び、そして太陽、
 私の心の宝、そして楽しみ。
 だから私はあなたをはなさない、
 その御心もその御顔も。

「……めーん へーるつぇ ぶりーひ。」
 雲雀さんの歌が吐息のように終わっても、パソコンからはオルガンの音が繰り返し流れ続ける。耳がこそばゆくて、オレは少しもぞもぞと身じろいだ。それから、すぐ真横の、少し後ろにある、雲雀さんの顔の方へ首を曲げた。
「熱烈なラブソングみたい。」
 日本語訳を指差しながらそう言うと、雲雀さんは少し笑った。
「いっひ りーべ でぃっひ。」
「え、なんですか?」
「なにも。……あなた、と表記されてるけど、これは神のことだよ。」
「賛美歌だって聞きました。オレ、この曲知らなくて、何ていう曲?って訊いたら、獄寺くん、一瞬だけ、えっ、て顔したんです。」
「獄寺隼人は、君が、知っていると思って弾いたんだろう。」
 多分そうなんだ。頷いて、もう一度、訳を読み返す。『あなたと共にいる私は幸である』これは「十代目に捧げます」と言った獄寺くんの想いなんだろうか。
「獄寺くん、神様なんていないって。オレ、オレを、すうはい、してるって。」
 ふん、と雲雀さんは鼻で笑う。
「……正直に、言うと」
 オレがそれだけ言って止まってしまうと、まだマウスの上で重なり合ったままの手が、続けて、と言ってるみたいに動いた。親指が、ゆっくりとオレの手の甲を撫でる。それに励まされたような気持ちになって、心の中を打ち明ける。
「正直に、言うと。オレには、獄寺くんの気持ちは、重すぎる。」
 手のひらを上に向けて、雲雀さんの手に指を絡めるようにすると、そのままぎゅっと握ってくれた。
「オレは、自分のことと、雲雀さんのこと、だけで、いっぱいいっぱいで、他のひとのことまでそうそう、めんどうみ切れない。責任、もてません。」
 雲雀さんのこと、と言ったとき、雲雀さんはこめかみにキスした。
「ほんとは、『十代目』だって、今も、なりたくは、ないし。いまさらって言われるかもしれないけど……」
「ならないの?マフィア」
「……なりたくないけど、なる。ボンゴレを、終わりにしたいから。」
「壊すのは得意だよ。」
 何でもないことのように言った雲雀さんに、抱きついてキスしたかったけど、膝に座っているこの姿勢じゃあできない。代わりに、指を絡めた手をとって、その甲にキスした。
「だけど。だけど、獄寺くんの、あんな、顔、……あんな顔で、神様なんかいない、って言うのを、また見るくらいだったら。神様は、ムリでも、オレは、サンタクロースくらいには、なりたい。」
 決意と一緒に、握りこぶしをつくると、雲雀さんはオレの頭をわしわしと撫でた。
「獄寺隼人が君に望んでいるのは、たぶん、大層なことじゃあないよ。今まで通り君たちと群れていれば、満足なんだろう。」
「……オレの心がまえの問題、かも。」
「じゃあ、せいぜい頑張りな。」
 うん、と頷いたオレの頭を、雲雀さんはまだ撫でている。きっと髪の毛がぐしゃぐしゃになってるんだろうなあ、と思ったけれど、そうされていると、ものすごく、頑張ろう!という気持ちになるので、オレは、やめてください、とは言わなかった。




カンタータ第147番《心と口と行いと生きざまをもって》
第6曲、第10曲のコラール(「主よ、人の望みの喜びよ」)
作中の日本語訳は礒山 雅 氏のものを参考にさせていただきました。
2009年1月17日