二人で髪を乾かしてから脱衣所を出ても、台所はまだ賑やかなようだった。今日はおでんだって言ってたから、時間がかかっているのかもしれない。ほかほかと湯気の出るような身体を冷やさないように、特に雲雀さんには厚着してもらって、一度オレの部屋へ戻った。
「雲雀さん、手、だしてもらえますか、」
「手?」
首をかしげながら、雲雀さんが両手を差し出す。何の気負いもなく、上を向けて広げたオレの手のひらの上に、雲雀さんの手が、全く無抵抗に乗せられる。オレはいまだに、こんなとき、ちょっと感激してしまう。きゅっと握ると、雲雀さんは、何さ?、とさっきとは反対側へ首をかしげた。そうだ、感激するために雲雀さんの手を借りたんじゃない。自分の方へ引き寄せて、風呂上りであたたかい手を見た。
「やっぱり。痛そう……」
雲雀さんの手は、荒れている。指先から手の甲まで、ところどころささくれ立ったようになっていて、関節のところは、いくつか、赤い線がぴっと走っている。あかぎれになってるんだ。手を繋いだり、頬に手のひらをあてられたりすると、それがとてもよくわかって、オレはいつも雲雀さんに触れられて、嬉しいけれど少し悲しい。
「別にこんなの、普段の怪我に比べたら、傷でも何でもない」
雲雀さんは面倒そうな顔でそっぽを向く。実はもう、草壁さんから情報収集は済んでいる。乾燥肌の雲雀さんは、でも寒がりだから、暖房器具がとても好きだ。草壁さんが肌を守るように言っても、めんどくさい、の一言で却下、こんな痛々しいことになっている。……確かに、戦闘中の怪我のことを考えれば、こんなの傷でも何でもないんだろうけど。オレは机の引き出しの一番上を開けて、とっ散らかった中をごそごそとかき回した。ひやりと、冷たい感触。ちょっと大きめの、アルミチューブ。ハンドクリームだ。
「これはオレの、ワガママなんですけど、」
新品のそれの、封を切る。レトロな横文字の紙ラベルが貼られたアルミチューブは、たとえば京子ちゃんとか、ハルなんかだったら、可愛いといって喜んだのかもしれないけれど、オレはこれを持ってレジへ行くのがひたすら恥ずかしかった。しかも、この辺りでは、駅前デパートの、あからさまに大人のお姉さん向けな雑貨屋さんでしか扱ってなくて、どんな罰ゲームかと思ったものだ。
「雲雀さんの手が痛そうなの見るの、いやなんです。うちに来てるときだけでいいから、これ、塗ってもらえませんか、」
眉を寄せて尋ねると、雲雀さんは少しむっとして、露骨にめんどくさそうな顔になって、ぷい、と横を向いた。でも、両手はオレに預けたままだ。負けずに食い下がる。
「オレ、塗りますから。雲雀さんは手を出しててくれたら、いいんですけど、」
「……手がべたべたするのが、好きじゃない」
その感覚は、オレにもわかるけれど。
「お風呂上りだから、すぐ吸収されちゃうと思います。その前になにかしたいことができたら、オレがかわりにやりますから」
今も、雲雀さんが手を動かすたびに、ぱくぱくとあかぎれが開いたり閉じたりして、真っ赤な線が見え隠れする。オレは泣きそうになる。怪我とこういうのは、全く違うものだ。たとえ傷としては大したことなくたって、痛くないわけない、と思う。
「ね、だめですか?」
声に出すと、何て言うんだっけ……そう、哀願。哀願、というのが、字面も響きもぴったりな感じの、情けない声だった。でも、同情がひければいい。どうしても、雲雀さんの毛羽立った手に、水分と油分を補給したい。首をかしげて、もう一度訊くと、ちら、と一瞬こちらに視線を戻した雲雀さんは、そこまで言うなら、と少し早口で言った。
「じゃあ、塗ってみてよ。それで面倒じゃなければ、君の言うとおりにする」
狙い通り、オレを哀れんでくれたのか、ついに譲歩してくれる。
「ありがとうございます。」
やった!と思っていたら顔に出ていたらしくて、どうしてそんなに嬉しそうなの、と呆れたように言われてしまった。
「だって、……雲雀さんがオレのワガママ聞いてくれたから、」
「いつも聞いてるじゃない、」
「えっ、そんないつもワガママ言ってないですよ!」
「言ってるよ、」
「うそ!」
口げんかのようだけれど、オレも雲雀さんも、声は笑っている。忙しく口を動かしながら、少し硬いチューブからハンドクリームをにゅっと出した。クリームというより、軟膏みたいだ。雲雀さんの手の甲に絞り出すと、体温でとろとろ溶けて、液状になる。
「ホットケーキの上の、バターみたい。」
雲雀さんはそんな風に言う。
「明日の朝ごはん、ホットケーキ食べたくなっちゃいました、」
夕飯を食べる前から、明日の朝ごはんの話をしているオレ達は、健全な胃袋を持った男子中学生である……そろそろ台所、空いたかな。
「……花の匂い?」
「原料の匂いって聞きましたけど、」
手の甲で溶け出したクリームを全部溶かすために、オレが手のひらを重ねると、温められてふわっと、ハーブ?みたいな匂いがする。実はこのハンドクリーム、ビアンキおすすめの、ちょっとお高いイタリア製だったりする。最初はドラッグストアに行こうと思っていたけれど、その前に、と軽い気持ちで相談したら、ハンドクリームと言えばこれよ!と長らく薀蓄を聞かされてしまった。雲雀さんに効くといいけれど。
「ちょっとしみるかも、です」
一言断ってから、そっと塗り伸ばした。まず、手の甲。雲雀さんのこぶしの山は、つぶれている。恐いからあまり考えないようにする。そこから、指。一本一本、包み込むように丁寧に。爪の周りのささくれにもよく擦りこんで、足りなくなればまた絞り出す。指の股、硬くなった皮膚を、マッサージするみたいにちょっと強めにこする。花の匂いがする。
「……ん、」
雲雀さんが気持ち良さそうに鼻を鳴らしたので、どきっとした。顔を見ないようにして、今度は手のひら。トンファーのたこができている。すりすりと擦り合わせて、手首も、さっき河原でオレが最初に吸い付いた、ぽこんとでっぱった骨のところまで塗る。吸い付いた痕はちゃんと残っていて、ほかに怪我が多いから、一見すればただの打ち身のように見えるのだけれど、それが何なのかよく知っているオレには、結構、いたたまれない。
「君の手も、きれいになるんじゃない」
おかしそうに言う雲雀さんに、そうですね、と半分上の空で返事をする。塗り残しがないのを確かめて、べたつきが残らないように、何度も同じ手順で擦りこむ。血がめぐって、雲雀さんの手はぽっぽっとあつい。
「いいね、これ、」
それ以上言わないで欲しい。
「何かやらしい感じがする。」
「…………そうですね、」
雲雀さんの手を握ったまま、オレはうなだれて赤い顔を隠す。指の股とか、手首の内側とか、皮膚の薄いところは、感じやすいところだ。オレは自爆したんだろうか。でもきっとこれで、雲雀さんは、オレがハンドクリーム塗らせてくださいと言っても、そんなに嫌がらなくなるだろう。
「できました。」
「ありがとう。」
ふふっと笑って、繋いだ手をひっぱられたと思ったら、雲雀さんと違ってきちんととがっているオレのこぶしの山(でもオレも、炎を灯してこぶしで戦うんなら、これからつぶれていくんだろう)に、ちゅっちゅっと唇が落ちてきた。それでオレはやっと、顔を上げた。下から、母さんの呼ぶ声がする。きっと台所が空いたんだ。オレたちの分のおでんは別に分けてある、と言ってたけど、すぐに行かなきゃきっと狙われる。今日は一日よく動いたから、つまみ食いで取り分が減らされたら辛い。だからさっさと下へ降りていかなきゃ行けないのだけれど。
「お礼、」
じゃあ、これから、ここに来たら塗ってね、と笑う雲雀さんと、ゆっくり唇を触れ合わせた。
2009年12月27日
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