22時を少し回った頃である。
「ただいまぁ」
独り言と変わらぬような声でぼそぼそと呟いて、この部屋の主、沢田綱吉が帰宅した。紫の地に橙色の格子が入った木綿の袷(部屋着としてここ何年か愛用しているものだ)にジャワ更紗(ようやく少年の姿まで成長したリボーンが先日、東南アジアの裏社会に用があって出かけたときに土産に買ってきてくれた)を兵児帯のように締めて、ソファに寝転がってノートPCでネット上をふらふらしていた雲雀恭弥は、いかにも疲れました、という声を聞いて身体を起こすと、ぱこんとPCを閉じた。
「おかえり」
玄関まで出迎え、かばんを受け取り、ジャケットを脱ぐのを手伝う。着物姿でそういうことをすると、まるで昭和初期のホームドラマのようだ(割烹着がないのが惜しい)。綱吉は疲れた顔で、それでもかばんとジャケットを雲雀に預けてネクタイを緩めると、にへ、と頬を緩めた。
「雲雀さん、オレの奥さんみたい」
「奥さんじゃなかったらなんなのさ、」
「雲雀さんがオレの奥さんなんて嘘みたいです」というのが綱吉の口癖であり、雲雀はそれを聞くのが嫌いだ。黒猫の柄の入った、足袋タイプの靴下をはいた足がさっと上がって、べし、と旦那様のむこうずねを蹴飛ばした。いっ、と顔をゆがめて、綱吉が廊下にうずくまる。
「みたいじゃなく、雲雀さんは正真正銘、オレにはもったいない良く出来た奥さんです。」
「わかればよろしい。」
廊下の突き当たりにあるコートハンガーにジャケットとかばんをかけて、雲雀が重々しく頷く。
「その良く出来た奥さんの作ったけんちん汁があるけど、風呂もそろそろ沸くはずだよ。どっちを先にする?」
さらり、と短い黒髪を揺らして雲雀が訊くのに、廊下の真ん中でしゃがみ込んだままだった綱吉はううん、と考え込んだ。今日は雲雀は久しぶりに部屋着に着物を着ていて、けんちん汁などと具の多い汁物で夕食を作り、風呂のしたくも済んでいる。つまり、結構時間的余裕があって、機嫌も悪くないのだ。
「……風呂で雲雀さんの頭を洗いたいです。」
キリッ、と顔を上げて訴えるのに、ふむ、と雲雀はあごに手をやる。
「君の頭をぼくが洗っていいのなら。」
「やったー」
わーい、と声色だけは無邪気に綱吉が立ち上がって、スキップせんばかりに風呂場へ向かう。
「先に入ってな、すぐに行くから」
「ええー」
先ほどまでの疲れなど微塵も見えないすばやさで、脱衣所から舞い戻った綱吉が雲雀の腕を取った。
「着物の雲雀さん脱がせるの好きなんですよう!オレの楽しみを奪わないでください」
「…………言っとくけど、回らないよ」
「別に、雲雀さん「あーれー」なんて言ってくれたこと一度もないじゃないですか」
「死んでも言うか」
腕の中に雲雀を囲って、肩にあごを置いて、そこから背中を覗き込むように、ふわふわと結ばれたジャワ更紗を解きにかかる。お太鼓などとは違って腰周りの紐の本数はずっと少なく、綱吉にも簡単に解くことが出来る。ぐ、と力を込めると、すぐに緩んで、ず、と下に滑った。ふふ、と綱吉が笑った。
「なに?」
「雲雀さん、帯を解くとき、解ける瞬間「ん、」て言うでしょう」
「え、言ってる?自分じゃ気にしてないけれど」
「締めるときも言ってますよ」
「そっちは自覚ある」
「そのね、「ん、」が好きなんです」
「どんなフェティシズム?」
雲雀が首を傾げて、肩にあごを乗せたままの綱吉の頬をくすぐった。帯が解ける。
「これ、どうしたらいいですか?」
「ああ、ほんとの帯じゃないから、とくに畳み方とかはないよ。貸して、」
雲雀がジャワ更紗を受け取って、簡単に皺を伸ばして畳んでいく。その隙に綱吉は、リボーンの守りがなくなった雲雀の腰周りから紐を取って、袷を開く。部屋着の気軽さからか、襦袢に美容衿を重ねているだけで長襦袢も着ていなかった。
「あれ、ババシャツじゃない」
「うるさいな、まだ着るには早いよ」
先ほどジャケットを脱ぐのを手伝ってもらったように、今度は綱吉が、雲雀の後ろに回って格子の着物の袖を抜く。この時いつも、袖が揺れて、小鳥の羽をむしるみたいだ、と綱吉は思う。さっき綱吉自身が口にしたように雲雀は正真正銘綱吉の妻なのだけれど、何だかとてもいけないことをしているようで、胸が高鳴るのだ。雲雀が着物を衣紋掛けに掛けている間に、シャツとスラックスを手早く脱いだ。
「……服脱いだなら先に入りなよ、風邪引くから」
「このくらい平気ですよ」
「いいから入りなったら」
「いまさら恥ずかしがることもないでしょー」
「もう黙りなよ!」
顔を赤くした雲雀に、どか、と蹴飛ばされて風呂の扉に激突した綱吉は、しぶしぶ風呂場へ入った。そんなじっと見られてたらぱんつも脱げやしないよまったく、とぼやく声が聞こえて、白い湯気の中で、ああオレの奥さんはかわいいなぁ、としばしうっとりした。
「じゃ、お湯掛けますよー」
んー、と歌うような雲雀の声が湯気の中に溶ける。入浴剤で白く濁った湯を満たした広い浴槽の中で、ふちに頭を預けて仰のいている雲雀は上機嫌だ。ボンゴレ並盛支部の中のこの部屋は、もともと綱吉が一人で暮らしていて、風呂はこんなに広くなかった。雲雀と結婚して同居するにあたり新居を構えるという話もないではなかったが、まあそれは家族構成が変わった後でもいいでしょう、と通勤?に便利な住居をそのまま使うことにして、ただ、風呂場はリフォームしたのだ。浴槽は広く、洗い場のシャワーは2つ。
「雲雀さんと二人で入るにはちょっと狭くって、」
ジャンニーニにこっそり頼んだのだけれど、それはまあ、並盛支部の建物の中で行なわれていることなので、話はあっという間に広まり、綱吉は死ぬほどからかわれた(雲雀をからかえる猛者など地球上にそう何人も存在しない)。大変な目に遭って手に入れた「二人で入っても狭くない風呂」なのだから、できるだけ活用しなければ損である。
風呂椅子に腰掛けた綱吉は手のひらでシャワーの温度を確認して、艶のある真っ黒の髪に湯をかけた。もう数え切れないほど綱吉に髪を洗われている雲雀は慣れたもので、ゆったりと弛緩しきった身体を浴槽に預けて目を閉じている。白い額が全開になって、綱吉は、ちゅう、と音を立ててキスをした。雲雀はただ笑うだけである。
雲雀はもともとの髪質が良く、しなやかで艶のある髪は短く切りそろえられている。だからこそ、粗忽者の綱吉にも洗うことができるのである。「雲雀さんに絶対似合う!」と主張する綱吉が買い揃えた白檀の香りのシャンプーを泡立てて、地肌からそっと擦る。指の間をコシのある髪が撫でてゆく感覚が気持ちよくて、頭皮のすみからすみまで、髪は全て指で梳くようにして、いつも随分な時間を掛けて洗うのだ。雲雀はまた、ふふ、と笑った。
「アニマルセラピー?」
「自分で言いますか。違いますよ、愛妻の手入れは夫の特権です」
「愛犬の間違いなんじゃないの」
「だから、自分で言いますか?そういうこと」
「だって君に洗われてると、愛玩犬になったみたいな気分になるんだもの」
「雲雀さんは、愛玩犬よりずっと手間がかかるし、愛玩犬よりももっともっとずっといいものです」
綱吉はかなり真剣に言ったが、雲雀は本格的に笑い出してしまった。
「お背中お流ししましょうか、旦那様」
痛みも特に見当たらないような髪にトリートメントをよくなじませてタオルで巻いている間、綱吉は自分の身体を洗い、帰宅後に一度シャワーを浴びているという雲雀は浴槽に浸かったままぜんまいで背泳ぎするパンダのおもちゃで遊んでいたが、のぼせちゃう、といって湯から上がると、わざとらしくそんな言い方をした。
「えっ、じゃあ、是非」
「君は関白亭主の素質はありそうなのに、その言葉遣いがねえ」
空いている風呂椅子を引き寄せた雲雀が、あかすりを受け取って笑う。傷跡のたくさんある背を流す手つきは優しいが、綱吉はそれを特に疑問に思うことなく享受している。綱吉が見ている雲雀は、他の大勢の人間はまったく知らない雲雀なのだけれど、綱吉はあまりそのことに気づいていない。ボンゴレ]世はゲテモノ食い、という中傷に、できることならば綱吉が気づかなければ良いと雲雀は思う。
「ついでに頭も洗っちゃうから、下向いて」
「えええ、この姿勢だと、雲雀さんに悪戯できません!前から洗ってください」
「ばかだろ君」
洗面器一杯に汲んだ浴槽の湯をばしゃーんと頭にぶちまけてやると、ぶへっ、と鼻に湯が入ったとしか思えないむせ方をして、しおしおとうなだれた髪のように綱吉もうなだれた。綱吉用に、こちらは雲雀が揃えた、すっとするユーカリの香りのシャンプーを手のひらにとって、ごわごわした茶色の髪にこすりつける。
「かなりお疲れかと思ったけど、元気みたいだね」
「いや、雲雀さんに悪戯して、元気になろうかと」
「まだ言うか」
雲雀がこめかみをぎゅーっと押すと、綱吉は身悶えながらもだってだってと繰り返した。付き合っていられない、と手のひらに突き刺さるような髪を、慣れた手つきで手際よく洗ってゆく。
「鏡にうつってるのに触れないなんて……」
心底悲しそうな呟きは黙殺された。一度だけ後ろ手に腕が伸ばされたが「悪戯」をするまえに、ばし、とはたき落とされた。
「いいお湯だー」
コントのように頭に畳んだタオル(雲雀が風呂場に入ってくるとき、前を隠していたものだ)を乗せた綱吉が、はふ、と満足そうなため息をこぼす。膝の上にはトリートメントを流した雲雀が乗っている。というか、綱吉が無理やり抱き込んだのだが、もう諦めたのか呆れたようにじっとしている。
「今度まとまった休み取れたら温泉行きませんか」
「なに、急に」
「いや、オレたち新婚旅行も行ってないし、申し訳ないとは思ってたんですけど」
「温泉ねぇ」
雲雀の脳裏に浮かんでいるのは、風紀財団の地下深くにある、露天風呂風の石造りの大浴場だ。
「どうせ風呂なら、洋風がいい」
「あー、イタリア本部にあるみたいな?」
「そう、金の猫脚のついた、陶器の」
「泡風呂にバラの花びらが浮かべて」
「そこまでやんなくてもいいよ、」
「それで苺を肴にシャンパンを飲みましょう」
「……ぼくをコールガール扱いするとはいい度胸だ」
「ピアノの上でやらしいこともしましょう」
「獄寺隼人が泣くよ、」
綱吉が古いハリウッド映画のシーンを切り取って楽しそうに笑う。ヒロインは娼婦だったはずだ。雲雀は半眼になった。
「でもイタリア本部の風呂はだめです。あそこ覗き穴あるから」
覗き穴と言っても、覗きのためではなく、暗殺用である。しかし、綱吉と雲雀が二人で入っていたら、皆面白がってそこから覗くに決まっている。第一、イタリア本部に行っても、新婚旅行にはならない。
「リゾートホテルとか探せば、そういうお風呂ありそうですよね」
「海の近くがいい」
「まさかこの季節に泳ぐ気ですか?風邪引きますよ」
「殴るよ」
「冗談です。二人でスベスベマンジュウガニでも探しましょうか」
「殺しに使えるかな」
職業病と言うかなんと言うか、話が物騒な方へ転がってゆく。スベスベマンジュウガニ何匹で出汁をとったら味噌汁一杯で人が殺せるか、と真剣に話していた雲雀が、ぴた、と動きを止めた。
「こら、」
お湯の中の肌はすべるし、浮力もあって、不安定な姿勢の雲雀を支えるために腰に添えられていたはずの手が、さわさわと下に向かって動いている。
「あれ、気づいちゃいました?」
悪びれもせず、えへへ、と笑う夫の手の甲をぎゅっとつねって、頬を膨らませた雲雀はざばりと立ち上がった。
「のぼせそうだから、ぼくはもう上がるからね」
ええー少しくらい、という不満そうな声に被って、ぎゅるる、と大きな音がした。綱吉の腹の虫だ。むっとした顔だった雲雀は一転、ぶはっ、と吹き出した。
「食欲と性欲間違えてるんじゃないの。君も上がって、ご飯食べなよ」
「別に間違えてないですけど、腹が減っては戦はできぬと言いますし、上がります」
「戦ぁ?」
片眉を跳ね上げた雲雀に臆することもなく、脱衣所からタオルを取って、一枚は雲雀に頭から被せ、もう一枚でせっせと自分を拭く綱吉は、にっこりと微笑んだ。
「オレ、明日は休みなんです。雲雀さんもですよね?」
その意味を悟って、う、と顔を赤らめた雲雀は、しばらくためらった後に、それでもこっくりと頷いた。
「けんちん汁、楽しみです。おかずは何ですか?」
「……さわらの西京漬けと、あったかい豆腐、あと白菜のおひたし」
ほかほかと湯気を立てながら、若い夫婦が風呂場から出てくる。風呂上りの妻が身につけるのは、古くなった浴衣の裾と袖を切った寝巻きである。このあと食卓で夫の給仕をして、そうしたら寝台でまた帯を解かれて「ん、」と言うのだ。ぱたん、と扉の閉まった風呂場の向こうで、暗くなった浴槽に忘れ去られたぜんまい仕掛けのパンダが、やれやれとでも言いたげにぷかぷかと浮かんでいた。
プリティウーマンのパロディって最近見ないなぁと思ってから
単純に世代の問題ということに気づきました。
2010年10月22日
|