部屋の隅に取り付けられた小さな手洗い場で顔を洗う。長い長い水道管を経由して、地下奥深いボンゴレ]世の執務室まで運ばれた水は生ぬるい。むきになってばしゃばしゃと水しぶきを立てたところで、自分にこびりついたものが濯がれるわけはないと綱吉は知っている。

 ポケットからくしゃくしゃのハンカチを出して乱暴に顔を拭く。濡れた前髪があちこちに張り付くのがこの上もなく不快で、ぐしゃっと乱暴に髪をかきあげると、目の前の鏡に映るはずの顔を見たくなくてさっと背を向けた。

 どさりと身体を投げ出すように革張りのチェアに腰かけても、元家庭教師の目で選ばれた高級品であれば軋みもしない。それに何故か妙に苛立って、ことさら乱暴に背を預けた。ささくれ立った精神にはわずかな刺激も気に障って、照明も空調も落とした部屋は暗くよどんでいるが、非常用に別電源で引かれているLEDの小さな照明が常に灯されていて、雪明りの夜のようなほのかな明りがこのところの綱吉のお気に入りだった。良くない傾向だった。

 天井を仰いで目を閉じると、目蓋の裏に極彩色が広がる。精神の疲れに肉体の疲れがリンクしている。もう、たくさんだ。他人から負の感情を向けられること、他人を傷つけること、マフィアのボスとして存在すること何もかも全てが。もともとこんな生活望んじゃいなかったんだ、という泣き言は、すぐそこまで出てきているのに、最後のところで喉元に引っかかって出てこない。こんなプライド、いつの間に身につけたのだろうか。そんなもの持たないところが「ダメツナ」の唯一、良いところだったはずなのに。凝った目頭の辺りを指で強く揉んで、びしゃびしゃのハンカチを畳むと顔の上半分を覆った。本当なら熱いおしぼりか何かが良いのだろうが、そんなもの準備する気力もない。

 扉が開く気配がした。この部屋は、プライベートのためというより安全のため、綱吉が扉を閉めれば他のどんな人間も、リボーンですら開けることは出来ない。普段の執務中は扉が閉まらないよう、ドアノブにストッパーをつけているのだ。だが今は閉めていたはずの、その扉が開いた。綱吉は動かない。

 開けられないはずの扉を開けた人物は、足音もなく暗い部屋の中を歩いてくる。綱吉以外には開けられない扉、にも唯一の例外があって、つまりそれが誰なのか綱吉にはわかっている。けれど反応はしない。する気になれない。

 その人は普段から気配を殺して動く人だけれど、綱吉はあまりにもその存在感になじんでいるから、音のしない歩みの一歩一歩、聞こえないはずの息遣いさえわかるように思う。革張りのチェアに身体を投げ出して、汚いハンカチを顔に乗せ、目を閉じて上を向いたままの綱吉のすぐ脇で、ひたり、と歩みを止める。

 ハンカチの上から、そっと綱吉に触れる手があった。

「……リボーンに言われて、来たんですか」

 よどんだ部屋に放り出された綱吉の声はとげとげしく空気を引っかいて、綱吉自身を不快にさせた。ハンカチ越しの手は、大丈夫、わかっているよ、と言うように、とんとん、と優しく額を叩く。それを思い切り跳ね除けて、綱吉は身体を起こした。

「言われたんでしょう、オレが落ち込んでるから、慰めろって!」

 暗闇の中に、雲雀が立っている。深夜も近い時間なら、スーツではあってもジャケットもネクタイもなく、よれた白いシャツは第2ボタンまで開けられていて、化粧はほとんど落ちている。少し乱れた髪が疲れの色の濃い顔にかかっていて、やけに性的な匂いがした。綱吉は自分のなかで、苛立ちが嫌な方向へ膨らんでいくのを止める手立てを知らなかった。

 袖口を二回ほど折り返して、むき出しになっている白い両手首を力で捕まえる。そのまま強く引いて、大きな執務机の上に乱暴に引き倒した。雲雀は特に抵抗もせず、表情もほとんど変えなかった。

 綱吉は、多分オレはいまとても醜い顔をしているんだろう、と思って、それから、それがなんだってんだ、そもそもマフィアの酷い顔だ、人殺しの顔だ、と思った。

 木目の美しい、分厚いマホガニーの一枚板の上に、雲雀の身体を押し付ける。膝を割ってぐっと距離を縮めたが、無表情で無抵抗の彼女から考えは読み取れない。唇を合わせようとして何故かためらって、眼前にさらされた白い喉元に咬み付いた。機嫌が悪かったり、またはとても良かったりする時の彼女が綱吉にするように、強く。拘束した手首は冷たいが、汗ばんだ肌からは温かい人の匂いがする。弾力のある熱い筋肉に、獣のように鋭くはない人間の無様な丸い歯を食い込ませる。雲雀がどんな顔をしているのかは、見えない。わからない。ただ一度だけ喉が、く、と上下した。

 あごを緩める。卑しく歪んだ綱吉の口元から、美しい白い首筋へ唾液が糸を引く。やはり雲雀は表情を変えず、抵抗はせず、迎合もしない。袖で乱暴に唇を拭って、自分の身体を挟む形になっている、黒いストッキングに包まれたしなやかな脚を抱え上げる。片手でぐいと膝丈のタイトスカートをウエストまでたくし上げて、薄い布地に覆われた下半身をむき出しにしてしまうと、いつもよりも強く雲雀の体臭が鼻先を掠めた。ずいぶんと久しぶりの気がした。

 昂ぶる気持ちのままに下着の線に指を這わせ、伸縮性の高い布地を脱がせるのも面倒で、きゅ、と爪を掛け、ぴっと伝線したところから指を入れると、一気に引き裂いた。ばつんと弾ける感触と、じゃっという化繊の繊維が擦れる音がして、黒いストッキングの丸く破れた隙間から、白い肌がこぼれ落ちる。内腿は汗ばんでしっとりしている。下着はシンプルなスポーツタイプで、色もベージュなのが彼女らしい。

 そんな格好にされても雲雀は、トンファーを振り回すどころか身動きもしない。

 下着をひき下ろそうとぐっと引っ張ったけれど、脚に纏わりついたストッキングの残骸に邪魔されて恥骨の辺りまでしか下げることができず、綱吉は乱暴に、下着の中心の部分、横から強引に指を滑り込ませた。

 汗をかいてはいても、もちろん潤みなどない、ぴったりと硬く閉じたそこをなぞって、かさついた無骨な太い指でぐっと侵入しようとした時、その時はじめて、雲雀がきゅっと眉を寄せて唇をかんだ。けれどやっぱり、何も言わなかったし、抵抗もしなかった。

 けだもののように息を荒げて、暗闇の中でぎらぎらと目を光らせた醜い顔で、雲雀を執務机に押し付けていた綱吉の手が、唐突に力を失ってぱたんと落ちる。

「…………ごめんなさい、」

 くしゃっと顔を歪めて、それでもぐっと奥歯を噛みしめて、抱え上げていた野生動物のような脚を降ろして閉じさせ、乱れた下着をそっと直し、くしゃくしゃになって腰のところに溜まっていたスカートの裾を下に引っ張る。それから一歩、二歩、と後じさって、両手で顔を覆う。

「ひどいことを……、ごめんなさい」

 むくりと身体を起こした雲雀は、目にかかった前髪をちょいちょいと直すと、ぴょこん、と机から降りた。

「未遂だろ」

 まだセーフ、と低く笑う声に首を振る。自分の苛立ちを不条理に雲雀にぶつけたという時点で、未遂でも何でもない。もう一度謝ろうとした綱吉を雲雀がさえぎる。

「そんな情けない顔で、どんな「ひどいこと」をぼくにできるつもりでいたの」
「い、でッ!」

 するりと近寄ってきた雲雀に、ぶち、と無精ひげを抜かれて、綱吉は悲鳴を上げた。顔を覆っていた手を外して、「情けない顔」で雲雀を見る。

「別にぼくは、このままセックスして、君がそんな顔じゃなくなるんならそれでも良いんだ。けど君の性格じゃ、ますますひどい顔になるだけだろ」

 手が伸びてきて、ぼさぼさの綱吉の頭に、ぽすん、と着地する。いいこいいこ、をされる。

「泣かなかったね。偉いね。」

 泣き虫沢田が、と言われればもう、綱吉には何も言えず、不精してすっかり長くなった髪で赤くなった顔を隠した。

「……本当は、君を迎えに来たんだ。昨日、4日ぶりにやっと帰れたと思ったら、君も全然帰ってないみたいだし。久しぶりにゆっくり眠れると思ったのに、あのベッドに一人じゃちっとも寝れやしない。君が泣き虫なら、ぼくは甘ったれだ」
「今日で一週間、ここに詰めっぱなしなんです」

 綱吉が小さく答えると、目を丸くした雲雀は「おや、負けた」と言って、それからそっと距離をつめると、こつんと額を合わせた。

「ねえ、今日はもう帰ろう。それで何か軽く食べて、風呂に入ってさっぱりして、くっついてぐっすり寝よう。そんな顔して仕事したってはかどらないよ。一緒に帰って、ぼくを安眠させてよ」

 雲雀の無邪気なおねだりにようやく少し顔をほころばせた綱吉は、ついさっき、自分が乱暴に硬い板の上へ押し付けた、S字の曲線を描く背に両手を回してそっと抱いた。

「……雲雀さんがオレの奥さんで良かった」
「そんな当たり前のこといまさら言われても嬉しくない」

 頬を緩めておきながら口だけはそっけなく動く雲雀に、綱吉は今度こそ笑って愛妻と手を繋ぐ。

「ほら、おうちに帰ろう」
「はい」

 握った手をぱたぱたと揺らしながら、はやく、と急かす雲雀に引かれて、ゆっくりと歩き出す。洗面台の前を通った時、綱吉は今度は恐れずに、何の気負いもなく鏡を見ることができた。ただ疲れ果てた情けない顔が映っているだけだった。

「雲雀さんがオレの奥さんで、ほんとに良かった」

 もう一度言うと、雲雀は怪訝そうに振り返ったけれど、綱吉はそれが照れ隠しだと知っていて、ファンデーションが落ちても白く美しい頬にそっと唇で触れた。





結婚しても苗字で呼び合う夫婦ブーム。
2010年8月19日