骸様は私にいろんなことを教えてくれる。
私が凪という名前だった時、(それはそんなに以前のことじゃないのに、すごく昔のことのように感じる。)知りたいと思うことは何もなかった。何かを思うことがあまりなかった。悲しいと思うことはほとんどなかったし、楽しいと思うこともほとんどなかった。興味を持つ、ということを知らなかった。
今は毎日、知りたいこと、やりたいことばかりで目が回りそう。イタリア語を話せるようになりたい。犬に名前で呼んでほしい。千種のお手伝いをもっとちゃんとできるようになりたい。明日は晴れるのかどうか。ボスとお話しているときボスにもっと笑ってもらうにはどうしたらいい?
思うこともたくさんある。悲しくなったり、楽しくなったり、気持ちよくなったり、怖くなったり、嬉しくなったり、びっくりしたり、緊張したり。
それはね、クローム。と骸様が言う。私は骸様が私を呼んでくれる声がとても好き。誰かが自分を呼ぶ声を好きになるなんて、凪だったときにはなかったわ。
「『クローム』はまだ生まれたばかりでしょう。もっとこの世界を見たい、感じたい、と思うことは、何も不思議じゃあありません。」
たぶん今は夜で、私は眠っている。夢なのか、それとも違うのか、私にはわからないけれど、眠っているときにはよく骸様が会いに来てくれる。私はいつものように制服で、骸様も制服で、薄暗い黒曜ランドの、普段はあまり使わない小さな部屋で、向かい合って丸いすに座っている。ということに、今、気づいた。
「こんばんは、骸様。」
「こんばんは、かわいいクローム。挨拶を、」
そう言って骸様が両腕を広げたので、私は立ちあがって骸様のところへ行き、お膝の上に片膝をかけて頬にキスした。骸様も返してくれる。目の横でちゅっと音がする。私はまだ、うまく音をさせてキスすることができない。
「Buon Natale」
「えと、B、Buon Natale ! 」
眠る前に、テキストを見ながら練習していたイタリア語の「メリークリスマス」、つっかえながら何とか言うと、骸様はよくできましたね、と笑って、私をお膝に座らせてくれた。
「良い子のクロームに、クリスマスプレゼントです。」
どこに置いてあったのかしら。それとも、ここは外の……現実ではないのだから、気にするようなことではないのかもしれない。骸様は黒地にお花の絵が描いてある大きな紙袋から、綺麗な紫のリボンをかけた黒い箱を取り出して、私にくれた。
「ありがとうございます……Grazie.」
「Prego. さあ、開けてみなさい。クロームに似合うはずですから。」
リボンの端を指でつまんで、しゅっと引く。つやつやしたすべりの良い生地は、ひっかかりもなくかんたんにほどける。骸様の前では、私もこんな風なんだわ。
「わぁ……かわいい。」
私はあまり、ものをあらわす言葉を持っていない。本当は、かわいいというより、もっと違う言葉があると思うのだけど、思いつかなくて、知っている数少ない言葉の中から、より近いものを選ぶしかない。イタリア語以外にも、私が勉強しなきゃいけないことはたくさんある。
「とてもかわいいです、骸様。嬉しい。」
黒い箱の中で、紫色の薄い紙にふわふわに包まれていたのは、黒いワンピース、というよりドレス、だった。黒いベルベットでできていて、肩紐は何重にも重ねたレースのリボン、たっぷりととった生地がひだを作るすそには、シャンデリアみたいなレースが下がっている。他にも、下着、ストッキング、靴、アクセサリー。全てが、黒と、紫と、レースと、薔薇と、蝶で、統一されている。光を吸い込むようなベルベットと、きらきら光るアクセサリー。骸様が私に似合うと思って選んでくれたもの。
「着て、僕に見せてください。」
「はい。」
お膝から降りて制服を脱ぎ始めると、骸様はそれを受け取ってたたんでくれようとする。凪は、洗濯物をうまくたためなかった。誰にも教わったことがなかったから。そのことを骸様は知っているけれど、やっぱりちょっと恥ずかしい。私は、千種に教えてもらって、最近だんだんできるようになってきた。
「私、自分でやります。」
骸様はくふふと笑う。
「クロームが、自分のことは自分で出来る子だというのは、ちゃんと知っています。今は、僕が早く、その服を着たクロームを見たいだけですから、気にせずに早く着替えてしまいなさい。」
気にしない、というのは難しいけれど、骸様が早く着替えて欲しいと思っているのなら、そうしなければ。早く早く、と着替えていたら、ストッキングをはくときに、足がもつれて転びそうになった。後ろから、骸様が抱きかかえてくれる。私は、こんなことも、骸様の言いつけどおりにできない。それは悲しいことだ。
「そんなに慌てないで……僕の言い方が悪かったようです。すみません。」
「そんなことないです」
あわてて首を横に振ったら、骸様は、クロームは優しい子ですね、と頭を撫でてくれた。私は、自分が優しいなんてちっとも思わないのだけれど、もし骸様がそう思うのだったら、それは骸様が優しいからだと思う。骸様が、私に、良いことや、優しいことを、教えてくれたから。
「ああ、いいですね。やはり思ったとおり、クロームに良く似合います。」
黒いドレスを着て、靴を履くと、骸様がアクセサリーをつけてくれる。言われるまま、くるっとまわると、重なり合ったドレープがふわりと膨らんで、ひらひらとレースが揺れた。
「ありがとう、骸様。」
骸様が私に教えてくれること、くれるものは、大きすぎて、私にお返しが出来るなんて、とても思えない。だから私はただ、笑って、お礼を言う。それさえも、骸様が教えてくれたことだ。
「こんなにかわいいクロームと会えて、僕は幸せです。」
笑う骸様に返せるものは、今の私には何もないけれど。本当の世界で骸様に会う日までには、どんな小さなものでもいいの、骸様に何かをあげることができる私になっていたい。
「……んん、」
目を覚ますと、枕元には、骸様からもらったのと同じ黒い箱が置いてあった。それだけじゃない。私の右側に眠っている犬の枕元にも、左側に眠っている千種の枕元にも、それぞれ、何か置いてある。骸様からの、クリスマスの贈り物。ちぎれたカーテンからさしこむ、やわらかい朝日に照らされている。
クリスマスの朝、枕元に贈り物を置いて目覚めるなんて、初めてのことだ。それは、なんて、心がはずむ出来事なんだろう。私はまたひとつ、骸様から教えてもらった。今度会ったとき、この、身体には収まりきらないような、嬉しい、という気持ちを、骸様に伝えるにはどうしたらいいかしら。一緒に考えてほしくて、私は犬と千種を起こした。Buon Natale !
育てる楽しみを満喫する骸様。
2009年2月28日
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